これは水です

これは水です

言葉の流れに身を任せながら

心に留めておけぬ二番だし~東京心覚の考察と感想②~

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来た!見た!書いた!

東京心覚、アーカイブ配信摂取後の二番だしです。

二番だしにしては味が濃いです。特濃です。

いつもながら自分なりに色々と作り上げているので、これが正解というわけではありません。

へ~こんな見方もあるんだな~、という感じで楽しんでいただければ幸いです。

今回記事に記載してる心覚の歌詞は聞いたものをそのまま文字起こししてるだけなので、あくまでも参考程度にご覧ください。

 

※前回の記事(初日だけ見た考察と感想)はこちら 

mugs.hateblo.jp

 



 

 

 

 

 

 

はじめに~心に刻むということ~

アーカイブ配信のいいところは好きなところで一時停止して調べたりメモしたりできるところです。

おかげさまでアーカイブ配信1週目は一時停止しすぎて1部見るのに1週間くらいかかりました。

同じ作品のアーカイブ配信2回買ったの初めてです。配信期間長くしてくれてありがとうDMM…ありがとうミュージカル刀剣乱舞…。

前回の考察と感想は一瞬のうちに駆け抜けていった感情たちをかき集めて形にしたものでした。

対する今回はじっくり見ながらひとつひとつ確かめていったものの集まりなので、たぶん味が濃いです。

どうまとめようか迷ったのですが、とりあえず作中の時系列に沿って話を進めていきたいと思います。

 

東京心覚は見れば見るほど新しい発見があって、それを調べて知れば知るほどいろんな繋がりが見えたりして、とても見応え・考え応えのある作品だと改めて感じました。

言葉で語られない部分が多い作品ほど、見る側は様々な憶測を巡らせることができます。

そしてその憶測を言葉にしてみると、謎を暴く快感と謎が消えていく寂寞に包まれます。

今回もどこまで語るべきか、すべてを言葉にしてしまっていいものかと少し悩みました。

心にガツンときた気づきや感動というのは、事細かに言葉にすると安っぽくなってしまうから。

物事の感じ方は人それぞれで、見えた景色や感じた色もきっと見た人によって違います。

この作品が私の心に遺した感覚も、完全に共有することは難しいし、そもそも共有するようなものではありません。

だからこの感動は、本当は語らずに心に秘めておくことで美しさを保てるのかもしれません。

でも、心で感じたことはどんどん上書きされていって、いつか細かなことを忘れてしまうものです。

これは私の心覚です。

いつか忘れてしまう前に、覚えておきたい美しさを独り言のように書き綴ります。

少々長くなりますが、もしお時間と興味があればお付き合いください。



プロローグ

会場BGMから流れるように開幕するあの演出ヒュッッ…ってなりました。

まずはプロローグで聞こえてくる音と、そこに現れるものに着目していきます。

 

 

通りゃんせと双騎の繋がり

優雅なクラシックからいきなりノイズが入って「かつて江戸だった場所」…つまり東京に移動するわけですが、ここで喧騒と共に聞こえてくるのが横断歩道の信号機から流れる『通りゃんせ』です。

通りゃんせは江戸時代に生まれた童歌で、発祥の地が3つほどあります。諸説あるがの!状態です。

そして、発祥の地の1つに、小田原市国府津の菅原神社があります。

この菅原神社には「曽我の隠れ石」というものが存在します。

この曽我の隠れ石、なんと曾我兄弟が父の仇である工藤祐経を討つために隠れた石と言い伝えられているのです。

結局その時は工藤祐経の警護が固くて、曽我兄弟は涙を呑んで見逃したそうなのですが…まさかここで双騎に繋がるとは思わなくて驚きました。

そもそも心覚はクラシック音楽の使い方や将門公の機能としての演出が双騎と繋がっている感じがあったのですが、まさかこんなところでも???

偶然なのか意図的なのかわかりませんが、何となく調べて椅子からひっくり返りそうになりました。

 

そして、横断歩道の信号機から流れる通りゃんせのメロディは減少傾向にあります。

信号機から流れる通りゃんせは1975年以降に『故郷の空』と共にメロディ式使われ始め、それと同時に鳥の声を使った擬音式も使われるようになりました。

しかし、2003年からは擬音式のみが使われるようになり、メロディ式も擬音式に置き換えられつつあるのです。*1

10年後、20年後には全て擬音式になっているかもしれません。

そう考えると、通りゃんせの音が鳴る信号機は廃れていく最中にあるものといえます。

廃れていく=忘れ去られていくもの…でも誰かに覚えて貰っているうちはこれもまた存在していることになるのでは?という力技解釈をしています。

 

 

ピアノソナタと水面の月

オープニングで現代の東京になる瞬間、会場内に流れている曲と、仮面の少女が初めて出てくる場面でかかる曲はどちらもベートーヴェンピアノソナタです。

1つ目はピアノソナタ8番『悲愴』第二楽章。

もう1つはピアノソナタ第14番嬰ハ短調 作品27-2 『幻想曲風ソナタ』…通称『月光ソナタ

調べてみるとベートーヴェンの3大ピアノソナタのうち2曲が使われているんです。

そして『月光ソナタ』については以下のような情報があります。

 

『月光ソナタ』という愛称はドイツの音楽評論家、詩人であるルートヴィヒ・レルシュタープのコメントに由来する。ベートーヴェンの死後5年が経過した1832年レルシュタープはこの曲の第1楽章がもたらす効果を指して「スイスのルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と表現した。以後10年経たぬうちに『月光ソナタ』という名称がドイツ語や英語による出版物において使用されるようになり、19世紀終盤に至るとこの名称が世界的に知られるようになる。一方、作曲者の弟子であったカール・ツェルニーレルシュタープの言及に先駆けて「夜景、遥か彼方から魂の悲しげな声が聞こえる」と述べている。

本作はピアノソナタ第8番『悲愴』、同第23番(熱情)と並んで3大ピアノソナタと呼ばれることもある。

ピアノソナタ第14番 (ベートーヴェン) - Wikipedia

 

つまり『月光ソナタ』は水面に映る月に関係がある曲ということです。

そして劇中で『月光ソナタ』がかかるのは水心子正秀が独白している場面であることが多いのです。

『悲愴』は『月光ソナタ』に比べるとかかる回数は少ないのですが、一応繰り返しかかる曲としてメインテーマの一部にしていいと思っています。

『月光ソナタ』は名の由来にあわせて三日月をイメージさせるのですが、同じ月光でもドビュッシーの方は使われていないので、水面がキーワードなのかな?と。

3大ピアノソナタの『熱情』だけが使われていないのも気になるポイントです。いつの日か使われるときが来るのでしょうか。

 

また、この曲がかかる時は高確率で大きな月が背景に浮かび上がります。

ここで映っている月は珍しく三日月ではないんですが、これ、もしかして「三日月の見えない部分」なのでは?

つはもので髭切が「見えない部分も月だったよ」と言っていましたが、その「見えなくても月である部分」の象徴があの月だったのかもしれません。

空に浮かぶ月と水面に映る月が「表と裏」だというのは歌合で小狐丸が教えてくれたことですが、実際今作で大きく映る半分の月が実際の月の裏側なのかというとそういうわけでもなく、月面地図と重ね合わせてみると表側なんですよ。

物理的な表裏ではなく、虚像と実像による表裏というのが面白いところです。

舞台上から見える月面には「晴れの海」と「雨の海」が映っていました。

晴れと雨、これもまた表裏一体というか、循環しているというか。

一応「氷の海」も映っているのですが、氷もまたその循環に組み込まれる要素と捉えることもできます。

実は今回浮かび上がる月には「静かの海」が映っていません。

しかし、「晴れの海」は下の方で「静かの海」と繋がっているので、見えないところでも繋がりがあるのは確かです。

だから何だよという話なんですが…「見えないところでも繋がりがある」というのは個人的なエモポイントです。

 

 

盗まれた時間は誰のもの?

オープニングで時間遡行軍が現れた際、水心子はこう言っています。

「盗まれた、時間……いや、意識か…!」

この「盗まれた」というのが何を指しているのか、何回見ても???という感じだったのですが、こう…ふわっと理解できたような気分になっているので、そのふわふわスフレパンケーキ状態解釈をまず綴りたいと思います。

「盗まれた」というのは最初「時間遡行軍に盗まれた」の意味かと思っていました。

でもどうやらそういうことではなく、むしろ時間遡行軍は「盗まれた時間・意識」側のものである可能性が高いというのが私の解釈です。

彼らが現れたのは現代の東京、つまりいま我々が生きているこの不安定な世の中です。

この現代は去年あたりから感染症によって色々な「当たり前」が崩れました。

この崩れた「当たり前」の中には、その時生まれる筈だった想いや時間がありました。

わかりやすく刀ミュ関連でいうと、パライソ・大演練の中止。そして双騎・幕末の一部公演の中止。

これらはそこで生まれるはずだった感動や、それを生み出す時間を奪い去ってしまいました。

もちろん中止はその時に必要な措置で、感染症対策としては正しい方法だったのですが、本来生まれる予定だったものが行き場をなくしたのは事実です。

また、公演が決行されても情勢絡みで見に行くことを諦めなければならなかった人の時間や想いもまたこの不安定さに奪われたもののひとつといえます。

あの時間遡行軍は、そんな「奪われたもの=あの時代に本来生まれる予定だった時間・意識」を、奪われないものとして確立させるために現れたのでは…?

