彼らが旅に出る理由~にっかり青江単騎出陣 感想と考察~
勢いだけで筆を執りました。
あの、青江単騎……すごかったですね……っていう話です。
5月15日に配信された全景版・スイッチング版、どちらも衝撃的で震えて泣きました。
まだまだ旅は始まったばかりなのですが、感情が溢れすぎてどうしようもないので、ふせったーに書きなぐっていたことを加筆修正しつつ一旦ここにまとめておきたいと思います。
感想と考察どころか感情しかない。感情の真空パックです。
これから青江単騎みるよ!という人にはあまりおすすめ出来ないネタバレ具合なので、そこのところよろしくお願いします。
あと所々に東京心覚の話も出てくるので、そこもネタバレ勘弁!という場合もご注意ください。
青江という衝撃
最初に青江が単騎出陣すると聞いたときは公演内容の想像がつきませんでした。
歌合で講談はしていましたけど、講談師として全国行脚するわけでもないだろうし……単騎でどんなことを……?
加州清光はソロ曲を持って単騎出陣をライブツアーとして成し遂げていますが、青江には加州くんのようなソロ曲はありません。
じゃあ源氏兄弟の双騎みたいに、自分のルーツを辿る旅を青江がするのだろうか?それはもはやゲームに実装されている修行では?京極家に行くのか?
そんな貧相な想像力をはるかに上回る内容をぶつけてきたのが今回の青江単騎です。
いやすごい。すごいとしか言いようがない。
これを2年かけて全国でやることも、この内容を書ける人がいることも、この脚本を演じきれる役者がいることも、この空間を作り出せる多くの関係者がいることも。
ミュージカル刀剣乱舞の引き出しの多さに戦きました。
この場末のブログの過去記事を見るとわかることではあるのですが、わたしは歌合から刀ミュに足を踏み入れた新参者です。
何もわからない状態で現地参戦をして記憶が混濁するなか、唯一はっきり覚えていたのが青江の講談でした。
真っ暗な真冬の会場を静かに底冷えさせていった異様な空間。
2.5次元舞台というカテゴリーで括るには勿体無いほど確かに怪談を語りきった青江。
初心者にとっては物凄い衝撃的でしたし、いまだにあの風景と空気を忘れることはできません。
その青江が、こんなに鮮やかで美しい、唯一無二の単騎出陣を魅せてくれたことはそれを上回る衝撃といっても過言ではないわけです。
生きててよかったな……としみじみ思いました。
ミュージカル刀剣乱舞は人生に効く。
物語と青江
青江単騎は、なぜ青江が旅に出ようと思ったのか、その理由を語るところから始まります。
根底にあったのは青江も深く関わった三百年の子守唄と、その先を描いた葵咲本紀でした。
鳥居元忠の血天井
訥々と語ることもできるのに、敢えて抑揚をつけた講談スタイルをとりながら、青江は(恐らく蜻蛉切が葵咲本紀の最後にタイトルをつけていた)史実をもとにした記録を語りました。
それは本編では描かれなかった、物吉貞宗の最後の任務。
任務の中で実際あった家康と物吉くんの会話を交えながら、軽快に語られる闘いの記録。
しかし、その裏にあった凄惨な現場を、青江は見ていました。
血塗れで、臣下だった武士たちの屍に囲まれて、笑顔を失った物吉くんの姿を。
この話を聞いたとき、よりにもよって物吉くんになんてことを……と感じながらさめざめ泣いてしまいました。
これは「鳥居元忠の血天井」という歴史的な出来事のひとつです。
伏見城の戦いで最終的に鳥居元忠とその臣下の武士約300名は切腹しています。
その亡骸が回収されるのは関ヶ原が終わった後。そのころには彼らが流した血の跡は伏見城の床板に染みついて、とれなくなっていました。
この血が付いた床板は元忠達が「本物の三河武士」であり「家康のかけがえのない忠臣」であることを称える、歴史的な遺物となっています。
床板なのになぜ天井なのか?
