これは水です

これは水です

言葉の流れに身を任せながら

私は何度でも産声を上げる ~歌合アーカイブの魅力と再考察~

 

みなさんこんにちは。
前回、三部にわたって歌合の感想とか考察を溢れ出すパッションのまま書き殴ってから約一ヶ月半が経ちました。
三部て。改めて読んでも「ながーーい!!!」と思いました。貴重な時間を割いて読んでくださった方々には感謝の気持ちしかありません。
正直あそこで色々吐き出し過ぎて燃え尽きた感が否めず、過去作の感想を書くことなくここまで来てしまいました。
書きたい気持ちに気力がついてこない……生粋の面倒くさがり屋がここで発揮されてしまった……早割り入稿ができないタイプの生き物です。
しかも燃え尽きている間に色々と……色々とこう、大変な状況になっていて……何がとは言いませんが、本当に悔しいことが多くて気が滅入る……。

 

が、しかァし!!!!(『散るは火の花』の岩融の声で再生してください)
そんな弱った気力に鞭を打ってでも伝えたい、どうしても書きたいことがあったので筆を執りました。
もう辛いこととか悲しいことは一切なしです。つまり好きなものの話を好きなようにして免疫力を上げるんだ私はよ!!!!

 

先に結論から言います。
「歌合 乱舞狂乱」アーカイブ、めちゃくちゃ良いので見て欲しい。

 

ママ~~~この人まだ歌合の話してる~~~。
しってます。何と言われようとします。歌合のアーカイブを見て欲しい。
「いやもう見てるし」という方。最高です。どこが良かったか語るので興味があったら読んでみてください。
「ディレイ配信で見たからアーカイブは見てない」という方。ちょっと待ってください。
いまからアーカイブ配信のどこが良かったかを情熱のままに語るので、興味が湧いたら見て頂けないでしょうか。
何かと自宅に居る機会が多くなった今日この頃。歌合アーカイブを見ることが、殺伐とした空気を和らげる手助けになったらいいなあと思います。
今回はただただ「歌合アーカイブはいいぞ……」って言うだけの話なので前回みたいに長くなりません。たぶん。スクロールバーに優しい記事です。

 

 

 

 


歌合アーカイブのここが良い!

まず始めに、歌合アーカイブの何が一体そんなに良かったのかを軽く説明すると、とにかくディレイ配信に比べて

  • 音質が格段に良くなっている
  • アングルがより良いものに変更されている

という点が挙げられます。
この二点が改善されたことにより、ディレイ配信では見られなかった各刀剣男士の細かな表情や仕草が画面に映し出され、更にはクリアになった臨場感たっぷりの音がライブシーンを始めとした各所で流れだすので、今まで以上に目と耳が幸せになります(IQ3の結論)
それと単純にアーカイブは好きな時に買って好きな時に見られるという点も良いです。購入するパックによって視聴期限はつきますが。
顔良し、歌よし、話よしの三拍子なのは当然のことながら、ここに高音質と絶妙なアングルがつくことで更なる桃源郷が見えます。

 

いやほんと、音質がめちゃくちゃ良くなってて……特に感じた箇所が青江の「篝火講談」なんですけれども。
大千秋楽ライビュやディレイだと「菊花の約」の終わりにかけての『菊花輪舞』のイントロの入りが大きすぎて青江の声が一部聞き取りにくかったんですが……アーカイブではここが!綺麗に!整えられていました!
青江の声を前面に押し出しつつイントロが静かに入る最&高の演出…………ここをしっかり直してくれるあたり"理解"が深いですね………。
あとライブパートもほんとに、めっちゃ、音が、いい。歌声も台詞を読む声もすごくクリアになってるし、マイクが拾っていた雑音も消えている………。
雑音が消えたことにより刀剣男士たちの声がより近く感じられて個人的には免疫力も上がる……。

 

アングルに関してはライビュやディレイで見えなかったところや、見えすぎていたところが修正されていました(主に本編、時々ライブ)(当社比)
「懐かしき音」でお百度参り用の石を設置する御手杵&篭手切くんに「なにしてるんですかー!」と駆け寄る今剣がしっかり映っていたのが優勝アングル。
「たーんれんしましょういーわとおしー♪」って歌いながら出てくる今剣の可愛さで全国の桜が開花する。
「懐かしき音」は全体を映すアングルが多くなっていて、石切丸の歌の最中にみんなが何をしてるかも良く見えるようになってましたね……!石切丸を追いつつもみんなの表情や仕草がもっと見える感じ。
というか本編全てにおいて引きアングルが多くなっていたので舞台全体が見えるシーンが増えていて嬉しかったです。「根兵糖合戦」なんかも戦闘シーン(?)の全貌が見えてとてもこんぺいとうでした。

 

寄せのアングル代表例は「梅theWay」ですかね。明石の言葉に合わせてしっかり梅の木がアップになっていて、いまどんな状況なのかが分かりやすくなったように感じました。
「小狐幻影抄」も問題のアングル(感想後編参照)が修正されていましたし、化けた四振りと踊るシーンが絶妙なアングルでアップになって小狐丸の表情がより鮮明に見えるようになってました。
そこでそんな表情してたんだ!!という感動。すごくいい顔でした。正面からのアングルではわかりにくい箇所をよくぞ斜めから……ありがてえ……。

 

ライブはディレイの記憶が割と薄れているんですが、『前進か死か』で家康公のカットが多くなっていたり、『獣』で各振りのカットが多めになっていたり……あと辻斬りタイムの視点も結構変わっていたかと思います。
『mistake』のむっちゃんのカットも増えてた!!気がする!!(自信がない)『Nameless Fighter』も正面アングルが斜めアングルに変更されていたり、青江と大俱利伽羅の交互カットが増えていたり……。
また『菊花輪舞』の話しますけど、これもめっちゃいいローアングルになってました。スポットライトが絶妙な逆光になって歌ってる青江の表情だけが見えなくて、手の振りだけが闇の中でくっきりとして……あまりにも完璧…………。

 

とにかく色んなシーンの音とかアングルが、一度見た人でも「おっ!」となるくらいより良くなっているので、ほんとアーカイブを見て欲しいです。
DMM.comで好評配信中です。一週間パックならなんと1700円。一年パックは3300円。ちなみに円盤は7月発売予定です。
これはDMMの回し者でもなんでもない、ただ歌合をみてから刀ミュにはまった新米審神者の叫びです。外に出られないこの時期だからこそ浴びるように見て免疫力を上げようキャンペーン(?)開催中。
さてダイマはここまでです。さすがにURLは貼らないので、気になった方は検索してみてくださいね。

次からはアーカイブを見て気づいたことや考察の追記になります。あれ??こっちの方が長くない??なんで??

 

 

 

 

 

 

 

 

歌合アーカイブ再考察

声なきものの声

前回の前編で歌合とは一体何ぞや、という点には触れていたのですが、後々調べてみると【付喪神達による歌合】という御伽草子が存在することがわかりました。
その名も『調度歌合』。調度品、つまり日常生活で使われる道具たちによる歌合です。
付喪神を扱った作品といえば行列を為して妖怪たちが練り歩く『百鬼夜行絵巻』が有名ですが、まさか歌合までしていたとは思いませんでした。勉強不足だった。
『調度歌合』では、碁盤や塵取、灯台や屏風といった二十種類の付喪神たちがそれぞれ左右に分かれて歌合を行う様が描かれています。
しかもこれ、付喪神たちの視点じゃなく、偶然目撃した人間という第三者目線から描かれているんですね。歌の優劣とその理由についても客観的に解説が添えられています。
人間は付喪神たちの歌合に参加する側ではなく目撃する側である構図は、今回の歌合を見ていた我々に通ずるところがある気がします。

 

この歌合ではそれぞれの付喪神の特徴を活かした歌、主に恋の歌が詠まれます。花を愛で、風を撫で、恋煩う……和歌のメインテーマです。
それぞれが詠んだ歌については割愛します。注目すべきは目撃した人間、つまりは主人公がこの付喪神たちの歌合を見て、最後に詠んだ歌です。

鶯も蛙も歌を詠むなれば 声なきものの声もありけり

ハイここ!!!!!歌合にでます!!!!!!ていうかでました!!!!!!
そう、花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」古今和歌集の序文……つまり冒頭の鶴丸の台詞です!!!
鶯も蛙でも歌を詠むと言われている。だから普段声を出さない調度品であっても歌を詠むことはあるのだ、と。これも鶴丸が語った「人も鬼も妖も、そして我らも」に繋がる気がしてなりません。
声なきものの声、付喪神の歌。そこに想いがあれば、どんなものでもこの世にある限りは歌を詠む。だからこその「想いは言葉へ 言葉は歌へ」なんですね。
さらに言えば、歌合は一人では行うことができない。歌を詠み合わせ、聞き届けてくれる誰かがいるから成立するもの。そう、「歌はあなたへ」向けられている。
「あなたと歌合」……今更ながらこの歌詞に込められた意味をしみじみと感じます。後編でも言いましたけど、こちら側に向けた愛ですよね……。

 

あと『あなめでたや』の歌詞の一部が序盤の『神遊び』でも使われていることに今更気づきもしました。
「歌うたう 桜咲く 音おどる」のところです。『神遊び』の最初のサビであり、『あなめでたや』の最後でもある。しかも何方にも「あなたと歌合」って歌詞が入ってくる……。 
ああ~~最初と最後が繋がる構図~~!!!!綺麗な円を描いていますね……好きすぎる……。 

 

 

 

 

 

『君待ちの唄』の意味

何故『君待ちの唄』だけが「歌」ではなく「唄」なのかという話。
後編で調べた時は「唄」という言葉が持つ意味からその理由を推測しました。そもそも成り立ちに仏教的な意味があって、かつ伝統芸能という意味もあると。
ただ、それを刀ミュ本丸の中にある様々な前提に合わせたら、また違う側面が見えたので、改めてまとめたいと思います。
ここでいきなり双騎の話を出すんですけど、冒頭で瞽女が歌う『私が語るべきこと』の中に「唄」の意味があるな!!!とアルバムの歌詞カードみたときに気づきました。

見えぬからこそ 語りましょう
この口で この唄で

瞽女は女盲(おんなめくら)とも呼ばれる盲目の語り手、三味線や胡弓を手に口頭伝承を語り継ぐ芸能者です。
この瞽女は『七十一番職人歌合』という職人たちが描かれた歌合絵巻にも出てくるんですが、それについてはいつか双騎の感想を書くときにでも触れたいと思います。絶対長くなるので。
いま注目すべきはこの「唄」に触れている歌詞。見ての通りなんですが、「この唄」は「語りましょう」にかかっています。
つまり、唄」は「語りかけること」という意味にとれます。
と、いうことはです。『君待ちの唄』は、これから顕現する刀剣男士へ向けた「語りかけ」だったので「歌」ではなく「唄」だったのではないかと。
「唄」が持つ元々の意味はそのままに、「語りかける」という意味を持ってこその「君待ちの唄」なのだなあと感じた次第です。
いやーー…………歌詞を文字で見てみたいですね。文字になることで新たな意味を持つことだってあるから。歌詞カードをくれ。金なら出す。

 

 

 

水中の月と天の月

刀ミュ本丸の世界には仏教的な考えが多く取り入れられているのは周知の事実ですが、一概に仏教といっても様々な宗派があります。
そして宗派が違えば宗祖が違う、つまり考え方が違う。この本丸に根差している宗派については明言できませんが、考えの元となっている経典については法華経だろうと推測できます。
法華経』は『妙法蓮華経』の略称です。そしてこの『妙法蓮華経』はサンスクリット語で「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」を訳したもの。
「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」、修行前の千子村正会心の一撃の台詞ですよね。最初きいたとき大半の人が「????」となるあの台詞です。
そもそも千子村正の根底にあるのは「妙法村正」です。この妙法村正は表銘に「妙法蓮華経」の文字、裏銘に日蓮上人の忌日(入滅日)が刻まれている刀で、刀工であった千子村正自身も「法華宗」とも呼ばれていた日蓮宗に帰依していたようです。
つまり村正は『法華経』と深い関わりがある刀なのです。そんな村正は、唯一歌合以外で【歌と共に顕現するシーンが描かれた刀剣男士】だったりします。まあ歌は衝撃的ですけど!!!脱ぎまショウか???!!*1

 

法華経』は前半と後半に分かれていて、それぞれ前半を「迹門」、後半を「本門」と呼びます。これらを合わせて本地垂迹とも言います。
本地垂迹」は神仏習合思想に起因する考え方で、簡単に言えば八百万の神々というのは実は様々な仏が化身として顕れた姿である(権現である)」といった意味です。
本地とは一切衆生のシンボルである仏、垂迹とは仏の化身としての神を示す言葉なので、実像と虚像の関係性を持っていることがわかります。
実像と虚像。「本門」と「迹門」はその特色から、【天に浮かぶ月】【水中の月】に喩えられます。
そう、ここで繋がるのは「小狐幻影抄」です。
ただ、「本門」と「迹門」が『法華経』内で持つ本来の意味が込められているというよりは、その喩えを利用した話なのかなという感じです。詳しい意味については調べたら出てくるので割愛しますが、この「本地垂迹」についてある程度理解していないとマジで何言ってるかわからない。私はわからなかった。宗教用語は理解が及ぶまでちょっと難しい。
本地垂迹」についてはちょっと本編と繋がりが見える気がします。ミュ本丸の刀剣男士は付喪神でありながら、根底にある考え方が『法華経』という大乗仏教に関わることなので……ある意味、神仏習合の存在なのかもしれない……。

 

ご存知かもしれませんが、先に説明した「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」、直訳すると「正しい教えである白い蓮の花の経典」になります。
仏教と言えば蓮。蓮と言えば……半座分かつ華のうてな……。
三日月宗近と考え方は対照的でありながら、見ている方向は同じである小狐丸にこのモチーフを当てはめるの、すっごいな……というあまりにも語彙力がない感想を抱くの巻。
Timelineの振り付け思い出すんですよね。交わらないけれど重なり合うというあの構図……いやここについてはらぶフェスとつはものの感想で触れます。恐らく。

 

 


懐かしき音の余談~忘れないということ~

『懐かしき音』で石切丸はかつてあった出来事を懐かしむことを噛み締めるように「それでいい」と受け入れていました。
時が経ち、色褪せた思い出を懐かしむことは決して過去を忘れることではない。三百年の子守唄で経験した出来事を手記に遺し、背負っていこうと考えた彼が紡ぐからこそ重みのある言葉です。
現在という時はどうあがいても止められません。そして現在はいつか過去となり、彼らにとって守るべき歴史となるもの。そして未来に繋がるものになります。
この『懐かしき音』は、個人的に葵咲本紀の『約束の空』と繋がるものがあると感じました。
まだ発売前なので正しさについて自信はないのですが、『約束の空』はサビの最後に「I'll never forget.」という歌詞があります。
そして葵咲本紀の本編でも、御手杵と貞愛のシーンで「たとえ歴史から消されても、本体が焼けてしまっても、互いのことを忘れない」という言葉が交わされます。
信康も一兵卒ではあったけれど大切な友であった吾平の名を継いでいましたし、既に徳川家としては亡き者であった信康のことを秀康はずっと想っていました。
稲葉江が欲望に呑まれたときは、篭手切くんがその存在を「覚えていた」から呼び戻すことが出来た。「思い出してください」と叫ぶことができた。
忘れない、ということは、背負い続ける、ということだと思います。
三百年の子守唄から続いた一つの大きな流れ、物語を、たとえ色褪せたとしても彼らは忘れない。背負っていく。それを改めて伝える『懐かしき音』と『約束の空』の繋がりを何となく感じ取った話でした。

 

 


懐かしき音の余談~手を合わせて祈るということ~

過去のらぶフェスと照らし合わせてみると、どの祭でも先陣を切って話を進めるのは石切丸なんですよね~~2018年は話というよりも祭そのものでしたが。
過去の祭繋がりだと青江の講談が2017と繋がってる感じでしたけど、「懐かしき音」で玉砂利の音を思い出した=昔を思い出した石切丸に対して「石切丸さま!ごいっしょにどうです?」って今剣が声をかけるのも2017年ラストのオマージュなのでは?と思ったり。
2017年祭のラストでは己に染み付いた過去の逸話を語ろうとした青江、つまり幼子を再び斬ろうとした青江を石切丸が止めていました。そしてそんな二人を本丸に続く帰り道へ誘ったのが今剣です。
「にっかりさん、いっしょにかえりましょう?」というあの台詞が、「懐かしき音」で石切丸へ呼びかける台詞に似ている気がしました。
そして今剣が二振りを導いた後、2017年祭で歌われる『手のひら』の歌詞に、

てんてんてのひら 握って繋いで
伝わる温度 届く祈り 

という部分があります。
百度参りは、一心不乱に手のひらを合わせて祈ること。
「何度祈れば届くかな?」という『お百度禱歌』に対する答えがここにあるのでは……?
あと『手のひら』はこの後の歌詞で「その手のひらで掴めぬものはない」っていうんですよ。だからきっと、叶わない願いや祈りはなくて、いつかきっと届くんだろうなって……。
【何かを掴むための手のひら】って、三百年の子守唄と葵咲本紀を繋ぐテーマの一つでもあったのと、石切丸にとっては『力があれば…』て零れ落ちるものを掬い・救いたいと願った象徴でもあるので、再演と葵咲を経て改めてこういう風に描かれるのは本当にエモいですね……。
祈りを聞き届ける側だった石切丸が「偶には祈る側にまわる」こと、「さあ、みんなで祈ろうか」と共に手を合わせて祈ること。いつか届くその祈りに添えられた和歌が【天地の神を祈りて我が恋ふる 君い必ず逢はざらめやも】なの、あまりにも優しくて切なくて視界が滲む……。

なにがすごいって歌合、この話から始まるんですよ。これが一話目。すごいよ本当に……。

 

 

 

 

 

 

 

まとめ

歌合アーカイブを見て欲しいという話だったのに結局考察の方が多くなってしまいました。しつこくてすいません。
歌合、人生初のあまりにも衝撃的な刀ミュとの出逢いだったので、生まれたてのひよこ並みに産みの親だと思ってる節があります。見ての通り題名がオギャってるのはそういうことです(?)
そろそろ親離れして他の作品についても触れていきたいですね。どこから触れようか迷うところなんですが。

 

あとこれを書いてる途中でまさかの秋冬新作が幕末天狼傳という発表があって???!?!?!!!めちゃくちゃ見たい。
過去作を履修しはじめて、初めてボロッボロに泣いたのがこの幕末なので……そこからどんどん涙腺が弱くなっていって大変なことになってるんですが。
秋口には色々と落ち着いていることを願います。今はとにかくできる事をするしかない。
余談ですが年末から再開した本丸に漸く松井と桑名がきました!あなめでたや!!
大演練だって!双騎再演だって!幕末だってあるんだ!あおさくの円盤と新譜もある!!!未来は明るいぞ!!!!
あと私はステの新作もみたいです!!亀甲の真剣必殺がみたいです!!維伝おもしろかったです!!

 

ではまた、次の感想でお逢いできたら嬉しいです。
ここまで読んでくださりありがとうございました!

 

 

*1:脱ぐな!!!!!!

生まれた理由を問い続ける歌~歌合 乱舞狂乱の考察と感想(後)

 

さあ楽しい歌合考察と感想ついに後編の時間です。
今まで勢いだけで前編・中編を書いてたんですけど、後編は難産でした。そうこうしてるうちに江戸城始まっちゃったし何ならそろそろ終わる。いらっしゃいませ大般若さん。出会って3秒で口説かれた。

 

前編(神遊び~根兵糖+ライブパート①まで)

mugs.hateblo.jp

 

中編(篝火講談~梅theWay+ライブパート②まで)※2/26 URL修正済

mugs.hateblo.jp

 

果たして後編で終わるのか?広げすぎた風呂敷はどこまで畳めるのか?そもそも脳内HDDの記憶はまだ残っているのか?
気力vs記憶の戦い、その決着をどうぞご覧ください。BGMはドリフの盆回しでよろしくお願いします。
いつも通り長々と書いているのでお時間のある時にでも眺めていただければ幸いです。

 

 

 

 

 

歌合 乱舞狂乱 後編

もうここで言う事はねえ……ただこの後編、前編の倍くらい文章量があるから気をつけてくれ……!!!!!スクロールバー頑張って!!!!!!!!

