これは水です

これは水です

言葉の流れに身を任せながら

明るい未来で逢いましょう〜祝玖寿 乱舞音曲祭の記憶〜

 

f:id:mugsim:20241018174449p:image

 

 

前回の音曲祭と同じようなガラ・コンサートかと思いきや、審神者の断末魔が四方八方から飛び交う記念公演でお馴染みの祝玖寿 乱舞音曲祭!!

本日はその音曲祭で目撃した客降りと被弾したファンサ諸々の記憶をここに記します。

 

配信で見ていても、誰がどの辺に降りてるのかな~~んもわからん!!!!

毎日福井公演のアーカイブ配信を見ていたのに、現地に行ったら別の範囲のテスト勉強してた???ってレベルで予想外の客降りされたので、実際こうだったよっていう話をしておきます。そう、この記憶がうすれる前に…。

 

なお、これはあくまでも私個人の視点から語る記憶であり、公式ではありませんし、会場によってはルートが変わることもあると思うので、「こういう世界線もあるのか…」程度の本当に軽い気持ちで読み進めてください。

あくまで10月序盤の情報です!!!!11月になったら逆回りとかになりそう!!!!

なので、実際観に行ったら全然違うじゃん!!っていう苦情については対応できませんので悪しからず。それではよろしくお願いいたします!!!!




 

 

 

客降りをどこから目撃したのか

まず私がどの辺りから観劇していたのか、ざっくりとした位置を下図に示します。

参戦したのは北海道公演の10/12夜、10/13昼夜の3公演。

座席位置はは下記の通りです。

 

  1. 10/12 夜公演:南スタンド席前方(下手側ステージ寄りスタンド赤枠)
  2. 10/13 昼公演:北スタンド席ロイヤルボックス後方(上手側ステージ寄りスタンド席赤枠)
  3. 10/13 夜公演:花道囲い席下手側Aブロック後方(下手側アリーナ赤枠)

 

②のロイヤルボックスというのは会場内にある貴賓席ゾーンで、後ろのスタンド席と隔離するように一番後ろの座席は壁を背負っています。

このゾーンには前方の通路からしか入れず、後方スタンド席前の通路を通る男士は壁一枚を挟んでいる状態になります。

図を見てわかる通り、北海道公演の会場は狭く、アリーナ席が花道囲い以外ない状態だったので、スタンド席への客降り頻度が段違いだったように思えます。

なんならスタンド席前方と上手下手の花道ほぼゼロ距離でした(個人の体感です)

 

また、北海道公演のスタンド席は前方通路がないタイプだったので、途中まで降りてくるタイプと一番下まで降りてくるタイプの男士で分かれていました。

昇降ステージについては左右花道に各2つ、中央前方ステージに1つ、ミニステージに円形が1つありました。(花道の昇降ステージは図の青枠)

 

f:id:mugsim:20241018104150j:image



 

 

各位置から見た記憶~下手側ステージ寄り南スタンド付近編~

誰がどの順で来たかまで細かくは覚えていないので順不同で挙げていきます!!!何せ自分と周りの悲鳴で曲どころではない。

 

『始まりの風』~『勝ちに行くぜベイベー』

小竜景光一期一振、鬼丸国綱、松井江、陸奥守吉行、大般若長光へし切長谷部、村雲江

『KEY MAN』~『100万回のありがとう』

髭切、にっかり青江、大典太光世、日向正宗、水心子正秀、南泉一文字(もしかしたら前半かも)、明石国行、今剣

『旅人の歌』

桑名江、大和守安定?、一期一振?(桑名くん以外記憶が定かではない)

 

昇降ステージ
  • 『Can you guess what?』:南泉一文字
  • 『BE INSIGHT』:松井江
  • 『mistake』:明石国行
  • 『KEY MAN』:大般若長光
  • 『100万回のありがとう』:村雲江、日向正宗
  • 『獣』:水心子正秀



よく配信カメラで抜かれるところ
  • 『始まりの風』の「星も見えないMy eyes」(小竜パート)
  • 『勝ちに行くぜベイベー』の一番Aメロ「イケてるよアップしちゃう」(陸奥守、安定、長曽根、鬼丸)
  • 『KEY MAN』の「優柔不断は命取りになるぞ」(水心子パート)

 

カメラに抜かれていないであろう脳内の記憶~客降り曲~

髭切がスタンド空席に座って、更に隣の審神者のうちわ(髭切応援うちわ)を手に持ち「これは僕のことかい?君が作ったのかい?」みたいに審神者の顔を覗き込みながら聞いて、審神者が頷いたらにこやかに去っていく

・スタンド席前方まで降りてきて入念にうちわを確認して指さしてから、「真ん中でKEY MAN」のところで自分のタオルをみんなに掲げてみせる青江

・スタンド席前方まで勢いよく降りてきて、自分のうちわを見つけたら指でばーん!していく陸奥

・ゆっくり降りてきてスタンド席前方の手すりまで行ってから皆にお手振りするファンサの優等生、水心子

・同じくゆっくり降りてきて悲鳴を背負いながら優雅にお手振りをする松井江

・元気に降りてきてみんなに元気な笑顔を振りまいていく長谷部

 

カメラに抜かれていないであろう脳内の記憶~その他の曲~

・『百花繚乱』でスタンド席と目が合った途端スマートな投げキッスをする小竜

・『Can you guess what?』で昇降ステージからスタンド席にウインクを飛ばす南泉

・『mistake』で昇降ステージから自分のうちわを見つけて頷く明石国行

・mistake後のMCは長曽祢虎徹、髭切がステージ寄り花道で休んでいる。長曽祢虎徹は客席を見てにこやかにファンサ

・『100万回のありがとう』でハンドベルと同じリズムでペンライトを揺らすようにこちらをじっと見つめる五月雨江

・『刀剣乱舞』で自分の名前が呼ばれたあと花道に並び、スタンド席を見てウインクをした巴形薙刀

※会場の構造上、スタンド席前が花道だったので他会場だと一部アリーナ席から見える景色になるかもしれません。

 

あとこれは個人的な感覚ですが、下手寄り花道は五月雨江が多めに通った気がします。いぬはできます、の顔をたくさん見たので…。




各位置から見た記憶~上手側ステージ寄り北スタンド付近編~

こちらも順不同です。あと正直『始まりの風』のイントロで頭上をみたら鬼丸国綱が居たところから記憶がないです。

東寄りの男士は見えるけどこちら側までは来ないという感じ。これはおそらく会場による。

ちょっと特殊な席だったので南スタンドよりは内容が薄くなります。

 

『始まりの風』~『勝ちに行くぜベイベー』

鬼丸国綱、一期一振、五月雨江、浦島虎徹、桑名江、陸奥守吉行、小竜景光、松井江、豊前江(東寄り)、大般若(東寄り)

『KEY MAN』~『100万回のありがとう』

髭切、源清麿、水心子正秀、今剣、蜻蛉切(東寄り)

『旅人の歌』

陸奥守吉行、蜻蛉切、松井江、豊前江(東寄り)、長曽根虎徹(東寄り)

もしかしたら鬼丸も居たかも

 

昇降ステージ
  • 『Can you guess what?』:五月雨江
  • 『BE INSIGHT』:水心子正秀
  • 『mistake』:にっかり青江
  • 『KEY MAN』:長谷部か一期だった気が…
  • 『100万回のありがとう』:桑名江、長曽祢虎徹
  • 『獣』:源清麿

 

よく配信カメラで抜かれるところ

・『Can you guess what?』の「魅惑的な横顔」(五月雨江パート@昇降ステージ)

・『始まりの風』の「雨が降りしきるMy Sky」(前半五月雨江パート)

・『KEY MAN』の「呑気な奴だって誤魔化されンな」(清麿パート)

あとは記憶が定かではないので割愛

 

カメラに抜かれていないであろう脳内の記憶~その他の曲~

・『Can you guess what?』の「魅惑的な横顔」で薄い笑みをスタンド席に向ける五月雨江@昇降ステージ

・『mistake』ラスサビでバチバチにスタンド席へ視線を投げながら初mistakeを犯すにっかり青江@昇降ステージ

・軽装曲(サンバではない)で上手側花道を歩き出す時、段差で巴形薙刀エスコートする蜻蛉切

・スタンド席後方に居てもわかるくらい花道で高いジャンプする桑名江



各位置から見た記憶~下手側ステージ寄り花道囲い席編~

花道囲いはほぼ客降りがないと思っていた時期が私にもありました。実はカメラに抜かれてないだけ!!!!

会場にもよると思うのですが、花道囲いで座った時の目の高さが大体花道の高さになります。

つまり立ったら花道に居る男士とびっくりするほど近くなる。目が合う。オタク、土に還るの巻。

なお、昇降ステージに関しては結構高くなるので完全に見上げる形になります。乱舞祭2022のミニステージ的な感じです。

客降り曲のときステージに居る男士は大体降りて来ますが、全員がブロック間の真ん中通路を通るわけではなく、花道と花道囲いの間の通路だけ通っていく男士も居るので要注意です。

 

『始まりの風』~『勝ちに行くぜベイベー』

源清麿、明石国行、浦島虎徹、長曽根虎徹大典太光世、髭切(花道通路沿い)

『KEY MAN』~『100万回のありがとう』

豊前江、村雲江、大和守安定、今剣、蜻蛉切(※上手側も回って来ます)

『旅人の歌』

日向正宗、今剣、浦島虎徹小竜景光(花道の周囲のみ)

 

カメラに抜かれていないであろう脳内の記憶~客降り曲~

・花道通路沿いから颯爽と現れて至近距離で目を合わせながら笑顔を振りまいていく豊前江(心臓に悪い)

・後ろからやってきて自分のうちわを持った審神者を指さしてから、その反対ブロックまで来てみんなを『KEY MAN』の銃声と共に指で撃ち抜いていく村雲江(いい笑顔)

・自分の名前が書かれたうちわを「自分のことです?」と尋ねた後、たまたまあった空席に座ろうか悩んで周囲の審神者に「いいよいいよ、座りなよ」という視線を送られてしばらく悩む明石国行(曲の途中だったので慌てて踊りながら去って行った)

・サビ前に悠々と歩いて黄色い声援を浴びた後、サビが来たらブロック間の通路でキレッキレのダンスを披露する長曽根虎徹(いいにおい)

・『勝ちに行くぜベイベー』のサビ終わり「Love&Peaceで勝ちましょう」のタオルを突き上げる振り付けを「みんな行くよ~」と口パクして一緒にやってくれる源清麿(かわいい)

・客降り曲になってスタンド席に鬼丸国綱が居るのを花道から黙って指さす大典太光世、気づかない鬼丸国綱(仲良しご陰気)

・客降り曲中、スタンド席から花道の長谷部に向かって投げキッスをする髭切、それを見て客席に首を振って見せる大和守安定(コント?)

・『KEY MAN』が終わってダンサーさんにタオルを返す際、丁寧に畳んでから渡す大般若長光(お育ちの良さ)

・『100万回のありがとう』で村雲江のハンドベルを欲しがる日向正宗、戸惑う村雲江の背後から自分のハンドベルも渡す五月雨江、????となった日向正宗からハンドベルを回収して今剣へ渡す五月雨江、マイクがわりにする今剣(かわいいの大渋滞)

『100万回のありがとう』で一人一人のうちわをしっかり確認して目を合わせながらファンサをした後、自分のピンマイクを手で抑えて「誰一人置いては行かないよ」の生歌を周囲に響かせる蜻蛉切(リミッター解除極)

『旅人の歌』でみんながちゃんと出来ているか顔を覗き込んでくる日向正宗(うまくやろう???!?!?)

・『旅人の歌』で2番になっても1番の振り付けをしてしまい、審神者の動きを見て気づいて「まちがえました!!」と顔を覆う今剣(かわいい)

 

カメラに抜かれていないであろう脳内の記憶~その他の曲~

・『百花繚乱』で目の前の花道に来た途端ウインクを飛ばしてくる小竜景光

・『百花繚乱』の「put your hands up」で客席に向かって手を挙げる仕草を示し、審神者がその仕草を真似するさまをみてにっこり笑顔と共に頷いてくれる五月雨江

・軽装曲(サンバではない)で大般若長光と並んでゆったり花道を歩きながら、自分のうちわに向かって手を振る小竜景光(軽装)

・サンバでノリノリの青江とキレッキレの髭切、持ってる棒を頭にくっつけて向かい合いはしゃぐ二振り

・サンバ終わりに帰る時、持ってる棒で鬼丸国綱の背中を突く大般若長光

・1部終わりにスクリーンに映し出される「休憩」の文字を音に合わせて中央花道でドーン!と指さしてからはけていく蜻蛉切

・『刀剣乱舞』のA~Bメロあたり中央花道で立ったまま体を後ろに大きく倒すという信じられない柔軟性を発揮する鬼丸国綱

客降りを見たまとめ

基本的にスタンド席への客降りはゲスト以外まんべんなくあります。

花影組、江は全体を回りますが、一部の男士は方向が固定されているかもしれません。

花道囲い席は、A1とかB2など各ブロック間に通路がありまして、そこでいろんなことが起きます。降りてくる男士が大量というわけではないのですが、丁寧なファンサでじっくり焼かれます。

スタンド席は空席があろうものなら蜻蛉切と鬼丸国綱が座って来ます。

それから、これは私の周囲に小竜くん推しが多かった影響かもしれませんが、下手側は高確率で小竜景光と目が合い、その上で即レスファンサをしてきます。

それはもう物凄くスマートにナチュラルに。周辺の方は気をしっかり持ってください。

なお私は大般若長光に全方位からグサグサに刺されて泣きながらうちわを振ってました。

結論:どこにいても急に刺される

 

 

余談〜ひふみよいむなやこ〜

今回の音曲祭は1曲目から新曲をぶち込まれているわけですが、この新曲が本当に好きで、涙腺が破壊されてしまい、1曲目からべしょべしょに泣いていました。

1曲目で泣いて、客降りで悲鳴あげて、サンバで笑って、問わず語りで泣いて、旅人の歌で悲鳴あげて、巣立ちの舞で泣いて、万の華うつす鏡で泣いて、かざぐるまで泣いて、情緒がずっとジェットコースター。

1曲目の歌詞で印象的なのは各公演を記す言葉の数々と、やっぱり「ひふみよいむなやこ」

これがどういう意味を持つのか軽く調べたので、メモとして書き留めておきます。

 

歌詞の「ひふみよいむなやこ」は「ひふみよいむなやこと」から始まるひふみ祝詞の一節です。

「ひふみよいむなやこと」は古来日本の数字、一から十までを指し、ひふみ祓詞とも呼ばれています。

ひふみ祝詞とは、「ひふみよいむなやこともちろらねしきるゆいつわぬそをたはくめか うおえにさりへてのますあせへほれけ」という、天照大御神が岩戸に隠れたとき、天宇受売命が舞い歌ったとされる清音のみで構成された歌。

このひふみ祝詞における数字は十種神宝(とつかのかむたから)を表します。十種神宝とは、天照大御神饒速日命(にぎはやひのみこと)に授けたもので、これと共に鎮魂法を伝授したと伝わっています。

 

十種神宝(とつかのかむたから)とは、下記の十種を指します。

  • 沖津鏡(おきつかがみ)
  • 辺津鏡(へつかがみ)
  • 八握剣(やつかのつるぎ)
  • 生玉(いくたま)
  • 死返玉(まかるかへしのたま)
  • 足玉(たるたま)
  • 道返玉(ちかへしのたま)
  • 蛇比礼(おろちのひれ)
  • 蜂比礼(はちのひれ)
  • 品物之比礼(くさぐさのもののひれ)

 

また、ひふみ祝詞先代旧事本紀に記載されていたもので、現存する資料が少ないのだそうです。この祝詞を唱えることで有名なのが奈良県の「石上神宮」とのこと。
石上神宮の祭神は下記の三体。

  • 布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)=韴霊(ふつのみたま)の剣
  • 布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)=十種神宝
  • 布都斬魂大神(ふつしみたまのおおかみ)=天十握剣(あめのとつかのつるぎ)

剣に関わる神が多いのが特徴です。

 

 

布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)

高天原から授けられた韴霊(ふつのみたま)の剣を指し、この剣が神武天皇たちを苦しめていた毒(穢れ)を祓う起死回生の力を持っていたとされます。

この「ふつ」という呼び名は刀剣の神の呼称とされていて、「祓」という言葉にも繋がるそうです。

フツは一般的に刀剣の神の呼称として理解される。その語源は現代語のプッツリのような「物を斬る擬声語」と説かれることが多いが、東アジアにおける広汎な刀剣祭祀の存在から、天や太陽に対する宗教的観想をともなった朝鮮語の「purk(赤・赫)」に由来するという説、除災招福の呪術儀礼を指す漢語の「祓」に由来するという説もある。また倭語の「都(ふつ)に」「尽(ふつ)くに」が「すべて」の意をもつことから、フツも一瞬にしてすべてを切り伏せるような霊威をあらわした語という理解もある。なおフツの語そのものは刀剣とは無関係として、フツに「依る」「寄る」「添う」と類似する意味があることを指摘したうえで、神霊の寄り添うモノ(布都御魂の場合は剣)と解する説もある。ミタマはその霊格化を表すものである。

布都御魂 – 國學院大學 古典文化学事業

 

布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)

ひふみ祝詞に謳われる十種神宝を指します。

この十種神宝を饒速日命が受け取った際に、ひふみ祓詞(布留の言)も伝授されており、これが傷を癒すだけでなく死者を蘇生できる言霊となると伝わっています。

物部氏の遠祖・饒速日命(にぎはやひのみこと)が、高天原より天降られる時、天津神から「天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)」を授けられました。

この時「もし痛むところあれば、この十種瑞宝(とくさのみづのたから)を、一二三四五六七八九十(ひとふたみよいつむゆななやここのたりや)と言って振りなさい。ゆらゆらと振りなさい。そうすれば死(まか)りし人も生き反(かえ)らん」とお教えになりました。この天璽十種瑞宝は「十種神宝(とくさのかんだから)」とも称えられる、十種類の神宝です。

「瀛津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)、八握剣(やつかのつるぎ)、生玉(いくたま)、足玉(たるたま)、死返玉(まかるがへしのたま)、道返玉(ちがへしのたま)、蛇比礼(へみのひれ)、蜂比礼(はちのひれ)、品物比礼(くさぐさのもののひれ)」の十種で、「亡くなられた人をも蘇らす」霊力を秘めています。

布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)|神話にみる石上神宮の神様|石上神宮

 

布都斬魂大神(ふつしみたまのおおかみ)

須佐之男命が八岐大蛇を退治した天十握剣(あめのとつかのつるぎ)を指します。別名天羽々斬剣(あめのはばきりのつるぎ)。

退治された八岐大蛇の尾から出てきたのが草薙剣天叢雲剣)とされています。

 

 

今回の音曲祭で歌われた意味

新曲は「ひふみよいむなやこ」で止まっているので、付喪神達が唱えているのは死者を蘇生するためではなく、天照大御神を岩戸から出すために舞い歌った祝詞なんだろうなと考えています。
厄災を転じて幸せなこととするお祭り。
コロナ禍を乗り越え、ここまで来たことへの祝い事。

 

サビの歌詞も、全て玖を表す「こ」から始まっているので聞いていて心地が良いんですよね!!!!!