それは家康が彼らの忠義に感動して、床板を供養するため徳川家に関係する寺院へ納めた際に「足で踏まれないように」天井板としたことからきています。
この血天井は京都にある養源院のものが切腹した武士たちの手形や姿を象る血痕が残された一番壮絶なものだそうです。
目の前で臣下だった武士たちが次々と自刃していくのを、床や天井まで飛び散るほどの血を浴びてみていた物吉くんの顔からは笑顔が消えていた、と青江は語っていました。
赦されることならば物吉くんだって彼らを救いたかったでしょう。その死にざまから目を背けたかったでしょう。
だけどこれが歴史。
家康が江戸幕府を築くために必要な歴史を創る物語。
こうなることがわかっていて、それでも物吉くんはみほとせで鳥居元忠としての役目を受け入れたのです。
最後まで家康を支え続けるという覚悟と、どんな時でも笑顔を絶やさなかった物吉くんの在り方の矛盾があまりにもつらい……。
みほとせで「違う結末」を期待していた物吉くんに、青江は言いました。
「手に入れてしまった以上、捨てることはできないから」
「心のこと。あまり無理をすると、壊れてしまうんだって」
青江が語った伏見城の物吉くんはきっと壊れる寸前だったんじゃないかとわたしは思います。
あそこで青江が迎えに行かなければ、完全に壊れてしまっていたのではないかとも。
物吉くんの心が砕けないように駆け付けた青江は、「悲しい役割」を分け合おうとしてくれていたのでしょう。
青江が歌う『かざぐるま』の最中、赤いライトが当たった場所はきっと伏見城の血痕を表現しているんじゃないかなと。
ダイレクトに人間に関わるみほとせと葵咲はしんどさのレベルが極……。
また、あおさく本編で村正が「物吉くんが死にマスよ」と言っていたのは間違いではなかったのだというツイートを何方かがされていて、確かに…!!!!!となりました。
村正が言っていたのは、史実としての鳥居元忠の死だけではなく、物吉くんの心が死んでしまうということだったのかと……。
そうなってくると、信康の件もあわせて村正が怒るのも仕方ないな…という気持ちになる村正推しの審神者です。
かざぐるまと幼子
みほとせで経験した任務を思い返しながら、青江はこう語ります。
「あれはまだ、かざぐるまを回す風の吹く時代だった」
かざぐるま。みほとせのテーマ曲。
青江はみほとせで、幽霊とはいえ幼子を斬ったことへの後ろめたさを、子育てをすることで少しずつ昇華していました。
きっかけとなったのは石切丸の言葉。
「君は、神の子を助けたんだ」
この台詞、本当に天才的ですよね……後悔を語る青江へかける御神刀の言葉として本当に天才……。
幼子とかざぐるまと聞けばもちろん最初に思い出されるのは玩具なのですが、かざぐるまはそれ以外にも水子供養のシンボルとしての面も持っています。
水子は流産や中絶、生後まもなく亡くなった赤子を指しますが、これは近年確立された概念で、それ以前は出生後に亡くなった幼児を指していたとされています。*1
家康の幼少期、つまり竹千代が生きていた戦国時代は戦の影響で命を落とす子供も多く、登場人物のひとりであった吾平は妹を亡くしたことで戦うことを決意していました。
さらにいえば、江戸時代は経済的な理由から生まれた子供を間引きすることが多い時代でした。
日本では、平安時代の『今昔物語集』に既に堕胎に関する記載が見られるが、堕胎と「間引き」即ち「子殺し」が最も盛んだったのは江戸時代である。関東地方と東北地方では農民階級の貧困が原因で「間引き」が特に盛んに行われ、都市では工商階級の風俗退廃による不義密通の横行が主な原因で行われた。また小禄の武士階級でも行われた。
また、あおさくでは結城秀康と永見貞愛が双子だという話をする際、「畜生腹」という単語が出てきます。
畜生腹から生まれた双子は不吉とされ、間引きされるケースもあったそうです。
ちくしょう‐ばら〔チクシヤウ‐〕【畜生腹】
《犬・猫などの動物が、1回に2匹以上の子を産むところから》
1 女性が1回に二人以上の子供を産むことをののしっていった語。
2 双生児や三つ子などをいった語。また、男と女の双生児。前世で心中した者の生まれかわりとして忌み嫌われた。
こう見るとみほとせもあおさくも、子供の死と表裏一体なんですよね。
青江が言う「かざぐるまを回す風」は、お供え物としてのかざぐるまを回すものでもあったのかな…とか考えてしまいました。*2
まあ、水子供養(水子を弔わなければ祟りが起こる)という信仰は戦後に成立したものなのですが……。
幼子が簡単に命を落とす時代に、後に神となる子を救い、育てた。
これだけで、青江の抱える夜は明け方に向かっていたのだと思っていました。
でも実際はそうじゃなくて、青江の中にはまだ後悔が残っていた。
そこと向き合うための単騎出陣だなんて、いったい誰が予想できるんです……?