 

 

 

 

 

 

 

美的風靡

ぬばたまのわが黒髪に降りなづむ

天の露霜 取れば消につつ

万葉集・巻七 作者不明)

訳:空から降って私の黒髪に積もった露霜は、手に取ればすぐに消えてしまうのだなあ。

 

 

 


美の巨人たち

いや美人が過ぎる。
実装されたばかりの軽装を信じられないクオリティで叩きつけてくるの何??審神者のライフが尽きる音がする。
許容量を超えた美人集団が濡れた髪を拭く様、絵画にした方がいいと思います。私も髪を吹き抜ける時津風になりたいよ。あなたに会えた幸せ感じて風になりたいよ。
そんな美術鑑賞タイムからまさかの音楽鑑賞タイムになるとは思わないじゃないですか。堀川くん。あなたですよ。
えっ本当にもうなに??初見の時すごすぎてずっと口を開けてみていたんですけど、大千秋楽でも見逃しパックでもやっぱり口が開いたままでした。セサミストリートのアーニーみたいな顔で見てた。*1
何がすごいって堀川君、あれ生音ですよね……。私物らしいという話を聞いて更に????
歌もうまけりゃ楽器もうまい。もちろん兼さんのサポートは完璧。助手としてあまりにも出来すぎでは???
でも胡麻油を髪に塗ることは止めないあたりがいい味出してると思います。甘いだけじゃない、ちょっぴりスパイシーな脇差堀川国広
この話は思い出すと大体後半の土方組ディナーショーに持って行かれてしまうので、頑張ってその隙間を考察していきます。

 

 

 

椿油に込められた祈り

今回この話のメインとなるのは、青江が使っている椿油でした。
風呂上りの井戸端会議。その常連として居るはずの千子村正の不在。彼が未だ長期任務中であることが青江から明かされます。
つまりこれは三百年の子守唄の後、葵咲本紀の最中の出来事。酒井忠次としての役目を終えた青江が、井伊直政本多忠勝として役目を続けている千子村正蜻蛉切の無事を祈り、村正から貰った椿油を使い続けているという話です。
いや歌合の三百年メンツ……関係性がこう……めちゃくちゃ尊くないですか……ウッって声出ちゃう……。

 

椿油は文字通りツバキの種子から取り出した油のことを指します。名前からするとツバキの香りがしそうですが、実際は仄かな油分の香りしかありません。
他の油に比べて乾きにくい性質があるので、食用だけでなく保湿に使われることでも有名です。髪はもちろんのこと、肌に使うこともできます。
昔から日本で作られていた特産品の一つであり、遣唐使に持たせる土産物の中にも椿油があったとのこと。ただ、その頃は「椿」という名前ではなく「海柘榴(海石榴)」と呼ばれていました。
これは日本から唐へツバキが渡った際、唐にあった柘榴と似た実を付けることから「海を渡ってきた柘榴」として「海柘榴」の漢字があてられ、それがそのまま日本でも使われるようになった為と言われています。*2

 

ツバキは『日本書紀』において、その記録が残されている。景行天皇が九州で起こった熊襲の乱を鎮めたおり、土蜘蛛に対して「海石榴(ツバキ)の椎」を用いた。

これはツバキの材質の強さにちなんだ逸話とされており、正倉院に納められている災いを払う卯杖もその材質に海石榴が用いられているとされている。
733年の『出雲風土記』には海榴、海石榴、椿という文字が見受けられる。

 

ツバキ - Wikipedia

 

このように、ツバキ自体は古来から日本に自生していた植物でした。『続日本記』(797年)にも「渤海国ノ使者 都豪ノ来レルニヨリ、海石榴油ヲ贈ル」という表記があります。
この「海柘榴」という字がなぜ「椿」に変わったのか。それはツバキが厄除けや不老長寿の医薬品の素材に使われていたことから、中国の伝説にある大木「大椿(ダイチン)」から取った漢字を充てたのではないか言われています。*3
大椿はその伝説になぞらえて、長寿の意としても使われる言葉です。「大椿長寿」という四文字熟語もあります。「椿」は不老長寿の医薬品の素材として使われていたツバキに相応しい漢字と言えるでしょう。

 

よく「武士は首が落ちることを連想させる椿を嫌った」といった話も聞きますが、これは明治時代以降の創作だそうです。
豊臣秀吉茶の湯で椿を好んで使ったといいますし*4、2代目将軍の徳川秀忠も椿を好んだことで有名です。特に秀忠の影響は大きく、この頃から江戸時代の芸術に椿が多く取り入れられることとなりました。また、同時に椿の栽培も一般的に広まり、様々な品種が生まれました。*5
秀忠といえば葵咲ですよね……ここまで見越して、「先に帰還した青江が、(後に椿を好むようになる)秀忠が跡を継ぐことになる時代で任務をこなす村正派の無事を祈るために、村正から譲り受けた椿油を使っている」という設定を考えているとしたら……???
それ以外でも、「厄除け」の素材として使われている椿からとれた油で願掛けする、っていうのもこう……無事を祈る意味が込められてるよねってなります……。
刀ミュくん、本当に底が深すぎでは……???深淵すぎて深淵からもこっちが見えないよ……深淵も感動して泣いてる……。そして花関連のテーマが強い。

 

 

 

♦向かい風と追い風

ここまで散々花の話をしてきたのですが、この話のテーマはタイトル(美的風靡)にもある通り、「風」にあります。

「濡れた髪 乾くまで
 夕涼み 時津風

このように、劇中歌にも「風」という言葉が出てきます。しかしこのサビの歌詞、めちゃくちゃ美しくないですか……声に出して読みたい日本語……。
話を戻します。時津風には「ちょうどいい頃合いに吹く風」、つまり「順風」という意味があるので、この場合、濡れた髪を乾かすように吹いてくる夜風、といった考え方ができます。
そして、この風には彼らの髪を乾かすドライヤーの役目だけではなく、「風が運ぶは便りか祈りか」という歌詞からもわかる通り、「無事に帰って来て欲しい」という皆の祈りを届けるという重大な役割があります。

「願掛けなんて性に合わねえ
 けど仄かな香りが風に靡き届くのなら
 それも悪くねえと思った」

これは兼さんのソロパートにある歌詞なのですが、ここがすっごい肝になっていて。
濡れた髪に椿油を塗って、蜻蛉切と村正が無事に帰還するように、という願掛けをする青江に対して、最初は「俺もやる」と自分から言い出せない兼さん。対照的に蜂須賀は「俺も借りていいか?」とスマートに尋ねていました。
蜂須賀ってこういう時、先陣を切っていける意志の強さがあるよなあと幕末天狼傳と重ね合わせて思うわけなのですが(「御免!」のシーンでワンワン泣いた審神者の感想)
対する兼さんは素直になり切れないところが兼さんだなあ~!!!という感じ。でもそれは当然というか。
兼さんは土方さんの傍で「反骨の刃」として息づいていた記憶が隆起された存在です。新撰組という「時代の風」に逆らい、常に強い向かい風に吹かれながら生きてきた者達の影響を強く受けています。
加えて元主である土方さんもバラガキ精神が生きている、意地っ張りな面が強い人だったので、差し出された手を素直にとるかといったらそうじゃない訳ですよ。
コミカルなシーンに見えますけど、すごく繊細に「新撰組土方歳三の刀だった和泉守兼定」を表現してるなあと感じます。


兼さんも土方さんも、そして新撰組も、向かい風の中で決して諦めず進み続ける精神を持っています。先が見えずとも抱いた夢を手放さず、叶うと信じて。

「吹き荒れる怒涛の彼方に何があるのだろう
 俺は走り抜ける 叶わぬ想いがあるものか」

これはむすはじの刀剣乱舞Cメロの土方組の歌詞ですが、ここでも風を感じています。「怒涛」だけだと荒れ狂う波ですが、「吹き荒れる」が先に来ているので、ここは「疾風怒濤(怒涛は略字)」の意味を持つと考えます。
「疾風怒濤」は激しく吹く風と荒れ狂う波を意味する四文字熟語ですが、「時代が激しく変化する」ことを形容する言葉でもあるんですよ。もうめちゃくちゃ新撰組。そしてエノミュ。
「時代が激しく変化する」なかを、「俺は走り抜ける」と宣言する兼さん。向かい風上等!って感じ。幕末の時と同じ歌詞なのに意味がまた違って聞こえるのすごいですよね……。
そして極めつけはむすはじの劇中歌だった「倒れる終焉」の出だし、土方組のパートです。

「同じ景色を目に焼き付けて 同じ痛みを分け合って
 同じ景色 同じ痛み
 同じ風に吹かれよう 同じ風に吹かれよう」

おわかりでしょうか……兼さんにとって、「同じ風に吹かれる」ことは「共に駆け抜ける仲間」という意味があるんですよ……。
当たり前だよコノヤローって話だったら申し訳ないです。私はここで気づいてアーーーー!!!!!と五稜郭の方角に向かって叫びました。
そんな兼さんが「祈りを込めた仄かな椿油の香りがこの風に靡いて仲間の元に届くのなら、それも悪くねえ」と思ったの、エmmmmmッモくないですか……だって兼さんがいま感じてる風に乗って届くってことは、届いた先に居る彼らも同じ風を感じるってことじゃないですか……。
しかも時津風には「順風」、つまり「追い風」。背を押す役割がある。その風に乗って、彼らの戦いが無事終わり帰還してくれますようにという祈りが届けばいい。はっきり言葉にせずとも、この歌からそんな兼さんの仲間想いな一面がバチバチに伝わってきます。

 

正に「想いは言葉に、言葉は歌に」……いやほんと良すぎる。なにこれ。書きながら泣いてます。
あと、いま吹いている風を感じ続けることは仲間の証だけど、一瞬だけ 吹く風は追憶*6というのも、風を感じて生きてきた刀らしいなと。せめて願い叶うなら……ともに野を駆ける……。

兼さんからは離れますが、風が仲間を現すという点については石切丸も通ずる部分があるのかなと思います。刀剣乱舞の石切丸の歌詞も風が入ってますし、戦を嫌う彼はいつだって仲間のことを想っているから……。

 

 

 

 


♦余談~花鳥風月~

花の香に昔を懐かしみ
鳥の囀りに耳を澄まし
風に散る草葉の露に袂を濡らし
月傾く雪の朝に春を想う


歌合の序盤で判者の鶴丸が語ったこの言葉。これよーーーくみると「花鳥風月」で四季を表現していますね。今更気づいたのでちょっと掘り下げます。

を表すはミュ本丸における生者のテーマ。
を表すは仲間のモチーフ。
ではは?
現在のミュ本丸であればやはり鶴丸国永三日月宗近なんじゃないかなと。


「花鳥風月」は四季折々の風物を表す「花鳥」と、自然界の風景を表す「風月」に分けられます。つまり、ミュ本丸であれば風物側は鶴丸が、自然側には三日月がセットになっているような形です。
そして「花鳥」は花や鳥といった風物を詩歌等の芸術の題材にするときに使う言葉でもあります。対する「風月」は自然の風景に親しんで詩歌を作ることや、その才能を指す言葉として使われます。
詩歌の題材と、詩歌を作ること・その才能。夏と冬。互いに繋がってる~~まだ本編で出会ってないのに~~。季語としての鶴は冬だけど敢えての夏という。


あと歌合の話も「花」と「風」が主題になっているものが多いですね(根兵糖はどっちかわかりませんが)最後の小狐丸に至っては主題が「月」。「鳥」は判者である鶴丸そのものとしたなら、ここにも「花鳥風月」がある。

 

更なる余談として、むすはじの劇中最後に歌われた「序章」が本編に繋がってるなあと思った話も。

「これは序章 物語の始め
 いつか成る 極限へ一歩
 導くのは星か?月か?
 風か?渡る波か?」

これは「序章」の出だしなのですが、この「導くのは~」のあたりが、

  • 「星」=天狼星→幕末
  • 「月」=毎度おなじみ三日月宗近(暗躍含む)→阿津賀志山~つはもの
  • 「風」=同じ風に吹かれる・吹き荒れる怒涛(疾風怒濤)→むすはじ
  • 「波」=果てしない大海へ繋がる水脈*7→三百年

に通じてるようで、今までは序章だったのか……そういえば葵咲から刀ミュ第二章って言われてたな……と思いました。
ではミュ本丸における極限とは一体なんなのか。これまでの話からすると三日月宗近に関することのような気がしてなりません。極限、極月、極夜。どれも不穏。
極月は師走、つまり冬です。冬の月。極夜は明けない夜……つまりEndlessNightですね……。対義語は白夜です。驚きの白さ。しかも極夜は冬、白夜は夏ですよ。何処をとっても対比されてる……。

 

土方組ディナーショーの話だったのにまた脱線してしまった……。
ちなみに歌合みたあと椿油買った審神者ぜったい居ると思いますけど私もそのうちの一人です。推し(村正)のおかげで髪の調子がすこぶるいい。

 

 

 

 

 

 

 

ライブパート其の三

♦描いていた未来へ

 刀剣男士が生きているエネルギーを全身で感じさせてくれる歌。春夏秋冬を感じながら「生きるんだ」って笑う姿、めちゃくちゃ尊くないですか????
この歌のBメロがすggっごい好きなんですよ……春の花ってつまり桜で、顕現した時に降る桜吹雪のことじゃないですか……夏の風は兼さんと同じように仲間の意なのかなって思ってて……刀剣男士として顕現したことを「作られた」ではなく「生まれてきた」って表現することがもうエモさトップギア
三条の眩しさで浄化されるし加州くんのとこ安定が歌ってたりしてエモエモのエモじゃん……ていう。
仲間を想う話を経ての「描いていた未来へ僕らは行くんだ」ってこんなきらきらして歌われたらそりゃ泣く。審神者の体液枯渇寸前問題。
あと誰よりも元主が描いていた未来、新しい時代を見据えて戦うことを選んでくれたむっちゃんがこの曲に参加していたのも「「「理解」」」が深すぎました。そういうとこだよ刀ミュくん……ありがとうございます……。

 

 

 

 

 

 

 

小狐幻影抄

ふたつなき物と思ひしを水底の

山の端ならでいづる月かげ

古今和歌集・八八一 紀貫之

訳:こんな美しい月はこの世に二つもないと思っていたが、山の端でもない水底にも月が出てきている。

 

 

 

♦昇華と跳躍の物語

驚愕と感動。この言葉に尽きます。
ライビュだとカメラに割ともう一振りが隠れてる姿映ってしまってましたけど(円盤ではせっかくなので別アングルを採用して頂きたい)、最初現地で正面から見てた時は入れ替わりのタイミングもわからなくてマジでびっくりしたんですよ……。
えっ小狐丸二振りいるじゃん?!!えっさっき消えたのにえっあっちから出てきた?!!えっ!!?みたいな。もう完全に明石と同じリアクション。
しかも初見だと二振りの大きな違いに気づけないので余計にびっくりしました。CGでもないし何?!!!マジで狐に化かされたんだが??!!!って。
しかも音声と動き合いすぎてたじゃないですか……見事に化かされました……。

 

そんな衝撃を受けたあと刀ミュを履修して、阿津賀志山の巴里公演で何があったかを知って。それから見るこの話は初見の時とは全然意味合いが違いました。
長期公演における何かしらのトラブルは生きている人間が関わる限り避けられないものです。でもそれをこんな風に本編と融合させて更なる跳躍の場とするの、あまりにも素晴らしすぎて何ですか……?????
脚本を書かれたのが御笠ノさんのお弟子さんとのことだったんですけど、さすがとしか言いようがない。これまでの本編を踏まえた伏線の回収と昇華の仕方がすごすぎる ……。
刀ミュを知る前と知った後で二度美味しいし、味わいが増す。寝かせたカレーだと思ってたら実は秘伝の継ぎ足しタレだったみたいな……例えがひどくて申し訳ないですけど……!!!!

 

 

 

♦狐や遊べ

かつて本丸で起こった小狐丸の小さな(大きいけれど小狐丸という台詞のオマージュにも取れる)事件について語られる今作。別名:狐面つけた四振り可愛すぎ事件。
明石が来る前の話とされていますが、そう見ると御手杵って割と初期から顕現してたんだなあと。堀川くんと長曽祢さんは幕末から居るし、鶴丸は既に阿津賀志山のあたりで長期の別任務に就いてたっぽいし、その辺と一緒に出てくるということは御手杵もずっとミュ本丸に居たってことですよね。
確かに葵咲でも後から合流したとき蜻蛉切に「御手杵!!」って親しみを込めて呼ばれてたし、旧知の仲なんだなというのは伝わってきましたけど、改めて初期から本丸に顕現してたんだなーと感じました。

 

この話のテーマは「表と裏」。序盤の『狐や踊れ』では翁と神、武者と亡霊、乙女と狂女、鬼と獣。それぞれ対になる存在になぞらえて「この世と狐には表と裏がある」という言葉で締めくくられます。
これが後に出てくる四振りになると

  • 長曽祢→偽と真=贋作と真作、及び新撰組の「誠」も掛けていると思われる
  • 御手杵→夢と現=己が焼失するときの夢、そして一度消えた筈なのに存在している現在
  • 堀川→般若と菩薩=優しそうに見えて闇討ち暗殺お手のものである面、新撰組鬼の副長であった土方さんの厳しさと優しさ
  • 鶴丸→死者と生者=墓の中で死者と眠っていた記憶と生者に掘り起こされた後のいろいろ

という個々が抱える表裏の言葉に変わるのもいいですよね。この世と狐のうち、この世側の表と裏。それが本丸に顕現していたこの四振りに宛がわれるの綿密じゃん……。
しかも全員それを傷跡や遺恨として自ら見せつけることがなく、一見表と裏があるようには感じられないのがまた……国語と歴史の授業か……????