「盗まれた時間・意識」というのは生まれていれば人々の記憶や記録に残るものでしたが、不安定な情勢によって生まれることができなかったために誰の記憶にも残らない…つまり、存在を忘れ去られてしまいます。

歴史に名を遺すこともできず、価値のないものとして忘れ去られていくだけの時間や意識。

それらの歴史を改変するために送り込まれたのが、あの時間遡行軍だったとしたら。

本当は見たかったもの、本当は行きたかった場所。去年から今年にかけてそんなものや場所が沢山増えました。

それを叶えるために現れたのが時間遡行軍なら、悪だと断定はできません。

今でもまだ情勢は不安定で、いつ何が中止になるかわからない恐怖は消えないわけですから。

善と悪は簡単に分かつことができない。もしこのふわふわ解釈が少しでもかすっていたら、なんだかこう…勝敗がつかない刀ミュらしいなあと思います。

 

でもこの時間遡行軍は東京に張り巡らされた結界によって阻まれています。

この結界が現れたあとに、水心子は「どこで間違えたのか…」と意味深な台詞を紡ぎます。

なにが間違いだったのか?

恐らく、結界が時間遡行軍を阻んだことを指しているのでしょう。

結界があることで危機が免れたのは事実です。

しかし、結界が阻むことで刀剣男士の出番はなくなります。

つまり、時間遡行軍が結界に阻まれる世界では、刀剣男士は必要とされない…もしくは存在していない。

本丸に続く未来が消えた、放棄された世界のひとつとなってしまう。

そしてあの時点では、その放棄された世界の未来しか水心子には見えなかったのではないでしょうか。

 

水心子が間違いに気づいたと同時に、舞台上には降り積もる砂が現れます。

そしてその周りを仮面の少女が踊る場面。ここで流れるのが『月光ソナタ』です。

少女は最初、水心子に気づいていません。水心子は最初から見えているようで、戸惑ったように「君は…」と口にしていました。

ここで初めて少女が水心子に気づいて、慌てて逃げていきます。

本来であれば誰にも認識されないものだったからでしょう。

実際、歴史上の人物はもちろん、他の刀剣男士にすら彼女は見えていません。

彼女に問いかけ、語り掛けたのは水心子だけでした。

あの零れ落ちる砂は前回の記事で「受け止めて貰えなかった独り言」だろうと推測していたのですが、時間遡行軍のことを考えると「生まれることができなかった想い」でもあるのかなと考えています。

生まれることができず、誰にも受け止めて貰えなかった想いと、本来見えないはずの少女。

これらを水心子だけが感じ取ることができたのは、放棄された世界に長く居た経験があり、刀剣を復古させるために尽力した刀工の想いを強く受け継いでいるからなのだろうか…と考えています。



 

 

序盤~刀達の関係性~

ここでは序盤で気になったところと各刀派の顕現シーンにまつわるあれこれをお話していきます。

 

 

新々刀と平将門

オープニング後にまず出てくるのが平将門です。

此処は仮面の少女を追いかけようとした水心子を「水心子、戦だよ!」って清磨が呼びに来た後なので、新々刀が居るのは何ら不思議ではないのですが、新々刀は将門を認識していませんでした。

出陣先に関する情報、特に警護対象とか処理対象になる歴史上の人物の情報は出陣前に知らされるはずです。今までのように。

なのに新々刀は「あれは一体誰なんだ」的な反応だったので、あの出陣先ではそもそも将門を守ったり殺したりする任務を請け負っていなかったと考えられます。

目的は他にあって、その途中で戦が起きて、時間遡行軍が現れた。

だから将門のことを認識していなかったのではないでしょうか。

そこで天の声といわんばかりに「平将門」という名を告げるのは三日月宗近

あそこで姿は見えませんでしたが、恐らく新々刀と三日月宗近は一緒に出陣していたのだと思います。

そして三日月はあの時代で一振りだけ将門に接触していた。

将門は既に三日月宗近という刀剣男士の存在を知り、彼から色々と語り聞かされていたために去り際に新々刀のことを見つめていたのでは…。

 

余談ですが三日月から「平将門」というキーワードを聞かされた水心子が見るフィルム映像の中に、一瞬だけ十二単をまとった女性が映るんです。

あのアカシックレコード的なフィルム映像、コマ送り(一時停止)しながら見てると次にメインとなる人物が大きく映し出される傾向があったのですが、十二単の女性だけはこの最初の場面にしか出てきていないように見えました。

あれ、多分桔梗の前なんだろうなあ…と。

ある意味、最初の時点で「惚れた女のため」という将門の答えは見えていたのです。



新々刀の歌~水清ければ~

この新々刀の歌好きすぎて何回も見返してたんですが早く曲名を教えてください。好きです。

最初の感想ではふわっとしたことしか語れなかったのですが、アーカイブ配信を摂取した後ならもう少し言語化できる筈なので語らせてください。

まずこの曲を歌う源清麿があまりにも…あまりにも優しい…本当に…。

曲に入る前に水心子の状態について豊前江と桑名江に説明しているシーンがあるのですが、そこですでに優しいんですよ清磨は…。

水心子は多くを語りません。それ故に誤解を生みやすい性格ともいえます。

そんな水心子のフォローアップに親友の清磨が出てくる、この関係性があまりにも優しい。

今までなら誤解された部分はそのままだったり、それが原因でぶつかり合ったりしていましたが、今回はトラブルが起きる前に清磨がサポートしているのです。

そこからあの歌に入るの優しさの塊じゃないですか???

 

歌詞の中でも清磨は水心子に対してずっと語り掛けています。

「いくら迷子になろうと僕が探し出すよ

 大丈夫だよ、落ち着いて ほら、深呼吸」

後半はゲームの台詞ですけど、前半の歌詞と合体すると優しさレベルがめちゃくちゃ上がります…。

しかも「大丈夫だよ」のところで何かを抱きしめる振り付けがあって、そこがまた優しい…不安や迷いを包み込むような歌声と仕草…。

ここ、好きすぎて何度も見返したし、好き…って思った次の日には清磨のメモスタンド買ってました*2…つまり沼です。

「水清ければ月宿る そうだろう?」

前回の記事で言及したように、月というキーワードを使っているのは三日月への繋がりを示す意味もありますが、よく聞くと「心に穢れがなければ神仏の恵みがある、そうだろう?」と清磨は水心子に語り掛けてるんですよね…!

心に穢れがないというのは恐らく水心子の純粋さ、真摯さを指しているのだと思います。

 

この清磨の語り掛けに対して、後から出てきた水心子はその心意気通りの真っ直ぐな歌声で自らの役目…存在意義を高らかに奏でます。

「刀の誇り その意味追い続け  たとえひとりでも行くだけ」

「忘れてはならぬ 

 狎れてはならぬ

 廃れてはならぬ

 諦めてはならぬ」

水心子正秀は古刀復古を唱えた刀工の想いを宿し、太平の世に慣らされきった刀剣を本来あるべき姿に戻すべく生み出された刀です。

自らの役目を自覚し、それを全うしようとしている姿は真摯で穢れがない。だから清磨は彼に「水清ければ月宿る」と語り掛けています。

でも水心子が歌うのは、

「水清ければ魚棲まず それでいい」

という言葉。

清廉すぎて人に親しまれず孤立してしまうことを、「それでいい」と言うんですよ水心子は。

張り詰めた弓のような緊張感と使命感…水心子ー!!こっちを見てくれ水心子ー!!

 

そしてここから二振りの掛け合いパートが始まります。

清磨「何を見つけたのかな 綻び?」

水心子「いつ生まれたかもわからぬ 綻び」

ここ、最初会話しているように聞こえるんですけどそうじゃないんだぜ!というのが唐突に突き付けられるので審神者は倒れます。

清磨「きみはそこにいる」

水心子「今こそ真価 問われる時」

清磨「隣でいつも見てるよ」

水心子「今こそ意味を問う時」

すれ違ってる!!すれ違ってるよ水心子!!