人でもあり、刀でもある、《心》という矛盾を抱えたミュ本丸の刀剣男士たちが「ここのつ重ねて 心あわせ 心かさね」と高らかに歌い上げてくれるのが、優しいメロディも相俟って涙腺を刺激してきて…。

 

また、

「覚えているかい 蕾の頃を 立ち止まった時も 声を出さずに涙した日も 半座を分かつ君が居た」

という歌詞が、刀ミュの愛に溢れていてとても好きです。


半座分かつ花のうてな。
それは三日月が友と呼んだものたちへの言葉であり、共に本丸で過ごす戦友へ向けての言葉でもあり……何よりも今回「友よ ともに」と音曲祭の最後に呼びかけられた我々へ向けられた言葉でもあるんじゃないかと。

彼らにとって我々は遠征先にいるただの審神者ではなく、9年かけて《友》になったんだなって思うと、なんだか感慨深くて、それを玖寿、九を重ねて重陽の祝い事で歌ってくれるの、本当に愛だなあって……思って……1曲目から泣かすな……序盤にmistakeを入れるな……呼吸が出来ねえんだこっちは…………。

 

 

 

おわりに

前回の音曲祭はたくさんの制限の中で、できる限りのことを全力で表現して笑顔を届けてくれたガラ・コンサートでした。

でも今回は、その制限のなかで諦めたものたちの悔しさを忘れずに昇華して、「これからまた共に楽しいことを始めよう」と言われているようで、胸がいっぱいになりました。

 

個人的に刀ミュの魅力って日本独自の文化を取り入れることもそうなのですが、客席にいる「あなた」へ愛を手向けてくれるところだと思っているので、それが今回は曲からも客降りからも今まで以上に伝わってきて、すごく凄く楽しかったです。

最後に手向けられた東京心覚の台詞も、3年の時を経てその場で聞くことが出来るとは思っていなくて…『問わず語り』と『かざぐるま』を同時に聴ける日が来たのも感無量で…。

 

ここに至るまでに諦めてきたものがあるのはきっと皆おなじだけど、その時に感じたものは間違いではないし、抱えた想いは届いていて、いつかこうして巡り会えるから傷つかないで欲しい、と言ってくれた水心子。

中止になったパライソのライブビューイングチケットを払い戻ししに行った時のこと、もう2度と普通に観劇することが出来ないのかもしれないという絶望感のなかで心覚を初めて見た時のこと、様々な悔しさや喜びを思い出しました。

そして、ここまで頑張ってきて良かった、これからも共に歩んでいきたい、そんな風に思えるお祭りでした。

いや2部冒頭の映像については私も色々言いたいことはありますけど……あれは今回切りということで…ね…!!!!

 

そんな感じで忘れる前に脳内記憶をつらつらと書きだしただけになってしまいましたが、何かの参考や暇つぶしになれていたら幸いです。

ちなみに私は今回の音曲祭、3公演参加したら体重が3キロ落ちました。

多分1キロずつ魂を置いてきたのだと思います。

これから行く方は魂を置いてくる覚悟をしていくといいかもしれません!!!!!

実録!雨が降りしきるMy Sky@富士の麓~㊇すえひろがりの記憶と記録~

お久しぶりですこんにちは。
前回の更新から約2年が経過しており、時の流れの速さにおののいております。
この2年間なにをしていたか、刀ミュに絞ってざっくり説明すると、
 
🌸乱舞祭2022東京公演(2022/6)
ちょうど後半戦切り替わり日に参戦したため、14th sonと蜻蛉切の新曲と江のスタナウ初披露にぶち当たりキャパシティを超える情報量を浴びる。
 
🌸江おんすていじ大阪公演(2023/1)
あまりにもチケットが取れなかったため、本当にチケットが販売されているのか疑うも無事参戦。石切劔箭神社にも参拝できて嬉しい限り。
 
🌸㊇野外乱舞祭(2023/9)
平日ど真ん中の蜻蛉切ゲスト回に参戦。野外ってすごい。
 
🌸江おんぜっぷつあー(2023/12)
こんな年末になにしてるんですか!?地元まで来てくれてありがとうございます!!
 
🌸千子村正蜻蛉切双騎出陣(2023/12)
わたしはステアラにたましいをおいてきました。
 
という感じでした。昨年末の村正派双騎で色々と出し尽くしたため、今年はまだ何もしてません。
じゃあ今回は何の話かというと、㊇の記憶…もとい記録です。
 
㊇の写真とか、あとこの前公開されていた劇場版とか(大画面最高だった)、様々な記録を見ていて思ったのです。
私の知ってる㊇じゃない…。
いえ、あれは㊇です。That is Suehirogari.
㊇なんですが!!!!私が実際参戦した㊇は!!!!雨で!!!!!あんな序盤のカラフル煙とか!!!!!なかったんだよな!!!!!
という魂の叫びをちょっと文章にしてみようという試みです。
あと野外ライブ自体が結構久しぶりだったので、今後に活かせるよう実際役立った装備なども備忘録がわりに記載しておこうと思います。
 
当然のことながら、これは個人的な感想と記憶であり、記録です。
何ものも否定するものではありませんので、こういう体験もあったんだな程度でお時間のある方はご覧ください。
㊇から何か月経ってるの?とかそういうツッコミも無しで!!!感想はいつ書いたっていい!!!!

 

 

 

 

 

こっからがスタートライン(準備編)

まず、㊇の開催が発表された真剣乱舞祭2022の大千秋楽。この時の正直な感想は「本気か??!!!」でした。
厳島神社とはわけが違う、マジの野外です。しかもコニファーといったら富士の麓~~!!!
諸事情で一時期あの辺に住んでいたことがあるのですが、とにかく天気が変わりやすいという印象が強かったので、「青空どころか星空すら危ういのでは…?」という不安も湧きあがりました。
また、標高が高いハイランドは雷が少しでも鳴るとアトラクションが停止になると当時アルバイトをしていた友人から聞いたことがあり…。
なおかつ、あの辺に住んでいたころ、マジで雷が近くに落ちて木が炎上をしたのを目撃したこともあったため、「あの辺の野外=天候が崩れたら終わり」というイメージが強かったのです。
しかも9月は台風の季節!!山の麓で天気が変わりやすく、夜は冷え込む場所での野外ライブは成功するのか???
そんな不安を抱えながらも、刀ミュ初の完全野外ライブを逃す気はさらさらなく、「またあの土地に行くことになるとはな…」と格好つけながら9月21日公演(蜻蛉切出演回)のチケットを取ったのでした。

 

 

装備の備忘録

元々邦楽ロックが好きで野外の夏フェス参戦経験もあったため、当時の装備を持っていけばいいか…くらいに捉えていたのですが。
よくよく考えると、キャンプをしながら参戦する夏フェスとは違い、休む場所も確定しておらず、ペンライトやうちわを持って参戦するのであれば装備も練り直す必要があるな???ということになり、色々と買ってみました。
今後何かの役に立てばいいな~という気持ちのもと、参戦の際役立った装備を以下に記します。ほら、また3年後とか5年後とかに野外ライブがあるかもしれないから…。あと普通に買って忘れてたものを思い出すきっかけにもなるので…。

ちなみに、装備を購入する際に重視したのは、

  • 雨が降っても耐えうるか
  • 機能性は良いか
  • 気軽に使える値段か
  • 暑さや日差しも対策できるか

という点です。予算については人それぞれですが、とりあえず野外ライブは雨の前提で準備するのがベスト。

 

 

🌸【GERRY/ジェリー】バックパック(ターポリンシリーズ)

特徴:高い耐久性と撥水機能を併せもつということで購入。
容量も大きくて、雨用装備とペンライトなど結構な荷物を問題なく収納。サイドにペットボトルや傘も入れられたのでかなり機能性がよかったです。
また、チェストストラップがついていたので、リュックが肩からずり落ちたり、重さで食い込むことがありませんでした。

 

🌸【KiU】UV&RAINパッカブルサファリハット

特徴:撥水生地&UVカット率90%以上の晴雨兼用サファリハット。フェスでよく被ってる人を見る。中もメッシュなのでそこそこ通気性は良いです。
ストラップがついているので晴れている時は首にかけることもできました。

 

🌸【KiU】WATERPROOF BODY BAG

特徴:生地表面にはっ水加工、裏面にTPUラミネート加工で防水効果高め+止水ファスナーのボディバッグ。
スマホ、財布、充電器、チケットなどの貴重品系は手放したくないのでこれに入れて身に付けていました。結構容量がでかいので余裕があれば500mlボトルも易々と入ります。

 

🌸【KiU】/KiU NEW STANDARD RAIN PONCHO

特徴:耐水圧20,000mmH2O。前述のボディバッグと同じ加工+止水ファスナー、縫い目にシームテープ仕様。
サイトにも載っている通り、使わない時は畳んで持ち運びが可能です。ただ畳んでも結構でかいので、持ち運ぶなら鞄を大きめにすることを推奨します。
ちなみに、この耐水圧20,000mmH2Oがどのくらいなのというと…。

「耐水圧300~500 mmH2Oでは、小雨程度の降水に耐えることが可能です。一般的に傘がこの程度の耐水圧があります(小雨以上の雨でも浸水しないのは、表面の撥水加工と広げた生地の張力によるものです)。そして耐水圧1,000~2,000 mmH2Oなら通常の降水程度、耐水圧1,500~3,000 mmH2Oなら、いわゆる大雨程度の降水でも問題ありません。耐水圧3,000 mmH2O以上は、台風などの打ちつける雨でも機能します。」

レインウェアの機能 【通販モノタロウ】

つまり嵐にならない限りは耐えうるレインポンチョ。最初は買うのをやめようかと思っていたけど結果的にこれがなければ耐えられなかった今回のMVP。
公式が販売していた会場限定のレインコートや、100均のレインポンチョはとにかく蒸れる。そして後者は気づけばどこかが破けて水が染みてきます(夏フェスで何度か経験済み)
これは通気性も良く、撥水性も高い。破けないし蒸れない!フロントはジッパーとボタンなのでそうそう水も染みない!
また、フード部分もツバがついているので顔に水が来ません。ポケットつきなのもうれしい。腕部分もマジックテープで調節できて使いやすいです。
少しでも雨が降ると予測できるのならレインポンチョに課金すると生き残れる!

 


🌸【NO NEED】ストレッチデザインポケットジョガーカーゴパンツ

特徴:ポリエステル生地で速乾性◎、ストレッチ性も抜群。中に後述のレギンスを着用しても動きやすかったです。
ポケットがいっぱいついてて助かりました(ちょっと深いポケットもあるけど…)あと色が御手杵っぽいというのが購入の決め手でした。

 

🌸【FILA】 コンプレッションレギンス

特徴:UVカット率90%以上、ストレッチ性抜群、なんといっても吸水速乾!
絶対に足をさらしたくなかったので(虫に刺されたくなかった)購入。その後も普段着で大活躍中です。

 

🌸【ワークマン】レディース高撥水シェルジャケット(今シーズンはこっち

特徴:話題のワークマン。撥水、UVカット加工で収納袋もついてるので軽くて持ち運びやすい!ポケットにもジッパーがある!そしてロープライス!
ポンチョを着るほどじゃない雨はこれで事足ります。色が五月雨江カラーだったので迷わずブラックを購入。

 

🌸UNIQLO】エアリズムUVカットクルーネックT(長袖)
売り切れURLしかなかったので割愛
特徴:汗をかいてもすぐ乾くという「ドライEX」の機能が最高です。
手ごろな値段でどこでも買えるから◎。こういう系統のインナーはいろんなメーカーが出してるので好きなものを買うのをおすすめします。

 

🌸【FREAK'S STORE】go slow caravan 餃子ネコ Tシャツ
特徴:猫が餃子をもっていてかわいい。
公式Tシャツを買ってなかったので着用したけど、普通に考えてエアリズムのTシャツとかの方が機能的にはよかったと思います。でも好きなのでよし。

 

🌸【日本野鳥の会】バードウォッチング長靴

特徴:足にフィットする作りなので動きやすい長靴。靴底が薄いためインソールは必須。長いタイプは折りたたんでショート丈にもできます。
過去土砂降りの夏フェス(地面が主に土)に参戦する際に使用したので今回も使おうと思って出しておいたのですが、結局アスファルト舗装上での動きやすさと疲労軽減重視でニューバランスのスニーカーwith防水スプレーになりました。

 

 

ざっくりとした紹介になりましたが、役立った装備+αはこんな感じでした。また、雨天を想定して用意した

  • リュックが入るビニール袋
  • 吸水性の良いタオル(グッズのマフラータオルとは別に3枚くらい)
  • その他電子機器を入れる防水ジップロック

などもかなり役立ちました。
今回は使いませんでしたが、野鳥の会の長靴は一足持っておくと心強いです。

 

 

 

Rain or Shine(現地編)

すでにバスツアーに搭乗する時点で土砂降りに当たっていたのですが、現地に到着したころはまだ薄曇りで一安心。

ただ小雨がぱらついていたため、雨の日限定の榎本武揚ステッカーが配布されていてすぐさま貰いに行きました。

でも本降りにはならない気がする~という気楽な考えとともにグッズ購入を済ませて一休み。

なお、バス発着場から会場まではしっかりアスファルト舗装がされていましたが、グッズ販売場所の地面は未舗装の土と石でした。油断すると転ぶ感じの凸凹満載の。

そこに何件かの屋台が建てられ、周囲にはよく酒屋さんにあるプラスチックケースが椅子替わりに置かれていて……なんだろう、この地元のお祭り感。

グッズ販売所では蜻蛉切出演日だからか、葵咲本紀のアルバムがBGMとして流れていました。

 

オープニング曲の『始まりの風』のインストがサウンドチェックで何度も爆音でかかるのを聴きながら、いざ門を潜って会場内へ!!!!

その瞬間、勢いを増して降り注ぐ雨!!!!!

悲鳴が上がる待機列!!!!!

スタッフさん「会場内は傘禁止です!!!!」

そういえば榎本武揚がQ&Aで言ってたー!!!!!

降りしきる雨の中、チケットを見ながら座席へと向かいます。開演時間は16:30、入場したのが大体15時過ぎ。

そう、ここから約1時間半にわたる長い闘いが始まったのです……。

 

最初は小降りだった雨は時間が経つ毎に強まりました。雨が降り出した時点でレインポンチョを装備したのでびしょ濡れにはなりませんでしたが、防水のためジップロックに入れた携帯電話は水滴のせいでほぼ使えません。

座っている椅子も段々と雨水に塗れ、ポンチョで覆われていない部分に水が滲み始めます。リュックはしっかりビニール袋に入れていましたが、濡れるので迂闊に開くことすらできません。

この時、私の脳裏には公式ページのQ&Aが何度もちらついていました。

「雨天決行(但し、上演中に著しく天候が変化し安全確保が難しいと判断した場合は、途中で公演を中止とする可能性あり)」というあの文言が。

そう、たとえ雨天決行だとしても土砂降りが続けば公演が中止になることもあるのです。

長い時間をかけて準備をして、ついに富士の麓まで来て、この雨の中耐えても刀剣男士たちに逢えないかもしれない。

まだレインコートを着た榎本武揚の姿しか見ていない(雨の日限定ステッカー)のに…!??でも土砂降りになれば刀剣男士たちの装備も濡れてしまうし、会場内を走り回るのも危険だし、機材のことも考えると先を見据えて中止はやむを得ない……まさに審神者の心、二律背反……ッッ!!!!