生きるという苦悩
青江が遡行軍と刃を交えながら叫ぶ「僕がもっと強ければ、彼らは刀のままで居られた」という台詞。
これ、「物のままで居られたら心を得ることもなかったのに」って聞こえるんですよね……それって、歌合の『八つの炎 八つの苦悩』の歌詞にも繋がる言葉だなと…。
「刀のままで居られた」ら、刀剣男士として心を得ることもなく、迷うことも惑うことも弱さを知ることも強さを求めることもなかったわけです。
青江は「自分が強ければ、心を得ることで生まれる苦しみや痛みを得る男士が増えなかったのに」と言っているんですよ…。
歌合で新たな刀が生まれる寸前、刀剣男士になる前の存在が歌った『八つの炎 八つの苦悩』の歌詞はこうなっています。
「我を呼び起こすのは 燃えたぎる八つの炎
我に与えられたのは 肉体と八つの苦悩
五蘊盛苦
身に宿る苦しみ 痛み 悩み
何故我を生み出した」
肉体を得ることと同時に苦悩を得る刀剣男士。
「八つの苦悩」は仏教における「四苦八苦」です。
生まれた事で背負わなければならない苦しみの数々。
「四苦八苦」のうちの「四苦」とは「生苦」「老苦」「病苦」「死苦」を指し、「八苦」は更に「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」を「四苦」に足したものを言います。
「五蘊盛苦」は「肉体を得たことで発生する苦しみ」を意味します。
「四苦八苦」のうち七つの苦しみはすべて生きるための肉体があるからこそなのだ、という苦しみ。
生きることは苦しいことなのに、何故肉体を与えて自分を生み出したのか。何故苦しいのに生きなければならないのか。
人に扱われるだけの刀のままであったなら、疑問を抱かなかったであろうこと。
武器の視点から人の身の不便さ、不条理さを問うているのがこの歌です。
青江はそんな苦しみを得て顕現する仲間が増えるのが「いいこと」ではなく、自分が強くないから=戦力が足りていないから起こることなのだと言うのです。
それはみほとせと葵咲の間で起こった伏見城の戦いで、青江が心の痛みを感じて生まれた想いなのでしょう。
刀のままで居られたら、苦しみを感じることはなかった。
刀のままで居られたら、痛みも感じることはなかった。
刀のままで居られたら、悩むことも立ち止まることも。
「悲しい役割」を背負うこともなかったのに。
青江のなにが優しいって、痛みを感じる原因に他者が関わっているところです。
自分自身の後悔や弱さを直視しながら感じた痛みというよりは、他者の痛みを介して自分の後悔や弱さを思い返したというか。
みほとせで「悲しい役割」を分け合おうとしてくれた青江ならではの痛みだなとおもいました。
しかも求める強さというのが単純な戦闘力ではないという……「敵を倒すだけの強さ」は青江の求めるものではなく、憧れているのは「守るための力」なんですよ……。
こんな想いを抱えながら歌合に参加していたのだと考えると……そりゃ新しい刀剣男士が顕現する時も、顕現した後も張り詰めた空気を纏っているよなあ、と……。
遡行軍と刀剣男士の抱える想い
幽霊との対話シーンで、青江ははっきりと己が抱える後悔を口にしています。
「僕がもっと強ければ、流れずに済んだ血も、失われずに済んだ命もあったはずなんだ」
これに対して、幽霊は「歴史を変えてしまえばいい」とささやきます。
それでは自分たちの敵と同じだと叫ぶ青江へ、幽霊は「彼らとあなたの抱える想いに違いはない」と答えていました。
時間遡行軍も刀剣男士も付喪神であり、それぞれに正義がある。
流したくなかった血、失いたくなかった命、抱える後悔をなくすために歴史を変えたいという願いを持っている。
「そこに違いはない」という真実と向き合った時、どちら側に心が傾くかで初めて違いが生まれるんですね……。
ここ、あおさくにも繋がっている気がします。
篭手切江のやっていることを明石が「気に入らない」と口にするあのシーンに。
でもあそこの明石は向き合うというより、敢えて見ないことを選択するような言い回しをしていたのが引っかかります。*3
ブログ書くたびにあおさくのこのシーンについて言及してる気がするんですけど……それだけ重要度が高いサビということで……。
青江の役割
今作はミュ本丸における青江の特性や役割が深く携わっている物語だなと感じています。
特にこれ!!と思ったものを叫んでいいですか?