水心子に語り掛けている清磨に対して、自分に言い聞かせている水心子という構図。

舞台上でも清磨は言葉通りずっと水心子の方を見ていますが、水心子が清磨を振り返ることはありません。

ラストのサビでも、水清ければ…に対する互いの考えを歌っていますが、水心子の考えに対して清磨が「心もあれば魚も棲むかもしれないよ」って歌うのがもう…「水心子の穢れのない心があれば魚も棲むかもしれないよ」って…優しさ…優しさの塊…。

優しさにも様々な種類があるというのはつはものの三日月の言葉ですが、これは親友としての優しさなんだろうな…としみじみ感じながら見ていました。好きすぎる。

本当にこう…水心子の張り詰めた感じと、見守る清磨の優しい表情…最高です…。

 

この曲の歌詞のもう一つのキーワードとして「綻び」があります。

きつく結んだものはいつか解けて、綻びとなる。これは劇中に出てくる結界や境界線に関わるキーワードです。

ここでいう綻びは欠陥といった意味で、長く続く歴史の中で生まれた歪みや放棄された世界などを指しているのでしょう。

本来そういった綻びを感知した審神者が刀剣男士に出陣を命じます。

しかし今回はその綻びが水心子にしか感知できていないのです。

だから水心子は戸惑い、彷徨い、悩み続けた。自分の守ろうとしている未来には綻びがあるのに、守るべき価値があるのだろうか?と。

自分の使命を誰よりも理解しながら、この疑問を抱くことは水心子にとってかなりの脅威だったのではないでしょうか。

ここで「そうです」と言い切らないミュ審神者もまた優しい。

答えは与えるものではなく、自分で見つけるものだという教育方針、素晴らしいです。

 

 

大典太は何処から出てきたのか?

初見ではよくわからなかった、大典太は一体どこから現れたのか?という疑問点に対する個人的解釈です。

ここ、最初は三池が一緒に出てきたように見えていました。なぜなら初っ端から完成度の高い兄弟デュエットをぶちかましてくれたので…。

でもよく見てみると、大典太が出てくる前、審神者と水心子が会話しているシーンでソハヤが水心子を呼びに来ていました。

つまりソハヤはあの時点で既にミュ本丸に顕現していたということです。

そしてソハヤが水心子を呼んだ後に場面転換して出てくるのが大典太

大典太が出てくる前には鳥が飛び去る音と蔵の扉が開くような効果音が流れます。

大典太は長らく前田家の宝刀として蔵に仕舞われていたのは周知の事実ですが、ここで大典太が出てきた蔵ってもしかして…ゲーム本編に出てくる江戸城の宝物庫なのでは…???

そしてソハヤと水心子は江戸城周回して集めた鍵で宝物庫を開けていたのでは…???

ソハヤは大典太が出てきてから「待たせたな、兄弟!」って飛び込んできます。ここの「待たせたな」はつまり宝物庫を開けて探してたということでは??

一緒に出陣したはずの水心子があの場に居ないのも、別の宝物庫を探していたからじゃないかなと思っています。

3月はちょうど江戸城イベントがあったし、しかも今回は三池がどちらも仕舞われていたので、タイミング的にこの解釈が合いそうだなと。

しかし顔を合わせてすぐにあの完成度のデュエットをぶちかませる三池すごい…最後の納刀が同時なのもかっこいい…源氏兄弟もそうですが、霊力の高さがなせる技なんでしょうか…。

余談ですが個人的に2部の三池曲は仮面ライダーのOPぽいなと思って見ていました。ニチアサが似合う。

 

 

あめさん⇔くもさん

なんとなく平仮名で書きたくなるあめさんとくもさん。

江は今のところ豊前江以外、顕現(もしくは登場)シーンで歌いますが、産声みたいなものなんでしょうか。

この二振りは綱吉の時代に将軍家にあったという共通点を持ち、二振りとも犬をイメージした姿になってます。生類憐みの令です。

かつての主が愛したものの姿をしている刀剣男士は、それだけ人の想いが宿っている感じがあります。

五月雨江は、その名を多く詠んでくれた松尾芭蕉への想いが強いと顕現時に口にしてますし、ゲーム上でも松尾芭蕉が忍者だった説から忍というキャラクター性を得ています。

村雲江はかつての主が悪者扱いされる歴史から、正義と悪を分けることに対して疑念と嫌悪感を抱いているのが特徴的です。

今作でも線を引くことを嫌がったり、結界を作ることを嫌がったりと、そういった考え方に焦点が当てられるシーンが多いです。

このあめさんとくもさん、ゲーム上でも仲良しなんですが今作においては「線」をキーワードに対比されているように見えました。

線を引き、何かが分断されることを嫌う村雲江に対して、五月雨江は忍という役割を果たそうとしています。

役割はひとつの線。つまり五月雨江は自ら線を引いているのです。

歌は想いが溢れだしたものですが、忍んで闇討ちをするときはその歌心を秘める必要があります。

名を詠んでくれた人への想いの大きさを抱えながら自然と溢れ出る歌心を押し込み、役割という線を引く五月雨江。

その経歴から線を引くことで善悪が分かれるのを厭う村雲江。

自ら線を引こうとする五月雨江と、線を引くことに必要性を感じていない村雲江は、繋がりを持ちながらも互いにできないことができる存在なのかなあと感じます。

 

あと二振りが顕現した後、五月雨江が豊前江に「全員そろっているのですか?」と尋ねていますが、豊前江はそれに対して「いや、(全員そろうには)もう少しかかりそうだ」と答えています。

全員って一体どこまでの江なんでしょう…?稲葉江の名前は出てましたけど…。

 

 

豊前江⇔桑名江

五月雨江と村雲江が対比されているように、豊前江と桑名江もまた対比されていました。私の主観ですが。

此処より少し前、清磨が水心子の状況を説明する場面で、桑名江がこんな台詞を言っています。

「わかるわけないよ。地に足つけてなんぼの桑名江だよ」

これは水心子が「いま立っている場所がわからなくなる」現象に見舞われていることに対しての台詞なんですが、豊前江との対比でもあるんじゃないかなと。

豊前江は現在実装されている江のなかで唯一実在するかわからない刀です。

本人も「居場所がわからねえのは俺も似たようなもんだよな!」と口にしています。

存在しているのかしていないのかわからない豊前江に対し、桑名江は本多家に大切に保管され、我々が生きるこの現代でも美術館に会いに行ける刀です。

地に足をつけている=存在がはっきりとしている桑名江と、居場所がわからない豊前江。

この対比も面白いのですが、もっと面白いのが彼らと五月雨江・村雲江の関係性です。

線を引くことを厭う村雲江の視野を広げるのは、全てが循環のなかにあることを理解して地に足をつけている桑名江で。

歌心を秘めて役割という線を引こうとする五月雨江を止めるのは、存在があやふやだからこそ自らの意思で動いて役割を果たす豊前江なのです。

ここにもまた循環する関係性が生まれてるというこのエモさ。みんなぐるぐるのなかに居るんだなあ…。



 

 

江戸にまつわるエトセトラ

ここからは江戸周辺のあれやこれやと歴史上の人物についての話をしていきます。

 

 

名もなき草と砂礫に覆われる世界

明らかに硬いものを耕している桑名江のシーンに出てくる名もなき草

これが歴史に名を遺さなかった民草の比喩なのでは?というのは前回お話した通りです。

調べてみると児童文学作家の小川未明の著書にも同じ名前の作品がありました。

これは児童文学というより評論に近い文章なのですが、その中でも今作に繋がりそうな部分を引用してご紹介します。

 

 名も知らない草に咲く、一茎の花は、無条件に美しいものである。日の光りに照らされて、鮮紅に、心臓のごとく戦くのを見ても、また微風に吹かれて、羞らうごとく揺らぐのを見ても、かぎりない、美しさがその中に見出されるであろう。(中略)

 どんなに、小さくとも、また、名がなくとも、純粋で、美しかったら、正しかったら、天地の間に、何ものかの力を賦与している。また、何ものの力をもってしても、何どうすることもできない。それは、確乎たる存在である。(中略)

  秋霜にひしがれ枯れた、名もない草は、早くも、来年の夏を希望する。そして、その刹那から人知れず孜々として、更生の準備にとりかゝりつゝあるのを見よ。

 人生は、また希望である。

小川未明 名もなき草

  

たとえ名前がなくても、小さくても、そこにあるだけで美しい名もなき草は、秋に枯れても人知れずまた次に咲くために準備をしている。

これもまた循環のひとつです。そして小川未明はその様を人生に喩え、そこに希望があると書いています。

刀ミュって根本にあるのが人間賛歌というか、生命の肯定だと思っているので、この一文は個人的に刺さりました…。

 

あと桑名江の歌、最初は「誰かいますか 誰も居ませんか」って大地に呼びかけているのに最後は「知ってますか 知ってますよね」ってこっちに呼びかけてくるところが好きです。ちょっとぞわっとくる感じが。

桑名江がノックしてる大地には人も埋まってるかもしれませんし…「死ねば土」だし…あれ…怖い話になってきたぞ…?