そんな心を嘲笑うかのように、弱くなったかと思えば強まる雨脚。必死にステージ上に溜まった水を掃除するスタッフさん。SNSを開く代わりに何度も雨雲レーダーを確認しながら祈るような気持ちで1時間半を過ごしました。

 

そして本降りだった雨が少しだけ弱まり、中止ならそろそろアナウンスが流れるかと思ったその時──「Three,Two,One…!」という掛け声と共にステージへ現れたのは、他でもない榎本武揚でした。

あの瞬間、人生でいっっっちばん榎本武揚に感謝したと思います。

いえ、乱舞祭でペンライトの電池が切れてしまったとき、会場を明るく照らしてくれた榎本武揚の北へ~に救われたこともありますが。

㊇では、そこに存在しているだけでもう嬉しかったです。だって、出てきてくれたということは、これから始まるということだから…!!!!

 

 

間近で鳴り響く始まりの鐘の音

※ここから個人の感想激強&浴びたファンサの記憶になるので苦手な方はご注意ください。

本当に始まるのか????という半信半疑な気持ちのまま、濡れたレインポンチョとジップロックに入れたペンライト、そして半透明ケースに入れたうちわを持って立ち上がる私。

初日公演の配信はばっちり予習済みなので、1曲目の掛け声も完璧。さっきより雨も弱まっている!!!!さあ、どこからでもかかってこい!!!!!!!

 

曲のイントロ「~♬~~♬」

人力トロッコ「両端から大人数乗せてドーン!!!」

刀剣男士「雨に備えて見たことないオリジナルデザインの半透明カッパ装備!!!」

私「ア゜ーーーーーー!!!!!!!!」

 

すいませんどこからでもかかってこいとか生意気言いました無理でした。

無理無理無理。だって目の前にトロッコが来て頭上から神様が見下ろしてるんだもん。なんなら禊の雨すら降ってるんだもん。水も滴るいい刀だよ目が潰れる。

ちなみに私が座っていたのは最前ブロックの一番後方。つまり、トロッコや刀剣男士が走り抜けるメイン通路が真後ろにある席でした。

そんなのもう振り返れば奴がいるだよ。後ろの正面刀剣男士なんだよ。無理ですキャパシティオーバーもいいとこです。雨が降りしきるMy Sky~~♬どころか何も見えないMy eyesなんだよ!!!!!!!!これ会場の審神者の心情か????!!!!

後から知ったのですが、この一曲目から途中までは録音された楽曲が流れていて、刀剣男士の生歌じゃなかったらしいです。考えてみればそうだな…というシーンは思い出せば確かにあったのですが、会場にいたらそれどころじゃなくて全然気づかなかったです。ガバガバの聴力ですまん、もう至る所で事件が起きてて審神者どこ見ればいいかわからん。

ちなみに『始まりの風』のラスサビ前、肥前くんと豊前江が「壊せェ!!!」と叫ぶところもピンマイクが入っていなかったため(映像で確認するとマイクが何かでぐるぐる巻きになってた)音声には乗らなかったのですが、トロッコの近くに居たら生声で叫んでるのが聞こえてきて、うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおとなりました。一緒に叫んだ。

 

何がすごいって至る所で致死量のファンサが振り撒かれてるんですよ。配信ではカメラが追ってるところが全てだと思うじゃないですか。違うんですよ、全方位で何かが起こってて、そこかしこから断末魔が聞こえてくるんです。戦慄迷宮もびっくりするくらいの悲鳴。事件が現場で起こりすぎてる。

拝啓。ミュ本丸の刀剣男士へ。知ってますか?審神者の目玉は各自2つしかありません。人間が百々目鬼になるには時間が足りませんでした。敬具。

1曲目が終わり、2曲目のmistakeに入る際、本当に目と鼻の先にトロッコが停止していて呼吸が止まりました。mistakeのイントロダンスあんな間近で見れることあるの??????乱舞祭も同行者の運がよくて結構前の席だったけどこんな近さじゃなかったよ??????2曲目にして情緒がおかしくなるよ??????

そうこうしているうちに今度はミニステージに刀剣男士が走ってくるじゃないですか。位置的に両側のミニステージを見渡せたのですが首振りすぎて最近流行ってる残像首振り絵になりそうでした。あ~~ヤギくらいのパノラマ視野が欲しい~~!!!!!!

 

ロスメモあたりまではしっかり雨が降っていたので通路もミニステージ上も濡れていて、刀剣男士もダンサーさんも足元に気を付けながら走って行く感じでした。

ただ、音声が録音だったからなのか通路を通る時のファンサがえぐかったです。結構みんな全速力で駆け抜けて行くので基本的にはお手振りファンサが多かったのですが、豊前江だけは陸上部か???というレベルの速度×余裕の笑顔で「豊前~!」って言う審神者一人一人の顔みて走って行くんですよ怖くないですか???眼前30cmくらいの距離を通って行ったとき眩しくて目が潰れるかと思った。

雨降り中は刀剣男士が急にお出しされた半透明の特別デザインカッパに身を包んでいたのですが、そのカッパを半脱ぎしながら口パクで「暑くてかなわんわぁ~」と此方側に訴えて近づいてきたセクシー明石のことは今でも夢に見ます。急に刺さないで頼むから。

それから、濡れたミニステージ上に尻尾がつかないよう、しゃがんだ時とっさに尻尾を掴んで「犬はちゃんとできました。ヨシ!!!」という顔をしていた雨さんがあまりにも可愛すぎたことは後世に語り継いでいきたいです。

Free Styleの途中くらいから雨雲が晴れて、夕焼けが見えてきて、ここでようやく被っていた帽子を取ることができました。雨と湿気で濡れた髪が雨と緑の香りを乗せた初秋の風に吹かれて気持ちよかったことを覚えています。

そして曲の途中、ミニステージに来た鶴丸が夕焼けに染まる空を見上げて嬉しそうな顔をしていたのも。

つられて空を見上げたら、太陽を取り戻した夕空のなかを飛行機がすーっと通り過ぎて行って、それがあまりも眩しくて美しくて、鶴丸と一緒に笑っていました。

雨上がりの空をこんな風に刀剣男士と共有できるなんて一体だれが想像できただろう。その後のMCで「雨、上がったぜ!」って一緒に喜びを分かち合ったあの瞬間も含めて、この時見た風景はきっと一生忘れないと思います。

 

VIVA CARNIVALの時は近くのミニステージに大包平が来たのですが、「この大包平が来たぞ、存分に悲鳴をあげろ」という顔で声援を受け取っていた姿が印象的でした。

コロナ禍に実装された男士たちのほとんどは、この㊇で初めて生の声を浴びているんだと思うと胸が熱くなりましたね…水心子くんがMCでも「心置きなく声を出せる時代が再び来た」と言ってくれたのもじーんときました。

声を出せない時代に、そこで頑張っている人たちを想って、どんな時でも前を向くことを決意してくれた水心子くんが笑顔でそんなことを言ってくれる。頑張ってこの時代を生きてきて良かったなと心から思いました。

それと、江のマーチングタイム中、ミニステージ上でダンサーさんとしゃがんで待機しながら、パフォーマンスを披露するメインステージの面子を真剣な表情で見守っていた大包平はとても真摯で恰好良かったです!!!!!!

 

 

日替わり曲から後半までの走馬灯

なお参戦日はまたもや後半戦切り替わり日だったようで、断君とスカレリが前日と全く違うメンバーでお披露目されていつも以上の悲鳴が上がっていました。私も上げた。え、ここの面子変えるの??!みんな倒れちゃうけど?!?!

だいすきの頃には空もすっかり暗くなっていて、エタフレのペンライト大旋風がものすごく綺麗に作れました。日没の時間を踏まえてセットリストを組んだのでしょう…天才の所業…。

 

で、当日のメインと言っても過言ではない回替わり。今回のゲストは蜻蛉切だったので、どの曲が披露されるか全く予想がつきませんでした。

この時点で年末の双騎出陣が決定していたため、原点回帰のReal Loveなのか、それとも葵咲本紀ぶりのBrave Soulなのか……でもBrave Soulは前日徳川メンバーがやっていたので候補からは外れます。

じゃあ乱舞祭で披露したあの新曲…Re:verseでは?!夜空の下であんな切ない歌やられたら泣いちゃうな…いやでもまさかの魔王版Black outもあり得る…????とか色々考えていた私を軽く裏切ってお披露目されたのは、加州くんの代表曲『解けない魔法』ミュージカルアレンジ。

え??!?!?!?このタイミングで新しいカバー曲ぶっこんでくるんですか??!??!?!?!

しかも凄いクオリティ。なにこのミュージカルアレンジ…ダンス…なに…なに……??!?!?!待って蜻蛉切ってゲスト回今日だけだよね????!!!

あまりの予想外の展開に、周囲からも「ヘァ…?」「ヒィ…」「フォ…」というか細い断末魔が上がるばかり。

正直息を吞んで魅入っていました。人間衝撃を受けるとペンライトも振れない。そのくらい驚いたし素晴らしかったです。これはもう修行済み極では????

 

感嘆の声と拍手に包まれた会場にはまたもや雨が降り注ぎ始めます。

再び帽子を被って、次は誰の番なのか…ゲストの披露曲クオリティ高すぎてどうするのか…と待っていたら、下からスーッと現れたのは…へし切長谷部!!!!!!!!!

雨に濡れる会場内に響き渡るのは『Rainy...』~~!!!!!!!おあつらえ向きすぎる曲名とうますぎる歌声、そして数か月前に実装されたばかりとは思えない貫禄!!!!!!

花影を見たときもあまりの歌のうまさに驚いたのですが、生歌ですらこんなに上手いのは一体どういうことなのか?????????スタンドマイクでソロを歌ってここまでの貫禄を出せるのはミュ長谷部だけだよ…。

 

そこからの『誰のモノでもない人生』ですけど審神者息できるわけなくない???

今回兼さんが居ないところをむっちゃんが代打してたわけですが、この曲でもむっちゃん大活躍。巴と歌って舞い踊るむっちゃん良すぎる。

現地でむっちゃんを見たのは恐らく歌合以来なのですが、ものすごく明るくて貫禄があって歌もうまくてファンサも極めていて最&高でした。何せ私の初期刀はむっちゃんなので!!!!!

そして巴~~巴も歌合ぶりに見たのですがダンスが本当にキレッキレで華がある~~!!!!初見でセーラーマーキュリーだと感じたあの時の気持ちがよみがえりました。むすはじで一番好きな曲なのでこれが生で聴けたことも、兼さん代打にむっちゃんが居たことも含めてめちゃくちゃ嬉しかったです!!!!

 

日替わりでぶん殴られた後に待っているのは客降り曲なので、冷静に考えるとこの辺から酸欠になってもおかしくないですね。アドレナリンが出ていたので耐えられた。

たぶん此処も録音だったのかな…?すいません私のガバガバ聴力では判断できないんですが、それでも目が回るほど楽しかったことだけは覚えています。

持って行ったうちわが蜻蛉切に向けたものだったのですが、ミニステージに蜻蛉切が来たときそれを振っていたら、先に発見してくれた今剣がそのうちわを指さして「蜻蛉切さま、あそこあそこ!」みたいな動きをしてくれて、無事ファンサを頂くことができました。ありがとう今剣……元祖ファンサの付喪神……!!!!!

また、近くに居た審神者の方が堀川くん推しの方で、堀川くんが通路を通る度にうちわを振っていたら、通り過ぎていったはずの堀川くんが戻ってきて「僕のことですか?ありがとうございます!!」って口パクで自分を指さしながらそのうちわの所まで近づいて来てですね……無事流れ弾を食らいましたおめでとうございます何あれこわい……脇差の力大爆発しとる……。

 

そこからの『Can you guess what?』はもうだめですよこんなWSA*1もびっくりな曲を夜の野外でやるのはさあ!!!!!

しかも面子が強すぎる……誰ですか選抜したの毎年宝くじ当たっていいくらいの徳詰んでますよ本当にありがとうございます……!!!!!

このブログは歌合を目撃したところから始まっているのですが、初めて買ったグッズである御手杵タオルを握りしめて富士の麓まで行ったらラスサビ前にジャケット半脱ぎで輝く肩を晒す御手杵にぶち当たって危うく呼吸を忘れるところでした。何あの色気……序盤の御手杵江の時と全然違うんですけど……なにこの御手杵(夜)?????

夜のキャンゲス後の折句MCもめちゃくちゃ面白かったです。日向くんが「が」のところで「がんもどきも美味しいよね!!!!!!!」って叫んだとき笑いすぎて崩れ落ちそうになりました。なぜならその日ホテルで食べた朝食にがんもどきが入っていたので……こんなことってある??????

 

日替わりといえば『美しい悲劇』と『サヨナラ』というデュオ課題曲もあったわけですが。

『美しい悲劇』は基本的にゲスト刀剣男士と繋がりのある刀の二振りが選ばれます。そして今回選ばれたのは蜻蛉切と物吉くんでした。そう、徳川刀コンビです!!!!!

家康公を最後まで守り続けた幸運の象徴と、徳川のために闘い抜いた常勝の槍が披露する悲劇、もはや悲劇というより悲劇から助け出す英雄だった……強い……。

『サヨナラ』は松井くんと日向くんのパライソ、もとい島原の乱コンビ。この曲は本来後ろにあるクレーンに乗って歌う演出でしたが、雨の中で行うのは危険すぎるという判断が下ったのか、その日だけはミニステージを転々と歩きながら歌うスタイルでした。

レア演出かつ雨の中で聴く『サヨナラ』はなんだかとても切なくて、夏の終わりを肌で感じながら聴き入っていました。

 

花影で活躍した影の一期一振の力強い太鼓から、突然始まるステージ上最大人数炎舞は正直目が足りないの一言。すげーよ端から端まで全部刀剣男士だよこれどこ見ればいいんですかね??!?!?

ステージ正面左端から右端まで順番に踊っていくスタイルは圧巻でした。どこもズレてないしすごすぎる。

真正面から一気に来る約30振りのKiss Kiss Kissは最早致死量なので覚悟した方がいい。至る所から断末魔が上がってましたし私も上げました。あと会場の熱気で雨が蒸発してた気がする。

そこから間髪入れずに獣が来るのもやばいですね。信じられるか?さっきまでKiss Kiss Kissしてたのに己に牙剥いてるんだぜ。Say 押忍!!!!!!!

しかも今回はいつものポイじゃなくて手筒花火が出てきたんですけど何事????審神者の課金がでっかい刀剣男士お抱えの手筒花火になった世界線?????あれを怪我無く披露してくれたことに感謝感激雨降るな。いいものが見れました。

 

 

ゆめとうつつと耐えた先

今回の㊇は過去の乱舞祭ほど中心となるストーリーは無く、刀剣男士のライブがメインでしたが、祭を引っ張り、締め括るためのアジテーターとして、榎本武揚伊達政宗公という二人の存在がありました。

最後に二人が巵を交わし合い、語り合う姿はこの乱舞野外祭の意味を教えてくれる象徴的なシーンです。

「耐えた先に光があったか」

「光があったから耐えられたのか」

疫病が流行り、声を出せなくなり、拍手することでしか気持ちを表せなかった時代。

その中でもミュージカル刀剣乱舞は最大限出来ることを探し、どんな状況でも諦めずその姿を全力で届けてくれて、俯く心に光を灯してくれました。

いつまでこんな時代が続くのだろうという不安を吹き飛ばして笑顔にしてくれる刀剣男士の存在と、それをサポートするスタッフさんが作り上げる空間は、間違いなく私にとって光です。

声を出さず応援すること。様々な感染対策をしながら耐えること。それはその先も、10年後も100年後も、共に続くようにと願う気持ちから。

声が聞こえなくても歌い、舞い踊り、笑って前を向いてくれること。誰かの光となること。それはこの先に明るい未来が待っていると知っているから。

この政宗公と榎本武揚の台詞は我々人間側だけでなく、厳しい状況でも光を絶やさず届けてくれた刀剣男士側にも向けられたものなのかもしれないと私は感じました。

「いずれにしても、人間はしぶとい」

この榎本武揚の言葉には思わず笑ってしまいました。本当に、本当にそうなのです。人間はしぶとい。諦めない。だからここまでやってきた。だから歴史が続いてきた。

それを何よりも知っている刀剣男士たちが、ここで耐えてきた審神者の声を聞きながら全力のパフォーマンスを届けてくれる。そんなのもう愛じゃん……。

 

そこから披露されるのが『キミの詩』なのはもう反則技なんですよ……ここまで数多の反則技があったんですけどこれはもう最大級の反則技……雨は上がったはずなのに視界が滲んで仕方ない……。

会いたくて会えない人ばかりだった時代を想いながら、こちら側に向けて歌われる「いつもキミを捜してるよ」……この「捜す」という漢字には、見えなくなったものをさがす意味*2が込められています。

ここに審神者の声援もまた「かつて見えなくなったもの」としてカウントされていたら、それを捜してくれていたんだなと……個人的な感想ですが……。

 

そしてこの日の雨は終演前に降り止み、花火を打ち上げる直前には三日月が空に浮かんでいました!!!!