これは表と裏に関係ない話なんですが、鶴丸が歌う「神の気まぐれか」ってところめちゃくちゃ好きなんですよ~~~「気まぐれ」の「れ」のとこの巻き舌が死ぬほど楽しそうで鶴丸国永すぎる……本当は狐だけど……。
あと狐面の中身の口元が見えてるデザインも良かったです。鶴丸の口元ずっとニヤニヤしててうわーーー鶴丸国永ーーーー!!!!ってなりました。
「狐にゃ表と裏がある」のとこの振り付けも良すぎませんか??!!小狐丸二振りでやるのとこの四振りでやるのとだとまた違った魅力があって……特に御手杵の脚が長すぎてステージの半分を覆ってた……すぐ股下の話をしてしまう……。
「コン!!」って出てくるところもみんな可愛いですよね……あれみんな垣根に隠れて一瞬で狐面つけてくるの早業!!って感じなんですけど、映像だとそこが映ってなかったので円盤で何卒……何卒……。
踊るから遊ぶに歌詞が変わってるところも、序盤の『神遊び』で触れた「舞」や「遊び」が神に捧げる鎮魂の意味を持つってところと繋がってそうでわくわくします。

 

 

♦真打と影打、表と裏

「さてさて、これが真打かな」というのはボスマスに辿り着いた時の小狐丸の台詞ですが、この言葉と共にもう一振りの小狐丸が現れる演出には鳥肌がたちました。
真打とは一般的に最も実力のあるものを指します。この場合も、ボスが一番強い=真打という意味合いになるでしょう。
しかし、日本刀における真打とは一番出来の良い刀、つまり納めるべきところに納め、正規の名を冠する刀を指します。その対義語は影打、同じ素材で作られた製作者の手元に残される真打ではない刀。日の目を見るもの、見ないもの。正に表と裏です。
小狐丸を化かした狐の親玉との邂逅というシーンで台詞は原作通り(ボスマス到達)と思わせつつ、二重の意味を持った言葉として使われているとしたら……『ふたつの影』で歌われる「影なりや 我なりや」はそういう意味かなと……。


表と裏はミュ本丸の小狐丸にとってはお馴染みの言葉でもあります。
つはものの『あどうつ聲』や阿津賀志山の巴里公演での『向かう槌音』といった、小狐丸が劇中で披露する舞には「表に彼の名 裏には我が名」という歌詞が必ず入ります。これは小狐丸の伝承『小鍛冶』からとったものです。
『小鍛冶』はざっくりいうと、帝(一条天皇)の使いから刀を打つように依頼されるも、相槌を打てる者が居らず途方に暮れた三条宗近が稲荷明神に救いを求めたところ、影向の狐が現れ相槌を打ってくれたので小狐丸が出来上がる、という内容です。この時、三条宗近は表銘に己の名(小鍛冶宗近)と裏銘に小狐丸の名を刻んだとされています。
日本刀の表銘は刀工名が入っていることが殆どで、時代によって居住地、受領国名などが加わる場合もあります。
反対に、裏銘は制作年月日が入るのが一般的です。ものによっては所有者の名前や試し斬りをした結果が入っていることもあります。もちろん例外もあります。『小鍛冶』の小狐丸はその例外に該当するでしょう。


表銘がはいる「表」は茎の外側(左側)を指します。そしてこの「表」は太刀と刀で変わります。太刀は刃を下に向けて佩き(佩表)、刀は刃を上に向けて佩く(差表)ので、両者にとって「表」は真逆の位置にあるのです。*8
つまり、何方かの表が何方かの裏となる……表裏一体ともいえますよね。そして刀は溶ければ皆鉄となりひとつになる。「向き合えば影の如く 溶け合えば鉄の如く」表も裏もなくなるわけで……。
「溶ければ皆鉄よ」とは錬結時の小狐丸の台詞ですけど、これすごい台詞ですよね。自分も相手も鉄の塊だと把握している。小狐丸、主に対する懐き具合とは別に己のことはものすごく客観的に見ているわけですよ。

 

♦小狐丸が持つ客観性

ミュ本丸は勝負事の白黒がいつもつかない世界なのだと先輩審神者から教わりました。
確かに歴代らぶフェスも、今回の歌合も、まるで勝敗がついていません。歌合の最初、石切丸の話に出てくる囲碁ですらついていないのだと聞いたときは拘り~!!!!となりました。
本編においても、絶対的な悪というものがまるでない。敵として存在している時間遡行軍ですら、むすはじで心情を慮る場面がありましたし、葵咲でも「彼らの正義」という言葉が出てきます。
立場によって善悪が変わる複雑な構造は現実世界と似たものを感じます。物事は勧善懲悪で割り切れるほど単純ではないのです。


本編1作目である阿津賀志山異聞の中では、軽傷を負った今剣の対応を巡って隊長の加州清光と石切丸が対立するシーンがあります。今剣の心が動揺していたことにいち早く気づき撤退を提案した石切丸と、任務を遂行するためにたとえ傷を負っても突き進もうとした加州くん。
今剣が傷を負った責任が何処にあるのか、誰が悪かったのか。正解がわからない加州くんは小狐丸に「俺と石切丸、どっちが正しいと思う?」と問いかけます。
そこで小狐丸は「答えは知っていますが、やめておきましょう。それは自ら導くことで初めて答えになるものですから」と、明確な答えを出さず立ち去りました。
後に岩融が語った此縁性の教えで「何方か一方が正しいわけではない」と悟る加州くん。彼がこの答えに至ることができたのは、あの場で答えを出さなかった小狐丸の気遣いがあったからだと思います。
心に抱えた矛盾に定まった答えはなく、表も裏もない。それを知っていたからこそ小狐丸はこの行動をとることが出来たのでしょう。
小狐丸、1作目からこれですよ。心を得たことで戸惑い壁にぶつかる刀剣男士の中でもダントツの客観性を持っていることがわかります。


さて、彼の客観性はつはものの劇中歌である『守るべきもの』からも感じ取ることが出来ます。

「揺るがないのは 我らの使命」
「ここに在る意味 問うまでもない」

揺るがない。迷わない。使命に対して真っ直ぐなんですよね。三日月宗近も彼と対峙した時にその点を羨ましいと述べています。
持ち前の真っ直ぐさゆえに三日月宗近とはぶつかってしまう訳ですが、彼がやろうとしている事と真意(のようなもの)を髭切から聞いた後、小狐丸はそれを否定しませんでした。
三日月宗近がやっている事を正しいとは思わないが、間違っているとも思わない」という答えを出せたのは、感情だけに支配されず、理性を以て考えた結果なんだと思います。
しかも怒った理由が「任務を逸脱している」からなんです。誰かを傷つけたとか殺したとかじゃない、結果的にやったことが使命の域を超えているという。感情で怒ってるわけじゃないっていうか、圧倒的に理性で考えてるじゃないですか。ここが人間とは違うポイントかなと。

 

で、小狐丸は何故この考え方をいち早く得る事ができたのか、についてなのですが。これはこの話でも出てくるように、己の欲望を鎮める為に行っていた舞の稽古の中で辿り着いた答えなのではないかなと。
元々三条の刀は神格が高いというか、人間と乖離した視点を持っていると思います。その一つが客観性、自分が何者であるかの自覚です。特に小狐丸は稲荷明神の影向が相槌を打ったという逸話が元になっているので、その面が強かったのではないでしょうか。
しかし、人の身を得たことで生まれた欲望(油揚げが食べたい!)を制御することができず、欲望と理性の間で戸惑います。舞の稽古を通じて己の欲望と向き合ったことで、欲望も刀剣男士としての自分の一部なのだと悟り、より客観性が研ぎ澄まされた結果が現在なのでは?
この悟りを得たきっかけこそ、今回のこの事件。もう一振りの小狐丸が目の前に現れたことなのではないかと。
たぶん阿津賀志山の時はこの事件後だったからああいう気遣いができた。巴里公演での舞の稽古は己の為ではなく、主に披露するためでしたしね。*9
最初は自分と向き合う為に行っていたことが、やがて主の前で披露するくらい上達しているの、共に過ごす時の流れを感じて良いですね……。


あと「月光に宿る影はふたつ」っていうところ、照らす月は満月なんですよね。ここ、三日月と対比されてるなあと。
鶴丸三日月宗近は立ち位置が真逆(太陽と月)の対比ですが、小狐丸と三日月宗近は近くに居るし見ているモノは同じだけど違う(満月と三日月)、というんでしょうか。俯瞰して見えるものは鶴丸が、傍で見えるものは小狐丸が拾っているような。対極と対照というか。拙者、Timeline大好き侍と申す者だがニホンゴムズカシイネ…。
いやこれ、後出しのはずなのに綺麗に前と繋がってるの本当こう、すごいとしか言いようがないですね……。

 

 

 

♦人なりや物なりや

「物なりや 人なりや」
デン!!真剣乱舞祭2016で何度も三条の刀たちが問いかけていたヤツ~!!!!
どの祭よりも一番彼岸に近かった(当社比)2016年の祭ですが、そこからまさか持ってくる?!という話。
あの時も小狐丸は最初狐面をつけていましたね。ていうか神様側の三条めちゃくちゃ怖かった。神隠しだよあんなの。
刀という物なのか、肉体を得たから人なのか。彼岸と此岸、どちらに属するのか。元主への想いが強く人寄りの新撰組の刀達と、不確かな伝説・逸話が元になったり千年以上も人を見守ってきた付喪神(物)寄りの三条。
この両極端だけど刀剣男士としては避けられぬ選択肢を、阿津賀志山と幕末を経た加州くんは「物であり人であることが刀剣男士」であるとして、どちらも選びました。
正解はない。表も裏もない。刀という物で、男士という人。物は理性、人は感情の比喩でもある。そのどちらも「自分」であること、抱えた矛盾を受け入れる。それこそが刀剣男士である、と。
小狐丸が先に得た悟りを、更に昇華して見せた加州くん。この結論があったからこそ、つはものでの小狐丸は三日月宗近を受け入れたのかなと考えています。

そしてこの「正解はない」という考え方はその後のらぶフェスにも引き継がれます。2017では完成しない百物語、2018では無勝負の東西祭対決へと繋がるので最早ミュ本丸の根っこにあると言っても過言ではない考え方です。

 

それから、劇中歌である『ふたつの影』で歌われる「神なりや 妖なりや」というところについて考えたことを。
神という存在は人による信仰がなくなると神格が堕ちて、妖の類になってしまうと言われています。つまり、神と妖は表と裏の関係性を持つわけです。

 

人々は「妖怪」を「神」に変換するために祭祀を行なう。
また、人々の祭祀が不足すると、「神」は「妖怪」に変貌することになるのだ。
(中略)
別のいい方をすれば、祭祀された「妖怪」が「神」であり、祭祀されない「神」が「妖怪」ということになるのである。

 

引用:小松和彦「魔と妖怪-祭祀される妖怪、退治される神霊-」『妖怪学新考-妖怪からみる日本人の心-』小学館,1994年,p163~164

 
ここで言う「妖」はこういった意味の他にも、刀剣男士が心にある闇を力として開放することにより、時間遡行軍と同等の禍々しさを纏ってしまうことも指しているのかなと。
文字通り、感情に溺れてしまえば敵の存在に等しくなってしまう。三百年の石切丸や、葵咲の村正がそうでした。闇落ちとまではいきませんが、あの強さと力は心を蝕む邪悪なものだと伝わってきました。
神に寄りすぎてしまうと受け取る信仰がなくなった場合に受動的に神から妖になってしまい、かといって人に寄り過ぎれば抱えた感情を制御できず能動的に妖側へ行ってしまいそうになる。
物であり人である刀剣男士にはどちらの可能性もある。だからこの問い掛けがあったんじゃないかなと。
ちなみに、逆に妖から神になるパターンもあります。ここに関しては葵咲の稲葉江がわかりやすい例だと思います。
「影なりや 我なりや」はこの神と妖を踏まえつつ、真打と影打の話に通じます。影=裏が居た証として、元々本丸に存在していた小狐丸の手元に残されたのは面=表だけ、という演出も最ッッッ高ですね……。

 

この事件について、小狐丸はこんな言葉を残しています。

「虚構も事実も表裏一体なのですよ。
 信じてもよし 信じなくてもよし。
 私は信じ、もう一振りの己を受け入れた。
 それもまた、よし」

もうほんと、アーーーーVersus----!!!!!!みたいな……「本当と嘘が絡まり合って真実さえもはや無意識だ」ですよこんなの……。
正解はない。何方を選び取るかは全て自分次第。それを他でもない明石に言うところが意味しかねえ~~!!!!
だって明石、最初から小狐丸のこと尾行してたじゃないですか。すぐばれてたけど。あれ恐らく、三日月宗近の行いを許している者を探ってるんだと思うんですね。
何方を選ぶのか、何方を捨てるのか、選択肢はそれだけではない。明石は己の存在意義を結構単純化して切り捨ててるところがあるので、こういう矛盾の話を聞かせることはすごく意味があるなと。
この話が今後明石が岐路に立った時、良き道しるべとなることを祈ります。

 

は~~書きたい事ありすぎて蛇行に蛇行を重ねましたね。スクロールバー、盛り上がってるー??!!!

ここ実はまだ全体の半分なんですよ。まだまだいきます。

 

 

 

 

 

 

 

ライブパート其の四

今回もおおかた大千秋楽の記憶を初見みたいに言ってます。辻斬りタイムあたりから記憶が入り混じりますのでご了承ください。

 

 

 

♦響きあって

はァ~~~~かっこよすぎるんじゃ~~~!!!!!!!!!!!イントロからかっこよすぎる音頭。もうめちゃくちゃ響きあってる。フィルハーモニー管弦楽団もびっくりするくらい響きあってる。
あの指貫手袋???京極夏彦がつけてるみたいなあれをこう、ぐっと引っ張ってカメラ目線で色気を散布する蜻蛉切is最高of最高でした本当にありがとうございました。
いやなんですかあの視線……根兵糖切どこいった……すごい、すごいセクシーデリバリー蜻蛉切……さすがは村正派の槍…………。
後方ステージのみほとせ組がぎゅってなってるの可愛かったですね……色気と可愛さ固めて回転させましたみたいな贅沢さでした……。
あとイントロで拳を合わせる幕末組もほんttっと……蜂須賀と長曾祢さん、兼さんと堀川くん……オ゛ッッッ……て呻いてしまう……。
この曲で一番すきなとこ、Cメロの掛け合いとそれに続くラスサビの英語のハモリなんですが、村正いないから誰がやるんだろ?と思ってたら兼さん!!!!!!!!!!!!!
脚が長い×歌がうめえ=かっこよくてつよーーい!!!!!!!!!!!!
 

 

 

♦百万回のありがとう

きました恒例辻斬りタイム。カメラは定まった場所を映すからそんなに目が忙しくない(そんなことはない)けど、これ現地だと首取れそうになったやつですね。目が100個欲しい。
だって四方八方から刀剣男士でてきたらそうなるでしょ……????時間遡行軍もびびるわよ……。
最初はなんかすごいありがとうって言われてるな……と思っていたこの歌も、みほとせを経たらエモさの塊になっているわけです。
「誰一人おいてはいかないよ」という歌詞で毎度救われた気持ちになります。こちらこそ手を取ってくれてありがとう。
あと初演では「今までありがとう」*10だったのが「十年後も二十年後もあなたと歩めますように」になってるのもいいですよね……そして極めつけは「千年後も二千年後もそばにいられますように」ですよ……人の一生を見守る付喪神じゃん…………ありがとう………。

 

 

 

♦勝ちに行くぜベイベー

初見殺し~!!!!!音源化されてねえ!!!!!!
タオルを振ってくれという指示がありましたが初見では無理でした。口を開けたままタオルを握ることしかできなかった……。まじで何処見ていいかわからん案件。
現地で曲終わりに蜻蛉切が目の前でお辞儀したのをみて「でっかいのにめちゃくちゃ丁寧なお辞儀する……」と思った記憶があります(失礼)
大千秋楽のあおさく組ニッコニコでSo Cute……って感じでしたね……明石が歌ってる時に肩をすくめる蜻蛉切可愛かったです。あと映像で見てると毎度篭手切くんの目線が完璧でファンサの神と化してた。秋に実装されたばかりでは……?!?!??!
これ二階席とか行くのも機動順なんですかね。らぶフェスのバクステ見てても思ったけど刀剣男士めちゃくちゃ走り回ってるな……すごい体力である……。
この辺の辻斬りタイムはTwitterに流れてくる各定点カメラ審神者の報告を全て合わせて上映して欲しいなと思います。何度も言うけど目が足りんのじゃ……。
 

 

 

♦獣

辻斬りからのトドメです。 審神者の命は儚い。
もうこの曲に関しては言葉で語るのも野暮というか……だってずっと殴られ続けてるじゃん……。なので感じたことを正直に書きます。
イントロで飛び出してきた今剣ものっすごい機動でしたよね??!!!何回転したの??!!そしてなんて美しい動き……!!!!!
2番を大俱利伽羅が歌ったのも真剣乱舞祭2017を彷彿とさせて演出アツすぎでは??!?!!となったところでぶち込まれる伊達組の絆アピール……。
みんな前方ステージにいると思ってたんですが伊達組だけ後方に居たんですね……次の舞台に行く二振りだけが……違う場所に居る……!!!
今回のライブパート見てて思ったんですけど、鶴丸と大俱利伽羅にとって挑戦の場がたくさんあったなと。次に持っていくもの、受け継ぐものを感じる……!!!
春の新作公演で、これまで先輩方から受け継いだものを更に新しい子たちに伝える役目を担った二振りだからこその挑戦があって、それを見届けることができたの、貴重だなとおもいました…。

 

あと問題のシーン。石切丸の手袋事件。あれはやばい。大太刀の打撃こわい。生き残れるわけがない。
だってあんな、「自分の色気ここ一番で出してまーーーーーす!!!!!」みたいな顔で、あんな、ドセンターであんな、やります普通?????
ライビュで見てたんですけど映画館の悲鳴「キャー!」じゃなかったですよ。「ピギ……」みたいな、みんな息も絶え絶えの悲鳴でした。死屍累々です。
だけど私あの、そんな石切丸の後ろで虎視眈々と己の出番を待つ蜻蛉切の獣感がやっべーーーー好きだったんですけど皆様いかがお過ごしでしょうか?!!!!
スポットライトの後方でひな壇に腰掛けながら前のめりで自分のパートを待つあの蜻蛉切の殺気っていうんですか?!背筋寒くなるくらいの気合っつーんですか?!あそこがむちゃくちゃ好きです……。
極めつけは最後の「己に牙を剥け」の小狐丸~!!!!!!!!!!!!!!野性ゆえ獣!!!!!!!!!
小狐丸のパフォーマンス、普段の落ち着いた理性と野性みのある凶暴さが共存してて好きなんですけど、この獣は完全に後者に極振りしててめっちゃかっこよかった……。

 

結論としては獣でしんだって話です。これも目が足りねえんだよなあ……!!!!!