 

誰も帰ってこないと植物に覆われてしまうという桑名江の台詞に対して、水心子は「そしていつかはそれすらも枯れ果て、世界は砂礫に覆われる…」と呟き時代を移動します。

そこに出てくるのが勝海舟です。ここでのキーワードは【放棄】…江戸を放棄する勝海舟と放棄された江戸に居た水心子が存在する空間です。

勝海舟が江戸を放棄したことで江戸時代は終わりを告げ、明治時代が始まります。

江戸城無血開城は東京を作るきっかけとなったのです。

世界が砂礫に覆われる様を見た水心子がこの無血開城シーンに飛んだということは、その後の東京が砂礫に覆われる様を見た可能性もあるのかな?と考えています。

東京が最初に砂礫に覆われる、つまり壊滅するのは関東大震災です。ここで明治の街は殆ど崩れ去り、驚異的な復興を果たした東京には新たな街並みが生まれました。

その後、第二次世界大戦東京大空襲でその街も焼け野原となるので、また砂礫に覆われます

桑名江が居た世界は台詞から推測するに誰も戻ってこない可能性が高いようなので、ある意味放棄された世界といえます。

砂礫に覆われた後、復興が進まずに住む人が居なくなった世界。

桑名江が居る世界は、人が集って江戸城を築く豊前江の居る世界(時代)と対照的です。

 

 

分陀利華(プンダリーカ)と結界

天海が将門の怨霊を封印するために登場する際の歌にこんな歌詞があります。

「咲き誇れ 分陀利華 緩むことなき守護神よ

 清らかな花を 美しき花を

 咲き誇れ 分陀利華 広く永くここに」

ここ完全に見逃していました。分陀利華は仏教用語白蓮花を指します。

天海は天台宗の僧侶で、密教を主軸に学んでいます。天台宗にとっての至上の教え、経典は法華経なのです。

仏教では泥の中から美しい花を咲かせる蓮華が大切にされていますが、白蓮華はその中でも特別な存在とされています。

汚泥の中で咲く白い花は清浄さの象徴。法華経はその白蓮華の名を冠した経典です。

法華経梵語【Saddharma Puṇḍarīka Sūtra(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)】…意味は【正しい教えを記した白蓮華の経典】。

これは千子村正会心の一撃の台詞。千子村正もまた仏教に関係する刀なのです。

刀剣乱舞における千子村正千子村正という刀ではなく、千子村正(刀工)から始まる村正の系譜の刀の集合体です。在り方としては新々刀と共通しています。

刀工だった初代の千子村正はこんな一説も持ち合わせています。

 

桑名の郷土史では、千子は初代村正の母が「千」手観音に祈って授かった「子」であるからとされ、その千手観音像は一説に現在の桑名市勧学寺にあるものであるという。

村正 - Wikipedia

 

そしてこの千手観音というのが、密教における三形では【満開の蓮の花(開蓮華)】とされているのです。

さらに千子村正の元になった刀である妙法村正にも【妙法蓮華経】という文字が刻まれています。

妙法村正は初代千子村正作とされており、その千子村正日蓮宗に帰依していたそうなので、法華経と深く関係があるといえます。

千子村正が帰依していたのは日蓮法華宗で、今回出てくる天海は天台法華宗の僧侶なので全く同じ宗派というわけではありませんが、経典は一応共通しています。*3

ちなみに千子村正は極になると会心の一撃台詞が変わって千手観音の真言になります。ミュでもいつか聞けたらいいなあ。

 

そして結界です。

結界を張る天海を見て村雲江は「好きじゃない」と言いますが、誰よりも天海を苦手としているソハヤがすかさず「庇うわけじゃないけどな、そういうのが必要な時もあるんだと思うぜ。守るためには」と返すのがこう……誰よりも天海のしていることの意味を知っているソハヤ…。

天海の結界は天台密教の結界です。密教における結界は魔障を祓うための区域制限。そして天海はその基盤として将門の怨霊を封印しました。

 

また、密教では、修行する場所や道場に魔の障碍が入らないようにするため、結界が行われる。これには以下の3種類がある。

国土結界

道場結界

壇上結界

高野山比叡山は国土結界、護摩修法は壇上結界の例として挙げられる。

結界 - Wikipedia

 

天海が初代住職だった寛永寺には「東叡山」(東の比叡山)という寺号がついていますし、鬼門封じのやり方も延暦寺に倣っているため、今回天海が張った結界も国土結界だったと考えられます。

国土=広域を魔障から守るために山などを浄化して区域を制限するのが国土結界です。

この国土結界は浄刹結界・大結界とも呼ばれるようで、コトバンクでは以下のような記述があります。

 

大結界は国土を限定するもので、空海高野山建立の際に七里四方を結界し、悪鬼等を退散させようとしたのはこれにあたる。中結界は修法の道場を結界し、小結界は修法壇の周囲を結界するもの。これらの結界は白二羯魔(びゃくにこんま)の法によって行なわれるが、密教では印明を用いる。

結界とは - コトバンク

 

真言宗の開祖である空海高野山に国土結界を張った後、天台宗の開祖である最澄比叡山に国土結界を張っています。

比叡山にどのような浄刹結界が張られたのかまでは此処では言及しませんが、そこらへんの詳しい内容や地理を自然保護の観点から研究した論文が面白かったです。

自然環境保全における「結界」の役割

実際に京都の雲母坂のあたりには結界石が建っているそうです。

そういうものが残っているということは、結界を張った人の想いもまた残っているということだと感じます。

 

 

確かなものと不確かなもの~道灌と豊前江~

道灌が江戸城を築く際の歌には言葉遊びが沢山詰まっていて面白かったです。

「要となる城」を中心に、

  • 「道が引かれ」→「導かれる」
  • 「そして気づく(築く)」→「いつか築く(気づく)のだろう」※ここは何方ともとれます
  • 「そこは街に」→「ずっと待ちわびていた」

といった風に同音異義語を散りばめています。

和歌の修辞法に同音異義語を使って1つの単語にに2つ以上の意味を持たせる掛詞というものがあるのですが、それをイメージした歌詞にみえます。

道灌の山吹伝説に出てくる和歌「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞかなしき」も「実の一つだに」が「蓑一つだに」の掛詞になっているので…。

 

道灌は何もない場所に道を引き、要所となる江戸城を築きましたが、偉業はそれだけではありません。

彼は江戸城の周りに日枝神社築土神社、平河天満宮などの神社を持ってきて、人が集う場所を作り上げました。

日枝神社は川越にあった日枝神社を道灌が勧請したのが始まりといわれていて、江戸三大祭りのひとつである山王祭が開催されることでも有名です。*4

築土神社平将門の首を安置していた神社で、元々津久戸村(現在の大手町)にありましたが、道灌が田安郷(現在の九段坂上)へ移転させました。

なお、築土神社主祭神天津彦火邇々杵尊で、相殿*5菅原道真平将門となっています。

道真が没した年に将門が生まれていたことから、将門は道真の生まれ変わりと伝えられていたり、将門に新皇に即位したのは道真の霊験によるものともいわれているので、結構繋がりがあることがわかります。

平河天満宮は道灌が菅原道真の夢を見て建立した神社です。ここでも道真が出てきます。

道真は詩文に優れ、百人一首にも選ばれています。

和歌の神ともされていますし、思いついたことを周りの物に書き付けるレベルで根っからの詩人だったそうなので、そういった面で道灌の憧れでもあったのかもしれません。

道真が左遷された先の大宰府で詠んだ歌に、

海ならず 湛える水の底までに 清き心は月ぞ照らさん

というものがあります。

「海よりもさらに深い水をたたえる水底も清ければ月が照らし出すように、私の清い心もまた月が照らし出し無実の罪が晴れていくだろう」といった意訳になりますが、これは新々刀の「水清ければ月宿る」に繋がってる感じがします。

それと、平河天満宮は地域住民の信仰度が高い神社で、調べてみると様々なものが奉納されています。

また、力石や百度石、石牛といった神聖な石が多く存在しているのも特徴的です。

今作、道灌の築城シーンで大きな石を運ぶ演出が多かったのはここにも関係しているのかもしれません。

 

石を運ぶ時に道灌が歌う曲、歴史上の人物の歌の中で一番好きです。

「この石はどこで生まれた?」と問いかけながら、その出自に関係なく「この立派な石はこの先ここで歴史を支えてゆく!」と高らかに歌い上げてくれるところ。

生まれや育ちに囚われず、歴史を支えていくものは立派なのだと肯定してくれているところ。

このあたりに道灌の人柄が出ていると感じます。

城の石垣という後世に残る確かなものと、皇居の元となった江戸城を作った道灌。

それらを存在があやふやである豊前江が見ているというこの構図。

豊前江は道灌を「立派な奴だった」と評しています。

「生きる」という「当たり前のことを知っている」道灌は「立派な奴」だと。

ここの豊前江の歌もめちゃくちゃ好きなんですよ…メロディーといい歌詞といい…。

「あのでかい石はずっとずっとここで歴史を支えていく

 あんたの遺志(意思)受け継いで 立派に役目果たすぜ」

この時点で豊前江は道灌の最期を知っています。恐らく彼の役目は道灌を正しく死なせることだったのでしょう。

その上で、豊前江は道灌がどんな人間なのかを知ろうと自らの意思で江戸城の築城作業を手伝っていました。

道灌は暗殺されてしまいますが、道灌が作り上げたものは時を越えて確かなものとして歴史を支えていく。道灌の想いは受け継がれていく。

豊前江はきっとそれを理解して、また「風のその先へ」走ると決めたのだと思います。

ここでいう風は音曲祭でパライソの面々が歌っていた「無常の風」…つまり人の死も意味していると考えられます。

歴史に記された確かな最期。変えることのできない結末。それらを越えて走るのが自分の役目なのだと、豊前江は歌っています。

この辺は後でまた書きますが、道灌の暗殺シーンにも繋がってくる演出なのがヴッッってなります…。

 