彼岸と此岸を繋ぐ役割
今作最大の見せ場である、女の幽霊と青江の同時会話シーン。
まさに「憑依」という言葉が相応しい、鳥肌ものの場面でした。
青江が居る舞台自体が能舞台を表現していると有識者のふせったーで拝見したのですが、じゃあ能における能面の役割はなんなんだろうと調べたら、能面をつける存在は「人ならざる者」を表現しているそうなんですね。
その能面をつけた存在をシテ(主役)と呼ぶんですが、このシテは幽霊や鬼・神様といった異界の存在であることが多いそうなので、今回は女の幽霊に当てはまるなあと。
シテは「あの世」と「この世」を繋ぎ、観客を異界へといざなう存在。
真剣乱舞祭は「彼方側」と「此方側」を繋ぐ祭。
そして2017年に行われた乱舞祭で、百物語、つまり怪談を軸に「彼方側」と「此方側」を繋ぐ役割を担ったのが青江です。*4
乱舞祭は2018年に繋がりが確かなものになり、2019年には此方側へ彼方側のもの=刀剣男士を呼ぶ祭と進化していきます。
2016年が完全に彼方側だったとするなら、青江がいざなった2017年がちょうど中間地点とも呼べるのではないでしょうか。
また、歌合では人魂と幽霊の違いについても語っていた青江が、今回満を持して幽霊と対話するというのも個人的には興奮しました。
あの時、青江はこう語っています。
曰く、人魂は「彷徨い果てて形をなくした思念」ではなく「まだ何物にも染まっていない純粋な思念」である。
曰く、幽霊は「執念深くこの世にしがみついた結果、【こうでありたかった姿】がはっきりしているモノ」である。
歌合では人魂に対し「いい子だ」と言葉をかけていたのに対し、単騎出陣で幽霊に翻弄されながら自分の後悔や弱さと向き合った青江。
あの幽霊は青江とずっと一緒に居たものであり、水面に映る青江の虚像でもある存在なんですよね……。
見えないだけで、見ようとしていないだけで、ずっとそこに居てくれたもの。
「見えていなくても月はそこにあるんだ…まあるいはずなんだ」
これは東京心覚で水心子が歴史がどういったものなのか知ったときの台詞です。
歌合の講談でもそうでしたが、今回青江が幽霊と対話している夜にも月が出ていません。
これもまた、新月の夜に語られる仄暗い話だったんじゃない?!と乱舞祭2017だいすき人間は思うのでした。
本当の願いと脇差の特性
己が抱えていた後悔や弱さと向き合った果てに、青江は本当の願いを口にします。
そこで「誰かを笑顔にしたい、できれば自分も心から笑いたい」と願うのは脇差の特性が現れてるのかなと感じました。
ミュ本丸の脇差、というか脇差という刀の在り方は「手助けをすること」にあるのではないかなと考えています。
脇差というものは二振り目、予備の刀であって、武士階級以外も持つことができた武器です。
名だたる武将や、名もない民草の「いざと言う時」を支えてきた存在。
刀剣男士としても、二刀開眼で打刀を支える特性を持っています。
歌合のオタクなのでまた歌合の話をしますが、歌合では開演前のアナウンスを篭手切江・物吉貞宗・堀川国広が審神者のお手伝いをするために現れました。
冒頭の『奉踊』が始まる際、青江・堀川国広・物吉貞宗・篭手切江の立ち位置が実は一列になっています。これをわたしは勝手に脇差ラインと呼んでいます。
新たな刀の顕現シーンでも、刀剣男士となる寸前の仮面をつけた存在の近くにいたのは篭手切江・物吉貞宗・堀川国広です。 *5
「共に闘うため 使命果たすため」と誰よりも必死に呼びかけていたのは篭手切江。
そして顕現した瞬間、布を取り、新たな刀剣男士の披露を手伝うのは物吉貞宗と堀川国広。
すごいお手伝いしてるんですよ脇差。
この時、青江だけは左端で刀に手をかける姿勢をとっているのですが……その胸の内にあったのが、今回の単騎出陣で語られた葛藤だったのでしょう。