 

 

 

 

 

 

 

かみおろし

さて、ここまで6つの歌を火にくべてきたわけですが。
これらの歌が、万葉集古今和歌集からそれぞれ3つずつ使われていることにお気づきでしょうか。

  1. 天地の神を祈りて我が恋ふる 君いかならず逢はずあらめやも万葉集・巻第十三 よみ人しらず)
  2. 世の中は夢かうつつかうつつとも 夢とも知らずありてなければ古今和歌集・九四二 よみ人しらず)
  3. 夏虫の身をいたづらに成すことも ひとつ思いになりてよりけり古今和歌集・五四四 よみ人しらず)
  4. 梅の花折りてかざせる諸人は 今日の間は楽しくあるべし万葉集・巻五 神司荒氏稲布)
  5. ぬばたまのわが黒髪に降りなづむ 天の露霜取れば消につつ万葉集・巻七 よみ人しらず)
  6. ふたつなき物と思ひしを水底の 山の端ならでいづる月かげ古今和歌集・八八一 紀貫之

万葉集古今和歌集、その違いとはいったい何なのでしょう。編纂時期が違うのは当たり前なので省きますね。注目すべきは収録歌の特徴だと思います。
一般的に、万葉集は内容が具体的・現実的であり、生活の中にある美しさや感動を素朴な表現で伝える歌が多いとされています。
対する古今和歌集は内容が抽象的・婉曲的で、現実離れした風流さを様々な技法で表す歌が多いといわれます。言葉遊びが多いのも特徴的です。

そう考えると、各話にあてられた歌、絶妙にイメージが合ってませんか……??
「懐かしき音」「梅theWay」「美的風靡」は現実、日常の話。「根兵糖合戦」「にっかり青江 篝火講談」「小狐幻影抄」は夢や過去、そして現実だったのだろうか?と思うような話。
夢と現、表と裏。それらを均等に火にくべ、神へ捧げたわけですよ。どちらか一方だけでなく、どちらも持つのが刀剣男士だから。

 

そして歌物語を焚き上げた篝火に向かって、判者と講師は「まれびとまだか」と問いかけます。
まれびと。こことは別の世界からやってくるもの。異なるもの。異邦からの客人。
前編でも紹介した民俗学者折口信夫は、「まれびととは何か。神である。時を定めて来り臨む大神である。*11」と定義しています。
この歌合でいう神は付喪神、つまりは未だ顕現していない刀剣男士であると考えます。時が満ち、条件が揃えば顕現する。その仕上げの場がこの『かみおろし』です。


鶴丸が語った「大和歌は人の心を種としてよろずの言の葉とぞなれりける」は古今和歌集の序文。全文は以下の通りです。

 

やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける
世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり
花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける
力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり・・・

 

引用:古今和歌集仮名序 - Wikipedia

 

これ、冒頭の『神遊び』で鶴丸が語った言葉と繋がってるんですね。最初と最後が繋がって円のようになっている。『菊花の約』のように。
これを想いによって呼び起こされる刀剣男士が語るからエモい。古典の教養がもっと欲しい。文法がいつまでたっても理解できなくてフィーリングで読み続けた学生時代のこと思い出すと悲しくなります。活用方法とかむずかしいよね。
「人の想いで紡がれた物語を縁(よすが)とし、この世に生まれ出るのは歌も我らも同じこと」という鶴丸の言葉、ほんともう存在意義そのものって感じでそっと手を合わせて天を拝むしかない。
さまざまな人の想いや逸話、伝説、歴史を物語る歌と刀。言の葉と歌の音が依り代になるもの。だから歌う。だから舞う。だって同じことだから。
なんでしょうねこの、日本文化と融合させながら彼らの、彼らだからこその存在意義を伝えられている感じ。今までにない感覚で新鮮です。
Twitterでも見ましたけど鶴丸に「これより先は神の領域」って台詞言わせたの本当に天才だと思います。一度は言われたい台詞なのわかる。

 

 

 

 

 

 

 

君待ちの唄

♦成長するモノ、呼びかけるモノ
さあ感想も最後の大仕上げに入ってきましたよ!!!!がんばってスクロールバー、アンタが死んだら(略)
歌合の中で一番大きな意味を含む『君待ちの唄』。神を降ろし、刀剣男士の肉体を創り、心を宿す儀式。
そもそも何故「歌合」なのに、これだけ「唄」なのか?これは漢字自体の由来によるものではないかと思います。
「歌」は漢文表現などで良く使われていたので、政治や儒学を通じて日本に入ってきた漢字です。対する「唄」は梵語が元となっており、これが仏教を賛美する歌という意味のサンスクリット語から来ているとされています。仏教色が濃いんですね。
また、「歌」は韻を踏む和歌を含めた音楽全般に使える言葉ですが、「唄」は伝統的な邦楽の場合に使われるという違いもあります。
つまり、『君待ちの唄』は伝統的邦楽に当てはまるということになります。なぜならこれは神楽であり、神に捧げる古典芸能でもあるから……たぶん。
そんなミュ本丸の伝統的な邦楽である『君待ちの唄』、その歌詞から色々と探っていきたいと思います。

 

一つ 心の臓が脈打ち始め(石切丸)
二つ 赤き血はめぐり巡る(小狐丸)
三つ 眼はまだ光を知らず(巴)
四つ 手足は別れ指をなし(青江)
五つ 耳は音の意味もわからず(大倶利伽羅
六つ 口はまだ言葉をもたず(大和守安定)
七つ その肺に空気を吸い込めば(和泉守兼定
君は産声を上げるだろう(蜻蛉切

 

胎児の成長過程とほぼ一緒ですね。
初期は心臓の形成から始まり、血が巡り、目や鼻ができる。中期に入ると手足の形が見えて指も形成される。耳も聞こえるようになる。
後期の最後には顔や体の形がはっきりとする。そうして生れ出た赤子は肺に空気を吸い込んで産声を上げる。
ヒトとしての身体を形成する唄の背後で、講師の二振りはずっと鍛刀の過程を歌っています。モノとして創られること、ヒトとして形成されること。同時に行わなければ「刀剣男士」にはなれない。
失敗したらどうなるんだろう?的な話をちらほら見かけたんですけど……失敗したらやっぱ時間遡行軍に持っていかれてしまうんだろうか……『かみおろし』が行われる直前みたいに……。


怖いので話を戻します。この歌い手についてなのですが、神に近い刀として『神遊び』でも最初を担った石切丸と小狐丸から始まり、次に続くのが巴、青江でした。
巴と青江は過去の真剣乱舞祭の進行役、謂わば主役でしたよね。向こう側にいる神をこちら側へ呼び寄せる『君待ちの唄』で、彼岸と此岸を繋いだ祭を担った二振りがこの次にあてがわれているの、意味がありまくりでは?!と興奮する審神者
更に大俱利伽羅、大和守安定、和泉守兼定蜻蛉切と続くわけですが。
大俱利伽羅は三百年で吾平の死を、安定は幕末で沖田総司の死を、兼さんはむすはじで土方歳三の死をそれぞれ目の当たりにしています。己と最も関わりが深かった人間の死を知っている。そしてそれを乗り越えて強くなった刀。
死をきっかけに生まれ変わったとも言える刀たち。そんな共通点がある気がします。
蜻蛉切は数を口にしていないのでこの七振りとはまた別なのでしょうが、葵咲で語り部のような役割を持つ主役でもありました。また、三百年では本田忠勝として家康、信康を育てる役目も果たしています。
生まれた人間を育て見届けた彼は死よりも生に近い。だから「産声」という最も目覚めと生命に近いパートを請け負ったのではないでしょうか。
あと単純に蜻蛉切の歌声がめちゃくちゃ生命力に溢れてるっていうのもあると思います。すごい迫力だったじゃないですか……あんなん産声いくらでもあげてしまう……。

 

 

 

♦ 宿るもの、祈るもの

大迫力の呼び声に応じるように曲が転調し、ここから一気にトランス状態になります。盛り上がることで神をよぶ。宿れ、祈れ、と踊り、歌う刀剣男士たち。
ここでは刀剣男士に宿るべきものと祈るべきものがそれぞれ分けられています。『神遊び』とちょっと似てますね。

宿るもの=刀剣男士としての役目

  • 生命(篭手切江)
  • 形(御手杵
  • 歴史(陸奥守吉行)
  • 身体(大和守安定)

祈るもの=刀剣男士として背負うべきもの

 歌われた内容と歌い手で分けてみました。これにも意味がすごいありそう。予想しかできないけど簡単に考えたことなど。
まず篭手切くんの「生命」ですが、篭手切くんってこう、仲間を呼び起こす役目を担ってるんじゃないかと思いまして。葵咲の稲葉江にはじまり、今回の歌合の江派についても。
彼岸にある仲間を呼び起こし、「生命」を宿す。一緒に夢を見るために。「いつか」と望みを託せる未来を信じてるから。そういう意味かな……全然自信がないけど……ここはまだ考察の余地ありです。
次に御手杵「形」。後に身体がきてるので、こっちは刀剣本体としての形。葵咲で「たとえ消えても たとえ焼けても 覚えている」から、刀本体が焼失していても、誰かが覚えていてくれるなら、人の想いがそこにあるなら存在するんだって貞愛から教えてもらった御手杵だからこそ歌えたパート。
むっちゃんの「歴史」、これは刀剣としての歴史でしょう。むすはじで「坂本龍馬が目指した未来があるこの歴史を守る」というゆるぎない信念を持っていたむっちゃんが歌うしんどさよ…。つまり主が関わった歴史が正しく宿るようにってことですね。
安定の「身体」は勿論刀剣男士としての姿形なのでしょうが、憧れた元主に似た姿を得た安定が言うから意味深すぎるという……逸話や装飾をもとにした姿になりがちですが、主への想いが姿に宿ることもあるよね……。

 

そして背負うべきもの。これも重いぞ。
物吉くんの「契り」。これは物吉貞宗を持つことで自分は幸運だと信じていた家康の想いを受け止め、「自分は幸運を運ぶ役目がある」と自覚していた物吉くんのように、使い手と刀の信頼関係を表した「契り」かなと。大切にしてくれる人との信頼関係があってこそ武器としての逸話も輝きますし。
明石の「禊」イザナギが黄泉比良坂を通りイザナミから逃げ帰った後にした「禊」に関連しているような気がします。穢れた身体を清める為の禊ですが、イザナギの穢れからは災いを司る禍津日神と、それを直すための直毘神が生まれています。表と裏ですね。刀剣男士も感情に支配されすぎるとあちら側に堕ちて災いを齎す存在になってしまうから、そうならない為の「禊」なのかなって。
虎徹兄弟の「運命」「役目」はもうまんま幕末の『選ばれぬ者』ですね……飾られる運命、人を斬る役目。どちらも選べるものではなく、選ばれることで果たせる。人がなれるものにしかなれないように、受け入れなければならないもの。
 

各々が歌う意味がありすぎて息切れしてきた……ハァッハァッ……。
宿るもの、祈るものを言の葉にすればあとは「こちらへ」と呼びかける作業です。さあさあ!!!
ここも序盤と同じく、本体が焼失している御手杵とむっちゃんの出番。力強い声が神域に響き渡るのすっごい痺れました。
からの、えおえおあ(極)!!「行くぜ、主!」っていう鶴丸、マジで鶴丸すぎて初見の時鶴丸だ!!!ヨシ!!!!!」って大事なシーンなのに現場猫みたいになってしまった。

 

 


♦八つの神

イネイミ ヒタクク
ワサワカ ハケララ
サクツハ ヤミオミ
クツヤヒ カカツ
ノヒヅミ ハオチ


歌合前に公開された謎動画で話題をかっさらったえおえおあ(極)。縦読みすると神様の名前になるって聞いたけど本当かな?!本当でした。なんなら縦読みも横読みもできるからすごすぎる。

 

 

古事記』に書かれている神々の名前ですね。*12しかも、イザナギが十拳剣でイザナミが死ぬ原因となった火の神カグヅチを殺したことで生まれた神々。は〜〜血に塗れている~~。
これらはカグヅチの血が十拳剣についたことで生まれた神。刀剣から生まれた神ってことです。斬られたカグヅチの死体から生まれる神とは別なんですよね……。
古事記の該当箇所は以下のようになっています。

 

ここに伊耶那岐の命、御佩(みはかし)の十拳(とつか)の劒を拔きて、その子迦具土(かぐつち)の神の頸(くび)を斬りたまひき。

ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著ける血、湯津石村(ゆついはむら)に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、石拆(いはさく)の神。次に根拆(ねさく)の神。次に石筒(いはづつ)の男(を)の神。

次に御刀の本に著ける血も、湯津石村に走りつきて成りませる神の名は、甕速日(みかはやび)の神。次に樋速日(ひはやび)の神。次に建御雷(たけみかづち)の男(を)の神。またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豐布都(とよふつ)の神三神。

次に御刀の手上(たがみ)に集まる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出(で)て成りませる神の名は、闇淤加美(くらおかみ)の神。次に闇御津羽(くらみつは)の神。

引用:古事記/上卷 - Wikibooks 

 

斬った刀剣の先端についた血からイワサク・ネサク・イワツツノオが生まれ、鍔についた血からミカハヤビ・ヒハヤビ・タケミカヅチノオが生まれ、柄に溜まった血が指の間を流れたものからクラオカミクラミツハが生まれたという話。神様の血めっちゃ子だくさん。
イワサク・ネサク・イワツツノオが生まれた場所は火の神を斬り殺した刀剣の先端。これは人が火を操る比喩であり、この火を利用して鉄製品を作り出したことを示しているのではないかと推測されています。また、火の神を斬り伏せるほどの切れ味を表現しているとも。つまり鉄製品の中には刀剣も含まれていたってわけですね。


ミカハヤビ・ヒハヤビは漢字で書くと甕(土器)と樋(水路)を現すので、農耕関係の神とも考えられますが、古代の製鉄に於いて重要な役割を果たしていた*13とも考えられます。そしてこの二神とセットになっているタケミカヅチノオは軍神・雷神とも呼ばれていますし、「剣の神」としても有名です。

タケミカヅチノオの神話に「出雲の国譲り」というものがあるのですが、この中でなんと彼は手をツララや剣に変えて敵対相手を怯ませます。こえーよ。詳しい内容はググったらでてきます。
ちなみにこの時、タケミカヅチノオはアメノトリフネという神と一緒に行動しているのですが、『日本書紀』になるとこれがイワイヌシに変わります。イワイヌシは香取神宮の祭神なんですけど、実は物部氏の祭神でもあるんですよ~~ミュ本丸に於ける物部って、血縁を記す名前ではないですけど、大きな意味を持ちますよね……。
 

最後はクラオカミクラミツハ。この二神はどちらも水を司る神とされます。オカミは龗とも表記され、龍の古語であるこの言葉が使われていることから龍神とも考えられています。クラは光の届かない谷を示すことから、暗い谷の中から水が湧き出でる様を現すとも。また、水というものは豊かさを齎すだけでなく水害=人に牙をむく面も持っていたので、表と裏を表す言葉でもあったかもしれません。
これらは全て製鉄に重要なものを司っていたり、はたまた剣そのものの神だったりと、とにかく武器に関わりの深い神々だと感じます。刀剣によって生まれた八神の名を唱え、八つ目の呼び声とする。そうして時が満ちたとき、やってくるのがまれびとなのです。 

 

このクライマックスシーン、皆頭を垂れていましたけど、良く良く見ると青江の姿勢だけめちゃくちゃ低い。青江って敵に斬りかかるとき、かなり身を低くすることがあるんですけど、あれと一緒なんじゃないかってくらいの臨戦態勢。
話に聞くところによれば青江、顕現したときもすっごいほっとしてたとか、失敗したら自分が出て来たものを斬り伏せようとしてるんじゃないかとか色々言われてて……青江定点カメラ欲しい。ていうか全員分定点カメラ欲しい。 

 

余談ですが、この後、イザナギは死んだイザナミを追って黄泉の国へ向かいます。有名な黄泉比良坂の伝説に繋がるわけです。
黄泉比良坂といえば真剣乱舞祭2016じゃないですか……?ちなみにこの伝説が元となり人間の「生」と「死」という概念が誕生したと言われています。
生と死。表と裏。此岸と彼岸。全部繋がってるんだなあ……。

 

 

 

 

 

 

八つの炎 八つの苦悩

歌声と呼び声に応じて現れたモノは、苦しみに満ちた産声を上げて問い掛けます。

 「我を呼び起こすのは 燃えたぎる八つの炎
 我に与えられたのは 肉体と八つの苦悩
 五蘊盛苦
 身に宿る苦しみ 痛み 悩み
 何故我を生み出した」

八つの炎とはわかりやすく言えば交わされた六つの歌と、『神遊び』『君待ちの唄』を合わせた八つの奉踊儀式を篝火へくべたことを指すのかなと思います。
刀剣から生まれた八神の名を唱えたことで、本体が製鉄される意味合いもあったのかな?
ただ炎となると地獄も関係してそうだなあとか。八大地獄、ありますよね。しかもこの地獄、堕ちる条件すべてに殺生が入ってます。
八繋がりで行くと仏教の八正道もありますけど、こっちは炎じゃない。解散!


次いで八つの苦悩。これは仏教における「四苦八苦」ですね。生まれた事で背負わなければならない苦しみの数々。前述した『君待ちの唄』での宿るもの、祈るものも合わせて八つ。
「四苦八苦」のうちの「四苦」とは「生苦」「老苦」「病苦」「死苦」を指し、「八苦」は更に愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」を「四苦」に足したものを言います。
このどれもがこの世に生まれた者が避けられない苦しみである、というのが仏教思想です。それぞれの意味は調べたらすぐにわかるので割愛。ちなみに私が好きなのは「愛別離苦」です。いいですよね「愛別離苦」。


で、この歌で名指しされる苦しみが最後の「五蘊盛苦」。これは「肉体を得たことで発生する苦しみ」を意味します。「四苦八苦」のうち七つの苦しみはすべて肉体があるからこそなのだ、という苦しみ。つまりは死です。
武器のままであれば、焼失や破損という終わりはあっても、肉体としての死はなかった。肉体を得たことで与えられた苦しみは、武器の頃では有り得なかったものばかり。生きることは苦しいことなのに、何故肉体を与えて自分を生み出したのか。何故苦しいのに生きなければならないのか。
当然の疑問です。そしてこの疑問は、どんな人間にも当てはまるものです。なんでこんなに苦しいのに生きて居るんだろう?と考えない人のほうが少ないんじゃないでしょうか。
現れたモノがこの感覚を持っているの、既に武器寄りなのに人寄りの考え方です。武器の視点から人の身の不便さ、不条理さを問うている。今までは扱われるばかりで疑問に思うのもあまりなかったであろうことを。


この問い掛けに対し、物であり人である刀剣男士達はこう返します。

「共に戦う為
 使命果たす為
 どうか力を貸したまえ」

「こうしたいから」とかじゃないんですよ。やるべき事ははっきりしてるんです。
歴史を守る為に戦うこと。正しい歴史を守るという使命を果たすこと。その為に、肉体を得たことで生まれる苦しみをも受け入れるのだと。
はっきりと「刀剣」としての意識を持ちながら、肉体と苦悩を受け入れる「男士」である。これこそが、ミュージカル刀剣乱舞の本丸に顕現した刀剣男士なのです。
余計な言葉はない。必要な言葉しかない。力を貸して欲しいと願う彼らのなんと神々しく、尊いことか。
「共に戦う為」の時に呼びかける篭手切くんの仕草、物凄く必死で泣きそうになりました。稲葉江を呼びもどした彼だからこその表情というか。同じ江の者を呼び続ける必死さが違った。
貸したまえ、とお辞儀する蜂須賀の丁寧さもすっごく良かった。強制するわけじゃなくて、あくまで嘆願している側であることを理解した恭しいお辞儀。

 

そして、この答えを聞いたうえでの返歌が素晴らしくて。

「生まれた理由(わけ)は問い続けよう
 この身が語る物語を紡ごう」

あんなに、あんなに苦しんで生まれて来たモノが。
生まれた理由を問い続けるって言うんですよ。何故こんな苦しみを伴ってまで生まれてきたのか、その理由を、投げ出さずに識ろうとして。
自身に宿った歴史や逸話、これから触れていく歴史や想いを、語り、紡ぐと。
初めて聞いたとき、訳もわからないまま見て居ましたが、ここで気付けば泣いていました。
苦しみを感じながらも、共に在ることを選んでくれた。生きることを否定しなかった。その強さと優しさに胸が熱くなってボロボロ涙が零れて止まらなかったです。
これ、人の肯定でもあると思っていて。人として生きる私たちの苦しみも、いま生まれた子は肯定してくれた。苦しくても生きる。生まれた理由がどこかにあるはずだから。
それは今本丸にいる刀剣男士たちも変わらない。彼らも生まれた理由を問い続け、その身が語る物語を歌い、紡ぎ、我々に見せてくれている。だからこんなにも胸に響くんだなって。
愛ですよこんなの……愛が詰まってる……作品への愛、刀剣男士への愛、生きとし生けるものへの愛。ここ、今回の歌合のサビだと思います。感想文のタイトルにもしてしまったくらい好きなとこ。

 

からの「来たれ、新たなる刀剣男士!」というビッグサプライズ。私が現地で見た時は桑名江だったんですね。だから大千秋楽で松井江が出て来たときめっちゃびっくりしました。
江が揃ったーーー!!!??って。年末に豊前江が新作に出る事は告知されてたので。そりゃ篭手切くん必死になるわー!!!
しかも松井江死ぬほど美人で暫く脳の機能が停止しましたね……なに……なにをみているのいま……??????と言う感じで。
まさかの二振り顕現。しかも江。やっぱ歌って踊れるからですか?!