 

 

 

歴史と機能

今気づいたんですけどこの考察と感想長いですね…。

ここからは中盤の最後の方で気になったポイントを紹介していきます。

 

 

7人の将門と双騎のシステム

清磨が大典太三日月宗近のことを尋ねるシーンで、大典太三日月宗近というものが「機能という名の呪い」であると答えます。

また、同時に問答を繰り返す水心子は、文字や名前が線=境界であることと、その線は誰かが呼んでくれるから存在しているものだという考えに至ります。

機能=呪いもまた線=境界のひとつなのでしょう。一人では呪いは成立しません。誰かがそれを呪いと認識することで呪いが生まれるのです。

 

今回の演出では将門もまた呪いという機能の一部になっていました。

討ち取られた後、【7人目】となるべく他の将門に回収され、同じモノとなる様は何処か双騎のオープニングとエンディングを思わせます。

「彼らの悲哀を、情念を、生き様を、

 後の世の、また後の世まで、彼らと共に語り継ぐ……

 それが、私の役割でございます」

双騎のオープニングではこの瞽女の語りと共に曽我兄弟の形をしたモノに魂が宿り、物語を繰り返し、語り継ぎます。

物が語る故、物語。

仇討ちを果たした兄弟の亡骸は再びモノに戻り、また語られる時を待つのです。何年も、何百年も、その物語を忘れぬ人が居る限り。*6

曽我物語はひとりの女性、十郎の恋人であった虎御前が語り始めたものといわれています。

そしてそれを口頭で語り継いでいったのは、冥界に近しい巫女や比丘尼であったとも。

何故彼女たちが語り継いでいったのか。それは苦難に満ちた生涯を送った曽我兄弟の御霊を鎮魂するためだったそうです。

双騎で語り継いでいるのは瞽女ですが、この瞽女は盲目の女性です。

盲目の女性で思いつくのはやはりイタコではないでしょうか。イタコは死者の魂を自らの体に憑依させることが出来ます。

五感の一部を機能させない状態は神や霊といった人ならざるモノへ近づく条件でもあるのです。

また、瞽女に関しては「七十一番職人歌合」において琵琶法師(男性)が右に、瞽女が女盲として左に配置されています。

そこに描かれている琵琶法師の発言は「あまのたくもの夕煙、おのへの鹿の暁のこゑ」…平家物語の「福原落」の一節です。

対する瞽女(女盲)の発言は「宇多天皇に十一代の後胤、伊東が嫡子に河津の三郎とて」…これは双騎でも歌われていましたが、曽我物語の一節です。

琵琶法師とは盲目の僧を指します。そして琵琶法師といえば平家物語を語る、というのが歌合当時の常識でした。

その対として瞽女が描かれ、曽我物語の一節が添えられたということは、瞽女曽我物語を語るのはその時代の常識だったということになります。

 

めちゃくちゃ話が逸れました。

つまり、語り継ぐことは鎮魂の意味を持ち合わせています。そして語り継がれる限り、物語は繰り返しその歴史を再現します。

そして7人の将門もまた同じように、その物語を忘れぬ人が居る限り繰り返される呪いという名のシステムなのでは…?

天海があのように将門を封印し江戸の守護結界の基盤としたことで、更に知名度は上がったはずです。実際、現代に至っても将門については伝説や噂話が尽きません。

 

そもそも、なぜ将門が7人居るのでしょうか。

これは歴史を繰り返した結果現れた怨霊とかではなく、室町時代に出版された『俵藤太物語』で「将門と同じ姿の者(影武者)が6人居た」と書かれているためだと考えられます。ここに将門本人を含めて7人となります。

この7という数字は当時将門が信仰していた妙見信仰が元になっているようです。

妙見とは真理や善悪を見通す優れた視力を持つ者を指します。

妙見信仰は北斗七星や北極星を神聖なものとし、それを神格化した妙見菩薩を信仰するものです。

中世の武士には軍神として祀られることが多く、将門もまた妙見菩薩に関わりのある武士でした。

 

遅くとも建武4年(1337年)には成立したと見られている軍記物語『源平闘諍録』以降、将門は日本将軍(ひのもとしょうぐん)平親王と称したという伝説が成立している。この伝説によると将門は、妙見菩薩の御利生で八カ国を打ち随えたが、凶悪の心をかまえ神慮にはばからず帝威にも恐れなかったため、妙見菩薩は将門の伯父にして養子(実際には叔父)の平良文の元に渡ったとされる。この伝説は、良文の子孫を称する千葉一族、特に伝説上将門の本拠地とされた相馬御厨を領した相馬氏に伝えられた。

平将門 - Wikipedia

 

天海が将門の怨霊を封印して張った結界もまた北斗七星を象っていましたが、これはその妙見信仰に通じるものと考えられます。

将門の影武者は見分けることが難しかったのですが、こめかみが弱点であることや、太陽光を浴びても影が出来ないという特徴を持っていました。

この弱点や特徴を、後に将門を討ち取る俵藤太に密告したのが桔梗の前と伝えられています。

裏切られたことを知った将門が死の間際に「桔梗咲くな」と呪いの言葉を吐いたとも。

ただし、これはあくまでも伝承で、裏切った女性が桔梗の前ではなかったという説も存在します。『将門記』では桔梗の前の名すら出てきません。

なぜ桔梗の前がこうして伝えられているのか、その一説に桔梗の花と山伏(カッカッカの方ではない)の関係性を取り上げたものがありました。

山伏が医薬品として重宝していた桔梗の根は花が咲く前に摘む必要があったため「桔梗咲くな」という創作部分が付け加えられたというものです。

もしこれが本当なら、咲く前に摘まれてしまう桔梗と、実をつけない山吹の花は対比されているように思えます。



歴史を知るということ~零れ落ちる歌心~

道灌の暗殺シーン。一度は助かった道灌を、後から駆けつけてきた豊前江が爽やかに挨拶を交わしながら正面切って殺害する衝撃的な展開でした。

これは前回もお話しましたが、こうやって歴史上の人物と顔を合わせた状態で実際に刀を振り下ろしたのは豊前江が初めてです。

しかもよく見ると心臓を一突きで殺してませんか…。

剣技としての「突き」は致命傷を確実に与えるためのものです。

今回、豊前江は道灌の胸を突いていました。この胸部に対する突技を生理解剖学的に研究した論文を拝見したのですが、その威力についてはこう書かれています。

 

 剣先が深く入って胸腔内に存在する肺、心臓を損傷すれば致命的なものとなりうる。(中略)胸骨の両側に存在している肋軟骨は軟骨であり、容易に切ることが可能である。しかも左側の肋軟骨の奥には心臓が存在しており、この部位は特に胸突きのうちでも重要視されなければならないと考えられる。肋骨と肋骨のすきま、即ち肋間には肋間筋が存在し、肋骨を上げ下げして呼吸動作を行う役目をになっている。ここを刃がたてではなく、横に近い向きで突出せば、楽に胸腔内に剣先が侵入することが可能となる。

柳本昭人.剣道の突部における生理解剖学的研究.東京学芸大学紀要.第5部門,芸術・体育,1988,Vol.40,p.263 -269(東京学芸大学リポジトリhttp://hdl.handle.net/2309/12149 ,(参照 2021-04-16)

 