最後のMCで鶴丸が「俺たちはこの日を千年先も忘れないから、主も忘れないでくれよ」と言ってくれた時、こんな愛の言葉もあるのだと泣きそうになりました。

すべての電気を消して、真っ暗な夜空に浮かぶ三日月に見守られながら、富士の麓を照らすスターマインを見上げた夏の終わり。

共に雨の中でも笑い合って、雨が上がれば喜びを分かち合って、もう自分が濡れているのが雨なのか汗なのかわからなくても楽しめた最高の野外祭でした。

今までにないくらいぐちゃぐちゃの状態での参戦になったし、たぶん刀剣男士も今まで見たことないくらい会場の審神者がビッショビショだったと思います。でもこんな体験できるのは野外だからこそであり、一生に一度あるかないか。すべての不安を取り払って全力で楽しみました。

序盤から録音の楽曲が流れたのも、刀剣男士とダンサーさんの安全と後に続く公演で使う機材を守るために必要な判断だったのだろうと思います。むしろあの雨で中止にせず、最後までお祭りを開催してくれたことに感謝しかありません。次の日の膝丸回も雨でしたが、前日からアップデートした工夫をしながら開催していたのも素晴らしいと感じました。

帰りのバスで辿り着いた新宿駅から雨と泥に塗れた状態でホテルまで帰ってフロントの人にちょっと驚かれたのもいい思い出です!!!!ちょっと富士の麓まで行ってきました!!!!!

 

彼岸と此岸、夢と現が交わり、あなたとわたしが繋がる祭。またひとつ特別が増えた八周年。

㊇…すえひろがりと名付けられたこの野外祭を経たミュージカル刀剣乱舞がこれから先も多くの笑顔を生み出していく、誰かの光となりますように。

 

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。次の祭も楽しみにしています!!!!!

 

共に超える境界線~真剣乱舞祭2022の考察と感想~

 

 

久しぶりの投稿です。なんと前回から約1年ぶり。

約1年ぶりに何の話かといいますと、絶賛開催中の真剣乱舞祭2022の話です。

パライソと江水はどうしたんだよって自分でもなっているんですが、もうすぐ大千穐楽を迎えるこの稀代の祭がどういうものなのか、何のためにあるのか、それをいま書き留めておこうと思った次第です。

ほとんど殴り書きなので、乱舞祭が終わった後に見たら恥ずかしくなりそうですが、とりあえず書きます。

言わずもがな盛大なネタバレをしているので、読んでからの苦情は海に流してください。

なお、ライブ本編の感想は今回ほぼありません。乱舞祭の物語に関する考察と感想ばかりです。

 

 

 

 

 

はじめに

そもそも何故勢い余って乱舞祭の話をするかというと、今回の物語がめちゃくちゃ心覚と地続きだったからです。

出だしから最後までたっぷり心覚。年始から春にかけて江水で頭いっぱいになっていたところにぶち込まれた爆弾といっても過言ではありません。

ご覧の通り(?)この辺鄙なブログは心覚にかなり心を奪われていて、何回書くんだよというレベルで脳内に生まれた言葉を投稿しています。

冒頭であの仮面の少女が出てきた時は息が止まるかと思いました。

そして今回のアジテーターは水心子。これまでとこれからを繋ぐ役目を担った刀剣男士。

ここまで祭に心覚をぶち込まれるとは誰が予想しただろうか。

 

初日から配信を見て、現地にも足を運んで、ここまで様々な角度から乱舞祭を見てきました。

長かった祭もあと少しで終わってしまうから、その前にこの祭が何のためにあるのか、それを自分の中で明確にしておきたいと思い、筆をとりました。

 

東京心覚を土台に始まった祭が、東京で終わりを迎える。

その意味を噛みしめながら。

 

 

 

 

何を送るための「神送り」なのか

今回の祭で一番衝撃的だったのはこのオープニングでした。

いや毎度祭のオープニングは衝撃的なんですけど…。

「神送り」という単語が何度も出てくるので、曲名を仮に神送りとします。

 

仮面の少女が水面を行く船に乗り、それを眺めながら水心子だけが紡ぐ歌。

そこから全員が歌う神送りへの変化。

ここの内容を少し自分なりに整理して、今回の神送りには3つの意味があると感じました。

 

 

 

①神からの見送り

まず文字通り、「神」からの見「送り」としての神送りです。

松明を手に小舟を囲む刀剣男士たち。彼らはこう歌います。

 

「風が運ぶは花びら、落ち葉 命宿る種

 風が運ぶは噂、便り あの人の歌声

 この河で この海で 迷わぬように

 この灯り みちしるべ

 船よ行け

 今 もやいを解こう

 神送り」

 

耳で聞いた歌詞なので細かい表記は間違っているかもしれませんが、大体こういう言葉だったはず…。

「ひゅるり、ひゅるり」という風の音に乗せて、花びら・落ち葉・種というミュにおける人の生命を表すものが運ばれてきます。

その人が生きた証として、誰かの噂や手紙、いつか口ずさんだ歌声も共に。

いずれにしても、散った花びらや落ち葉、さらには種が運ばれてきているということは、生命が終わったことを表現していると思われます。

 

東京心覚で歌われた『はなのうた』は、人を花に喩えた生命の歌です。

人は「謳歌(うたわ)ずにはいられない 終わりなきはなのうた」を紡ぐ存在であり、刀剣男士から見れば「戦場に散る無数の種」であるもの。

そして刀剣男士はその「終わりなきはなのうた」を聞くために、大河の流れを守るもの。

風に乗って届くその歌を聞きながら、彼らはみちしるべとして松明を掲げながら小舟を導いているんですね…。

 

風に吹かれ、大海原に続く川の途中で彷徨う死者の魂を正しく送り届けるための「神送り」。

ここに登場する刀剣男士(回替わり男士省く)には以下のように「人の死」との繋がりがあるのではないかと考えています。

 

 

それぞれ任務先で縁のある人間の死を傍で見送っている刀たちなんですよね……。

しかも、「船よ 行け」で小舟を先導するのは唯一元主をその手で斬った肥前くんなんですよ……。

一番身近な人間を、放棄された歴史とはいえ手にかけた肥前くんが、彷徨える魂が乗る船を導く役目を担っているの、あまりにも……あまりにも……。

さらにいうと、その殿を務めるのは小竜くん。

元主の死を三度(史実+放棄された歴史+正しく修正された歴史)も見送り、任務上で主と定めた人間を斬り捨てた彼が、殿に居るんですよ……。

ここ、個人的に勝手なしんどさ激強ポイントです……。

 

また、ここで見送られるのは歴史に名を遺した人物ばかりではありません。

冒頭で仮面の少女が踊っていたこと。この面子に浦島くんが居ること。

名もなき民草の魂も、人知れず咲いて散った花の種も、一緒に見送ってくれているのだと思います。

 

 

 

②神を送るための祭

2つ目は文字どおりの「神送り」です。

そもそも神送りには2つの意味が存在していて、その1つが神を送るための祭とされています。

 

陰暦9月晦日 (みそか) 、または10月1日に、全国の神々が出雲大社へ旅立つこと。また、これを送る行事。この日は強い風が吹くといわれる。 冬》「しぐれずに空行く風や―/子規」⇔神迎え

神送り(かみおくり)の意味 - goo国語辞書

 

出雲大社に神様が集合するのが神無月というのは有名な話ですが、それを見送る祭が神送りなんですね。

刀剣男士も付喪神。つまり神様と呼べる存在ですが、今回のお祭りでは送る側に居ます。

では、今回送られる神は誰なのか。

あの大きな船に乗って現れた、平将門公です。

 

将門公が出てきた途端、神送りは転調して荒々しい曲へと変化します。

あの瞬間、船を送り出していた面々は立ち止まり、荒波から小舟を守るように身を固めます。後から駆け付けた男士たちも戸惑うように辺りを見回しているのです。

この場面、私は最初「向かっていた先にある海が荒れ始めたから驚いているのだろう」と考えていたのですが、Twitterで「将門公は招かれざる存在(本来呼んではいない神)だったのではないか?」という考察を読み、この結論に達しました。

大きな雷鳴と共に現れた将門公に向かって放たれるのは、「何故?」という疑問です。

 

「強き風 何故に吹き荒ぶ?

 荒ぶる風 何故猛り狂う?

 沈まれ風よ 沈まれ海よ!」

 

神送りの日は強い風が吹くとされています。そして将門公が現れた時も激しい風音がしています。

おそらく、此処に現れた将門公は文字通り「荒魂」なのだと思います。

 

荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。勇猛果断、義侠強忍等に関する妙用とされる一方、崇神天皇の御代には大物主神の荒魂が災いを引き起こし、疫病によって多数の死者を出している。

荒魂・和魂 - Wikipedia

 

将門公って人じゃないの?神様なの?という疑問があるかもしれませんが、神田明神築土神社に祀られているので、死後神様となっています。

将門公は心覚でも、霊刀として力を持つはずの大典太とソハヤですら歯が立たなかったほどの霊力を持つ圧倒的な存在として描かれていました。

今回の神送りに顕現したのは、その面を含めた荒魂としての将門公なのでは?という見方です。

荒魂将門公は荒ぶる心を叫ぶだけの存在。

それを和魂として鎮めるため、あるいはあるべき姿に戻すための「神送り」。

同じ神として、また送るべき存在として、「共に吹き荒れろ」と刀剣男士たちは荒魂将門公を今回の乱舞祭に誘ったのではないでしょうか。

 

 

 

③疫神送

さて、神送りにはもう1つ意味があります。

疫神を追い払う行事のことです。

 

疫神を村界から外へ送り禳ふ行事。疫神禳(えきじんばら〔ひ脱カ〕、疫神流(えきじんながし)ともいふ。

例年六月十三日を期とし、愛知県三河国南設楽郡作手村新城市作手地区〕で行はれる。一名祇園送。当日は小麦を紙に包んだものをの先に挟んで門に立て、疫神払ひの禁厭とする。

また疫神除却の方法として、之〔これ〕を川に流すものに疫神禳がある。それは岐阜県吉城郡高原郷飛騨市神岡地区、高山市上宝地区〕の習俗で、流行病が猖獗を極める時、を以て船の形を造り、神職を招じて行疫の悪神禳ひを行つた後、疫神を其の藁船に移して川に流し、一同茅輪をくぐり、一切後を見ずに帰るのである。

これに似て稍々〔やや〕形のかはつたものに、兵庫県飾磨郡家島村姫路市家島〕の疫神流がある。ここでは伝染病の時に際して、小形の船を作り、村内を舁ぎ廻り、各病家で積込む藁人形をそれに乗せて、「送れ送れ、疫病神送れ」と賑やかに囃しつつ海に流し遣るのである。

疫神送 - Wikipedia

 

疫神とは文字通り疫病神。人に災いや病気を齎す悪神です。

もうね、コロナですよね……。

昔なら疫病と呼ばれるべきもの。それが世界中に蔓延って、様々な祭も中止になって、人々の楽しみや遊びも奪われて。

それを悪しきものとして送る「神送り」が今回の乱舞祭の大きなテーマの一つになっているんだと思います。

ついつい神様のほうにばかり目が行ってしまって、最初はここまで考えが及ばなかったのですが、先輩審神者からの貴重な意見と、心覚自体がコロナ禍で生まれた物語であることをすり合わせて達した結論です。

神送りの最後に「船よ行け 荒波乗りこなせ 行きつく先に 晴れ渡る空が待つだろう」という歌詞があるのですが、この晴れ渡る空というのはコロナ渦が明けた世の中にも捉えることができるなあと。

まさに疫病退散。ハレハレ祭りが令和の世でも見られて嬉しいです。

 

 

 

まとめ:3つの神送り

これらの神送りの意味を合わせると、この乱舞祭は歴史上の人物だけじゃなく、過去に居た人だけじゃなく、今を生きる私たちに向けた祭でもあることがわかります。

だから水心子は言うのです。この祭は「楽しい方がいい」と。

 

彼岸も此岸も、あちら側もこちら側も、夢も現も、貴方も私も。

 遊ぼう、今を共に!」

 

貴方も私も、なんて言葉が出るのは、心覚でこちら側に語り掛けてくれた水心子だからこそなんだろうなと。

この言葉を初めて聞いたとき、その優しさに視界が滲みました。

みんなずっと苦しくても我慢して、傷ついて、時には泣いて、それでも明るい未来が来るって信じて、心から楽しみにしていたお祭りです。

それを「共に」と呼び掛けてくれるんですよ、水心子は……しかも「楽しい方がいい」って、つまり見た人が笑顔になれることじゃん……。

「歴史を守る」という任務の難しさに対して「笑顔になれることを増やせばいい」と言った水心子が、それをこの乱舞祭で実行してるんです……。

笑顔になりながら泣いてしまうこんなの。ありがとうございます。

 

 

 

 

 

それぞれの立ち位置

乱舞祭に限らず、ミュは刀剣男士の立ち位置なんかにも深い意味があったりするのですが、今回特に気になったところを軽く掘り下げていきます。

 

 

 

水先案内人としての鶴丸国永

鶴丸国永、立ち位置が意味深すぎる男士トップ3に入りますね。

ちなみに後の二振りは三日月宗近と明石国行なんですけど。

 

今回の鶴丸は唯一船に乗った男士です。

夢うつつを漂う水心子を呼び起こした時、鶴丸はあの仮面の少女が乗っていた小舟から現れます。

あの小舟は河を渡り、海へ出るためのもの。将門公や榎本武揚が乗っていた大船も然り。いわば三途の川の渡し船です。

もうこの世には居ないものにしか乗れない船とも言えます。

その船に唯一乗って出てきたのが鶴丸国永なんですよ……。

 

鶴は仙界に住み人界にやってきた霊鳥として崇められていたので、彼岸と此岸を行き来できる存在として今回船にも乗れたのではないかなと思っています。

おそらくですが、鶴丸国永は彷徨える魂の行先も、その導き方も知っているんじゃないでしょうか。

でも敢えて行先や導き方を告げることはせず、夢うつつの狭間を揺蕩う水心子にその役目を任せている。それが鶴丸国永の役目だから。

水心子が自分で答えを見つけられるようにさりげなく導きながら、最後の最後で彼岸に辿り着く船を先導するんですよね……人界から仙界へ帰る鶴のように……。

この立ち位置、2018年の乱舞祭での三日月宗近とそっくりなので、やっぱり三日月宗近=夜と鶴丸国永=朝で対比されてるのかなあと思いました。

そうなると今回は最後に夜が明けて朝が来ていたのも、水先案内人が鶴丸だったからということになるんですが……鳥は夜に飛ばないので……。

 

 

 

祭における将門公

もう一つ気になったのが祭に出る将門公です。

今回は珍しく刀剣男士以外の存在である将門公もメインとして祭に参加していました。

ただ、すべての祭に参加していたわけではありません。

将門公が出ていたのは、ねぶた祭りとエイサー、そして最後のよさこいソーランが全ての祭と混ざり合った混沌の中だけです。

 

2018年の東西祭り対決では東軍に位置する祭に出ていたので、坂東武者代表としての参加なのかな?と思っていたのですが、祭の起源を見てみると、どうも霊送りの意が込められた祭に参加しているようです。

ねぶた祭りはその起源に精霊流しがあり、エイサーは祖先を送るための念仏踊りそのものです。どちらも霊送りの意を持ちます。

また、ねぶた祭りはねぶたの題材に有名な物語が用いられることも多いため、将門公という数多の伝説を持つ存在は惹かれるものがあったのではないでしょうか。

阿波踊りも一応盆踊りを起源とする説がありますが、蜂須賀がメインを張っているあたり徳島城落成を祝うものとして扱われていそうです。

最後はその全てが混ざり合った混沌の中で、どちらともつかず手を伸ばしながら将門公は存在していました。

亡くなった人の魂を送るための祭に居る将門公は、どちらかというと和魂に近づいているように思えます(当社比)

 

 

 

幕間における水心子正秀という狭間

賑やかだった祭が終わり、静寂が訪れた後、再び現れた仮面の少女と将門公の狭間に居るのが水心子です。

この時、仮面の少女は中央ステージ、将門公はメインステージに現れ、水心子はその二人の間を何度も行き来します。

対になって踊る二人は荒々しい剣舞と嫋やかな舞の対比。そして、歴史に名を遺した者と遺さなかった者です。

本来ならば交わることのない二つの存在を、狭間を行く水心子が引き合わせるのがこの幕間。

水心子は冒頭でも幕間でも、そして最後でも、彼にしか聞こえない声を聴くように耳元へ手をあてていました。

そんな水心子につられるようにして中央ステージまで走ってきた将門公は楽しそうに笑いながら仮面の少女と水心子と共に舞を披露します。

名を遺した者と名もなき民草を繋ぐのは、その何方とも関わることができる水心子にしかできない役割なのだと思います。

共に踊るということは、共に楽しむということ。

これまでとこれからを繋ぐ役割を担う彼が、彼方側と此方側を繋ぎ、貴方と私を繋いでいるのがわかります。

 