 

 

 

 

 

 


あなめでたや

新刀剣男士の顕現を祝ううた。みんなニッコニコでとても可愛くて幸せなうた。
出だしの「めでたい雲が空に翻り カササギの声響き渡る」ってところ、めでたい雲は瑞雲、仏教的に重要なイベントでよく発生する瑞兆を現す雲のことですね。
カササギも吉兆を運ぶ鳥として中国では喜鵲(きじゃく)と呼ばれています。また、七夕伝説で織姫と彦星を出逢わせるために群れをなして天の川の上に橋を作ってくれるともされています。嬉しい事、喜ばしいことを運ぶ鳥なんです。
あとカササギの鳴き声って子供に似てるとも言うので、子供=生命の誕生を表現している部分もあるのかなと思ったり。 

 

とにかくめでたさを目一杯に伝えてくれるこの曲ですが

「想いは言葉へ
 言葉は歌へ
 歌はあなたへ
 そして新たに生まれる音に
 あなたと歌合」

まさかのここでタイトル回収が発生します。
この後も「歌唄う 桜咲く 音踊る あなたと歌合」という歌詞が出てくるんですよ。
本来の歌合としての競い合いではなく、「人の想いによって生まれた」ものとして言葉を紡ぎ、それを歌にし、他の誰でもない「あなた」へ向けてうたうこと。そこからまた新しい音が生まれる。それがこの歌合が持つ意味だと。
いやもうなんか……とにかく愛がすごい……この「あなた」は我々でもあり、ミュ本丸の審神者でもあり、仲間でもあるんでしょう……こちら側に対する呼びかけがあるの、存在の肯定じゃないですか……はーーーーもう涙で舞う桜が滲んじゃうよ。何度思い出しても感動してしまう。


「天晴れ!寿 松竹梅」のとこもめーーーっちゃいいです。蜻蛉切が歌うと草木咲き乱れ水が湧き出でるって感じの生命感があっていい。トトロで畑の植物が一気に伸びるシーンみたいな。嘘じゃないもん、蜻蛉切いたもん!!!!!
天晴れのとこで手を叩く振りがあるのもいいですね……御手杵が手を強く叩き過ぎてマイクがバチン!!!!て音拾ってたからフフッってなっちゃいました。フフッ。
最初は戸惑っていた新刀剣男士が最後は笑顔で皆と同じ振り付けでこの曲を歌うのも……いい……初めて皆と一緒にうたう歌がこんな、こんな祝福に満ちているんですよ……生まれたことにはちゃんと意味があるんだ……。
歓迎会に向かう面々も可愛かった。最後に新刀剣男士が「歌が聞こえたんだ。懐かしくて、気付けば一緒に歌っていた」っていうシーンも、聞いてた篭手切くんほんっと嬉しかっただろうな。私も嬉しかった。

 

この曲の優しくて嬉しい、「生まれてきてくれて嬉しい、ありがとう」って気持ちがいっぱいいっぱい詰まった感じが本当に好きです。
死ぬ時に聴きたいのは三百年の『瑠璃色の空』ですが、次に自分が人間として産まれる時は『あなめでたや』をかけて欲しいと思いました。そうだ、来世まで持っていこう。
 

 

 

 

 

 

 

 

あなたと歌合(まとめ)

そんなこんなで今回も決着がつかないまま対決が終わったわけですが。
歌合は彼岸から此岸、幽世から現世へ神を降ろす儀式でした。
個人的に、真剣乱舞祭2016は彼岸寄りの狭間、2017は此岸から彼岸への誘い(一歩間違えば彼岸へ堕ちる危険性もある)、2018は彼岸と此岸を繋ぐ祭としての集大成という印象を持っているので、歌合は狭間を乗り越えて刀剣男士たちがこちら側に来てくれたからこそ出来た儀式なのかなあと。
歴代の祭の意味と成長を踏まえて踏み出した新たな一歩。とても素晴らしかったです。もっと早く知りたかったという言葉より、初めて見た刀ミュが歌合で良かったなという感情が勝っています。
自分がこれまで歩んできた道で学んだ事と繋がるものが多くて、見るのも楽しくて、考察するのも楽しくて、こんなに一つの作品に対して感想ぶつけたの初めてかもしれません。すごいものに出逢ってしまった。
めちゃくちゃ好きに書き散らしまくったんですけど初心者の感想として面白がっていただけたら幸いです。あと歌詞は耳コピなので参考程度に。スクロールバー息してる…?

 

春の新作公演も楽しみです。きっとまた辛い展開があるんだろうけど、そのぶん美しいものもあるって信じられる。それだけのものが刀ミュにはありますね。
時間を見つけて過去公演の感想とかも書けたらいいなと思います。こっちは不定期に書き連ねていこうかなと。私には葵咲本紀1年パックという強い味方がいるので(円盤が待ち切れなかった) 

きっと歌合も円盤みたら新たな考察とか気付きがあるはずなので、その時は番外編として書きたしていきたいですね。とりあえず全振り分のフィーチャリング映像がほしい。


ここまで長々とお付き合い頂き本当にありがとうございました。
また別の感想でお会いできたら嬉しいです。それでは!!!!   

 

 

おまけの考察

mugs.hateblo.jp

 

 

※2/26 誤字や表記諸々修正

*1:http://www.sesamestreetjapan.org/characters

*2:(4)つばき油の歴史と製法 | 株式会社 山中油店

*3:大椿は荘子の逍遥遊篇に記載があります。「上古有大椿者 以八千歲為春 以八千歲為秋」(上古に大椿なるもの有り。八千年を以て春と為なし、八千年を以て秋と為す。)

*4:椿の別名に「茶花の女王」というものがあります

*5:ツバキ(椿) - 歴史まとめ.net

*6:ひとひらの風

*7:ここはらぶフェス2017のかざぐるまもあるかもしれません。「風が生み出す川の波 たどり着くべきは大海原」

*8:https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/rekihaku-meet/seminar/bugu-kacchuu/tk_intro1.html

*9:トライアルと初演は見えないところで稽古していたはず(都合のいい解釈)

*10:君の想い星

*11:まれびと - Wikipedia

*12:日本書紀』だと少し表記が変わりますが今回は基本『古事記』の方で進めます

*13:甕速日(みかはやひ)|樋速日(ひはやひ) | 「いにしえの都」日本の神社・パワースポット巡礼

生まれた理由を問い続ける歌 ~歌合 乱舞狂乱 感想と考察(中)

 

皆さんこんにちは。前編に続き今回も歌合の個人的な感想とか考察をドバドバ書き殴っていきたいと思います。
脳内HDDに保存している歌合の記憶が薄れぬうちに…鉄は熱いうちに打たなければ…。
ちなみに前編はこちら。

 

mugs.hateblo.jp

 
書いてる最中は最高にテンションが上がっているんですが、いざ公開すると「誰が楽しいんだこれ……???」という疑問に苛まれます。
まあ答えは決まってるんですけどね。私だよ。
という訳で、今回も蛇行に蛇行を重ねて好き勝手に書き散らしておりますゆえ、お時間がある時にお付き合いいただければ幸いです。
  

 

 

 

 

歌合 乱舞狂乱 中編

既に前半の時点で情報量がやばいのですが中編もその手が緩まることはありませんでした。審神者のキャパは東京ドーム何個分だと思われてるんですか?大演練ですか?
最大火力でずっと殴られてる。そして打ち込まれる新たなナンバー(和歌)……昼目の神も乗るしかない、このビッグウェーブに……。

 

 

 

  
 

 


にっかり青江 篝火講談〜夏虫の戯れ〜

 

夏虫の身をいたづらに成すことも

ひとつ思いに なりてよりけり

古今和歌集・五四四 よみ人しらず)

訳:夏の虫が火に飛び込んで身を焼かれることも、私が恋に身を焼かれることも、同じ「思ひ(火)」に因るものなのだなあ。

 

 

 


♦講談師・にっかり青江

まさかそうくるとは。この一言に尽きます。
最初後方ステージに青江が出てきた時は、後から誰か正面ステージに出てくるんだろうと思っていました。まさか一振りでやりきるとは。
しかもそのスタイルが講談ときた!!言葉と表情、そして声音。すべて1人で物語を語る講談師。それを刀である青江がやる。「物が語る故、物語」の極みじゃないですか。
青江が一振りで、それも怪談を語るというのは、2017年の真剣乱舞祭を思い出させるものがありました。歴代らぶフェスの中でも一番好きな演出だったので気づいたとき鳥肌が立ちましたね……。

 

講談というのは戦国時代の御伽集を経て、江戸時代の大道芸にあった辻講釈から始まったと言われています。江戸末期から明治初期にかけて大ブームを迎え、歌舞伎や浄瑠璃と交わりながら発展した伝統芸能の一つです。
講談には様々な演目が存在し、それらは大きく「軍談」「御記録物(御家騒動物)」「世話物」の三つに分けられます。

  • 軍談 … 歴史的に有名な合戦を題材とする。「太閤記」「太平記」など。
  • 御記録物 … 将軍家や大名といった有名人にまつわる伝記のこと。これが変化したものが御家騒動物」と呼ばれる。代表的なのは「赤穂浪士伝」。
  • 世話物 … その他の幅広い演目に当てはまる。怪談は有名な世話講談のひとつ。

昔から「講談師、冬は義士、夏はお化けで飯を食い」と言われるほど、講談師は冬は赤穂浪士伝、夏は怪談を演目としてきました。
それほどまでに代表的な演目の一つである怪談を語ることについて、講談師としては初の人間国宝である一龍斎貞水師はこう語っています。

 

世話物は人物を細やかに語り出すことが特徴で、世話講談が上手い人は人物を語るのもうまい。
怪談話でも、登場人物のデッサンをはっきり語り出すことが大事なんですよ。それがないと怪談にならない。
哀れな人はうんと哀れに、悪い人は極悪非道で語り出す。そういう人間を語ることで怪談は成り立つんです。
(中略)
芝居とか音楽はもう内容が決まっていますから、会場が変わろうがお客さんが変わろうが、一度作ったものはやり方を変えません。
ところが、講談は一人でやっていますから、同じ話をするのでも、会場や客層を見て、ちょっと話の切り口を変えてみたり、演出を変えてみたりする。
そういう風にお客さんと一緒に話を作っていく。だから寄席の芸は生きた芸だといわれるんですね。
寄席の客席はフラットに明るくするんですけど、怪談の時だけは暗くするんです。
そうすると、お客さんの顔が分かりません。
お客さんとのキャッチボールは息づかいだけでやらなくちゃならない。
そういう面でも、講談の怪談は難しいんですよ。 

 

引用:人間国宝 講談師・一龍斎貞水が語る怪談の世界(取材・文 村上健司)《怪 vol.31 20101129 角川書店》P200〜201

 
そう、講談も、そして怪談も、決して簡単なものではないのです。人物の描写を、言葉で、声で、表情で細かく伝えなければならない。
2017年のらぶフェスではメインを務め、最後の話を担当した青江。あの時の空気を塗り替える様も見事でしたが、今回は更にその上を行っていました。
ミュ本丸に於けるにっかり青江の懐の深さ、そして演者である荒木さんの表現力の幅広さ。その全てが高次元で重なり合い、誰も見たことがない化学反応を起こしている様は本当にすごかった。
この講談は、加州清光単騎、髭切膝丸双騎に並ぶ刀ミュの新たな挑戦だったと感じます。その瞬間を目撃できたのは幸せでした。

 
 

 

雨月物語について

「交は軽薄の人と結ぶことなかれ」
青江の講談はこんな戒めから始まります。軽薄なものは価値がなく、長続きもしないので交わるべきではない。それに対し、軽薄について納得しながらも、交わることへの羨望を語る青江。
隆起された付喪神として歴史を守るという役目を当たり前のようにこなしているけれど、彼らにも心があり、個々の考えがある。道具ではなく人の身を持って顕現した刀剣男士は生きている。そう感じる言葉の数々。
生きているけれど、交わることはできない。人との違いを理解しているから羨望を抱くのでしょう。
青江は線引きをはっきりする刀です。寄り添えるところと、分け合えないものを理解している。でもそれは決して諦めている訳ではなく、分け合えないものに触れてみたいという気持ちはあるんですよね。
心と現状を切り離せる理性を兼ね備えているだけで、冷徹という訳ではないんです。青江の語る物語にはそういった人間味があって惹き込まれるのだと思います。

 

さて、この講談で青江が語ったのは『菊花の約』……上田秋成の『雨月物語』に収録されている短編怪談です。
この雨月物語は江戸時代に出版された読本のひとつですが、怪談という括りを超えて各話の完成度が高く、近代文学作家である芥川龍之介谷崎潤一郎に影響を与えた作品です。
現代作家として有名な村上春樹も『海辺のカフカ』でこの雨月物語をモチーフとして取り入れていました。これについては『羊をめぐる冒険』から取り入れているという意見もあります。
そもそも村上春樹は幽霊や怪談を好み、上田秋成の作品を名作として挙げることもあるほどです。『七番目の男』という本格的な怪談も執筆しています。
日本の古典文学には数多く怪談が存在していますが、雨月物語はその中でも代表作とされているのです。

 

中国の白話小説(口語体の文学作品)をモチーフとしたこの雨月物語は、9つの怪奇短編集で、各話の一部要素がそれぞれ関連して円を描くような構造になっています。
また話中で怪異との邂逅シーンに差し掛かると雨と月に関する情景描写が差し込まれるのも特徴的です。
今回青江が語った『菊花の約』では、山の端に月が隠れる=闇が深まった場面で幽霊となった宗右衛門が左門の前に姿を現します。
これは完全に邪推なんですが、月にまつわる描写、というのが刀ミュの本編に関連してきそうな予感がしませんか……ねえ三日月宗近……。
今回は月が隠れた常闇での出来事なので直接関係があるというより、見守る月もない夜は彼岸に近くなるとか、そういう感じかもしれません。
この辺もらぶフェス2017の青江と繋がっているのかなと。だって、蒼然百物語は新月の夜に語られる仄暗い話」ですからね。月が出ていないんですよ。

 

 


重陽節句と白い菊

『菊花の約』に出てくる重陽節句は旧暦9月9日に定められた五節句の一つです。そも、節句とは中国の陰陽思想に基づいて設定された節目の日を指します。
陰陽思想では奇数を陽、偶数を陰とし、奇数が重なる日を節句としています。*1
特に9は旧暦の奇数の中でも最大値=陽の気が一番大きいと考えられており、「陽」が「重なる」として「重陽」の名がつけられました。
重陽節句は邪気払いの他に、長寿と健康を祈願していました。昔は五節句の中でも重陽節句が重要視されていたようです。
その重要な節目の日に必ず帰ると約束した宗右衛門。そしてそれを待つ左門は白菊を生け、薄酒を用意して兄の帰りを待ちます。帰ってきた兄と、互いの長寿を願うために、菊酒を交わしながら話をしたいと思っていたのでしょう。

 

菊は桜と並んで日本の国花とされていますが、元々は中国から伝わった薬用植物のひとつでした。
伝来時期については諸説ありますが、平安時代には既に定着していたとされます。鎌倉時代には後鳥羽上皇が菊をモチーフとした紋を身の回りのものに施し、後にそれが皇室の紋章(菊花紋章)とされたとも。
平安時代には「菊合」といって、左右二組に分かれて白菊を出し、それに歌をつけて競う遊びもありました。そうです、歌合とほぼ一緒です。
しかし、なぜ“白”菊なのでしょう?
古来の日本文化においては、「紅色」が美しく、「紫色」が高貴な色とされていました。聖徳太子が制定した冠位十二階の一番上は紫色ですし、『万葉集』で多く読まれた色は紅色です。
しかし平安時代以降は文化の変遷と共に派手な原色よりも、薄い色の方が重視されるようになります。特に白は美しく清浄な色とされ、女性の化粧(おしろい)にも使われるようになりました。
また、昔から「色」を作り出すために植物を染料として使っていましたが、この染料だけで純粋な白を作ることは大変難しいことでした。
そもそも「古事記」から白は赤・青・黒と並んで表記されていますし、白鹿や白猪など「神の使い」を表す色でもあります。こういったこともあって、白は希少価値が高いとされ、菊合などの行事でも使われるようになったのではないでしょうか。(自信はない)
今回の歌合で皆が身にまとう白狩衣もそうですね。狩衣は平安時代の朝廷制服でしたが、白狩衣は清浄を表す「浄衣」なので神事に参加するのであれば身分問わず身に着けることができます。これは嚴島神社の奉納公演でも同じでした。
付喪神である刀剣男士達が神事してる姿ってほんと……いいですよね……なんて美しいんだろう……。

 

 


♦刀剣男士と愛別離苦

「人一日に千里をゆくことあたはず 魂よく一日に千里をもゆく」
故郷で捕らわれの身をとなった宗右衛門は、左門との約束を果たすため、自害をして幽霊となり姿を現します。
大切な人との契りのために死をも厭わないその姿勢は、宗右衛門を捉えた人々の軽薄さを強調しながら、見る者の涙を誘います。
青江が語るこの物語で重要なのは、宗右衛門の魂が人魂の形を取らず、かつての宗右衛門の形を保っていたことにあります。
冒頭で青江が語る「人魂と幽霊の違い」を覚えていますでしょうか。
曰く、人魂は「彷徨い果てて形をなくした思念」ではなく「まだ何物にも染まっていない純粋な思念」であると。
曰く、幽霊は「執念深くこの世にしがみついた結果、【こうでありたかった姿】がはっきりしているモノ」であると。
宗右衛門は左門との約束を果たしたかった。約束を果たすことを己の使命とすら考えて自害を選んだ。その想いが、かつての宗右衛門の姿を作っている。
つまり、想いが強ければ強いほど姿かたちが隆起され、幽霊となる。この構造は刀剣男士の在り方に通ずるものがあります。
彼らは元が神なので幽霊にはなりませんが、強い想いに姿かたちを隆起される点は似通っています。
そして顕現したその形をこの世に留めているのは「歴史を守る使命を果たす」という彼ら自身の想い。
「守りたい」という想いが強くなればなるほど、その姿かたちがはっきりとして、特がついたり、修行に出て極になってくるのではないでしょうか。
また、刀剣男士たちは顕現したことで心を得て、その不安定さに戸惑う場面が多々あります。道具であった頃とは感じ方が段違いなので、その落差に追いつけないのです。


「心のこと。あまり無理をすると…壊れてしまうんだって」
これは三百年の子守唄で、使命と感情の間で揺れる物吉くんへ青江がかけた言葉です。
初めて得た心は柔らかく繊細で、いわば人魂に近い存在なのかもしれません。欲望が幼く、愚かで、純粋なのです。
かつての主を救いたい。歴史に殺された人を守りたい。「守りたい」という気持ちの純粋さ。けれど、その心に従えば使命を果たせない。
優先すべきはもちろん使命です。彼らはそのために存在している。ですが、人の身を得た以上、生まれた感情を無視し続ければ体より先に心が壊れてしまいます。そしてこの心は、どんなに辛くても手に入れてしまった以上、捨てることができない。
だから、自分の心に生まれた感情を、使命と照らし合わせてどう納得させるかが、彼らにとっては大きなテーマとなります。悩んで、苦しんで、でも諦めないで、最後に前を向いて自分の選択を誇れるように。
この辺は、四苦八苦のなかでいうなら愛別離苦に当てはまるのかなと。ミュ本丸の本筋とも繋がる気がします。
彼らも、そして幽霊も、同じ「思ひ(火)」に焼かれてこの世にいるのは変わりない。
最後の「うん、僕もそう思うよ」という青江の答えは、そんな自分たちの心を重ねていたんじゃないかなと感じます。

 

 

 

♦菊花輪舞から見る死生観

講話の最後に青江が歌う「菊花輪舞」はその名の通り、菊の花を輪に見立てている歌詞が印象的です。これは冒頭で書いた、『雨月物語』の各話の一部要素がそれぞれ関連している構造=円を描く構造と、『菊花の約』自体の序文と結びが繋がっているのをイメージしていると考えられます。
そして、ここにはもう一つの要素、人の生き死にを花に喩える仏教思想が込められているのでは?とも考えました。
花が種から芽を出し、茎をのばし、実を結ぶ(咲き誇る)様を人の一生と重ね合わせ、地道に成長を重ねた末に悟りを開くことを理想の一つとする仏教。
咲いた花が散って枯れていく様は人の死を連想させます。美しい花もいつかは散るように、生きているものはいつか死ぬ。これは仏教における無常観と通じています。
しかし、花は枯れた後に種を残すものです。そしてそこから再び芽が出て花が咲く。この繰り返しは、仏教の輪廻転生*2を思わせます。
仏教では人の生死と花の一生が深く結びついていると言っても良いでしょう。