画面で見た限り、豊前江は刃を横向きにして道灌の胸を貫いていたので、やはり心臓を狙って突いたのだろうなと…。

そして声もなくこと切れた道灌を見て「これが歴史だからな。知りもしねえで殺したくはねえんだ」と口にする豊前江。

豊前江は江戸城の築城作業を手伝う中で、道灌の人柄を間近で感じ、その立派さを確認していました。

「歴史だから」という理由だけで相手のことを知らずに殺すのではなく、相手がどんな生き方をしていたのかを知ったうえで「歴史通りに」殺した豊前江。

歴史を守ることが刀剣男士の使命だから、分岐点さえ間違えなければ知らなくても殺せるはずです。

しかし豊前江は相手と話して、相手を取り巻く人の顔を見て、その生き様をしっかりと感じて、そのうえで使命を果たしました。

「風は止まらねえ 川の流れも

 それは変わらねえ

 だから俺は走ると決めた

 風のその先へ…」

石を運ぶ場面で道灌の立派さを歌った豊前江は、最後にこんな歌詞を口ずさんでいます。

この風が無常の風であることに加え、川の流れは歴史そのものを指していると考えられます。

変えられない結末と歴史の流れを越えて走ると決めた豊前江は、もう迷わないのでしょう。

それでも切なそうな表情はしていましたし。道灌のことを「静かの海」へ連れていってあげられたら、と呟いてもいました。

それを見た五月雨江が「汚れ仕事は私の役割です。これからは、私があなたに代わって…」と言いかけますが、豊前江はそれを断ります。

「俺は、出来ればお前には歌だけ詠っていて欲しいよ」と。

五月雨江が「汚れ仕事は私の役割」だというのは、顕現した姿やその性格が松尾芭蕉に関連する「忍」をイメージしたものだからでしょう。

これはある意味、自分の存在に関連する物語に囚われた考え方です。

豊前江はその考え方に囚われず、溢れ出る想いを押し殺さずありのままで居て欲しいと言っているのです。

物語に囚われた生き方ではなく、自分の意思でやりたいことをして欲しいと。

これは来歴や行方があやふやで物語に囚われない豊前江だからこそ出来る考え方だと感じます。

豊前江が江のリーダーなのは、こういう考え方ができるからなのかもしれません。

 

ここで豊前江に頼まれて五月雨江が詠んだのは、松尾芭蕉吉野川の上流で詠んだ山吹の一句。

「ほろほろと 山吹散るか 滝の音」

吉野といえば桜の名所ですが、実は山吹でも有名です。この歌を詠んだ芭蕉は、このように添え書きしています。

「きしの山吹とよみけむ、よしのゝ川上こそみなやまぶきなれ。しかも一重に咲こぼれて、あはれにみえ侍るぞ。櫻にもおさおさをとるまじきや」

この添え書きから山吹の花は「ほろほろと」散るというより、零れ落ちるようなイメージで詠まれていることがわかります。

「零れ落ちる」というのは道灌と五月雨江にとってひとつのキーワードです。

道灌と五月雨江のデュエット曲にはこんな歌詞がありました。

「人はなにゆえ詠うのだろう

 心に留めておけぬから

 雲から溢れ零れ落ちる雨のごとく」

心に留めておけない想いが零れ落ちて歌が生まれる。ほろほろと、それこそ吉野川に散る山吹の花のように。

また、この歌は芭蕉が一重咲きの山吹を詠んだものです。

道灌の山吹伝説に出てくる和歌は八重咲きの山吹を詠んだもので、実がならないことを蓑がないことの掛詞にしていますが、実は一重咲きの山吹の方は実がつくのです。

つまり五月雨江が詠んだ歌は、道灌の行ったことやその生き様は花(生命)が散っても決して実のないものではなかった、という意味にも取れるのでは…?

豊前江が役割や物語に囚われないで欲しいと告げてから詠んだというのがまた…五月雨江…理解している…。*7

 

 

 

ゆっくりじっくり繋がるということ

桑名江と村雲江が畑を耕すシーンでは、桑名江の考えに触れた村雲江の視野が広がりました。

すべてが循環のなかにあると知ることで、村雲江にとっての線は分かつものではなく、繋がるものへと変化します。

善悪が分かれることへの嫌悪感ばかりに囚われていた村雲江が、まだ見ぬものへ想いを馳せることができるようになるのです。

これもまた一種の物語という呪縛からの解放といえるでしょう。

桑名江と村雲江の歌もまた優しさに溢れていて好きです。焦る必要はない、ゆっくりでいいという優しさ。

「次に降る雨はその昔 焼き入れのとき触れた水かもしれない」

っていうこの歌詞が天才………自分の誕生に携わったものもまた循環しているというこの…この……(語彙力喪失事件)

 

畑に何を植えようか考える桑名江に、村雲江は山吹を植えることを提案しかけて止めます。

雨さんが、と口にしているので、道灌と豊前江の話を聞いていたのかもしれません。

「花なんか飢えたところでお腹は膨れないし、何の役にも立たないよね」という台詞は、道灌の山吹伝説に出てくる「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」に繋がる部分があります。

でも桑名江は「いいね、山吹!ここは一面の山吹畑にしよう!」とその提案を受け入れました。

「確かに花は食べられないけど、必要だと思う」という台詞、これって物凄い肯定だと感じます。

実をつけるものばかりを選ぶのではなく、実のない花も存在していいと言う桑名江。

誰も戻ってこない放棄された世界でも、それは必要だと言い切ります。

この時植えられた山吹が一重なのか八重なのか、それは今の時点ではわかりません。けれどどんな花であっても必要なのです。

名もなき草があるように、ただ咲き誇る花も存在する意味があるという肯定。

実をつけない花や名もなき草というのは、歴史に名を遺さない人々の象徴です。

たとえ名を遺さずとも、その人々が歴史上で不要になるわけでも、存在しなくなるわけでもありません。

ここにもまた刀ミュの人間賛歌がある…と感じてちょっと泣きそうになりました。

桑名江のどっしりとしたあの雰囲気がまた良い。ゆっくり、はっきり、うん!って言ってくれるあの安心感。すきです。

 

 

将門と繋ぎ馬

江戸を跋扈する怨霊となった将門の歌の中に「儂しか乗れぬ繋ぎ馬」という部分があって、気になって調べてみた話です。

繋ぎ馬とは文字通り綱で杭に繋がれている馬で、家紋に使われる紋様でもあります。

将門は戦の際の陣幕に繋ぎ馬を使用していたそうです。また、拠点として活動していた下総・常総のあたりは馬の名産地だったため、将門と馬に関する逸話も多いのだとか。

当時将門はその騎馬技術の高さを活かした機動的な戦を好んだといわれています。

将門は戦に使う馬と神社などに訪問・奉納する馬を分けて飼っていたようで、この戦馬が繋ぎ馬の原型とされています。

将門記』では、乗馬した将門が戦場を駆け回る様を「竜の如き馬に乗っている」と表現していますが、この竜というのは八尺(2.4m)以上の巨大な馬を指すのだそうです。

今作の冒頭で将門が鉄製の馬に乗って現れたのは、巨大で強そうな馬を駆る姿をイメージしてのことだったのかもしれません。

普通の人間では御しきれない荒々しい馬、つまり繋ぎ馬を巧みに駆ることが出来た将門は戦上手=勝ちに繋がる神性を得たといえます。

実際、将門を祀る神社では必勝のご利益のあるお守りが販売されています。

今回将門と馬について調べるにあたって一番参考になったのが、将門を祀る築土神社の解説です。

www.tsukudo.jp

神社にしかない資料を交えた細かい解説が物凄くわかりやすかったです。

他の将門伝説についても記載されていて、理解を深めるためにとてもありがたい資料でした…!

 

 

水面の月に映る歴史

水面に映った三日月宗近と水心子が対話するシーンは、水心子が自分と向き合っているシーンでもあります。

ここの台詞は含みが多すぎて何処を突いても闇が広がってる感じなのですが…「あなたが守った歴史は、大河の流れつく先は…!」と水心子が悲しそうに叫ぶのは、その先に待っているものが三日月にとって良くないものだったからなのでしょうか。

水面の三日月が刀を振り下ろしたと同時に流れ込む記憶の映像は、今までミュ本丸が関わってきた歴史に存在していた主要な人々の顔でした。

あと1人見覚えのない人の顔があったのですが、何か縄で縛られていたのでおそらくパライソの誰かなんだろうな…と推察しています。

これらの記憶と共に降り注ぐのは数多の花びら。そしてその中で仮面の少女はくるくると回っていました。

これまでの歴史において重要視されていた花の名を零し、水心子は何かに気づいて倒れてしまいます。

ここはまだまだ謎が残るシーンなのですが、最後にノイズのようなものが走って真っ暗になる演出があったので、個人的には「何度も歴史を繰り返し、悲しい役割を背負う人々に手を差し伸べていた三日月宗近がいつかフィルムが擦り切れるように消えてしまう未来」が何処かに存在しているのでは…?と思っています。

完全に予想でしかないし、何の根拠もないので聞き流してもらって大丈夫です。

でも、機能という呪いから脱却するためには一度その機能自体が停止するか、消えるかしないと無理だよなあ…とか思ってしまうんですが…真相は闇の中です。



 

 

川のせせらぎを守るために

ついに終盤に辿り着きました。

水心子たちがこれまで触れてきた歴史を巡る旅について思ったこと、気づいたことをつらつら書き綴っていきたいと思います。

 

友と祈り

物語は水心子が審神者に「私の思うようにやらせてもらえないだろうか」と告げるところから一気に動き始めます。

三日月宗近を救うことはできないが、背負っているものを軽くすることなら出来るかもしれないのだと。

大河の流れだけではなく、小さな川のせせらぎもまた歴史のひとつ。水心子はそれを守りたいと自ら行動を開始しました。

そしてここでやっと清磨を見るのです!