ちなみに、『君待ちの唄』で刀剣男士としての身体を形作る歌詞を歌う際、脇差は「臓器(心臓・眼・手足・口・肺)」のパートすべてに存在しています。
これもまたお手伝いといえばお手伝い(こじつけ)
これまでのミュ本丸の物語のなかでも、脇差は何かを手助けする存在であったと感じられます。
物吉貞宗はみほとせで、徳川家康を育てるための基盤となり、鳥居元忠として後に神となる子を支え続けました。
堀川国広は幕末で蜂須賀と長曽祢の仲を取り持とうとしたり、むすはじで兼さんの憂いを晴らそうと単身で土方歳三のもとへ乗り込んで行ったりと、自分の欲望より他者の幸福を想った行動をとっていたと感じます。
そして篭手切江は、遡行軍となってしまった同胞・稲葉江に「物語を思い出してもらう」ために行動していました。
これらの行動はどれも、誰かの手助けをする、という共通点があるように思えます。
青江はみほとせで石切丸の行動を見守り、そして最後は「一緒に笑ってあげる」ことをしました。
けれどそれは彼の中では本当の手助けではなかったのです。
彼がしたかったのは、心から笑えない自分が一緒に笑ってあげることではなく、「誰かを笑顔にして、出来れば自分も心の底から笑う」こと。
それが本当の願い。彼にとっての手助け。
誰かを支えるということ、誰かを守るということ。
他者の悲しみや痛みから、己の心の痛みを感じて旅に出ることを決めた青江が旅の果てで見つけたのが「誰かを笑顔にしたい」という願いであり、そしてそれを教えてくれたのがこんな時代であることは、東京心覚で水心子正秀が見つけた答えと似ています。
「笑顔になれることを増やせばいい」
この水心子正秀の答えと共に、いま青江から示された
「誰かを笑顔にしたい」
という願いは繋がっているのではないでしょうか。
約束はできないという誠実さ
あと個人的にここが一番サビだな…と思っているポイントをひとつ。
青江が審神者に対して必ず帰ってくることを約束しなかったシーンの話です。
最初、青江が約束を求められて即答しなかったのは、いつものように茶化すためだと思っていました。
でも、青江は真剣に「約束はできないよ」という言葉を返したのです。
あれは自分が約束を交わす感触を知ることはできない存在だと理解していたからだと、歌合を見直していて気づきました。
歌合で青江が語ったのは『菊花の約』です。
その物語は、こんな戒めから始まります。
【交は軽薄の人と結ぶこと勿れ】
軽薄な人との交友は結びやすいが途絶えやすく、価値がないものだと。
それに対し、青江はこう話しています。
「軽薄なものには価値がない、それは同意するけどうらやましくもあるね。
だって僕は君に強く握られたり撫でられたりはしても、結果、斬ることしかできない。
鍔迫りの痛み、押し込む圧、刃毀れさせる興奮はあっても…交わるとはどういう感触なのか、知ることはできないからね」
刀剣男士は人に触れることはできても、交わること、結ぶことの感触を知ることはできない。
最終的には何かを斬ることが目的だから。
修行へ向かう青江へ審神者は「必ず帰ってくると約束してほしい」と言葉を投げかけますが、青江は即答しませんでした。
すこし困ったような、悩むような顔をして、「折れてしまうかもしれないからね。約束はできないよ」と返します。
ここで偽って頷くこともできたのに、青江はそうしなかった。
約束を交わす感触を知らない自分がそこで偽ることは、それこそ軽薄で、結ぶべき交わりではないとわかっていたから。
きっと、あの返答こそが青江の誠意だったんですよね……。
そして、言葉では何とでもいえることも知っていたから、「せめて舞わせてくれないかな」と自ら決意を表現する舞を披露したのだと思います。
あの舞、本当に素晴らしくて見るたびに心が強く揺さぶられました。