「菊花輪舞 くるくる廻る
 菊花輪舞 散り散り契り
 咲き乱れよ 散り乱れよ」


ここで言う「咲き乱れる」ことは悟りを得るというよりも、本懐を遂げるという感じでしょうか。
花びらが重なり、渦のようにみえる菊花のごとく人の縁は廻り、交わり、契り、千切れていく。咲き誇った先にあるのは散りゆくさだめ。
約束を果たせず生きながらえるよりも、死んでも左門の元へ戻ることで宗右衛門は本懐を遂げて消えていきました。左門は悲しみのあまり一晩中泣き続けた、というところで青江の講談は終わります。
原作ではこの後、左門は宗右衛門の故郷まで出向き、領主に命じられ宗右衛門を捉えた者(宗右衛門の従兄弟)へ兄の誠実さを語り聞かせたのちに、その者を斬り殺し逃走します。仇討を果たすのです。
逃走した後の足取りまでは描かれていませんが、兄である宗右衛門を失った左門の本懐はこの仇討にあったのでしょう。
部下を殺された領主も、そこまでして約束を果たした宗右衛門と、兄の誠実さを想って仇討を果たした左門の絆の強さに感服し、左門を追うことはありませんでした。そして、「ああ、軽薄なものと交わりを結ぶべきではない」という言葉をこぼしたところで、物語が終わります。
「交は軽薄の人と結ぶことなかれ」という言葉で始まった物語は、「咨軽薄の人と交は結ぶべからず」という同じ意味を持つ言葉で終わるのです。
最初と最後が繋がることで物語が円を描く様は、美しくも物悲しいものがあります。

 

講談が終わり、歌を詠む直前。青江はこうも語ります。
「触れられぬものを恐れるよりも、この身に触れるものの毒をゆっくり味わいながら、惜別の喜びに身を任せるよ」
この「触れられぬもの」は恐らく「いつか来る別れ」を指しているのでしょう。会者定離。出逢いは別れの始まりという、愛別離苦に繋がる思想です。
「惜別の喜び」というのは矛盾した表現に聞こえますが、「別れを惜しむほど大切に思い合ったことを感じたい」とも取れます。
「思ひ(火)」に焼かれること。それが心を得た自分に許された「交わり」である、と。


火といえば、人魂は「火の玉」とも呼ばれます。火に和歌をくべることで神降ろしを行う歌合。ここで人魂が出てくるのにも意味があるのでしょう。
日本風俗史の基礎を築き、妖怪変化についても研究していた江馬務は著書『日本妖怪変化史』の中で以下のように人魂についてまとめています。

 

世の中には「天火」「地火」「人火」といって火に三種あり、「天火」は星精の飛火、竜の火、雷の火で、木を切り石をすりて出るを「地火」といい、人の魂の火はすなわち「人火」であるが、その火のなかに陽火と陰火とあり、陽火は物を焼くが、陰火は焼かない。

 

引用:江馬務「火の玉」 『日本妖怪変化史』 中央公論新社,1976年,p161

 
物を焼かない火である「人火」である人魂は、和歌をくべて神に届けるための「忌火」と対比されているようにも思えます。
講談の始まりは人魂が四つなのに、終わりには八つになってるんですよね。これは後に出てくる「八つの炎」を表しているのかもしれません。
更に言えば、タイトルと和歌にもある「夏虫」は「火や明かりに寄ってくる虫」という意味がありますが、「セミ」や「ホタル」の異名にもなっています。
「ホタル」って、死者の霊魂とも言われていますよね…。つまり、この「夏虫」……人魂のことでもあるのでは……青江が人魂に対して「いい子だ」っていうのは戯れてるから……?

 



♦余談~花から見る刀ミュ~

これは本当に余談なのですが、仏教と関係する花で一番重要視されているのは何だかご存知でしょうか。
答えは「蓮」です。
泥(不浄)の中から美しい花を咲かせる蓮は、極楽浄土に相応しい花とされています。多くの仏像が「蓮華座」と呼ばれる蓮の花の上に座っているのも、そういった思想に起因しているそうです。
この思想が色濃く出た言葉に、「一蓮托生」があります。これは死後、浄土で同じ蓮の花…蓮の台(うてな)の上に生まれよう、という意味を持ち、固い絆で結ばれた家族や友人・恋人と死後に浄土で逢い、一緒に暮らしたいという願いが込められています。
一つの蓮の台の半分を他の人に分け与える、という意味で「半座を分かつ」とも言います。
「半座分かつ 華のうてな」
この言葉が尚更重たいわけですけれど…………約束は守るさ……。


刀ミュって高い確率で花がモチーフとして出てきますよね。
阿津賀志山では花そのものというよりも、「矛盾という名の蕾」で歌われたように、刀剣男士たちが抱える心の矛盾自体を花に喩えていました。
幕末天狼傳は、メインとなるのは天狼星という星座ですが、主題歌である「ユメひとつ」に「徒花を咲かせたれ」という歌詞が登場します。徒花は実を結ばない花を指しますが、これは志半ばで散っていった新選組の面々を指していると考えられます。
三百年の子守唄でも、幼い信康がトリカブトを持ってきたりもしますし、メインテーマである「かざぐるま」も玩具である風車とカザグルマクレマチス)のダブルミーニングなんじゃないでしょうか。
そしてこの続きである葵咲本紀では、題名の通り葵の花が人物関係の描写に使われています。また、序盤で村正が信康と同じくトリカブトを持っていました。
つはものは言わずもがな、蓮の花。これは阿津賀志山の巴里公演でも取り入れられました。もう蓮の花が出てくるとしんどくて仕方ない。
むすはじでは花そのものではなく、植物が根をはり、葉を生い茂らせる様、そしてそれがいつか枯れてしまう無常を「倒れる終焉」で歌っています。こじつけっぽいけど関連してると思いたい。
刀剣男士たちが関わる、歴史上の人物。彼らの人間としての生き様を花に見立てているように思えるのです。*3

初見の時、一番衝撃的で印象に残ったのがこの青江の講談でした。すごかった。すごすぎて感想が蛇行に蛇行を重ねてしまった。
まだ中編の序盤なんですよね。どういうことなんだろう……。笑顔が一番だよ、最終的にはね……。

 

 

 

 

 

 

 

梅 the Way

 

梅の花折りてかざせる諸人は

今日の間は楽しくあるべし

万葉集・巻五 神司荒氏稲布)

訳:梅の花を手折って髪飾りにしている人々は、今日という一日を楽しんでいるに違いない。

 

 

 

 

♦桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿

出ました(個人的に)問題作。初見の時は「ちょっと明石ィ~!やめなよ~!」って感じだったんですけど、葵咲みてからそんなこと言えなくなりました。
この話はひとつ前の青江と構造が対照的になっています。青江が講談なら、明石は落語。講談は地の文を交えながら歴史や教訓を話し手が第三者として語りますが、落語は基本的に笑わせること目的としており、教訓よりもオチが重視されます。また、話し手が当事者となっているのも特徴的です。
そして落語の場合、掛け合いのひとつひとつに洒落が仕込まれています。今回の明石の話も至る所に仕掛けがあったんじゃないの?!という邪推がたくさん出てきちゃう。私が受け取れたのはそのほんの一部です。

 

話の主軸は「ミュ本丸の審神者が大事にしている梅の木」でした。梅の木は成長が早いことから、時期を見定めて枝を剪定しなければ伸び放題になってしまい、良い実がつかない植物です。
反対に桜の木は一度枝を伐ると花が咲かず、伐った箇所から木が腐り枯れてしまうこともあります。梅と桜は同じバラ科の植物でも、その育て方が違うため、特徴に合わせた世話をしなければなりません。
「桜伐る馬鹿梅伐らぬ馬鹿」というのは、それぞれの特性を無視した一方的なやり方を戒める諺です。
この梅の木、様々な考察で「歴史そのものを表しているんじゃないか」と話題でしたね。私も改めて見て、あーーーほんとだーーーーと色々繋がりました。
梅の木には枝が6本あって、明石達が折ってしまった枝は3本でした。まず、この6本は今まで修正してきた歴史(阿津賀志山・幕末・三百年・つはもの・むすはじ・葵咲)の数と同じです。
今剣が最初に折った枝は実際最初に明石が折ったものでしたが、これを省いて、「今剣が枝を1本折ってしまったが故にバランスが悪くなった梅の木を整えるために折った枝」が1本。これをまず今剣が関わった歴史分……つまり阿津賀志山の分とします。
次に、明石に言いくるめられて自ら枝を折ってしまった小狐丸。彼は「今剣が原因で折れた(と思わせている)2本の枝」も持たされます。このうち1本は明石の分として省きますが、前述した今剣の分と、今回自分で折った分、計2本。これを、小狐丸と、更に今剣が関わった阿津賀志山とつはものの分とします。
最後に、一番最初に明石が折ってしまった枝。これは明石が関わった歴史がまだ葵咲しかないので1本だけとします。
こう見ると小狐丸だけ枝を多く持っているように感じますが、最終的に今剣と共犯扱いになっていたので、二振りとも同じ本数を背負った……つまり阿津賀志山とつはものの2本としていいのでは?(残り1本は前述のように明石の葵咲分)というガバガバ計算式です。算数下手か?
そして、この折れた3本の枝とされる歴史すべてに三日月宗近が姿を見せている」んですよね。阿津賀志山とつはものはもちろんのこと、葵咲でも映像出演したじゃないですか。


ここ、明石達が囲んでいたのが桜の木だったら更に怖かったなあと。だって伐ったところから腐ってしまうんですよ。梅は伐った枝から更に小枝を伸ばすので、枝ぶりが良くなって立派な花や実をつけるんです。折ってしまった梅の枝の断面から新たな枝が伸びる可能性があるなら、取り返しがもうつかない訳じゃない。
きっと三日月宗近が表立って関わったこの歴史は、折れた枝(彼の暗躍によって変わった歴史)の断面から更に小枝が広がり、様々な可能性に分岐していくんじゃないでしょうか。
でも明石はこの梅の木自体を伐ることを提案したんですよ……「あったかもしれない」という可能性・分岐が多くなる歴史を消す。なぜ明石がこう考えたのかは、やはり葵咲での篭手切くんとのやり取りに詰まってるのかなと思います。

 

 

 

♦梅は伐れ、桜は伐るな

明石は葵咲で、堕ちた同胞を救おうとする篭手切くんの行動に対し、厳しい言葉を投げかけていました。
「全てを救えないなら、誰も救えてないのと同じだ」
同胞が堕ちた時間遡行軍と、刀剣男士。それらの違いを問うた時、篭手切くんは「違いはない」と答えました。違いはないのに同胞だけを助けるという篭手切くんの矛盾を明石は受けいれられなかった。
明石が何故ああも三日月宗近の所業に目くじらを立てるのか。それは人が創り上げてきた歴史の流れが、一振りの力では変わらないほど強大だからでしょう。どんなに「あり得たかもしれない分岐」を選んでも、どこかで矛盾が発生して歴史が変わり、違うところで苦しむ結果が生まれる。
そうなれば「歴史を守る」という刀剣男士たちの使命、存在意義を裏切ることになる。政府に目を付けられ、本丸が解体される恐れだってある。そのリスクを冒してまで歴史に介入した三日月宗近は、最後までその責任を取れるのか。明石の言動はそういった猜疑心の表れなのではないかなと……。
3本の枝が折れた梅の木(三日月宗近が大きく関わった3つの歴史の比喩)を見て「バランスが悪い」と言ったのは、「全てを救えていない」ことに対する皮肉にもなっているのでは?という邪推もできます。
「バランスが悪い」梅の木(歴史)を、同じ三条である今剣と小狐丸に伐らせるの、めちゃくちゃ怖いんですけど。しかもこの二振りは三日月宗近が一番動き回ったことがわかる、つはものを経ているからこそ。

 

まあ結局は「こんな梅の木はなかった」から「こんな話はなかった」という妄想オチで終わるのですが、それもそれで恐ろしい。
だって明石の語ったこの話は、いつか有り得た歴史かもしれないんですよ。歴史がなかったことにされたようなものでしょう。考えすぎなのはわかっていますが……この先、新作にこの話がどう関わっていくのかと思うと気が気じゃありません。

 

 

 

♦梅花歌と令和

さて、ところで新元号である「令和」の名が、万葉集巻五に収録されている「梅花歌三十二首并序」に由来すると言われているのをご存知でしょうか。*4

「初春の令月にして、気淑よく風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す」

この中の令月と風和から文字が使われて、「令和」という元号が作られたそうです。令月とは旧暦2月、新春の頃を指します。
他にも「嘉辰令月」というように、何をするにも良い月・めでたい月とも言われます。風和は「穏やかな風」といった意味合いです。
「梅花歌三十二首」とは、奈良時代大伴旅人が開いた「梅花の宴」というイベントで詠まれた三十二首の歌を纏めたものです。ここに大伴旅人自身が付け足した序文(上記)が元号を決めるときに使われた形になります。
当時、梅は中国から渡来した珍しい植物の一つだったので、選ばれた人しか栽培・観賞することができませんでした。そんな貴重な植物を皆で囲んで宴を開き、咲き誇る梅花の美しさを歌に残したのが「梅花三十二首」。そして今回明石の話で詠まれた歌も、この「梅花三十二首」に入っているんですよね。
……歴史そのものと思われる梅の木が題材とされる話で、私たちの歴史に刻まれた新たな元号に関わる歌を詠むって、どういう思考回路で辿り着くんですかね…???昼目の歌の時も思いましたが、控えめに言ってすごくないですか??
あとあんなに三日月宗近のやり口を好いていない明石がメインの話で、間接的とはいえ「月」が関わっているのもこう、因果…!!となります。

 

 

 

♦青江と明石の対比

ここまで梅の話で持ちきりでしたが、最後は対比の話を。
冒頭で書いたように、この明石の話、つまり落語は一つ前の青江の講談と対比されています。講和と落語、菊の花と梅の花、過去と現在。様々な要素が対になっているように感じますが、これって実は歌合だけの話じゃないんですよね。
青江と明石の二振りは三百年と葵咲で既に対比されていたんだな…と今気づいた話なんですけど。


明石は葵咲で「戦争は互いの正義のぶつかり合いであり、勝った方が正義の中の正義となるが、負けた方はいつだって悪者になるもの」だと語っていました。そしてこの単純さは、心が壊れないために必要なものだと。
戦争が孕む矛盾を直視してしまえば、心が壊れてしまう。無理をしすぎてしまうから。これ、三百年で青江が物吉くんに言った言葉と根底は同じだと感じます。
でも青江の場合は心に生まれた矛盾を「刀剣男士だから」という理由だけで納得しようとした物吉くんを諫め、逆に明石はその矛盾を割り切らずに「同じ(同派という意味も込めて)付喪神だから」という理由で堕ちた同胞を救おうとした篭手切くんを批判しました。
心が壊れやすいことを知っているけど、二振りの考え方や行動には大きな違いがあります。矛盾に寄り添うか、割り切るか。明石の場合は来派の兄刀なので、お兄ちゃんが弟の無謀さを叱るみたいな感覚(現実を教える役目)もあったのかもしれません。
あと、「物語の行末を見守ろう」と劇中で口にするのもこの二振りは共通しているなと。心に何かを抱える刀に気付いて、そこに踏み込む役目も含めて。飄々としながらよく見ているんですよね。*5
実装されたばかりなのに、ほぼ一振りで数十分の舞台を回すのもらぶフェス2017の青江っぽいですよね。あの青江の話も出てきたのは三振りだったなあ…。


唯一違うのは、明石の話だけ歌がないこと。想いが言葉から歌になるこの本丸で、明石だけが歌を唄わなかったんです。つまり明石は話の中で自分の想い=本心を語っていない。
これにどういう意味があるのか……また怖い話になってきたのでこの辺で締めます。明石、底が知れないにも程がありまくる。

 

 

 

 

 

 

 

ライブパート其の二

えー、前編でも言ったんですが、初見時の記憶がほとんど前編ライブパートで消えてるのでまるで初めて見たような感想になります。
なおライブパートの感想は語彙力を溶かして書いてるので、アホなこと言ってても笑いながら聞き流してやってください。よろしくお願いします。

 

 

 

♦Brand New Sky

むすはじ組なかよしすぎ尊いんじゃ〜^^^^^^^^^出だしの長曽根さんの日替わりセリフがもーーーー絆アピールすぎてペンライト握り潰しそうになりました。
これ後方ステージから正面ステージに走る速度半端ねえなと思うんですけど皆股下が長いから3歩くらいで辿り着いてますよね????
この曲の爽やかさで全時間遡行軍が青空に浮かんで消えていく。私には見える。最終回とかでよくあるあれ。青空に散っていった仲間の面影が見えるやつ。時間遡行軍……いい奴だったよ……。
歌合で全員揃ってるチームって幕末とむすはじだけだったのもあって、このメンバーの安定感と信頼感といったらなかったですね…。めっちゃ楽しそうだしサビの「大切な仲間が出来た」のとこで肩組み合うのも眩しすぎて砂になりました。
は〜〜兼さん♡♡地球跨いで♡♡♡って団扇作って掲げたい。地球も喜ぶ。絶対喜ぶ。
あと間奏の巴なんなんですかあれは???!?!?!セーラーマーキュリーじゃん!!!!!!!!!巴はセーラー戦士だった…????
安定のアクロバットと巴のセーラーマーキュリーが合わさる画面の強さといったらない。すっごい楽しそうなむっちゃんで無事にTHE END.....