それまで清磨はずっと水心子を見ていたけれど、水心子は清磨ではなく自分を見つめることで精一杯でした。

しかし、自分のやるべきことを見つけた水心子は迷わず清磨に「ついてきてくれないか?」と呼びかけます。

その時の清磨の嬉しそうな表情といったら……親友同士の信頼感がすごい……。

 

まず水心子が向かったのは幕末です。上野戦争寛永寺が焼け落ち彰義隊が壊滅するシーンが描かれていたため、慶応4年(1868年)ということがわかります。

上野戦争で壊滅した彰義隊の残党はその後、榎本武揚の船に乗って戊辰戦争へ参加したようです。

なぜ幕末へ向かったのかという清磨の問いに対し、水心子は「失われたものと、友のために!この時代から問い直す必要がある」と答えています。

友。三日月宗近と水心子を繋ぐキーワードのひとつです。

ここでいう友は三日月宗近が友と呼んだ人々のことなのでしょうか。

水心子が三日月を友と呼んでいる可能性も…ないとは言い切れないんですが…でも水心子には清磨が居るので、やはり三日月が友と呼んだ人々、つまり【悲しい役割を背負わされた人】たちのことだと考えます。

清磨も、水心子の答えに対して「わかった。水心子がそう言うのなら、僕は信じるよ」というこの…肯定と信頼感を前面に押し出した言葉を返すのが…新々刀の圧倒的親友感…ッッ!!

水心子がどんなに迷っても、惑っても、探し出して見守る存在が清磨なんです……仲間や審神者に対してのフォローも忘れない……。

 

幕末へ向かった新々刀は三池の刀と共に天海の張った結界を地図に書き足しながらその意味を考えます。

結局そこで明確な答えを得ることはできませんが、水心子は答えが重要なわけではなく、【想い】の方が重要だと口にしていました。

「理屈をつけようと思えばいろんな説が並べられるが…重要なのは【想い】の方だと思ったんだ。ここまで大掛かりな結界を張ろうとした、天海僧正の【想い】…【願い】…【祈り】か」

【想い】は【願い】であり【祈り】である、という水心子のこの言葉、真剣乱舞祭2018の巴形薙刀の言葉と通ずるものがあると感じます。

あの祭に現れた歴史上の人物もまた、三日月が友と呼んだ、もしくは呼ぶべき人々だったので…。

乱舞祭2018は彼岸と此岸を繋ぐもので、繋ぐために必要だったのが互いの【祈り】でした。

あの時の巴形薙刀のように彼方側の【祈り】の重要さに気づいた水心子は、【祈り】に込められた意味や理由を知ろうとここから奔走していきます。

幕末では勝海舟の【想い】の真相を知るために。

その答えは「国そのものを守るため」…水心子は「やはりあなたは結界を広げようとしていたのか」と納得した様子でした。

ここ、最初に行くのが幕末なのでわかりにくいんですが、将門の時から追っていくと結界は坂東(東国政権)→江戸→日本とどんどん大きくなっています。

一部の地域を守る結界を日本という国全体に広げていく、つまり守るべきものが大きくなったきっかけを作ったのが勝海舟で、彼の持ち刀でもあった水心子はそれにいち早く気づいていたのかな?と考えています。

 

 

三池が背負う物語

今回最も霊力が高い三池の二振り。特にソハヤはその霊力の高さゆえ、西国への牽制の意味も込めて久能山東照宮に仕舞いこまれていました。

彼の霊力の高さは家康からも、天海からもお墨付きだったということになります。

作中でも皆が7人目の将門に苦戦している際、ソハヤが天海から受け取った数珠に霊力を込めただけで強力な力を持つ将門の動きが止まりました。

大典太も病を斬り伏せるという伝説を持つ霊力の高い刀ゆえ、前田家の蔵に大事に仕舞いこまれていたので、強すぎる霊力=使われずに封印という皮肉な扱いを受けています。

そしてソハヤと大典太は、天海が7人目の将門を封印する際に扉の両端に跪いて刀を立てているんですよね……ちょっとこのポーズなんて呼ぶか色々と調べてみたんですが相応しい言葉が見つかりませんでした……。

封印される瞬間、強制されるわけでもなく能動的にそのポーズを取って「よし、役目を果たしたぞ」みたいに目を合わせて頷き合っていた三池。霊刀としての役割がなせる技なんでしょうか。

おそらく三池は三条に並ぶ霊力を持っているのだと思います。三条は歌合で神おろしをしていましたが、三池は今作で封印に携わっていたので…。

 

「子守唄の絶えない泰平の世」という家康の夢を叶えるべく尽力した天海。

水心子は天海へ、江戸に結界を張った理由を問いかけますが、天海は答えることなく入寂してしまいます。

そもそもミュ本丸が関わった歴史、つまり三百年の子守唄で家康が泰平の世を望んだのは、「親の腕に抱かれ子守唄を聴いて安らかに眠るという当たり前のことすら出来ない戦国の世を呪い、この世から戦をなくしてやりたい」と思ったからです。

江戸を子守唄の絶えない安寧の地とすることは、ある意味家康の呪いから生まれた願いなのです。

家康は三百年の子守唄で描かれた今わの際で「儂はな…戦が大嫌いじゃった。どうしたら戦から逃れられるのかをいつも考えていた」とはっきり口にしています。

そんな家康が夢を叶えるためには戦をして生き延び、戦の種になりそうなことを徹底的に排除し続けるしかありませんでした。

戦を終わらせるために戦をし続けること。この皮肉な矛盾に耐え続けた家康はついに泰平の世を手に入れます。

しかし、自分の死後もその泰平の世が続くためには江戸を守るものが必要でした。それが天海の結界だったのでしょう。

家康の呪いから始まった願いを叶えた天海は、将門を封印する際に密教調伏法を使っていたのではないかと推測しています。

調伏法は密教の呪術の一種です。

天海は天台密教の僧です。時を同じくして成立した真言宗と合わせて、天台宗は僧侶が修行で呪力を会得し、様々なことを成し遂げることができるのだと最澄空海が証明した結果、国に受け入れられました。

民俗学者小松和彦氏は著書『呪いと日本人』において、以下のように記述しています。

 

 ここで私たちが注目したいのは、このように急速に勢力を伸ばしていった密教の中核に、呪い信仰が含まれていたということである。密教用語で「調伏法」「降伏法」などと呼ばれるものがそれである。簡単にいえば、呪術によって敵や悪霊の類いを追放したり、殺したりする法術のことである。

 さきほどみた陰陽師の呪いが、天皇や貴族の私的領域に関与する形で勢力を伸ばしたのに対し、密教の呪いはどちらかというと国家の守護、つまり護国の修法としての性格を強調した。

小松和彦小松和彦の「異界と呪いと神隠し」合本版:呪いと日本人』,角川ソフィア文庫,2017,p233

 

つまり天海は江戸幕府という当時の国家を守護するために調伏法を駆使したのだと考えられます。

また、調伏法は術者が身を傷つけ犠牲にすることで更なる力を得ることが出来るようです。

家康の呪いを成就させるために、自らの命を賭して7人の将門を封印した天海の調伏法はかなり強大な力を帯びていたのだと思います。

こう考えると家康もまた、江戸幕府を成立させるために必要な機能…つまり呪いを帯びて居たといえます。

 

天海は入寂する直前にソハヤへこう語り掛けます。

「本意ではなかったであろうが、お前のおかげで江戸は守られた。礼を言うぞ」

ここで言う本意は、恐らく霊力の高さゆえに久能山に仕舞いこまれたことを指すのでしょう。

更に言えば、将門を封印する際にソハヤが嫌っていた天海から数珠を預かってその手伝いをしてしまったことも含んでいる気がします。

ソハヤはその言葉を聞いて「アンタ、まさか…!」と言いかけますが、天海は既に息を引き取っていました。

決して答えを与えないその姿を見て、ソハヤはやはり天海が嫌いだと言い捨てます。

なにが「まさか…!」なのか。もしかして、天海がソハヤをソハヤとして認識していたことなのでは…?