ミュ本丸の刀剣男士は本心を歌で語ることが多いのに、青江は敢えてなにも語らず、舞だけで心を伝えてきた。
めちゃくちゃかっこいい……動きのキレ、しなやかさ、表情……どれをとっても頭からつま先までにっかり青江なんだもん……。
誰かの悲しみや喜びを一緒に分かち合おうとしてくれて、でも心の底から笑えない自分の弱さや抱えた後悔を見ないふりしていた青江。
みほとせ本編では石切丸の心を支えていましたが、今回の単騎で他の刀たちのこともしっかり見守り、その本質を見抜いていたことがわかります。
子育てが得意な蜻蛉切。誤解されやすい村正。寡黙に他者を思いやる大俱利伽羅。
たとえあの時本当に笑えていなかったとしても、青江は「楽しかった」と口にしています。
共に歴史を守り、創っていくことが楽しかった。
だからこそ、自分がその中で本当に笑えていないことに何となく気づいていたのだと思います。
そして青江は、自分の本心を語ることが苦手なのだと言っていました。
実際、みほとせ本編で彼が本心を吐露するようなソロ曲を歌うことはありませんでした。*6
そんな彼がひとりで歌い、語り続けるこの単騎出陣こそ本当の青江の声で、それを何年もかけて、やっと我々は見聞きすることができたのではないかなと。
考えれば考えるほど歌合の青江を見る目がまた変わっていくんですよね……なんて奥が深いんだ……。
これは余談なのですが、歌合で青江がメインだった曲といえば『Nameless Fighter』です。
もうこの単騎出陣の内容自体めちゃくちゃNameless Fighterなんですが、歌合の映像みてると、サビ前のパートでめちゃくちゃ大俱利伽羅が青江のことガン見してるシーンがあるんですよね……。
「僕なりのヒーロー
キミだけのヒーロー
隣にいるよ」
この「隣にいるよ」のところで客席へ向かって歌う青江を隣で大俱利伽羅がすごい見ている。しかもなにか想いを抱えている表情で見ている。
青江も周りを見ていたけど、周りもちゃんと青江のこと見てるし、きっと青江が静かに抱えているものも見ていたんじゃないかなと思います。
極の誕生と祝祭
傷ついてもがいて掴み取った本当の願いと、目を背け続けていた後悔や傷を抱えていくと決めた青江が極となって戻ってくるあのシーン、日本史に遺したほうがいいと思いませんか?
修行の手紙朗読も素晴らしいし、青江の道が拓けると同時に月が現れて闇を照らす演出もいい。
極の衣装に着替える映像とBGMの盛り上がり方も大変エモい。
そして青江単騎の『刀剣乱舞』に繋がるのもかっこよすぎる。
『刀剣乱舞』のサビ前で一瞬青江がふっと笑う瞬間があるんですよ……あれがもう…すごい…青江自身の笑い声にも聞こえるけど、共に歩むと決めた幽霊の声にも聞こえます……。
あと、修行から帰還した青江が歌ってくれたのが歌合の最後を彩った『あなめでたや』で嬉しくてボロボロ泣いてしまいました……。
今回の内容を踏まえれば、歌合の時の青江は心の底から笑えてなかったわけですよ……。
新たな刀の顕現は戦力の増強であって「良い事ばかりではない」……「僕がもっと強ければ、彼らは刀のままで居られた」という想いを胸の内に抱えていたので……。
その葛藤や傷を乗り越えて修行から帰還した青江が、此方側に向かって贈ってくれたのが、新たな刀の誕生を寿ぐ『あなめでたや』なのあまりにもエモすぎる……しかもここの青江は歌合のときより本当に笑っている……。
「想いは言葉へ
言葉は歌へ
歌はあなたへ
そして新たに生まれる想い
あなたと歌合」
ほんと…ほんとこの歌を…「あなた」へ、此方側へ贈ってくれる青江の歌声が優しくて……。
歌合では「想ひ(火)」に焼かれる歌を詠んだ青江が、己の内に生まれた後悔や苦悩という火に焼かれながら、それを受け入れて前に進んだ先で、この祝祭のうたを高らかに歌い上げる。