 

 

 

♦Nameless Fighter

イントロと同時に会場が赤と紺に染まった瞬間鳥肌立ちました。もうほんと、この曲を、大倶利伽羅と青江でやってくれたの感謝しかないんですよ…初見の記憶はまるでないので三百年を摂取した後の感想になるんですけど…。
三百年初演とらぶフェス2017で財木さんの大倶利伽羅が披露したこの曲を、再演で2代目大倶利伽羅を演じた牧島くんがやること。これってめちゃくちゃ緊張するし重荷にもなるし、大きな挑戦でもあったと思います。
それでも堂々と、大倶利伽羅として青江と背中を預けあって歌い切った牧島くん…まじですごかった…気合の入りようが伝わってきた…。
この曲、三百年の大倶利伽羅にとって大切な曲だと思っていて。誰かを守りたい、とか、守れなかった痛みを知ったからこそ得られる強さとか、そういう想いが沢山詰まっているので、再演を経た大倶利伽羅が歌ってくれたのが嬉しすぎて赤と紺のペンライトあほみたいに握り締めて感動していました。
青江も青江で、最初の頃とはまた違う余裕みたいなのがあって、しっかり大倶利伽羅を支えて時にはリードしていて、あ、荒木さんの懐の深さーーーー!!!!!ってなりました……。
あと後ろ髪触るタイミングis完璧。あんな素敵な笑顔で「君だけのヒーロー」なんて言われたら泣くしかない。名もなきファイターかっこよすぎる……。
三百年の曲のなかでもすっごい好きな曲なので、リアルタイムで聴けたのも嬉しかったです。この曲を歌合でやろうと決めた方々と歌ってくれた二振り……圧倒的感謝……ッッッ…!!!ボロボロの羽を目一杯広げてくれてありがとう……。
 

 

 

♦約束の空

大好きです。メロディも歌詞もメンバーも。
これは個人的なエモポイントなんですけど、構成メンバーがあまりにも完璧だったんですね。葵咲で実装された鶴丸、明石、御手杵、篭手切くんに加えて、村正と蜻蛉切の代わりに堀川くんと物吉くんが入っていて。
堀川くんは村正派の歌唱力担当。これはよくわかる。なんていったって堀川くんなので。
物吉くんです。物吉くんがいるのがめっちゃくちゃエモかった。村正と蜻蛉切との繋がりを感じて三百年推しの審神者は静かに泣きました。


三百年で村正派と共に家康に仕えた物吉くん。彼はあの話の要でした。徳川家康の一生を知っていたから、彼を中心に子育てができた。
劇中でも、本多忠勝になりきれない蜻蛉切を激励したり、家康と信康に笑顔を教えたり、その最期を看取ったりと大活躍でした。
葵咲でも姿こそ見えないものの、大きな役割を担っていたと感じます。村正は最初、家康が物吉くん扮する鳥居元忠が死ぬことになる伏見城に残したことを怒っていました。正しい歴史の流れとはいえ、仲間を見殺しにするような真似が許せなかったから。
でもその死の報せを耳にした家康は涙を流しながら笑うんですよ。「すまんのう、元忠。すまんのう」と謝りながら、最後まで元忠…つまり物吉くんが教えた「どんな時も笑顔ですよ!」という言葉を守って。「うまく笑えているかのう」と問いかけながら。
それを眺めていた村正は切ないような、驚いたような表情で目を伏せていました。家康は元忠を見捨てたのではなかったと気づいたからです。


三百年でも、葵咲でも、最期まで笑っていた家康の心を支えたのは、「不幸のどん底のような人生でも幸運を信じた家康の想いを受け止め続けた物吉貞宗」が扮した元忠の言葉だった。これがなければ葵咲本紀という題名は成り立ちませんでした。それくらい物吉くんの存在は大きかったんです。
そんな物吉くんが村正と蜻蛉切のポジションを担うようにこの歌を唄ってる様が嬉しくて仕方ありませんでした。
ていうかこの、Nameless Fighterからの約束の空の流れもずるくないですか!!!!!三百年からの葵咲っていうのがビシバシ伝わってくる……ハァッハァッ……。


それから間奏のダンスパートもエモかったんですけどあの!!!葵咲で蜻蛉切が立ってたポジションに御手杵が立っていて!!!!あーーーっお客様困りますお客様槍槍槍槍---ッッッ!!!
御手杵が来たことによって槍同士が対角線上に置かれるポジションとかが多くてすごい滾ります。体格のいい槍を!!左右に置いてくださり!!誠にありがとうございます!!!!
村正派も槍も好きなのでこう……おいしいところがいっぱいあってありがてえ限りなんですよね……葵咲での槍の連携技とか……こういうポジショニングとか……。
あと単純に御手杵のスタイルが良すぎて真ん中に立つとしなやかな美しさが最大限に発揮されてしまうんですね。脚が長すぎるからまた世界一周しちまったぜ。蜻蛉切のずっしりとした存在感とはまた違った魅力が開花している。
これが独自解釈で感動&興奮する審神者の図です御覧ください。あとはやく約束の空の音源が欲しいです。葵咲のCD心待ちにしています。

 

 

 

前進か死か 〜スットコドッコイ物部珍道中〜

副題は勝手につけました。
いっぱい鯛を持ってきてくれる時間遡行軍さんvs物部2人の切実な攻防戦……手に汗を握りましたね……。
貞愛が面白すぎてずっと笑ってました。信康に対してあんなに弟として振舞ってるのに、父上に対する塩対応面白すぎてだめだった。この竹を割ったような貞愛の性格、愛おしくて仕方ないです。
前進か死か」も好きです。「嗅ぎ分けろ」の振り付けめちゃくちゃかっこよくないですか……あと最後に貞愛が後ろ髪をサラっとするのも良かった……色気……。
ラスサビの「だがいいか 忘れるな」のところ父上が歌う演出も良かったです。説得力すごい。この歌の歌詞も曲もいい感じに泥臭くて好きなんですよーーーわかりますかね、この…eastern youthとかTheピーズっぽさ…!!!!唐突に捻じ込む邦楽ロック!!!
あと葵咲はアーカイブで見た勢なので貞愛と秀康がしっかり双子の姿を見られたのも嬉しかったです(加古さんの秀康も狂気振り切ってて好きでした)おかえりなさい…!!!!
しかし「三日月殿から聞いた話じゃ!父上は鯛の天ぷらにあたってお亡くなりになったと…!」ってさらっと信康が言ってるけど三日月宗近はどこまで歴史を教えてるんですかねえ??!!!
これから先も物部は増えていくんでしょうか。エノミュならぬ物部ミュもあっていいと思います。信康の吹き矢が炸裂するやつ。通りすがりの裸のおじさん直伝なんでしょうね…。

 

あとこの徳川家のターンの前に大俱利伽羅の畑仕事シーン(と言っていいかどうかはわからない)があるのもいいですよね。朝早く起きて肥料を土に混ぜていたんだってね……よく見てるよむっちゃん……気づいてくれてありがとう……。
土がよくなり、作物が大きく育てばみんながお腹いっぱいになる。「腹が減って戦をする人たちが居なくなれば天下は泰平になる」と信じた信康(吾平ドン)の理想に近いのがもう……。
きっと大俱利伽羅の手にも農作業の跡がついている。それを見たら吾平はどんな顔をするでしょう。きっとすごく嬉しいんじゃないかな。
信康ーーー!!!!吾平ーーーー!!!!!!いつかみてくれこの畑をーーー!!!!!!
ハイヒールで畑仕事する巴も好きだよ。かわいいね。

 

 

 

 

 

 

幕間

ここまで全速力で駆けてきたんですけど文字数えぐいことになってますね。ひとつ掘り下げると他にも繋がりが見えてどんどん穴を広げてしまう癖があるのがよくわかります。まとめる能力が低い!!!!
最初に言ったように自分が楽しいからやっているんですけども!!!

 

そして長々と書いているうちに新作の詳細が発表されてしまいましたね……パライソ……島原の乱ではないかという話を聞いていまから怯えています。だって絶対つらいやつじゃん……。
静かの海で月に手が届くのでしょうか。鶴丸、はやく三日月宗近と出会ってくれ……と祈らずにはいられない。
あと歴史上キャストにハイパー殺陣上手すごすぎ役者の中村誠治郎さんがでると聞いて、舞BASAから2.5に入った私は無事に討ち死にしました。おいおいおいおいまじか。あの石田三成だったせいじろさんが刀ミュくんに出るのか???!!!!
どうせならめちゃくちゃ殺陣多い演出を期待します。本当にすごいんですよ。BASARAのトンデモ技を表現できてしまう上に納刀アクションがゲームに逆輸入された人です。よろしくお願いします。
中村誠治郎vs刀剣男士とかになったら刀剣男士の方がやばそうなのでお守り必須にしてください。それか極になってから対決してください。

 
今回も好き勝手な考察と感想にお付き合い頂き、ありがとうございました。
では後編でお逢いしましょう。

 

後編はこちら

mugs.hateblo.jp

 

 

*1:1月1日だけは元日なので例外として1月7日になっています。

*2:輪廻転生は、六道と呼ばれる六つの世界の中のどれか一つに生まれ、死んだらまたそのうちのどれかに生れ落ちて……と回り続ける車輪のように生死を繰り返すことです。

*3:生き様は花だけど、家族に関わることは雁が多いなあとも思います。三百年の竹千代とか、双騎の一万と筥王とか。偶然だろうけど……。

*4:国文学研究資料館(最終閲覧日:2020年2月9日)― https://www.nijl.ac.jp/koten/kokubun1000/1000aida.html

*5:そういう話だとつはものの兄者もそうなんですけど…あれは見ているというよりもう直感に近いなって…。

生まれた理由を問い続ける歌 ~歌合 乱舞狂乱 感想と考察(前)


みなさんこんにちは。
今日も元気に推しが尊い!ホント無理!ってなってますか?わたしは割となってます。
去る1月23日、ミュージカル刀剣乱舞「歌合 乱舞狂乱」が無事大千秋楽を迎えましたね。

何も知らずに見に行ったあの衝撃から早1ヶ月。

 

mugs.hateblo.jp

 
この間、トライアル公演から各公演をしっかり履修して、もちろん歴代らぶフェスも視聴しました。
dアニメストアの恩恵に加え、髭切膝丸双騎出陣と葵咲本紀も見ることができて、導いてくれた先輩審神者の方々とDMMのアーカイブ配信には頭が上がりません。三百年の子守唄の再演4dxも観ました。座席がぐわんぐわん揺れた。
そんなこんなで過去作の予習は万全!いまでは立派な村正派推し!の状態で大千秋楽のライブビューイングに挑んだわけです。
今度は前と違うぞ!受け取るものがいっぱいあるぞ!って気合を入れて。

 

うん。
記憶と感情だったら感情の圧勝。ノット客観、イエス主観。
もうねえ、記憶なんてねえ、あの圧倒的なパフォーマンスの前には儚いものですよ。
人の夢と書いて儚い。まさにその通り。
あっ……すごい……すごい神事してる……あっ……こんぺいとう……アッアッアァアーーー……椿油……獣!!!!!!イネイミヒタクク……あなめでたや……松井江ーーーー!!!!!!!!
感情の起伏を表すとこんな感じです。記憶としていうならこんぺいとうと椿油と獣。そして松井江。
これだけで考察と感想が書けたらたぶん人智を超えてしまいますわよ……。
覚えていったつもりのイネイミヒタククもやる隙なかったです。意識取り戻したらライビュ限定コメント動画だった。
あってよかったTwitter。そしてDMM見逃しパック。

 

スゴカッタ…という意識に侵されていた思考に叩きつけられた様々な教養ある審神者達の素晴らしい考察と、見逃しパックの恩恵でやっと言語化できるところまできました。
大千秋楽後はネタばれ解禁だったからすごかった、TLに流れてくる情報量の濃さが。ほんとに。
ここには自分で気づいて調べたこと、考えたこと、そして考察を見て更に繋がったことなんかを本編の流れに沿って書いていきたいと思います。
そうしないと情報量多すぎて忘れてしまいそうなので……ほとんど自分用の備忘録です。なんてったってTHE主観。そして限られた視野。歴戦の審神者が持つ目とは程遠い。
時間がめっちゃある時に、ふーんこういう考えの審神者もいるんだな~程度に流し見ていただければ幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

歌合 乱舞狂乱 前編


そも、歌合とは何なのか?
これについては多くの審神者が言及しているので、私が説明する必要もないのですが、一応前提として記述します。

 


歌合(うたあわせ)とは、歌人を左右二組にわけ、その詠んだ歌を一番ごとに比べて優劣を争う遊び及び文芸批評の会。

引用元:歌合 - Wikipedia


このとおり左右に分かれ歌を競い合わせ、どちらが優れているかを競う遊びのこと。今回開催された歌合もこれをモチーフにした内容でした。
左方は青、右方は赤の装束を着用する点はもちろんのこと、判者(はんざ)と呼ばれる審判役を鶴丸が、講師(こうじ)と呼ばれる歌を詠む役を左右それぞれ今剣と堀川くんが務めていました。
初見では全くわからなかったのですが、よく見ると判者である鶴丸だけ衣装が白一色で、なるほどー!!となる初心者。鶴丸だから白ってわけじゃないんだな……。
鶴という鳥自体が神聖視される側面もあるので、それもあって今回の神降ろしの判者を任されたのかなとも思いました。縁起のいい鳥だしね。
あと講師の二振りは「実在性が不確か」という共通点がある、っていう話をTwitterで見て、そうなると現世より神がいる幽世に近い存在とも取れますね……って後からやっと理解しています。
こんなの初見で気づける訳ないんだよ~!!!教養が欲しい!!!!歌がうまくて小柄でかわいいとかという理由じゃなかった。

 

これ歌合だけの話じゃないんですけど、刀ミュって全力で楽しむためには教養が必要な作品だよなって思います。
オタクを舐めてない。むしろ俺たちが込めた本気に着いて来られるか????ってレベルの情報量。めちゃくちゃ難しいけどめちゃくちゃ楽しい。
あちらがいつも本気できてくれるので、こちらも本気で考えるし愛していける。
これって当たり前に聞こえるけどすごいことだし、幸せなことだなあと感じます。

 

 

 

 

 

 

 

奉踊~神遊び

♦奉踊の神聖さ

どう見ても「これからミュージカルが始まります!」って空気じゃねえ。
初めて見た時、いきなり火がでた!!しかも神楽はじまった?!!ってびびりました。
神聖な雰囲気、張り詰める空気。これはミュージカルじゃなくて神事では……???
「炎に焼かれたことのある陸奥守吉行と御手杵だけ踊りが違う」という話を聞いて見てみたらマジで鳥肌立ちました。
えっそんな……うわ……えっそんなことある……?あった……。
立ち位置や踊りの一つ一つに意味が込められていて目を離す隙がないんですけど……。
私は踊りに詳しい審神者ではないので、細かい振り付けの意味を受け取ることはできていないんですが、おそらく此処にも意味があるんだろうな……。

 

 

 

♦判者の言葉についての考察

判者の鶴丸が語った言葉*1にも色々なものが含まれていて、これがまた濃いです。もう特濃。ここ、ミュ本丸の存在意義が語られた気がして余計に濃く感じます。
「歌とは人々がその想いをよろずの言の葉に託したもの」
想いが込められた歌は神々の心をも動かすというなら、神々の中には付喪神である彼らだって含まれるはずなんですよ。
「この世に生まれ出るもの、何れか歌を詠まざりける」
そしてそこにはもちろん我々人間も、そして神も、鬼やあやかしだって含まれていて、更に「我らも」と刀剣男士たちが宣言する。
つまり、この現世にいるのなら歌わないという選択肢はない。
ましてや、「物に込められた想いを具現化した付喪神」である彼ら刀剣男士が、同じく「想いを言葉に込めた歌」を歌うのは自然なこと。
そう言われている気がして、だから彼らは歌うし、その歌には心を揺さぶるものがあるんだと腑に落ちた気分でした。
想いを起源とするもの同士、相性が悪いはずないんだよな……!!!と自分の中で納得。しかしこれが出だしなのがすごい。

 

あと、歌がどんなものかという説明で
「花の香に昔を懐かしみ 鳥の囀りに耳を澄まし 風に散る草葉の露に袂を濡らし 月傾く雪の朝に春を想う」
という四季折々を詠むセリフにも色んな和歌が盛り込まれてて教養~!!!って感じでした。
秋を表す「草葉の露」を何気なしに調べたら、西行が詠んだ「あはれいかに草葉の露のこぼるらむ秋風立ちぬ宮城野の原」にたどり着いたんですが、調べてみたらそこからまさかの「御裳濯河歌合」という西行が主宰した自歌オンリーイベントみたいな歌合と繋がりが見えてひっくり返っています。
露繋がりなら藤原良経が詠んだ「深草の露のよすがを契にて里をばかれず秋はきにけり」っていうのもあったんですが、「草葉の露」が「袂を濡らす」なら零れるだろ(単純)と考えて西行の方をチョイス。
でも藤原良経の歌も「千五百番歌合」っていう一番でかい歌合に関連してるんですよね……ほ……掘っても掘ってもネタが出てくる……学ぶことばかりだ……。

 

春を表す「花の香に~」ですが、昔を懐かしく思う=もういない誰かを想うという描写であれば、藤原俊成の「誰かまた花橘に思ひ出でむ我も昔の人となりなば」がワンチャンありそう(自信はない)。
鶴丸が語る花が花橘であれば、の話ですが……でも橘って夏の花なんだよな……というのが迷いの元。
ちなみに藤原俊成は平安末期の歌合で判者を務めていたことがある人物です。あの有名な藤原定家の父でもあります。出るわ出るわ歌合ネタ。大豊作です。
夏を表す「鳥の囀り」はどの鳥のことかわからないので割愛。夏の鳥は水鶏、行々子、郭公など様々……でも語るのは鶴なのだった……。
冬を表す「月傾く~」は万葉集にある柿本人麻呂が詠んだ「東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」からかな……??柿本人麻呂っていったら三十六歌仙の一人ですね。風流だ……。
柿本人麻呂万葉集で言霊についても詠んでます。言霊の力は刀ミュにおいても重要ですよね……想いを言葉に託せばそれは魂となる。このへん掘り下げていくと一言主とか関わってくるのかもしれない。
だんだん広げた風呂敷を畳めなくなってきた。あとは古典が得意な審神者に任せるぜ!という訳で、和歌について私が調べたのはこのあたりでした。

 

 

 

♦神遊びと天照大御神

初っ端から神楽が始まった!と感じたのは間違いじゃなかったという話。
これは刀剣男士による、あちら側にいる付喪神へ捧げる歌と踊り。つまりは神楽歌です。
歌詞もすごい。最初何言ってるかわからなかった。祝詞みたいだなと思ってました

「いかばかり 善き業してか 天照るや
 昼目の神を 暫し留めん 暫し留めん」

これが出だしの歌詞。神楽歌の「昼目歌」と呼ばれるものの本歌からきています。
ここに出てくる「昼目の神」は天照大御神を表すと言われています。天照大御神を祀る有名な神社といえば伊勢神宮(内宮の方)ですよね。
伊勢神宮には三種の神器のひとつである八咫鏡があることでも有名です。そしてこの三種の神器繋がりで、草薙剣御神体とする熱田神宮天照大御神を祀っています。
正確に言うと熱田神宮の祭神は天照大御神という名前ではなく、熱田大神と呼ばれているのですが、この熱田大神草薙剣に宿った天照大御神天照大神)を指します。
神器のひとつである剣に宿る神、ってめちゃくちゃ刀剣男士と相性良さそうじゃないですか???
その剣にまつわる神を留めたいって言うんだからこいつぁエモい。


あと、曲名の「神遊び」ですが、これにも天照大御神が関係しているんですよね。
天照大御神といえば天岩戸に閉じこもってしまう伝説が有名ですが、この天岩戸を開けて貰うために天鈿女が舞を踊ってフロアを熱狂させたのが神楽の起源とされています。
民俗学者折口信夫は神楽の起源について、

神楽と言ふ名は、近代では、神事に関した音楽舞踊の類を、漠然とさす語のやうに考へてゐる。

さう言ふ広い用語例に当るものとして神遊(カミアソ)びと言ふ語があつたのである。一体日本古代の遊びとか舞ひとか言はれるものには、鎮魂の意義が含まれてゐる。

「神遊」は、神聖な鎮魂舞踊とか、或は神自ら行ふ舞踊(アソビ)とか言ふ意味らしいのである。其神遊びの一種として、平安朝の中頃から宮廷に行はれ始めたのが神楽で、最初は「琴歌神宴」と称して、大嘗祭の一部分の、夜の行事から出たと言ふ説が、有力になつてゐる。

(引用:折口信夫 神楽記 [青空文庫])

と自身の著書で述べています。
つまり、「神遊び」という語が「神楽」という用語が出てくる前に、神聖な鎮魂舞踊を指していて、更に古来から「遊び」や「舞」という言葉には鎮魂の意義があったということです。
そうなると、この歌が始まる前に鶴丸が叫ぶ「さあ歌え、さあ遊べ!」というセリフも、神聖な意味があるのだと読み取れます。
また、天照大御神の天岩戸伝説は神楽の演目にもなっているのですが、この演目でも口上に「神遊び」という言葉が出てきたり。
新しい付喪神が権限するためには、現世と幽世を隔てるもの(岩戸)を開かなければならない。これはそのための「神遊び」なんじゃないでしょうか。そして隔てるものが無くなったその先は神域。だから「覚悟はあるか」と問い掛けられるのかもしれません。

 

 

 

♦歌を紡ぐ順番がエモいという話

この「どんな善いことをしたら天照大御神をこの現世に留めておけるだろう」という歌いだしに対して、刀剣男士達は忌火を起こし、筆を持ち、歌を綴るんです。無理やり開けようとしてない。ちゃんと想いを込めた言の葉を届けようとしてる。
そして先陣を切るのが判者である鶴丸に対し、次を担うのが石切丸と小狐丸なのもウワーーーー!!!ってなりませんか??!三条ーー!!!
現在は病気平癒の力を持ち御神宝とされる石切丸と、かつて稲荷明神の眷属が三条宗近の願いを聞き届け相槌を打ったことで出来たとされる小狐丸。どちらも人を助ける力を持っていて、神社に縁のある刀。その二振りがここで歌う意味は有り余る……って感じです。
今剣も講師だしこの二振りは神に近いし三条本当に神々しい。三日月宗近岩融もここに居たら更にネタがぶっこまれていたことでしょう……。

 

 

 

♦昼目歌と忌火

ところで「昼目歌」って普段はやらない秘曲なんですけど、どんな時に披露される(と言われている)かご存知でしょうか。
大嘗祭
歴代天皇皇位継承後に行う宮中祭祀。令和になったばかりの世の中です、聞き覚えのある方も多いのではないでしょうか。
昨年5月に皇位継承があり、元号も変わりました。その後、11月に行われたのが大嘗祭です。大嘗祭自体は秘祭なのでテレビ中継されたわけじゃないんですが、これから始まりますよー的なニュースはあったかと思います。
これ、何が珍しいって新しい天皇が即位したその年にしか行われないんですよ。毎年ある新嘗祭とはまた違う。有難いことに平和な世の中ですから、そこまで頻繁にあるものでもない。
そこで披露される(と言われている)「昼目歌」を、この令和になったばかりの世で起用して、独自の世界観で神楽歌に仕上げてるの、控えめに言ってもすごすぎません…????