余談ですが、構造的にセンターステージはメインステージからみて北の方角になります。

共に踊った後、センターステージ(北)の向こうへ歩いて行く仮面の少女と、メインステージ(南)に戻る将門公。

北は仏教における臨終の方角です。また、五行に置き換えると水の方角にもなります。

そう考えるとあの少女が後半に出てこなかったのは、幕間で北(死者の魂が行くべき場所)へ向かったからなのかもしれません。

あと、それにつられそうになった水心子を呼び止めるのは清麿なんですよ……清麿は彼方側に引き寄せられやすい水心子を此方側に繋ぎ止める舫なのかもしれません。

 

 

 

北への案内人

言わずもがな榎本武揚のことです。

2018年の榎本武揚は狭間を彷徨う死者を北へ導いていましたが、今回もまた船を北へ走らせました。

しかも今回、榎本武揚は刀剣男士と初めて会話をしています。

刀剣男士のことを「狭間を彷徨えるもの」と呼んでいましたが、そんな彷徨えるものを北へ導くのが榎本武揚の役割です。

 

ここで会話する刀剣男士が、最初の乱舞祭で彼岸側としての役目を果たした三条の二振りというのも面白いなと思いました。

小狐丸は伝説を元に顕現した刀であり、表裏一体の意味を知るもの、つまり境界線がないことを知っているもの。

今剣も人々に語られた伝説だけで成り立つ、虚実入り混じった存在。

刀剣男士としては狭間に在りつつも彼岸に近い存在扱いなのかもしれません。

 

で、榎本武揚の何が気になったかというと、今回誰にも名前を呼ばれていないんですね。

前回(2018年)は土方さんが名前を呼んでいたと思うんですが、今回その名を知るものとは出逢っていないんですよ、榎本武揚

名前なんか呼ばれなくても榎本武揚だろ?というのは最もなのですが、こう……名を失ってもなお、彼岸で彷徨える魂を北(行くべき場所)へ導く役割を担ったシステムとして存在しているのでは……???という勝手な憶測をしています。

それでも彼が榎本武揚という己を見失わないのは、あの新しいTo The Northの中に届いた審神者たち(榎本武揚を覚えている、知っている人たち)の声のおかげだったりしたらエモいな!!!という個人の意見です。

 

 

 

 

 

共に超えていくための祭

今回の祭の大きなテーマとして「共に楽しむ」というものがあると感じています。

これまでは彼岸側と此岸側が繋がっていることを確認してきましたが、今回はその境界線を超えて「共に」歌い、踊り、叫び、祀っていました。

様々な別れを、想いを、辛さを超えて。

 

祭が終わり、あるべき姿へと戻った将門公は水心子に己の見え方を問いかけました。

それに対して水心子は、怨霊でもあり、神でもあり、人でもあると答えています。

どれか1つではなく、すべてである、と。

これもまた、境界線を超えた表裏一体の答え。勝負がつかないこの本丸の真理です。

あの瞬間、楽しそうに笑った将門公は荒魂から和魂へと変化したように感じました。

 

心覚で水心子はある世界を垣間見て、大河の流れ着く先を知り、「私が守ろうとしている歴史は…未来は、守るべき価値のあるものなのだろうか?」と審神者に問いかけたことがあります。

その水心子が、今回を祭を経てこう誓います。

 

「どんな時代であろうと、どんな場所であろうと、どんな歴史であろうと、私は前を向く。これまでと、これからのために」

 

一度は迷い立ち止まりかけた水心子が、境界線を超えて共に楽しむ祭を経験して、この答えに辿り着くの、ちょっとエモすぎて言葉になりません。

しかもそれに対して清麿が「僕も誓うよ」って言うんですよ。心覚では彷徨う水心子を陰から見守る役目に徹していた清麿が。

 

「共に、前を向く」

 

この言葉の重み。

夢うつつを揺蕩っていた水心子は己の役目を再確認して、清麿はそんな水心子を後ろから眺めるのではなく隣に立つことを誓う。

新々刀は孤独ではなく、背中合わせでもなく、向かい合わせでもなく、隣あって共に前を向くのです……。

 

 

 

 

おわりに

さっとまとめようと思ってまた長々と書いてしまいました。しかも殴り書き。

めちゃくちゃ付け焼き刃でアイキャッチ画像も作っています。愛知公演の帰りに撮った写真です。

歌合からミュにはまった審神者なので初めてのリアルタイム乱舞祭なのですが、毎公演本当に楽しくてどうしようもないです。

今回語った物語も、語らなかったライブパートもぜんぶ楽しい。

ありがとう水心子。笑顔になれることが乱舞祭のおかげてこんなに増えたよ。

 

毎度思うんですけど、やっぱり最後の問わず語りが反則技すぎるんですよね……毎度泣きながら見てます。

最初に小舟を送るのは心覚で三日月宗近から役目を言い渡された面々+鶴丸という構図がもう良すぎる。

これまでとこれからを繋ぐ新々刀、人と人ならざるものを繋ぐ江、そして仙界と人界を行き来する霊鳥たる鶴……しかもAメロの歌いだしは音曲祭で海にそれぞれの信念を誓った虎徹三兄弟という……。

 

この問わず語り、歌っている刀剣男士それぞれが思い浮かべている風景や人物がその表情や仕草から読み取れるところが本当に素晴らしいです。

皆なにかをいとおしむように、慈しむように、名残惜しむように見送ってくれる。

次に生まれてくるときは歌合の『あなめでたや』を歌って欲しいのですが、この世を去るときはこの『問わず語り』に見送られたいとしみじみ感じています。

初めから終わりまでずっとサポートしてくれるミュ本丸、福利厚生の塊。

 

個人的に問わず語り1番のサビ終わりにセンターステージの向こう側を見つめて嬉しそうな顔を浮かべる水心子が好きです。

彷徨える魂が行くべき場所へ辿り着いたことを心から喜ぶようなその笑顔がまぶしい。

あとメインステージの上段で小竜くんが昇ってくるのをちゃんと待ち構えている江水組とか、隣り合って同じ方向を見つめる土方組とか、もう目が足りないんですけど気づくと涙腺が緩むポイントばかりで……。

 

あと少しでこの祭が終わってしまう寂しさと、こんなに素晴らしい祭を見せてくれるカンパニーへの感謝が入り混じった状態でいまこれを書いています。

無事に最終地東京で逢いましょう。

 

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

 

いつか巡り逢うためのひとりごと~東京心覚の考察と感想③~

 

f:id:mugsim:20210529153928p:plain

 

5月23日、東京心覚が大千穐楽を迎え、無事に幕を下ろしました。

いやー…………よかった…………。

色々言いたいことをひっくるめるとこの一言に尽きます。

前回の記事(※)で個人的に色々と掘り下げたので、大千秋楽後は余韻に浸るだけで終わるかと思いきや、そうもいかなかった結果がこの記事です。 

※前回の記事

mugs.hateblo.jp

今回は考察をさらっとしつつ、2部にも少し触れていきたいなと思っています。

興味とお時間がもしあればお付き合いください。

余談ですがタイトルを出汁関連にしようとおもったけど「お吸い物」とか「煮物」しか思いつかなかったのでこれになりました。

 

 

 

 

 

 

パワーアップした凱旋公演

前回までの考察はあくまでも初日公演配信をじっくり見て掘り下げたものだったのですが、凱旋公演は当然のごとく初日公演よりも進化していて、感じ取れるもののレベルが更に上がっていました。

地方公演を経て進化しまくっている……と感じたのが、各キャラの表情が(歌声も含め)とても豊かになっていたところです。

初日公演から各刀剣男士達が元々のキャラクター性を大事にしながら舞台に立っていることは物凄く伝わってきていたのですが、凱旋公演になるとそのキャラクター性がより物語と融合していたというか……キャラクターの心から溢れ出す想いが、より自然な目線、表情、歌声となって現れていたというか……。

 

個人的に五月雨江の表情は印象的でした。

初日公演では極力表情を出さず真顔のシーンが多かった彼が、凱旋公演からは笑顔や驚愕を浮かべるようになっていたのを見て、なんだかじーんときてしまいましたね……。

歌声に関しても感情がより表に出るようになっていて、まさに「雲から溢れ零れ落ちる雨」のような歌い方だなと……。

また、清麿に関しても、水心子を見守るという姿勢は変わらなかったのですが、水心子の様子に合わせて表情や言葉に変化が出ていて、より彼の寄り添い方の深みが出ていた気がしました。

劇中で何度も清麿の口から語られる「水心子はすごいやつなんだよ」という台詞。

これは水心子に対する信頼感を表すものですが、その水心子の揺らぎに合わせて台詞に込められた感情も変化していたように感じます。

最初は対話する相手に言い聞かせるようなニュアンスだったものが、終盤では自分に言い聞かせるようなニュアンスへ。

この変化によって、目の前で水心子が倒れたことに対し、いつも優しく見守り笑顔を浮かべていた清麿が、あの場面では動揺していたのだと気づかされました。

あの優しい笑顔も、見守っている時の慈愛に満ちたものから、水心子が戻ってきたことを喜ぶもの、そして水心子が見つけた答えを聞いて頷く時の安堵と喜びと切なさが混ざった泣きそうなものと、様々な感情を込めたタイプがよりはっきり見えるようになっていてですね……本当に、こんなに優しい笑顔だけでここまでの想いが伝わってくるものなのだと、じんわりとした感動に浸ってしまいます……。

 

他にも水心子の最後の語り掛けが叫びではなく、とても穏やかな口調になっていたことで、水心子との距離が縮まっている……と感じられたりだとか。

ソハヤがより天海のことをしっかり見ながら文句を言っていたりだとか。

積み重ねた日々から生まれた想いがより細かいところまで詰め込まれていて、ずっと見ていたい温かさがありました。

 

 

 

水心子と清磨

今作の主役である水心子は、とにかくすごいやつでした。

なにがすごいって、演技は勿論のこと、声がすごい。

歌・台詞ともに声へ感情を乗せるのがとてもうまい。

前回の考察で新々刀の歌、『ほころび』について清磨がめちゃくちゃ優しいという話をしたのですが、今回は水心子の話をしたいと思います。

清磨が水心子を見守りながら語り掛けるこの歌で、水心子は己の役目をひとりでも果たそうという決意と誠実さに満ちた真っすぐな歌声を披露します。

やわらかな清麿の歌声の後に、「私の役目」と歌いだした瞬間のあの声音!!!すごくないですか……一瞬でやわらかなものが鋭くなるようなあの歌声……。

あそこで水心子は清磨の方を見ていないのですが、凱旋公演を見てからあれは【見えていない】のではなく【敢えて見ていない】のではないかと思うようになりました。

 

清磨は水心子の親友で、いつも彼を見守り、信頼し、支えてくれる存在です。

水心子が悩み、立ち止まり、揺らいだ時、望めばいつだって手を差し伸べてくれるでしょう。

だから水心子は敢えて清磨を見ようとはしなかったのではないでしょうか。

いつでも助けてくれることがわかっているからこそ、助けを求めるわけにはいかない。

立っている場所がわからなくなるほどの揺らぎを感じながら、水心子はあそこで清磨を見ないことで線を引いたのです。

自分にしか見えない綻びの意味を知るまでは、ひとりでも役目を果たそうという決意と共に。

 

水心子の実直さや責任感の表れでもあると同時に、これはある意味「水心子正秀という名の線」を保つ行為にも繋がります。

「誰かが呼んでくれるから存在している」のなら、自分がどこにいるかわからなくなっても、清磨が水心子を見守り、水心子の名を呼んでくれることで水心子は存在を保つことができるのだと思います。

水心子が自己と向き合い、認識が曖昧になり、境界線が不確かな迷子になっても、清磨は「僕が見つけ出すよ」という通り。

水心子の誠実さと責任感の強さを理解し、無理に聞き出そうとはせず、傍で見守る清磨。

清磨が見守ってくれていることを理解し、敢えて助けを求めずに役目を果たそうとする水心子。

互いを支え合う親友という関係性を持つ新々刀だからこそ作れる優しい距離感なんですよねきっと……。

 

 

 

道灌と豊前江・五月雨江

前回の考察で、道灌と豊前江は【確かなもの】と【不確かなもの】の対比であるという話をしました。

凱旋公演では、共に石を運ぶシーンでよりその対比が伝わってきたように思います。

道灌が「この立派な石はこの先ずっとここで歴史を支えてゆく!」と歌った時の豊前江の表情!!

はっとしてから、ものすごく嬉しそうな顔をするんですよ豊前江……。

【曖昧な存在】である豊前江がいま触れている石が、このさきずっと歴史を支えていく【確かなもの】であるということに対する驚きと喜び。

ここで豊前江が偶然にも手伝ったことが後の江戸を支えるひとつの要因となる展開、天才では……。

それに対して豊前江が歌うのが『遺された志』というのがもう……改めて見てもここはせつなさと爽やかさが同居しているたまらないシーンです……。

 

表情豊かになった五月雨江と道灌のシーンもまた深みが増していましたね。

道灌に「美しいと思った人の心が美しい」ことを教えられ、とても嬉しそうな顔で「わん!」と吠えていたのが最高でした。

あの五月雨江の笑顔が見えたことで、道灌のこの言葉は五月雨江の歌心を肯定する言葉でもあったのだと感じました。

目にした景色の美しさを「心に留めておけぬから」歌うことは、それを歌う者の心が美しいから。

豊前江は道灌のことを「生きるということを知っている」立派な奴だったと評しています。

そんな道灌から「人が関わることで生まれる美しさ」を教えられた五月雨江。

刀剣男士の役目に徹することだけが生きる目的ではなく、溢れてくる想いを歌うこともまた生きることなのだと受け入れるきっかけになったのではないかなと。

だからこそ『問わず語り』で五月雨江は「でも誰かが居なくては歌は生まれない」と歌えたのでしょう。

 

また、この場面で道灌は水心子からの問いかけに歌を返します。

この歌を返す直前に、道灌は五月雨江の方を見て笑っているんですよね……。*1

水心子には「そのうちわかる時がくる」と語って去っていく道灌ですが、恐らくこの歌の意味を受け取ったのは水心子ではなく五月雨江なのだと思います。

道灌は五月雨江が受け取れると把握したうえで、あの歌を詠んだのです。

「やはり歌詠みは、同じ歌詠みに出逢うと感化されるものですね」

そう最後に語ったのは五月雨江ですが、この時の道灌も同じ気持ちだったのではないでしょうか。

山吹伝説で歌に想いを托した、あの名もなき少女のように。

 

 

 

天海とソハヤ

回を重ねるごとにじわじわと理解を帯びてくるのがここの関係性でした。

天海に「本意ではなかったであろうが、お前のおかげで江戸は守られた。礼を言うぞ」と告げられたソハヤ。

何か言葉を返す前に天海が息を引き取ったことで、ソハヤの想いは行き場を失くします。

劇中で三池は何度も「江戸の守りが破られようとしている」「江戸が終わる」と、自分たちの守ってきたものが崩れていく様を見つめるシーンがあります。

もっと自分たちに霊力があれば続いたのではないか。

もっと守り刀としての役目を果たせたのではないか。

そんなほろ苦い想いを抱えながら、どこか諦観のこもった視線で終わり行く江戸を眺めていました。

 

そこに向けられた、江戸の設計者たる天海からの「お前のおかげで江戸は守られた」という言葉。

天海はソハヤという存在を認識していたことを暗に明かして息を引き取ります。

この後、江戸は三百年という長い時を経て、その幕を下ろします。

「江戸を守り切れなかった」という後悔を抱えていたソハヤへ、彼を守り刀として確立させたといっても過言ではない天海から「江戸は守られた」という言葉が投げかけられるのは、ある意味「守り切れなかった」という呪縛からの解放でもあったのかなと。

それと同時に、最終的に江戸が終わることは約束されている=正しい歴史であるため、皮肉とも捉えられます。

「持て余した強さが齎した皮肉」

『全うする物語』で大典太が歌うこの歌詞は、ソハヤの霊力の強さを誰よりも信じていた天海から向けられたこの言葉にも通じる気がしました。

 

それでもソハヤは天海に対して「よくやったんじゃねえか、互いにな」と歌います。

与えられた役目を、どんな形であれ互いに全うした健闘を称えて。

そして、「江戸は守られた」という「期待以上の物語」を全うしてやろうと、ここでやっと前を向いたのです。

江戸は終わったけれど、その後に続く東京を、日本を、歴史を守るための刀で在ろうと。

ここでの水心子の問いかけに天海は答えを示しませんでした。

しかし、答えずともソハヤがその想いを誰よりも感じて、繋いでいくのではないでしょうか。

天海の「期待以上」の活躍をしてやろう、と。そんな前向きな気持ちと共に。

 

 

 

 

 

花と因果

刀ミュの中では「花」が重要なアイテムとして語られます。

今回は歴史上の人物ごとにその「花」が違いました。

将門公であれば桔梗。道灌であれば山吹。天海であれば蓮。

これらの花に想いを馳せながら歌うのが『はなのうた』です。

限りある生命を持つ人がいつか散り行く花を歌うのに対し、終わりのない生命を持つ刀剣男士はその花を咲かせる種を歌います。

この花と種の関係性は、仏教でいう【縁起】に繋がっているように思えます。

 

縁起とは「関係による生起」という意味。物質も精神の作用も、一切のものは因・縁・果の連鎖とする考えかたである。因縁・因果というのも同じ意味。

因───種子があって草が生えるように、それが生じた直後の原因。

縁───いろいろな関係(状況)。水や光などがそろわなければ草が育たないように、すべては縁によって生じる。間接的原因や生起する条件をさす。

果───因と縁によって生じた結果。その結果がまた、因となり縁となっていく。この果を受けることを「報」といい、果報ともいう。

山折哲雄仏教用語の基礎知識』,角川学芸出版,2015,p28

 