これもまた、にっかり青江極という新たな刀剣男士の誕生の瞬間なんですね……。
また、幽霊と対話するシーンで辛さを指摘されて錯乱し自刃をしようとした青江が、
「知っているよ、ここで折れてしまえば楽になれることぐらい。でも、楽になりたいわけじゃない」
と言ったのもここに繋がる気がしています。
折れて、刀剣男士として得た心をなくし、物として扱われる状態へ戻れたら、それまで抱えていた苦悩も忘れて楽になれることを知っている。
それでも、「楽になりたいわけじゃない」と青江は言ったんです。
刀剣男士として生まれ、心を得たことで必ず宿る苦悩や痛みも受け入れて、泥臭く「生きる」という行為そのものをを肯定してくれてるじゃないですか……。
こんなの泣いてしまうでしょ……だってそれは、歌合で生まれてきた刀剣男士たちと同じ答えでもあるんだから……。
歌合の青江は誰よりも新たな刀の顕現シーンで身構えていて、笑顔を見せなくて、最後の挨拶でも「無事に新たな刀が顕現したこと、きみは喜んでくれるかな」と無機質に問いかけただけでした。
それはこの葛藤を抱えていたからなのだと1年半ごしに答えを突きつけられて歌合からの審神者、無事に入滅。
序盤の講談も泣いたけど最後の最後で背中から綺麗に刺された……。
刀ミュという名の文化
思うがままに色々書き殴ってきましたが、結論としては青江単騎すげえ……という話でした。
刀ミュの可能性というか、引き出しの多彩さを見せつけられたことでウワーーーー!!!!!となったオタクの叫び声です。
これまで修行に出る男士は居ても、帰還してその姿を披露した男士はいなかったわけですよ。
この先にもまだまだ沢山の可能性があって、道が広がっている。そんな風に思える光を見ました。
もはやこれは刀ミュという名の文化です……2.5次元という枠を飛び越えてどんどん進化を続けている文化。
もちろん推しにもこんなすごい公演をしてほしいけど、みんながみんな同じ内容の出陣を出来るかと問われるとそういうわけではないのもわかっています。
それぞれがその時に出せる最高の力で、新しい衝撃と感動を与えてくれたら、それが最高に幸せなんじゃないかなあと。
全員単騎という夢も見つつ、個人的には村正派双騎とか江単独出陣とかそういうのも夢みつつ、いまは青江単騎という素晴らしい作品に出逢えたことの幸福に浸りたいと思います。
青江の旅はこの先も続きます。
まだまだ困難な時代は続きそうですが、その中でも夜闇に浮かぶ灯篭のように、やさしい光となって全国を駆け巡って欲しいと片隅からおもっています。
ありがとう、そして行ってらっしゃい青江。
また青江の旅の話を聴く時を楽しみにしています。
どうかその旅路に素晴らしい出逢いと幸福が多からんことを。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!
*2:恐山にある水子地蔵とか、水子供養を謳うお寺とか、あの辺にはかざぐるまがたくさん置いてあるので……。
*3:歌合の考察で青江と明石が対比されているのでは?という話をしたとのですが、個人的にはこういうところも対比としてカウントしておきたいです。
*4:歴代乱舞祭から見ると2017年はまだ彼方側寄りなのかなーとは思うんですが…会場にいる観客に対して聞かせている時点で「此方側」との繋がりを保っているとも感じられます。
*5:ここに石切丸も加わっています
*6:本来なら青江の歌があったけど削られたという話を初演円盤の対談でされていたので、乱舞祭で歌われた『手のひら』がてっきりその曲だと思い込んでいたのですが、ファンサイトのキャストブログに「乱舞祭のために作られた新曲」であることを荒木さんが書かれている、という情報を先輩方から頂いて勘違いを正すことができました…知識がアップデートされた!