 

そして歌詞の中にもある「忌火」。これは神事に使う特別な火のことを指しています。今回の歌合では交わした歌をこの「忌火」の中へくべて神降ろしをする。だから「たやすことなかれ」。
あと、大嘗祭の時って祭殿(大嘗殿)を毎回新しく建て直してるんですが、この時(建て直す時の地鎮祭)にも忌火が使われます。
この忌火は8人の童男童女が持つんだそうです。儀式の詳しい内容は調べるとたくさん出てきますが、8という数字が頻繁に見受けられます。
8は八百万の神々に通ずる数字。八つの炎、八つの苦悩。これについては後編で触れたいと思います。

 

 

♦更なる邪推

あと歌詞を更に邪推すると、

  • 炙り出される本性→小狐丸の表と裏
  • 曝け出される欲望→こんぺいとう
  • 秘められた想い→軽装3人衆と椿油に込められた祈り
  • 脅かされる秩序→明石の梅の話(いろいろ怖い)
  • 超えてはならぬ一線→青江の雨月物語(生者と死者の交わり)
  • 神々の影踊る→石切丸の話で皆(付喪神)がお百度参りをする様

なんじゃないのかなとか……思いました……諸説あるがの!!!!!!!
サビの歌詞も、和歌のテーマである四季と恋を散りばめていて美しかったです。
最後の各刀剣男士の対峙するポーズにも何かしら意味がありそうだなと思いました(わかったわけではない)。

 

それから、奉踊も、神遊びも、夜を舞台としているんですよね。だから薄暗い中でやる。それがまた神域に繋がる空気を作る。
夜は昔から神や妖を含め、人ならざるモノが蔓延る幽世とされることが多いので、こういう祭事・神事が行われるのもほとんど夜です。
そして人ならざるモノは往々にして、夜明けとともに消えてしまう。そんな神々を引き留めたいという古来からの願いが昼目歌には込められていると言います。*2
ここまで一気に書いてすごい息切れしてるんですけどまだ2曲目なんですよね???!!!どういうこと???!?!?

 

 

 

 

 

 

 

懐かしき音

 

天地の神を祈りて我が恋ふる

君いかならず逢はずあらめやも

万葉集・巻十三 よみ人しらず)

訳:天地の神々にひたすら祈ったのだから、恋しいあなたに私が逢えない訳がないでしょう。

 

 

 

 

♦それぞれの「聞き覚えのある音」

最初見た時「な~んだ、イケメンが集まってほのぼのしてる話か~。花丸みたいだ~^^」とか思ってた自分を叱ってやりたい。
この話の主軸が石切丸なのは大きな意味があるわよ……おわかりになって……?
ライビュで見た時大画面いっぱいに小狐丸の脇が映って興奮したことだけは正直に告白しておきます。
石切丸が聞き覚えのある音の正体を探す話なわけですが、ここに色んな刀剣男士たちが関わってきます。
特筆すべきは御手杵。こやつ、石が擦れる音を聞いて「その音!!」ってすごいハッとした表情をするくせに唯一結論を言わずに去っていく。
なあ、何に聞こえたんだ……なあ……焼夷弾で焼かれた蔵で火の粉がはぜる音か……?し、しんどい……。
葵咲で「夢」と聞いてあんなこと*3を思い出してしまう御手杵ですよ。考えてしまうだろこんなの……。
対して大俱利伽羅の「鉛玉の爆ぜる音だ」がドストレート。戦道ひとり行く漆黒の竜だ……。

 

集った皆が思い思いの行動をとるなかで石切丸が思い出すのが「玉砂利を踏みしめる音」っていうのがもう……落としどころが素晴らしすぎる……。
病気平癒という人々の願いを聞き届けてきた刀が、いつも聞いていた「懐かしい音」。人々の想いに寄り添う刀としての記憶。それが、参道で人々の穢れを払うとされる玉砂利の音なんですよ。
石切丸ははっきりと「戦が好きではない」と口にする刀です。阿津賀志でも、三百年でも、そしてこの歌合でも。
戦うことよりも祈ることの方が多かったからこそ、流れる血を許容できない。この葛藤と矛盾は三百年の子守唄の肝でもありました。
戦で散ったすべての人々のために祈り、背負い、戦う刀。それが今のミュ本丸の石切丸です。
守れなかった者の墓前で自分の無力さを嘆き、歴史を守るために殺めていい命はないと悲しく笑って悲しい役目を背負った彼が、懐かしいと感じるのが「人々が祈りを捧げる玉砂利を踏みしめる音」なの、やばくないですか……。ずっとずっと、石切丸は祈ってるんだなって……「戦のない世」を作る為に戦って……。
そして此処に石切丸の心情を察して言葉にできる青江ではなく、かつて吾平のことでぶつかった大倶利伽羅と、信康の件でぶつかった物吉くんがいるのもいい。


石切丸が口ずさむ歌に「いつか見た夢を いつか泣いた夜を いつか誰かの為に叫んだ声も」って部分があるんですけど、この「誰か」はあの時守れなかった信康のことじゃないかなと思っています。いや本当は生きてますけど、でも松平信康はあそこで死んだことになってるじゃないですか……。でも、このことを悔やみ続けるわけではなく、石切丸は懐かしんでいる。すべて背負って行くと決めているから。
そういうのも全部ひっくるめて、石切丸が守りたいものが目に見える形で表現された話だと感じます。何気ない日常、生きる音が穏やかに行きかう時間。それは当たり前のようでいて、本当はとても貴重な時間。なんて優しい話なんだ……。

 

 

 
付喪神たちの祷歌

篭手切くんと御手杵が持ってきた石の周りをお百度参りする刀剣男士たち。これまで様々な歴史に関わってきた彼らが、それぞれの祈りや願いを持っているのがわかるから、その姿は微笑ましくて、ちょっと切なくもあります。
いくど願えば、なんど祈れば、届くのか、叶うのか。わからないけれど、それでも祈る。一歩ずつ、一歩ずつ。人間みたいに。
このお百度参りに一振りだけ参加せず、対岸でずっと畑仕事をしている刀がいました。そう、大倶利伽羅です。
初めて見た時、ちょうど大倶利伽羅側の座席に居たので「なんで参加しないんだろう……慣れ合うつもりがないのはわかるけど……誰か誘ってあげなよぉ……」と思って彼の仕事ぶりを見ていました。でもその意味が今ならわかる。
あの畑仕事は、大倶利伽羅の祈りを込めたお百度参りだったんですね。一心不乱、一意専心。土に肥を混ぜ、野菜の状態を見て、枯らさないように、よく育つように。
倶利伽羅は大倶利伽羅なりに信康と吾平のことを背負っている。だから彼らが愛した畑仕事を真剣にこなす。いつかそれが、戦のない世の中を作ることに繋がるかもしれないから。
この大俱利伽羅のくだりが後半の徳川家パートの序盤でも出てくるのずるくないですか?!泣きました。
いつか祈りが届いたら、吾平のお墓に花を供えにいこうね、大俱利伽羅。

 

あと、お百度参り中に持ち寄った石がお地蔵様だと判明した時、「とっても素敵な笑顔です!」って物吉くんが言うんですよ……。
かつての主を救い、育て、共に戦い、そして看取った彼も、三百年で葛藤してきた刀です。笑顔の大切さ家康と信康に教えたのも物吉くんです。
笑顔が幸運を運ぶことを知っていて、幼い家康や信康が下を向いたときも一緒に笑ってあげていた、鳥居元忠の面影が見えて画面が滲む……序盤から涙腺が死んでるんですがどういうことですか。
天地の神を祈りて我が恋ふる君いかならず逢はずあらめやも。いくども願って、いつか叶うと信じて、それぞれの想いを胸に進んでいく。
これは三百年の子守唄を経た彼らの成長を見せてくれる話だったんだなあと、やっと理解できたような気がしました。
 

 

 

 

 

 

 

根兵糖合戦

 

世の中は夢かうつつかうつつとも

夢とも知らずありてなければ

古今和歌集巻・第十八 よみ人しらず)

訳:この世が夢なのか現実なのか、現実なのか夢なのか、それはわからない。何せ、この世というものは存在しているけれど、存在していないものなのだから。

 

 

 

 

♦夢だけど夢じゃないヤツ

歌合の中で屈指の笑いを掻っ攫ったこの話。例にもれず私も大爆笑しました。
圧倒的意味不明さとそこにぶちこまれる蜻蛉切の激うまソング。テンポも良くてインパクトも絶大。
村正がいるとフォロー役に回ることが多い蜻蛉切、一人だと結構天然なのでは?!と微笑ましくなりました。
あと劇中歌めちゃくちゃいいメロディなのに歌詞で笑わせてくるのもずるい。豆知識:槍はスタンドマイク代わりになる。

 

笑いすぎて疲労こんぺいとうですが、「実はあの話、目が覚めたように見えて最初から全部長期任務中の蜻蛉切の夢なのでは?」という話がTLに流れてきて後から刺されました。
た…確かに……次の青江の話でも、村正と蜻蛉切はまだ任務中であることが明言されている……。つまりこれは葵咲~三百年ラストまでの間の蜻蛉切なのか……。


本多忠勝として生きる蜻蛉切は、史実に添って誰よりも長くこの長期任務に当たらなければなりません。葵咲で一緒だった村正も井伊直政としては先に離脱してしまいます。
(葵咲では姿の見えなかった大俱利伽羅…榊原康政関ヶ原以降、家臣として家康との距離が離れてしまったという史実があるので顔を見ることも少なくなっていたのでは?と推測)
最後に残された蜻蛉切が、戦に出ることも少なくなってきて、孤独の中で見た夢だとしたら……?
常勝無敗の本多忠勝関ヶ原以降、急激に出番が少なくなります。なぜなら戦がなくなっていくから。それは家康が目指した泰平の世であり、守るべき正しい歴史です。蜻蛉切も元主の生涯については理解も納得もしています。
それでも、だんだんと自分の出番がなくなっていく様を実際に体験したら、やはり武人としては切なく心細くなることもあるのではないでしょうか。
戦う事で役に立っていたのに、もうそれもできなくなってしまったら、かつての存在意義に思いを馳せてあんな夢を見てしまうこともある……はず。

 

 


♦CONFEITOに込められた意味

金平糖は戦国時代にポルトガルから伝来したお菓子で、当時は身分の高い者しか手にできなかった高級品です。織田信長も宣教師のルイス・フロイスから贈られた金平糖をたいそう気に入っていたそうです。
当時の金平糖1粒の価値は山城2つ分とも言われています。どんだけすごい価値なんだ。砂糖の生産量が限られていたので当然といえば当然なのですが。お金持ちはその権力の象徴として砂糖菓子を贈りあっていたとも。
なので、戦国武将として金平糖を預かっている、というのはかなり功績と信頼がある証なんじゃないでしょうか。
天下取りに名をあげた徳川軍の部隊長を務め、更に主君から評価され金平糖を預かる。武将の誉れともいえる待遇です。本多忠勝の全盛期って感じですね。

 

金平糖の伝来時期も三百年の時代と合っています。信長がルイス・フロイスから金平糖を贈られたのは永禄12年(1569年)とされていますが、ちょうどこの頃、家康は信長と同盟を組んでいます。
つまり、この後の活躍によって、同盟相手の信長から金平糖を贈られた可能性が大いにあるということです。
ちなみに、信長が金平糖を手に入れた翌年である元亀元年(1570年)には姉川の戦いが勃発します。攻め入る浅井・朝倉軍に対し本多忠勝が単騎駆けをし、織田・徳川軍を勝利に導いた姉川の戦いは、三百年でも蜻蛉切の見せ場として描かれていました。
あのシーンはいつ見ても鳥肌が立ちますね……敵軍でなくとも気圧されるほど強い蜻蛉切の歌声と気迫。大好きなシーンです。
常人では到底できない活躍をみせた本多忠勝です。家康から褒美として金平糖を貰うことだってあったはず……。
金平糖の歴史から、あの蜻蛉切の夢は三百年~葵咲にいることがほんのり香ってきます。日本史の授業かな???

 

また、ゲーム内でも根兵糖(金平糖)はレベルアップ用の便利道具として扱われています。経験値が渋いゲーム内では重宝しますが、いつでも大量に貰えるわけではない便利道具です。
景趣交換用の季節物がすごい余ってる場合は省いて、普通に手に入るのは内番の手合わせ終了後(それも確率)と刀剣男士の乱舞レベルが4になった時だけ。割と高級品の部類に入ると思います。
そんな自本丸でも高級なものを預かる部隊長って、かなりの功績がなければできないんじゃないかなと。
つまりこれは、二重の意味で功績を認められたいという願いや過去(武勲をたてた戦のことや暫く帰れない本丸のこと)を想う夢だった……????
でも家康が天下を統一して本多忠勝として戦いに出られなくなることも、本丸にはまだ帰れないことも、すべては任務を達成するために必要な痛み。そのモチーフとなった根兵糖(金平糖)は「未来に繋がる結晶」なんですよね……。
帰ってきた蜻蛉切をみんなで抱きしめてあげて欲しい……本編ではもう帰ってきてますけど……!!!!
単なるギャグで終わるかと思ったのに考察したらめちゃくちゃ深いじゃん怖いよ……これはこんぺいとうですね……。

 

 

 

 

 

 

 

ライブパート 其の一

♦mistake

最大人数でmistakeを犯しにきたーーーー!!!!!後方ステージのお立ち台に立つ御手杵スカイツリーよりでかいから正にタワーの明かりも消える頃です。
そして前方ステージに見えますのはツインタワーの一角、和泉守兼定でございます!!!!股下万博開催中!!!!!
大千秋楽mistakeの兼さん完璧に完璧を重ねていましたね。1番サビ終わりの唸り声(ヴゥン!)と表情が誉すぎました。ちょっとおっさんぽいけど可愛い兼さん、あれで何億人の審神者の心を射抜いたんだろう……。
そして御手杵、初mistakeのはずなのに色気をモノにしていてやばかったです……なんだその悩ましい表情は。審神者しっかりその魅力に串刺しにされてしまったよ。
攻めっ攻めの三条。強すぎる。ダンスパートで後ろのモニターつかって万華鏡みたいになってたのも圧巻でした。これはmistake犯してしまう。

 

 

 

♦Impulse

刀ミュに出逢えて良かったと思える曲ベストスリーに入るこの曲。まず原曲が好きすぎるんですが歌合の組み合わせもすggggっごかったですね……。
二振りの歌がうますぎてあまりの衝撃に初見の歌合の記憶ほぼこれなんですよ。ほんとに。
中の人の話になるんですが、鶴丸役の岡宮くんが一番緊張したのこの曲だって聞いて崩れ落ちました。そうだよね……蜻蛉切に対する村正のポジションってどんだけプレッシャーだよ……。
蜻蛉切役のspiさんと村正役の太田さん、この二人の歌声の相性の良さってお互い最大出力でも食われないからぶつかり合う様が美しいところにあると思ってるんですよ。
デュエットはどちらかが強すぎると成立しません。バランスが悪いと心地良いハーモニーにならないから。お互いの落としどころをうまく見つけなければならない、共同作業の極みみたいな感じ。
対してこの二人はどっちも強い。しかも違うベクトルの強さのぶつかり合い。だけどお互いをうまく引き立てる柔らかさもあって、とにかくバランスがいい。
三百年初演から積み重ねてきたコンビネーションの結晶ともいえるこの曲を、村正の真似ではなく、鶴丸として蜻蛉切の隣に立って歌い上げていた。岡宮くん、本当にすごかったし、素晴らしかったです。
葵咲でも実装直後で村正との掛け合いパートをこなしてたし、歌合でもアジテーター務めてて、しかも蜻蛉切の歌にのまれずのびやかに歌ってたし、なんなら実装直後にソロあるのも蜻蛉切と堀川くん以来だからそれだけ歌声の魅力が強いってことだし、刀ミュくんまた一人やべー役者見つけてきたな……って気持ちでいっぱい。ありがとうございます。

 

 

 

♦Stay with me

はい今からここは名のあるバーレスクです。
セクシーとキュートを同時に持ってくるんじゃないよ……審神者のキャパシティなんだとおもってるの……??!!!
巴にセクシーチェアダンスをさせることを覚えてしまった本丸だから生き残れるはずがないんですよね。
でも実はオリジナルメンバーであるはずの石切丸が一番セクシーデリバリーしてるの怖くないですか?機動が上がれば上がるほど、どんどんセクシーになっていく……ここは打撃値がセクシーとキュートに変換される世界……。
あと2番のBメロで向かい合う小狐丸と石切丸が可愛くて永遠に見ていたかったです。
狐「その意味がわかるのは」石「今日や明日じゃないかもね」狐「(なるほど!と頷く)」 なるほどここが楽園か~^^^^
そして2番サビを蜂須賀にやらせようと考え着いた人は正直に手を挙げてください。個別でお金を包みたい。
蜂須賀のアカンベーが可愛すぎて心臓止まるかと思いました。あの瞬間世界一の美少女美青年だった……危うく神降ろしするまえに入滅するところだったのだわ……。

 

 

 

 

幕間

ここで漸く気づいたんですが、初めて歌合を見た時の記憶がほぼこの序盤で埋め尽くされていたんですね。どんだけ衝撃的だったんだ。
情報量と刺激が多すぎる。沼っていうかもう規模が果てしない海。世界掴んじゃう。
そして文字数がすごいことになっているわけですよ。なんだこれは??まだ序盤だが??
ここから先も書きたいんですけど、そうしたらいつまでも終わらなくてお蔵入りになりそうなので、まずここまでを前編としてアップします。いわゆる尻叩きってやつです。
前後編にしようと思ってたけどこれ中編も必要ですね。いよいよ卒論みたいになってきました。まだ刀ミュという世界に入学したばっかりなのに。
音楽と国語と民俗学と宗教と愛がいっぱい詰め込まれてて楽しくて仕方ないので、歌合の円盤はやくほしいです。毎日見たい。

 

ここまでお目通しいただきありがとうございました。
色々おかしなところはあると思いますが、刀ミュ初心者の独り言、つまりは個人の感想なので温かく見守っていただければ幸いです。
では中編でお逢いしましょう。

 

 

 中編はこちら

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※2/1 曲名のスペル間違い修正(英語の勉強をしたほうがいいで賞受賞)

*1:新古今和歌集の序文。これについては後編で触れたいと思います。

*2:引用:「楽土自ら昇天すること」(折口信夫 古代生活の研究 常世の国青空文庫])

*3:削除された放置ボイスのあれ

年末に 審神者飛び込む 刀ミュ沼

 

令和2年になって2週間が経ちましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

新年も推し活捗ってますか?グッズやイベントの予定でスケジュールを埋めていますか?

ちなみに私は購入したスケジュール帳をいつもうまく使えずに1年を終えます。今年こそはちゃんと使いたい。

 

仕事始めからも数日経った、疲労がたまり始める今日この頃。こんな辺鄙なブログまで足を運んでいただき、誠にありがとうございます。

ここでは、誰もが忙しさに目を回す年の瀬…2019年12月に、それまで審神者をさぼっていた人間が、刀剣乱舞のミュージカル(通称「刀ミュ」)をみて、見事その沼にはまった話をしていこうと思います。

本当に偶然の出会いから人は簡単に沼へ落ちていくんだな、と実感する出来事だったので、備忘録もかねて書き連ねていく所存です。*1

 

*1:※好き勝手書いていますが、すべては個人の感想です。その点ご了承ください。

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