この考え方は、阿津賀志で岩融が口にしていた「此有れば彼有り」……つまり【此縁性】にも繋がっています。*2

『はなのうた』で刀剣男士が歌うパートが特にこの【縁起】をわかりやすく表しているように聞こえました。

 

戦場に散る 無数の種

 血を浴びて芽吹くは いつの春か いつの時代か

 産み落とされた実がまた花を咲かす」

 

「無数の種」が因ならば、「産み落とされた実」は文字通りの果。

「花」が生命ならば、「種」は死、または輪廻。

これらの「縁」を繋ぐのが刀剣男士という終わりなき生命を持つ存在……と考えた時、ただ単に正しい歴史を守ることではなく、歴史に遺らなかった「想い」も共に「縁」として繋いでいくことが、今回水心子たちが見つけた「すべきこと」の中に含まれているのではないかな……という小難しい話でした。

ミュは仏教思想と相性が良すぎる。

 

それと、『はなのうた』で人間が戦場で斃れていく様を見下ろしながら、唯一地面に手を置いている男士が居るんですよ……そう、桑名江です。

人は死ねば土になります。それを一番理解しているのは農耕に通ずる桑名江です。

『大地とこんにちは』でも、大地に触れながらこう歌っています。

 

「こんこんこん

 知ってますか

 知ってますよね

 ここであなたが生きたこと」

 

「生きたこと」という過去形からしてもう生きていない者への問いかけなんですよねこれ……。

種が芽吹くのは土の中。つまり大地です。大地はずっとそこで人が生きて散る様を見ています。

静かに大地に手を置いて、人の生命の終わりを見下ろす桑名江。

そこに確かに生きた者が居たことを知るために、大地の記憶を聞いているのだろうか……と思った次第です。

 

 

4つの蓮華

天海が登場する時にかかるBGMに入ってる謎の呪文の話です。

あれは恐らくお経で、繰り返し唱えられているのは以下の蓮華の名前でした。

  • 分陀利華(ふんだりけ)→ 白蓮華
  • 波頭摩華(はずまげ)→ 紅蓮華
  • 優鉢羅華(うはつらけ)→ 青蓮華
  • 拘物頭華(くもつずけ)→ 黄蓮華

これは仏典*3に記されている蓮の種類で、仏教上では分陀利華(白蓮華波頭摩華(紅蓮華)が重要視されています。

白蓮華は清浄さの象徴であり、紅蓮華は仏の救済の象徴です。

天海自身は「咲き誇れ 分陀利華」と歌っているのでメインは分陀利華ですが、後ろでも蓮華の名前を唱えているとは思っていませんでした。

三日月絡みもあってか、めちゃめちゃ蓮フィーチャーされてる。

この流れで天海の結界陣みたいなのも解き明かしたいのですが、四神相応とかあの辺を掘り下げていく必要がありそうなので、また機会と時間があれば。

 

 

 

 

 

水心子と豊前江~仮面の少女が現れる場所~

大千秋楽をじっくり見てて気になったのがこの二振りについてでした。

今作における水心子と豊前江の共通点は【存在が曖昧】であること。

己の存在が揺らぎ始めた水心子に「存在しているのかしていねえのか、俺だって俺自身がよくわからねえ」と豊前江が語り掛けるシーンでは、彼らと同じく【曖昧】なものたちが同時に存在していました。

何らかの理由で歴史改変を目論む遡行軍。仮面をつけた謎の少女。

彼らは、彼女は、みな「存在しているのかしていないのか」わからない、【曖昧】なものたちです。

 

遡行軍はともかく、今回のキーパーソンとも呼べる仮面の少女はどうやら水心子にしか見えていませんでした。

劇中でも彼女が舞台上に現れるのは、その姿を認識できる水心子が同時に存在している時がほとんどです。

本来見えないはずの【存在が曖昧】である仮面の少女は、水心子が認識することで形を保っていたのだと思われます。

しかし、唯一水心子が居ない時にも出現する場面があるのです。

それが、豊前江による太田道灌の暗殺シーン。

遡行軍が阻んだ太田道灌の暗殺を、正しい歴史とするために豊前江が刀を抜き、その生命を奪った、あのシーンです。

こと切れた道灌の傍らにやってきて、静かに山吹の花を供えて去っていく少女。

 

誰かが認識することで形を保っていられるであろう曖昧な存在が、なぜあそこで唯一認識できる水心子の居ない場面に出てくることができたのか。

おなじ曖昧さをもつ存在として惹かれ合ったからなのでしょうか。そんなスタンド使いみたいなことある…?

豊前江にはあの少女が見えていなくとも、無意識下で存在を認識できていたのでしょうか。

今回、水心子があの少女を認識できたのは、歴史に生まれた綻びに気づいて己の存在が曖昧になったことで、何らかのチューニングが合ってしまった結果*4だと思っているのですが、じゃあ最初から曖昧だった豊前江はどうなのかな……と。

 

また、水心子と豊前江は将門公の怨霊封印の際にも姿を現していません。

具体的には、1人目の封印には姿を現さず、7人目の封印になってやっと水心子が加わりました。

豊前江はどちらの場面にも姿を現しませんでした。

これもまた【存在が曖昧】であるが故なのかな…と感じています。

1人目の時点で水心子は自分と自分以外の境界線を見つけられず、揺らいでいました。

しかし、7人目では自分のやるべきことを見つけてしっかりと【水心子正秀】として存在していたため、戦いに加わったのです。

 

民俗学者小松和彦氏によれば、怨霊や呪いといった【ケガレ】は本来、外側からやってくるものとされています。

外側、つまり「外部」からやってきた邪悪なものが「内部」に侵入することで【ケガレ】の原因を作り出します。

この【ケガレ】を【浄化】することで【ハレ】の状態=清浄さを取り戻せるのです。

 

 「内部」と「外部」があれば、そこには当然、境界が存在する。具体的にいえば、家の入口とか門、峠、川、浜、村はずれ、国境などが境界とみなされることが多い。

 「結界」という言葉がある。呪術によって境界つまり「外部」と「内部」を作り、その内部を守ろうとする呪的バリアのことである。注連縄はそうしたもののひとつである。守るためには囲われていなければならない。一ヵ所でも外部への通路があれば結界は成立しない。

 つまり、「内部」とは閉じられた領域であり、たとえていえば、紙の上にどんな形であれ線を引いていって、再び始点に戻ったときにできる内側が「内部」、そうでない開かれた領域が「外部」と理解してもらってもいいだろう。

小松和彦小松和彦の「異界と呪いと神隠し」合本版:呪いと日本人』,角川ソフィア文庫,2017,p252

 

つまり、【ケガレ】を【浄化】できるのは「内部」に居る者だけ。

今作でいえば、天海と封印の場にいた刀剣男士たちとなります。

あの場に居なかった水心子と豊前江は、内側に居ない……「外部」に近しい存在と考えられるのではないでしょうか。

水心子は将門公が呪いという機能に取り込まれるシーンに居合わせていますが、あれもまた「外部」の出来事なのでは……。

今作における「内側」は、正しい歴史の流れ、もしくは存在の確かさに繋がるもの。

そして「外側」は、正しい歴史には残らない綻び、もしくは存在の曖昧さに繋がるもの。

主役であった水心子は最終的に存在の確かさを取り戻していましたが、豊前江はそのままの状態です。

静かの海で会ったとき、この存在の曖昧さについて触れられたら情緒が死んでしまう気がします。

 

ただ、劇中でこの仮面の少女が現れる場面については太田道灌もある意味重要人物だと考えられます。

『要となる城 気付く歌』の時も、豊前江の手で殺された時も、舞台上では仮面の少女と共に道灌が存在していました。

仮面の少女は「記録にも記憶にも残らなくてもそこに居た」もの。

山吹伝説という名もなき少女*5からの想いを受け止めた道灌と仮面の少女は繋がりがあったとも考えられます。

道灌と共に現れる仮面の少女は必ずその手に山吹の花を持っていたので……。

こう考えると道灌も豊前江も何かしら少女との繋がりを持ちながら、無意識のうちに存在を認識していたのかもしれません。

 

余談ですが、強大な【ケガレ】を【浄化】する方法として「祀り上げ」というものが存在します。

この「祀り上げ」の最大規模とされているのが、菅原道真で有名な北野天満宮と将門公で有名な神田明神なのだそうです。

心覚の考察で引用している小松和彦氏の本はこういった内容も書かれているので、興味がある方はお手に取ってみてください。

 

 

 

 

 

問わず語りから見える風景

もはや名曲と名高い『問わず語り』ですが、凱旋公演は更にパワーアップしていて本当に良かったですね……。

しかも両A面シングル化!!おめでとうございます!!!買います!!!!

初日公演では聞こえなかったサビのファルセットがとても綺麗に聞こえてきたときはその優しい旋律にまた画面が滲んでしまいました。

この『問わず語り』で歌われる風景はおそらく江戸から東京にかけてのもの(泰平の世の風景)で、その中にみほとせとあおさく、あの二大巨編に繋がるものがあるなあと思った話です。

 

「群青の空 黄金色の波

 棚引く水穂

 実り 祈り」

 

ここの「黄金色の波」からの「棚引く水穂」……これ、あおさくで吾平(信康)が語っていた夢が叶った風景なんじゃないかって……。

「戦は腹が減るから起きる」……あおさくで、秀忠に信康は言いました。

そして、「国中の土地という土地を畑や田んぼに変えて、戦などする気も失せるくらい国中の者の腹を膨れさせてやる」ことが夢だと。

この「黄金色の波」は桑名江たちがあの世界に植えた山吹を指しているようにも思えます。

しかし、「棚引く水穂」や「実り」と続くことで、たわわに実った稲穂が揺れる「黄金色の波」という解釈もできます。

水田一面に実った稲穂が一斉に、群青色の空の下で揺れる風景。

それは、人の空腹を癒すもの。家康とは別の道で泰平の世を目指した信康の夢です。

腹を満たせずとも必要である花(山吹)と、腹を満たすことで戦をおさめる稲穂。

どちらも「黄金色の波」を作り出す「実り」であり、信康や道灌、そして「そうだったらいいなあ」と口にした村雲江の「祈り」を背負っているものです。

どちらの意味にせよ美しく、そして優しい歌詞だなと感じます。

 

また、曲のメロディについては作曲家である和田俊輔さんが自身のVoicyチャンネルで語ってくれていましたが、これがまたいい話だったので、聞き逃している方はぜひ聞いて頂きたいです…。

この優しい歌詞を活かすやわらかなメロディはこうして作られたのか!と感動しながら聞いていました。

個人的には最後の歌詞のメロディの話がものすごくぐっと来たので、⑤まで聞いて欲しいですね…。

「聞いて欲しかったひとりごと」がどんな「ひとりごと」なのか。歌詞を見て作られたメロディに込められた想いを知ることができます。

もっと『問わず語り』が好きになる、そんな素敵なお話でした。

 

 

 

 

 

2部のはなしをしよう

前回、前々回はとにかく1部の考察とか感想で忙しかったのですが、今回ついに2部に触れていきます!!

といっても、2部に関しては考察というより簡単な感想になるのですが。

 

初見では全員衣装がここまでバラバラになると思わなくて戸惑った記憶があります。

でもよく見てみると、全員衣装のどこかにあおさく組とかつはもの組に使われてるあの和柄の生地が組み込まれているんですね…!!*6ちゃんと共通点あった!!

それぞれの特徴にあわせたテーマで曲が提供されているのも良かったですし、あと8振り同時に歌う曲が多めなのもうれしかったです。

特に『ETERNAL FLAME』がサイコーーーーに好きです。たのしすぎる。

第3形態もすばらしかった。はやくあの衣装で『獣』踊って欲しいですね…!!!!

 

個人的には大典太御手杵と兼さんに並んでミュ三大股下男士を結成してほしいです。

 

 

 

江と夢~葵咲本紀を添えて~

2部はそれぞれの特徴にあわせたテーマの曲があった、と先ほどお話したのですが、その中でも特に印象的だったのが江の『I want to be here』です。

メロディのアイドル感もさることながら、この曲のサビがどこまでも江。

 

「僕らの先は夢 誰も邪魔できない

 手にしたその鍵は 重ねた奇跡

 扉の先は未来 無限に広がる

 Ah みんな一緒なら」

 

最初聞いたとき、ジャ●ーズ?????となるくらいアイドル感ばりばりのキラキラソングなんですが、ここで「夢」というキーワードが江にあてはめられているのがエモくないですか……???

「夢」は江にとって大事なテーマです。

というのも、江として初登場した篭手切江があおさくで「夢」というキーワードを背負っていたから。

初めて舞台に出る際に歌ったのは『未熟な私は夢を見る』……最初は篭手切江のみのすていじでしたが、音曲祭で豊前江・松井江・桑名江を加えたまさに「夢」の状態で披露されました。

ここで「夢」が叶った!と思いきや、サビが終われば他の江たちは退場し、あれはまだ篭手切江の「夢」であったことがわかります。

また、あおさくの見せ場である稲葉江との対話シーンで歌われたのは『夢語り』です。

ここで篭手切江は怨恨に身をゆだねる稲葉江へこう語り掛けます。

 

「哭いてもいいです 嘆いても構わない

 ただ見失わないで… 共に共に夢を見ましょう

 

いつか江が揃って歌って踊ることを「夢」見る篭手切江が、自分の物語や江のことを忘れてしまったかつての仲間へ、「共に夢を見ましょう」と語りかける。

江にとって「夢」は「江であること」と繋がっているのではないかなと。

 

「夢は見るもの/見るために在る

 夢は語るもの/物は何を語る?

 夢は共に/影だろうが

 目指すもの/在るものは在る」

 

そう考えると、『夢語り』のこの歌詞はすべての江へ向けられていると考えてもいい気がします。

しかもこの歌詞のパート分け、「夢」の部分がすべて篭手切江なんですよね。

そして必死の語り掛けに呼び戻された稲葉江を闇から解放するのも篭手切江の台詞です。

「また、一緒に夢を見ましょうよ、先輩」

江は【江だと思われる無銘の刀】の集まりです。

それは自分たちが江だという「夢」を見て、「夢」を語り、「夢」を共に目指すから実現しているのかもしれません。

あおさくで稲葉江を呼び戻し、歌合では桑名江・松井江の顕現に深く携わった篭手切江が誰よりも「まぶしいすていじ」を「夢」を見ているから。

 

こう考えると、今作で江が歌った「夢」というキーワードが大変にエモい。

『未熟な私は夢を見る』の篭手切江は最終的にまだ「夢」を叶えられていません。

でもこの心覚で集まった江は、その「夢」を叶えて、歌として語り、共に目指しています。

「みんな一緒なら」自分たちの先にある「未来」は「無限に広がる」と歌っているんですよ……。

そして曲のタイトルともなっている言葉が『I want to be here』……「ここに居たい」という確固たる意志。

 

「ここに立ち続けられるのなら すべて越えてやる」

「散り散りの想い集め ひとつになった今を

 心に刻んで 目に焼き付けて

 ずっと I want to be here」

 

この辺とかもう歌詞が江そのものじゃないですか……。

キラキラアイドルソングかと思いきやテーマが深い。それが江。

篭手切江……ここに江はいるよ、「夢」を歌い、「夢」を見ながら、ちゃんと存在しているよ……。

江が6振り揃う時を楽しみにしつつ、今後なにが起こるのかをおびえて待ちたいと思います。

 

 

清らかな水と見えないもの

今作は1部と2部の最後が繋がっていました。

ここの時間軸については前回考察した通りです。

もっとも分かりやすい演出として、2部の最後に舞台上へ集まった時間遡行軍が明らかに客席側…つまり、現代に居る我々の方を見ている、というものがあります。

1部冒頭では客席に視線を向ける前に結界に阻まれ、1部終盤では中央に降り注ぐ砂の方を向いている遡行軍が、2部の最後では此方側を向くのです。

「正しい歴史」という「大きな川の流れ」の水を濁す存在が、いまこの現代に降り立った。

その瞬間、濁った水を一瞬で清らかなものに変える澄んだ音と共に現れるのが水心子正秀です。

とにかく水心子正秀の刃は研ぎ澄まされています。魚も棲まないほどに。そして、月が宿るほどに。

あそこは何度見てもかっこよすぎて背筋が震えます。

2部で盛り上がった心を一瞬で現実に引き戻して、刀剣男士の役目と強さを見せてくれる。

水心子が口にする「刀剣男士の誇り」とはこういうことを言うのだなと感じる、大好きなシーンのひとつです。

 

カーテンコールでは各登場人物が姿を現します。

その中には名もなき雑兵と共に、あの仮面の少女も登場します。

しかし、少女はそこにしか現れませんでした。

最後、刀剣男士が『刀剣乱舞』を歌う時も、挨拶をするときも、去っていくときも。

少女は名もなき雑兵と共に現れたのみで、姿を消します。

「見えなくなった」と言った方が適切でしょうか。

刀ミュは挨拶の時も物語としての姿勢を崩さない作品です。

1部の最後で水心子にも認識できなくなった少女は、カーテンコールの一瞬のみ(存在していたかしていないかわからない)名もなき雑兵たちと共に姿を現し、また見えなくなったのではないかなと。

ほんの一瞬だけ、あそこでも道灌と同時に存在してるんですよね、仮面の少女。

それはそれとして、カーテンコールの仮面の少女のキレッキレのダンス、かっこよかったな……。

 

 

 

 

 

想像力と東京心覚

改めて見てみると、やっぱり東京心覚は一度見ただけでは捉えきれないものが多く散りばめられていると感じます。

私はこうして独り言を書き散らすことは慣れているのですが、他者へおすすめする巧い言い回しなどは思いつきません。

なんか…すごくいいから見て……という語彙力のかけらもないおすすめ文が出来上がります。

 

この作品に関して理解を深めるために、様々な物語を読んだり思い出したりしているのですが、一番最初に思いついた物語について少し触れてみたいと思います。

この【明確な答え】が示されない、わっかんねー!と思うと当時に想像力を搔き立てる作品を見た時、脳裏に浮かんだのは「想像力を使いなさいよ」という、とある物語の台詞でした。

これはハイム・ポトクの短編小説である『ゼブラ』に出てくる台詞です。

『ゼブラ』という題名に聞き覚えのある方もいるかもしれません。これは中学の国語の教科書に掲載されていた短編小説です。

『ゼブラ』は事故で挫折した少年(ゼブラ)が、同じ傷を持った美術の先生(ウィルスン)に出逢い、想像力を使いながら互いの傷を乗り越えていく話です。

この美術の先生が絵を描く子供たちへ語り掛ける言葉に、「かこうとするものの輪郭を見るのではなく、その輪郭を包む空間を見ること」というものがあります。

輪郭そのものではなく、それを包む空間を見る。

目に見えるものをそのまま受け止めるのではなく、見えるものを包む空間、つまり「想像力」を駆使して目に見えないものを見る、ということです。

学生の立場から見ると、ここテストに出たら嫌すぎますね……教育用語だと「象徴認識力」と呼ぶようです。*7

『ゼブラ』における「想像力」について研究している論文には、美術の先生の台詞に対しこう記されています。

 

 輪郭とは、ある既存の概念やことばを通して個物を個物としてとらえること、つまりあらかじめ概念的に規定されている目なら目という輪郭、唇なら唇という輪郭で事物をとらえ、理解した結果に過ぎない。事物が輪郭として概念的に現出する以前の、「線」「丸み」「形」へと視点が転換されることで、既存の事物の概念的な理解は揺さぶられ相対化されていく。(中略)

 そして、ウィルスンは、輪郭を包む空間を見ろと言っている。これは、既存の概念的な輪郭として個物に捉えられていることから脱却し、輪郭にこだわらず、個物に溺れない全体性への視点を持つことである。

中村哲也.教材「ゼブラ」と思春期の心の成長──共感と回復──.福島大学人間発達文化学類論集.第8号,p21-32,2008(福島大学学術機関リポジトリ)hdl.handle.net/10270/2025 ,(参照 2021-05-29)

 

私は『ゼブラ』から「想像力」を駆使して、見えているものを包む空間を見ることを学びましたが、この論文を読んでみると「線」や「形」といった輪郭以前のものを見つめることで全体性への視点を持つという点が今作の水心子の行動に繋がっているようにも思えます。

さらにいえば、物語という輪郭ではなく、その中にある刀剣男士や歴史上の人物の想いへ目を向けることで、なんとなく作品に込められたものを感じ取れたような気がしています。気がしているだけですが。

 

この考察も感想も正解ではありませんし、私個人が感じた『東京心覚』でしかありません。

でもこれが「間違い」なのかと問われると、それもやはり違います。

「みんな、何が【正しい】なんて無いんだ」

この水心子の言葉がすべてです。

 

最初は何も見えなかったのに、いつのまにか温かくて、ふわふわで、とても優しいものになっていた東京心覚。

こんな時代になってしまっても、こんな時代だからこそ出逢える物語がそこにはありました。

出演者・スタッフをはじめとした関係者はもちろん、観客であった審神者のみんなも頑張ったんだって、最後の最後に刀剣男士から褒めてもらえて、拍手までもらえたから、やっぱりこの歴史は守る価値があるものなんだなと思えました。

この2か月間、ずっと想いを馳せて、心を揺さぶられ続けた物語。

間違いなく、この先の人生をそっと支えてくれる名作に出逢えたと思っています。

この先立ち止まったとしても、心覚のことを思い出せば前を向けるし、笑顔を増やすこともできるはず。

ありがとう、東京心覚。ありがとう、ミュージカル刀剣乱舞

 

シングルCD、アルバム、円盤の発売を心待ちにしながら、はからずとも長編となってしまった考察と感想を一旦区切りたいとおもいます。

ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました!

また次の考察と感想でお会いできることを願って。

 

 

 

 

*1:大千秋楽のアーカイブ配信だと見えにくいのですが、凱旋初日の配信でそこが映っていたので円盤にも取り入れて頂きたい所存。

*2:【此縁性】は仏教における【縁起説】の一種

*3:摩訶般若波羅蜜経阿弥陀経

*4:冒頭や終盤で東京に現れる寸前、ピアノの調律みたいな音が入っているので

*5:紅皿という名が与えられている場合もありますが

*6:水心子のベルトとか江のジャケットとか!

*7:私は教育関係の人間ではないので深く解説することはできないのですが…。

彼らが旅に出る理由~にっかり青江単騎出陣 感想と考察~

f:id:mugsim:20210520173713p:plain

 

勢いだけで筆を執りました。

あの、青江単騎……すごかったですね……っていう話です。

5月15日に配信された全景版・スイッチング版、どちらも衝撃的で震えて泣きました。

まだまだ旅は始まったばかりなのですが、感情が溢れすぎてどうしようもないので、ふせったーに書きなぐっていたことを加筆修正しつつ一旦ここにまとめておきたいと思います。

感想と考察どころか感情しかない。感情の真空パックです。

これから青江単騎みるよ!という人にはあまりおすすめ出来ないネタバレ具合なので、そこのところよろしくお願いします。

あと所々に東京心覚の話も出てくるので、そこもネタバレ勘弁!という場合もご注意ください。

 

 

 

 

 

 

青江という衝撃

最初に青江が単騎出陣すると聞いたときは公演内容の想像がつきませんでした。

歌合で講談はしていましたけど、講談師として全国行脚するわけでもないだろうし……単騎でどんなことを……?

加州清光はソロ曲を持って単騎出陣をライブツアーとして成し遂げていますが、青江には加州くんのようなソロ曲はありません。

じゃあ源氏兄弟の双騎みたいに、自分のルーツを辿る旅を青江がするのだろうか?それはもはやゲームに実装されている修行では?京極家に行くのか?

そんな貧相な想像力をはるかに上回る内容をぶつけてきたのが今回の青江単騎です。

いやすごい。すごいとしか言いようがない。

これを2年かけて全国でやることも、この内容を書ける人がいることも、この脚本を演じきれる役者がいることも、この空間を作り出せる多くの関係者がいることも。

ミュージカル刀剣乱舞の引き出しの多さに戦きました。

 

この場末のブログの過去記事を見るとわかることではあるのですが、わたしは歌合から刀ミュに足を踏み入れた新参者です。

何もわからない状態で現地参戦をして記憶が混濁するなか、唯一はっきり覚えていたのが青江の講談でした。

真っ暗な真冬の会場を静かに底冷えさせていった異様な空間。

2.5次元舞台というカテゴリーで括るには勿体無いほど確かに怪談を語りきった青江。

初心者にとっては物凄い衝撃的でしたし、いまだにあの風景と空気を忘れることはできません。

その青江が、こんなに鮮やかで美しい、唯一無二の単騎出陣を魅せてくれたことはそれを上回る衝撃といっても過言ではないわけです。

生きててよかったな……としみじみ思いました。

ミュージカル刀剣乱舞は人生に効く。

 

 

 

 

 

物語と青江

青江単騎は、なぜ青江が旅に出ようと思ったのか、その理由を語るところから始まります。

根底にあったのは青江も深く関わった三百年の子守唄と、その先を描いた葵咲本紀でした。

 

 

鳥居元忠血天井

訥々と語ることもできるのに、敢えて抑揚をつけた講談スタイルをとりながら、青江は(恐らく蜻蛉切が葵咲本紀の最後にタイトルをつけていた)史実をもとにした記録を語りました。

それは本編では描かれなかった、物吉貞宗の最後の任務。

家康の忠臣・鳥居元忠の最期を飾った、伏見城の戦い。

任務の中で実際あった家康と物吉くんの会話を交えながら、軽快に語られる闘いの記録。

しかし、その裏にあった凄惨な現場を、青江は見ていました。

血塗れで、臣下だった武士たちの屍に囲まれて、笑顔を失った物吉くんの姿を。

この話を聞いたとき、よりにもよって物吉くんになんてことを……と感じながらさめざめ泣いてしまいました。

 

これは鳥居元忠血天井という歴史的な出来事のひとつです。

伏見城の戦いで最終的に鳥居元忠とその臣下の武士約300名は切腹しています。

その亡骸が回収されるのは関ヶ原が終わった後。そのころには彼らが流した血の跡は伏見城の床板に染みついて、とれなくなっていました。

この血が付いた床板は元忠達が「本物の三河武士」であり「家康のかけがえのない忠臣」であることを称える、歴史的な遺物となっています。

床板なのになぜ天井なのか?

それは家康が彼らの忠義に感動して、床板を供養するため徳川家に関係する寺院へ納めた際に「足で踏まれないように」天井板としたことからきています。

この血天井は京都にある養源院のものが切腹した武士たちの手形や姿を象る血痕が残された一番壮絶なものだそうです。

 

目の前で臣下だった武士たちが次々と自刃していくのを、床や天井まで飛び散るほどの血を浴びてみていた物吉くんの顔からは笑顔が消えていた、と青江は語っていました。

赦されることならば物吉くんだって彼らを救いたかったでしょう。その死にざまから目を背けたかったでしょう。

だけどこれが歴史。

生涯をかけて徳川家康を支えた忠臣、鳥居元忠の最期。

家康が江戸幕府を築くために必要な歴史を創る物語。

こうなることがわかっていて、それでも物吉くんはみほとせで鳥居元忠としての役目を受け入れたのです。

最後まで家康を支え続けるという覚悟と、どんな時でも笑顔を絶やさなかった物吉くんの在り方の矛盾があまりにもつらい……。

 

みほとせで「違う結末」を期待していた物吉くんに、青江は言いました。

「手に入れてしまった以上、捨てることはできないから」

「心のこと。あまり無理をすると、壊れてしまうんだって」

青江が語った伏見城の物吉くんはきっと壊れる寸前だったんじゃないかとわたしは思います。

あそこで青江が迎えに行かなければ、完全に壊れてしまっていたのではないかとも。

物吉くんの心が砕けないように駆け付けた青江は、「悲しい役割」を分け合おうとしてくれていたのでしょう。

青江が歌う『かざぐるま』の最中、赤いライトが当たった場所はきっと伏見城の血痕を表現しているんじゃないかなと。

ダイレクトに人間に関わるみほとせと葵咲はしんどさのレベルが極……。

 

また、あおさく本編で村正が「物吉くんが死にマスよ」と言っていたのは間違いではなかったのだというツイートを何方かがされていて、確かに…!!!!!となりました。

村正が言っていたのは、史実としての鳥居元忠の死だけではなく、物吉くんの心が死んでしまうということだったのかと……。

そうなってくると、信康の件もあわせて村正が怒るのも仕方ないな…という気持ちになる村正推しの審神者です。

 

 

かざぐるまと幼子

みほとせで経験した任務を思い返しながら、青江はこう語ります。

「あれはまだ、かざぐるまを回す風の吹く時代だった」

かざぐるま。みほとせのテーマ曲。

青江はみほとせで、幽霊とはいえ幼子を斬ったことへの後ろめたさを、子育てをすることで少しずつ昇華していました。

きっかけとなったのは石切丸の言葉。

「君は、神の子を助けたんだ」

この台詞、本当に天才的ですよね……後悔を語る青江へかける御神刀の言葉として本当に天才……。

 

幼子とかざぐるまと聞けばもちろん最初に思い出されるのは玩具なのですが、かざぐるまはそれ以外にも水子供養のシンボルとしての面も持っています。

水子は流産や中絶、生後まもなく亡くなった赤子を指しますが、これは近年確立された概念で、それ以前は出生後に亡くなった幼児を指していたとされています。*1

家康の幼少期、つまり竹千代が生きていた戦国時代は戦の影響で命を落とす子供も多く、登場人物のひとりであった吾平は妹を亡くしたことで戦うことを決意していました。

さらにいえば、江戸時代は経済的な理由から生まれた子供を間引きすることが多い時代でした。

 

日本では、平安時代の『今昔物語集』に既に堕胎に関する記載が見られるが、堕胎と「間引き」即ち「子殺し」が最も盛んだったのは江戸時代である。関東地方と東北地方では農民階級の貧困が原因で「間引き」が特に盛んに行われ、都市では工商階級の風俗退廃による不義密通の横行が主な原因で行われた。また小禄の武士階級でも行われた。

子殺し - Wikipedia

 

また、あおさくでは結城秀康と永見貞愛が双子だという話をする際、「畜生腹」という単語が出てきます。

畜生腹から生まれた双子は不吉とされ、間引きされるケースもあったそうです。

 

ちくしょう‐ばら〔チクシヤウ‐〕【畜生腹】
《犬・猫などの動物が、1回に2匹以上の子を産むところから》
1 女性が1回に二人以上の子供を産むことをののしっていった語。
2 双生児や三つ子などをいった語。また、男と女の双生児。前世で心中した者の生まれかわりとして忌み嫌われた。

畜生腹とは - コトバンク

 

こう見るとみほとせもあおさくも、子供の死と表裏一体なんですよね。

青江が言う「かざぐるまを回す風」は、お供え物としてのかざぐるまを回すものでもあったのかな…とか考えてしまいました。*2

まあ、水子供養水子を弔わなければ祟りが起こる)という信仰は戦後に成立したものなのですが……。

幼子が簡単に命を落とす時代に、後に神となる子を救い、育てた。

これだけで、青江の抱える夜は明け方に向かっていたのだと思っていました。

でも実際はそうじゃなくて、青江の中にはまだ後悔が残っていた。

そこと向き合うための単騎出陣だなんて、いったい誰が予想できるんです……?

 

 

 

生きるという苦悩

青江が遡行軍と刃を交えながら叫ぶ「僕がもっと強ければ、彼らは刀のままで居られた」という台詞。

これ、「物のままで居られたら心を得ることもなかったのに」って聞こえるんですよね……それって、歌合の『八つの炎 八つの苦悩』の歌詞にも繋がる言葉だなと…。

「刀のままで居られた」ら、刀剣男士として心を得ることもなく、迷うことも惑うことも弱さを知ることも強さを求めることもなかったわけです。

青江は「自分が強ければ、心を得ることで生まれる苦しみや痛みを得る男士が増えなかったのに」と言っているんですよ…。

 

歌合で新たな刀が生まれる寸前、刀剣男士になる前の存在が歌った『八つの炎 八つの苦悩』の歌詞はこうなっています。

 

「我を呼び起こすのは 燃えたぎる八つの炎

 我に与えられたのは 肉体と八つの苦悩

 五蘊盛苦

 身に宿る苦しみ 痛み 悩み

 何故我を生み出した」

 

肉体を得ることと同時に苦悩を得る刀剣男士。

「八つの苦悩」は仏教における「四苦八苦」です。

生まれた事で背負わなければならない苦しみの数々。

「四苦八苦」のうちの「四苦」とは「生苦」「老苦」「病苦」「死苦」を指し、「八苦」は更に「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」を「四苦」に足したものを言います。

五蘊盛苦」は「肉体を得たことで発生する苦しみ」を意味します。

「四苦八苦」のうち七つの苦しみはすべて生きるための肉体があるからこそなのだ、という苦しみ。

生きることは苦しいことなのに、何故肉体を与えて自分を生み出したのか。何故苦しいのに生きなければならないのか。

人に扱われるだけの刀のままであったなら、疑問を抱かなかったであろうこと。

武器の視点から人の身の不便さ、不条理さを問うているのがこの歌です。

青江はそんな苦しみを得て顕現する仲間が増えるのが「いいこと」ではなく、自分が強くないから=戦力が足りていないから起こることなのだと言うのです。

それはみほとせと葵咲の間で起こった伏見城の戦いで、青江が心の痛みを感じて生まれた想いなのでしょう。

 

刀のままで居られたら、苦しみを感じることはなかった。

刀のままで居られたら、痛みも感じることはなかった。

刀のままで居られたら、悩むことも立ち止まることも。

「悲しい役割」を背負うこともなかったのに。

 

青江のなにが優しいって、痛みを感じる原因に他者が関わっているところです。

自分自身の後悔や弱さを直視しながら感じた痛みというよりは、他者の痛みを介して自分の後悔や弱さを思い返したというか。

みほとせで「悲しい役割」を分け合おうとしてくれた青江ならではの痛みだなとおもいました。

しかも求める強さというのが単純な戦闘力ではないという……「敵を倒すだけの強さ」は青江の求めるものではなく、憧れているのは「守るための力」なんですよ……。

こんな想いを抱えながら歌合に参加していたのだと考えると……そりゃ新しい刀剣男士が顕現する時も、顕現した後も張り詰めた空気を纏っているよなあ、と……。

 

 

 

 

遡行軍と刀剣男士の抱える想い

幽霊との対話シーンで、青江ははっきりと己が抱える後悔を口にしています。

「僕がもっと強ければ、流れずに済んだ血も、失われずに済んだ命もあったはずなんだ」

これに対して、幽霊は「歴史を変えてしまえばいい」とささやきます。

それでは自分たちの敵と同じだと叫ぶ青江へ、幽霊は「彼らとあなたの抱える想いに違いはない」と答えていました。

時間遡行軍も刀剣男士も付喪神であり、それぞれに正義がある。

流したくなかった血、失いたくなかった命、抱える後悔をなくすために歴史を変えたいという願いを持っている。

「そこに違いはない」という真実と向き合った時、どちら側に心が傾くかで初めて違いが生まれるんですね……。

ここ、あおさくにも繋がっている気がします。

篭手切江のやっていることを明石が「気に入らない」と口にするあのシーンに。

でもあそこの明石は向き合うというより、敢えて見ないことを選択するような言い回しをしていたのが引っかかります。*3

ブログ書くたびにあおさくのこのシーンについて言及してる気がするんですけど……それだけ重要度が高いサビということで……。

 

 

 

 

 

青江の役割

今作はミュ本丸における青江の特性や役割が深く携わっている物語だなと感じています。

特にこれ!!と思ったものを叫んでいいですか?

 

 

 

彼岸と此岸を繋ぐ役割

今作最大の見せ場である、女の幽霊と青江の同時会話シーン。

まさに「憑依」という言葉が相応しい、鳥肌ものの場面でした。

青江が居る舞台自体が能舞台を表現していると有識者のふせったーで拝見したのですが、じゃあ能における能面の役割はなんなんだろうと調べたら、能面をつける存在は「人ならざる者」を表現しているそうなんですね。

その能面をつけた存在をシテ(主役)と呼ぶんですが、このシテは幽霊や鬼・神様といった異界の存在であることが多いそうなので、今回は女の幽霊に当てはまるなあと。

 

シテは「あの世」と「この世」を繋ぎ、観客を異界へといざなう存在。

真剣乱舞祭は「彼方側」と「此方側」を繋ぐ祭。

そして2017年に行われた乱舞祭で、百物語、つまり怪談を軸に「彼方側」と「此方側」を繋ぐ役割を担ったのが青江です。*4

乱舞祭は2018年に繋がりが確かなものになり、2019年には此方側へ彼方側のもの=刀剣男士を呼ぶ祭と進化していきます。

2016年が完全に彼方側だったとするなら、青江がいざなった2017年がちょうど中間地点とも呼べるのではないでしょうか。

 

また、歌合では人魂と幽霊の違いについても語っていた青江が、今回満を持して幽霊と対話するというのも個人的には興奮しました。

あの時、青江はこう語っています。

曰く、人魂は「彷徨い果てて形をなくした思念」ではなく「まだ何物にも染まっていない純粋な思念」である。

曰く、幽霊は「執念深くこの世にしがみついた結果、【こうでありたかった姿】がはっきりしているモノ」である。

歌合では人魂に対し「いい子だ」と言葉をかけていたのに対し、単騎出陣で幽霊に翻弄されながら自分の後悔や弱さと向き合った青江。

あの幽霊は青江とずっと一緒に居たものであり、水面に映る青江の虚像でもある存在なんですよね……。

見えないだけで、見ようとしていないだけで、ずっとそこに居てくれたもの。

「見えていなくても月はそこにあるんだ…まあるいはずなんだ」

これは東京心覚で水心子が歴史がどういったものなのか知ったときの台詞です。

歌合の講談でもそうでしたが、今回青江が幽霊と対話している夜にも月が出ていません。

これもまた、新月の夜に語られる仄暗い話だったんじゃない?!と乱舞祭2017だいすき人間は思うのでした。

 

 

 

本当の願いと脇差の特性

己が抱えていた後悔や弱さと向き合った果てに、青江は本当の願いを口にします。

そこで「誰かを笑顔にしたい、できれば自分も心から笑いたい」と願うのは脇差の特性が現れてるのかなと感じました。

 

ミュ本丸の脇差、というか脇差という刀の在り方は「手助けをすること」にあるのではないかなと考えています。

脇差というものは二振り目、予備の刀であって、武士階級以外も持つことができた武器です。

名だたる武将や、名もない民草の「いざと言う時」を支えてきた存在。

刀剣男士としても、二刀開眼で打刀を支える特性を持っています。

 

歌合のオタクなのでまた歌合の話をしますが、歌合では開演前のアナウンスを篭手切江・物吉貞宗堀川国広審神者のお手伝いをするために現れました。

冒頭の『奉踊』が始まる際、青江・堀川国広・物吉貞宗・篭手切江の立ち位置が実は一列になっています。これをわたしは勝手に脇差ラインと呼んでいます。

新たな刀の顕現シーンでも、刀剣男士となる寸前の仮面をつけた存在の近くにいたのは篭手切江・物吉貞宗堀川国広です。 *5

「共に闘うため 使命果たすため」と誰よりも必死に呼びかけていたのは篭手切江。

そして顕現した瞬間、布を取り、新たな刀剣男士の披露を手伝うのは物吉貞宗堀川国広

すごいお手伝いしてるんですよ脇差

この時、青江だけは左端で刀に手をかける姿勢をとっているのですが……その胸の内にあったのが、今回の単騎出陣で語られた葛藤だったのでしょう。

ちなみに、『君待ちの唄』で刀剣男士としての身体を形作る歌詞を歌う際、脇差は「臓器(心臓・眼・手足・口・肺)」のパートすべてに存在しています。

これもまたお手伝いといえばお手伝い(こじつけ)

 

これまでのミュ本丸の物語のなかでも、脇差は何かを手助けする存在であったと感じられます。

物吉貞宗はみほとせで、徳川家康を育てるための基盤となり、鳥居元忠として後に神となる子を支え続けました。

堀川国広は幕末で蜂須賀と長曽祢の仲を取り持とうとしたり、むすはじで兼さんの憂いを晴らそうと単身で土方歳三のもとへ乗り込んで行ったりと、自分の欲望より他者の幸福を想った行動をとっていたと感じます。

そして篭手切江は、遡行軍となってしまった同胞・稲葉江に「物語を思い出してもらう」ために行動していました。

これらの行動はどれも、誰かの手助けをする、という共通点があるように思えます。

 

青江はみほとせで石切丸の行動を見守り、そして最後は「一緒に笑ってあげる」ことをしました。

けれどそれは彼の中では本当の手助けではなかったのです。

彼がしたかったのは、心から笑えない自分が一緒に笑ってあげることではなく、「誰かを笑顔にして、出来れば自分も心の底から笑う」こと。

それが本当の願い。彼にとっての手助け。

誰かを支えるということ、誰かを守るということ。

 

他者の悲しみや痛みから、己の心の痛みを感じて旅に出ることを決めた青江が旅の果てで見つけたのが「誰かを笑顔にしたい」という願いであり、そしてそれを教えてくれたのがこんな時代であることは、東京心覚で水心子正秀が見つけた答えと似ています。

「笑顔になれることを増やせばいい」

この水心子正秀の答えと共に、いま青江から示された

「誰かを笑顔にしたい」

という願いは繋がっているのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

約束はできないという誠実さ

あと個人的にここが一番サビだな…と思っているポイントをひとつ。

青江が審神者に対して必ず帰ってくることを約束しなかったシーンの話です。

最初、青江が約束を求められて即答しなかったのは、いつものように茶化すためだと思っていました。

でも、青江は真剣に「約束はできないよ」という言葉を返したのです。

あれは自分が約束を交わす感触を知ることはできない存在だと理解していたからだと、歌合を見直していて気づきました。


歌合で青江が語ったのは『菊花の約』です。

重陽節句に起こった、かなしい約束の物語。

その物語は、こんな戒めから始まります。

 

【交は軽薄の人と結ぶこと勿れ】

 

軽薄な人との交友は結びやすいが途絶えやすく、価値がないものだと。

それに対し、青江はこう話しています。

「軽薄なものには価値がない、それは同意するけどうらやましくもあるね。

だって僕は君に強く握られたり撫でられたりはしても、結果、斬ることしかできない。

鍔迫りの痛み、押し込む圧、刃毀れさせる興奮はあっても…交わるとはどういう感触なのか、知ることはできないからね」

刀剣男士は人に触れることはできても、交わること、結ぶことの感触を知ることはできない。

最終的には何かを斬ることが目的だから。

 

修行へ向かう青江へ審神者は「必ず帰ってくると約束してほしい」と言葉を投げかけますが、青江は即答しませんでした。

すこし困ったような、悩むような顔をして、「折れてしまうかもしれないからね。約束はできないよ」と返します。

ここで偽って頷くこともできたのに、青江はそうしなかった。

約束を交わす感触を知らない自分がそこで偽ることは、それこそ軽薄で、結ぶべき交わりではないとわかっていたから。

きっと、あの返答こそが青江の誠意だったんですよね……。

そして、言葉では何とでもいえることも知っていたから、「せめて舞わせてくれないかな」と自ら決意を表現する舞を披露したのだと思います。

あの舞、本当に素晴らしくて見るたびに心が強く揺さぶられました。

ミュ本丸の刀剣男士は本心を歌で語ることが多いのに、青江は敢えてなにも語らず、舞だけで心を伝えてきた。

めちゃくちゃかっこいい……動きのキレ、しなやかさ、表情……どれをとっても頭からつま先までにっかり青江なんだもん……。

 

誰かの悲しみや喜びを一緒に分かち合おうとしてくれて、でも心の底から笑えない自分の弱さや抱えた後悔を見ないふりしていた青江。

みほとせ本編では石切丸の心を支えていましたが、今回の単騎で他の刀たちのこともしっかり見守り、その本質を見抜いていたことがわかります。

子育てが得意な蜻蛉切。誤解されやすい村正。寡黙に他者を思いやる大俱利伽羅。

たとえあの時本当に笑えていなかったとしても、青江は「楽しかった」と口にしています。

共に歴史を守り、創っていくことが楽しかった。

だからこそ、自分がその中で本当に笑えていないことに何となく気づいていたのだと思います。

 

そして青江は、自分の本心を語ることが苦手なのだと言っていました。

実際、みほとせ本編で彼が本心を吐露するようなソロ曲を歌うことはありませんでした。*6

そんな彼がひとりで歌い、語り続けるこの単騎出陣こそ本当の青江の声で、それを何年もかけて、やっと我々は見聞きすることができたのではないかなと。

考えれば考えるほど歌合の青江を見る目がまた変わっていくんですよね……なんて奥が深いんだ……。

 

これは余談なのですが、歌合で青江がメインだった曲といえば『Nameless Fighter』です。

もうこの単騎出陣の内容自体めちゃくちゃNameless Fighterなんですが、歌合の映像みてると、サビ前のパートでめちゃくちゃ大俱利伽羅が青江のことガン見してるシーンがあるんですよね……。

「僕なりのヒーロー

 キミだけのヒーロー

 隣にいるよ」

この「隣にいるよ」のところで客席へ向かって歌う青江を隣で大俱利伽羅がすごい見ている。しかもなにか想いを抱えている表情で見ている。

青江も周りを見ていたけど、周りもちゃんと青江のこと見てるし、きっと青江が静かに抱えているものも見ていたんじゃないかなと思います。

 

 

 

 

 

極の誕生と祝祭

傷ついてもがいて掴み取った本当の願いと、目を背け続けていた後悔や傷を抱えていくと決めた青江が極となって戻ってくるあのシーン、日本史に遺したほうがいいと思いませんか?

修行の手紙朗読も素晴らしいし、青江の道が拓けると同時に月が現れて闇を照らす演出もいい。

極の衣装に着替える映像とBGMの盛り上がり方も大変エモい。

そして青江単騎の『刀剣乱舞』に繋がるのもかっこよすぎる。

刀剣乱舞』のサビ前で一瞬青江がふっと笑う瞬間があるんですよ……あれがもう…すごい…青江自身の笑い声にも聞こえるけど、共に歩むと決めた幽霊の声にも聞こえます……。

 

あと、修行から帰還した青江が歌ってくれたのが歌合の最後を彩った『あなめでたや』で嬉しくてボロボロ泣いてしまいました……。

今回の内容を踏まえれば、歌合の時の青江は心の底から笑えてなかったわけですよ……。

新たな刀の顕現は戦力の増強であって「良い事ばかりではない」……「僕がもっと強ければ、彼らは刀のままで居られた」という想いを胸の内に抱えていたので……。

その葛藤や傷を乗り越えて修行から帰還した青江が、此方側に向かって贈ってくれたのが、新たな刀の誕生を寿ぐ『あなめでたや』なのあまりにもエモすぎる……しかもここの青江は歌合のときより本当に笑っている……。

 

「想いは言葉へ

 言葉は歌へ

 歌はあなたへ

 そして新たに生まれる想い

 あなたと歌合」

 

ほんと…ほんとこの歌を…「あなた」へ、此方側へ贈ってくれる青江の歌声が優しくて……。

歌合では「想ひ(火)」に焼かれる歌を詠んだ青江が、己の内に生まれた後悔や苦悩という火に焼かれながら、それを受け入れて前に進んだ先で、この祝祭のうたを高らかに歌い上げる。

これもまた、にっかり青江極という新たな刀剣男士の誕生の瞬間なんですね……。

 

また、幽霊と対話するシーンで辛さを指摘されて錯乱し自刃をしようとした青江が、

「知っているよ、ここで折れてしまえば楽になれることぐらい。でも、楽になりたいわけじゃない」

と言ったのもここに繋がる気がしています。

折れて、刀剣男士として得た心をなくし、物として扱われる状態へ戻れたら、それまで抱えていた苦悩も忘れて楽になれることを知っている。

それでも、「楽になりたいわけじゃない」と青江は言ったんです。

刀剣男士として生まれ、心を得たことで必ず宿る苦悩や痛みも受け入れて、泥臭く「生きる」という行為そのものをを肯定してくれてるじゃないですか……。

こんなの泣いてしまうでしょ……だってそれは、歌合で生まれてきた刀剣男士たちと同じ答えでもあるんだから……。

 

 

歌合の青江は誰よりも新たな刀の顕現シーンで身構えていて、笑顔を見せなくて、最後の挨拶でも「無事に新たな刀が顕現したこと、きみは喜んでくれるかな」と無機質に問いかけただけでした。

それはこの葛藤を抱えていたからなのだと1年半ごしに答えを突きつけられて歌合からの審神者、無事に入滅。

序盤の講談も泣いたけど最後の最後で背中から綺麗に刺された……。

 

 

 

 

 

刀ミュという名の文化

思うがままに色々書き殴ってきましたが、結論としては青江単騎すげえ……という話でした。

刀ミュの可能性というか、引き出しの多彩さを見せつけられたことでウワーーーー!!!!!となったオタクの叫び声です。

これまで修行に出る男士は居ても、帰還してその姿を披露した男士はいなかったわけですよ。

この先にもまだまだ沢山の可能性があって、道が広がっている。そんな風に思える光を見ました。

もはやこれは刀ミュという名の文化です……2.5次元という枠を飛び越えてどんどん進化を続けている文化。

もちろん推しにもこんなすごい公演をしてほしいけど、みんながみんな同じ内容の出陣を出来るかと問われるとそういうわけではないのもわかっています。

それぞれがその時に出せる最高の力で、新しい衝撃と感動を与えてくれたら、それが最高に幸せなんじゃないかなあと。

全員単騎という夢も見つつ、個人的には村正派双騎とか江単独出陣とかそういうのも夢みつつ、いまは青江単騎という素晴らしい作品に出逢えたことの幸福に浸りたいと思います。

 

青江の旅はこの先も続きます。

まだまだ困難な時代は続きそうですが、その中でも夜闇に浮かぶ灯篭のように、やさしい光となって全国を駆け巡って欲しいと片隅からおもっています。

ありがとう、そして行ってらっしゃい青江。

また青江の旅の話を聴く時を楽しみにしています。

どうかその旅路に素晴らしい出逢いと幸福が多からんことを。

 

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!

 

 

 

*1:水子供養の歴史的背景

*2:恐山にある水子地蔵とか、水子供養を謳うお寺とか、あの辺にはかざぐるまがたくさん置いてあるので……。

*3:歌合の考察で青江と明石が対比されているのでは?という話をしたとのですが、個人的にはこういうところも対比としてカウントしておきたいです。

*4:歴代乱舞祭から見ると2017年はまだ彼方側寄りなのかなーとは思うんですが…会場にいる観客に対して聞かせている時点で「此方側」との繋がりを保っているとも感じられます。

*5:ここに石切丸も加わっています

*6:本来なら青江の歌があったけど削られたという話を初演円盤の対談でされていたので、乱舞祭で歌われた『手のひら』がてっきりその曲だと思い込んでいたのですが、ファンサイトのキャストブログに「乱舞祭のために作られた新曲」であることを荒木さんが書かれている、という情報を先輩方から頂いて勘違いを正すことができました…知識がアップデートされた!