作中でソハヤは天海に直接名乗りを上げていません。一応「アンタに仕舞われたものだよ!」と皮肉は言っていますが、それだけで名が判明する可能性は低い気がします。

天海は刀剣男士に対してそこまで戸惑いを見せずに、むしろ引き連れて将門を封印しに行っていました。

天海ほどの霊力を持っていれば審神者とまではいかずとも、刀剣男士がどういう存在なのかわかるのでしょう。

刀に宿る想いが具現化した刀剣男士。

ソハヤはその霊力の高さから、久能山に仕舞われる前から込められた想いが形をとなり宿っていて、天海には当時からその姿が見えていたのではないでしょうか。

ソハヤとしては見えているはずがないと考えていたのに、最後の最後に実はずっと前から天海が自分を知っていたとなれば…。

嫌いだ、苦手だ、と言いながら、最後は天海へ向けて「よくやったんじゃねえか」と賞賛の歌を贈っています。

家康の夢を叶えた天海と、江戸を見守り続けたソハヤ。互いに与えられた役を全うした同士です。

天海の生き様を見届けたソハヤは大典太と共にこう歌います。

「全うしてやろうぜ

 どうせなら 期待以上の物語を」

彼らに与えられた「江戸(国の中心地)を守る」という役割と物語はその霊力を裏付ける確固たるものです。逃れることはできません。

そして江戸が東京になった今も、その役割は変わりません。この先も三池の二振りには物語が積み重なっていきます。

己の存在に深く関わる物語は刀剣男士を形作る血肉です。逃れることのできない呪いともいえます。

しかしそれを悲観的に捉えず、焦らずに全うしてやろうというのがソハヤと大典太なのではないでしょうか。

使われずに仕舞いこまれた刀という皮肉を背負いながら、仕舞いこまれた理由を受け入れて役目を果たす。

そこには、泰平の世を願った家康とそれを叶えた天海の想いが受け継がれています。三池の二振りはこの想いを繋ぐために今作で出陣したのかもしれません。

 

前回の記事でソハヤが天海に突っかかる理由を考察していたのですが、こうして考察しなおしてみると、家康と引き離されたことよりも久能山にしまい込まれたことに対して突っかかっていたのに気づきました。

勢いだけで書いていた…解像度が低くて申し訳ないです。

 

ところで、「物語」とは実際にどのようなことを指すのでしょうか。

これについて調べていた際に國學院大學の副学長である石川則夫氏が「物語」について解説している記事に辿り着きました。

そこで特に印象的だったのが、「物語」の定義と物語を読むメリットについての発言です。

 

 例えば赤ちゃんが「オギャア」と生まれてから老人になるまでなど、一定の期間に人間が経験する出来事を時系列に整えて語っていくことが「物語(narrative)」なのです。(中略)

 最近の人間評価の指標は単純化してしまい、「勝ち組」「負け組」という二項対立で評価を決めてしまうことが随分とありますが、「そうじゃない」物語があっていいと思います。そういったものが昔から物語として作られ、読まれ、享受され、さまざまな形に派生することを繰り返してきました。

石川則夫.「物語」こそ人生の指針.2019(國學院大學メディア)https://www.kokugakuin.ac.jp/article/136948,(参照 2021-04-17)

 

これに沿って考えると、刀剣男士が背負っている「物語」はそれまで関わってきた人々の生き様や死に様そのものということがわかります。

刀ミュにおいて、それは【想い】…もしくは【願い】【祈り】と等しいのだと感じます。

そしてその「物語」は勝ち負けにこだわらない、「そうじゃない」物語なのです。

刀ミュ本丸では勝負事の決着が悉くつきません。きっとそれは「そうじゃない」物語を肯定するひとつの要素なのだと思います。



言わぬが花の吉野山

水心子が幕末を経て向かうのは室町時代です。そこでは太田道灌江戸城を築城し、豊前江と五月雨江とその美しさを眺めています。

なぜ江戸城が美しいかという道灌の問いかけに五月雨江は答えることができませんが、豊前江はそこに集う人が居るからこそ美しいことを知っています。

美しいものは、人が作り、人が住み、人が関わるから美しい。

道灌は相手勢力を抑え込むためだけに江戸城を作ったのではありません。荒れた地を整え、道を引き、人が寄せるように設計しました。

人が寄り添い、街を作り出す。それを守る要となるのが江戸城なのです。

面白いのは「荒れ地を耕し道を作る」という構図が、放棄された世界で土を耕す桑名江と似ていることです。

桑名江の世界にはもう誰も帰ってこないかもしれないので、あの時点で人が集うことはありません。

しかし、そこに集った人々が居たのは確かで、桑名江はそれを確かめるように大地に色々と尋ねていました。

何もない場所でも、そこに人が集えば想いが生まれます。その想いはたとえ人が消えても、場所が、大地が覚えているのです。

道灌が作った江戸城にも、多くの想いが宿りました。そしてそこに集う人々が居るからこそ城が美しくなるということは、想いを宿すことで美しくなることと同義だと感じます。

人が関わらずとも自然は美しいと言う五月雨江に対し、道灌は「それを見て【美しい】と想った者の心が美しいのじゃ」と返しました。

この考え方なのですが、先ほどご紹介した小川未明の『名もなき草』に通じる部分がありました。

 

 美しいものや、正しいものは、常に、この地上の到るところに存在するであろう。しかし、これを感ずる人は、常に、どこにでもあるとはいわれない。なぜなら、その人はまた、謙虚にして、誠実であり、美や、正義に対して、正直に、それを受けいれることのできる人でなければならぬからだ。

小川未明 名もなき草

 

『名もなき草』で通じる部分があるのも道灌と桑名江の個人的な共通点だなと思います。

桑名江は、あの地に群生していた名もなき草を刈り取ることはしませんでした。そしてその草に名前があることも知っていました。

道灌は、江戸城を共に築城した者たちと日々顔を合わせて労っていました。歴史には名を遺さない人々と関わり、励まし合い、共に汗を流しました。

勝者だとか敗者だとか、そういう境界線を持たずに、名もなき民草に目を向けた。桑名江と道灌の視点は似ているのかもしれません。

 

水心子がなぜ江戸城を此処に築いたのかと問いかけた時、道灌は明確な答えを返しません。

七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき

この歌と共に「そのうち分かる時が来る。己の愚かさとも向き合うことになるがの」と告げて去っていく道灌。

道灌が詠んだのは山吹伝説で道灌が歌心に気づくきっかけとなった兼明親王の歌*8です。

ここで言う「己の愚かさ」とは何を指しているのでしょうか。山吹伝説に沿って考えると「相手の想いを汲み取れずに怒って(怪訝に思って)しまった己の知識不足」となりますが…失敗は成功の基とかいうそういう…?

つはもので三日月が岩融にリアル勧進帳シーンを見せた後に言っていた、

「なに、皆一緒だ。間違えたり、寄り道したりを繰り返して成長するものさ」

という台詞がありますが、これは道灌が江戸城を築城した理由にも繋がってくる……?

結構色々考えてはみたんですが、これだ、という答えは見つかりませんでした。まだまだ考察の余地ありです。

 

豊前江にこの歌の意味を問われた五月雨江は、何かを感じ取っているものの「言わぬが花の吉野山、です」と答えを口にせず去っていきます。

この「言わぬが花の吉野山というのは所謂「地口(洒落)」のひとつです。

本来の意味は「言わぬが花」だけに込められているのですが、ここで五月雨江が敢えて「吉野山」をつけたのは、吉野山が山吹の名所であることにちなんでいる気がします。

そして五月雨江が「言わぬが花」という慣用句を選んだのも、道灌の山吹伝説について詠んだ漢詩に関係しているのでは…?

 

孤鞍雨を衝いて 茅茨を叩く

少女為に遣る 花一枝

少女は言はず 花語らず

英雄の心緒乱れて 糸の如し

 

ここの「少女は言はず花語らず」に絡めたうえでの「言わぬが花の吉野山だったのかなあと…。

また、「言わぬが花」は世阿弥秘すれば花から生まれた慣用句という説があります。

この「秘すれば花」は世阿弥が能の理論を記した『風姿花伝』に書かれた秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず」という一節からきています。

直訳すると「秘密にするからこそ美しい花が咲き、秘密にしないのであれば美しい花は咲かない」になるのですが、要は「芸の中で全てを詳らかにしないからこそ観客が惹きつけられる(想像力を搔き立てられる)作品になる」という意味です。

世阿弥は「この分け目を知ること、肝要の花なり(秘密にするかしないかで美しい花が咲くか咲かないかを知ることが、花について考える上で重要だ)」と述べています。

この「花」とは植物の花そのものではなく、演者が観客に与える「感動」のことを指しています。

何処にでもあるありきたりな感動ではなく、思いがけない感動を与えることを「花」としているのです。

この理論、今作にも繋がる点があると感じます。舞台上で語られないことが多ければ多いほど考察も捗るというか。今がまさにそうなんですが。

秘すれば花」の東京心覚で唯一登場人物が全員歌うのは『終わりなき花の歌』なんだよなあ…!!

 

 

勝った者の歴史と語られぬ者の存在

勝海舟・天海・太田道灌を巡り、新々刀が最後にたどり着いたのは平将門の乱真っ只中の平安時代中期です。

ここでは将門が時間遡行軍と戦っています。そこへ加勢した新々刀へ疑問も抱かず「助太刀ご苦労!」と言い放つ将門は既に三日月と接触済みでした。*9

将門がなぜ「新皇」を名乗ったのか、その理由を尋ねた水心子に対し、将門は「(その真意を水心子が)知ったところで歴史は変わるまい」と言い放ちます。

三日月宗近に同じことを尋ねられていた将門は、歴史の定義を水心子達へ教えるのです。

「歴史は【勝った者が語るもの】…当たり前のことだ」

歴史の中で悲しい役割を背負わされた人々は、当然【勝った者】ではありません。そして歴史の中で【勝った者】は【正義】に分類され、語り継がれていきます。

この【勝った者が語るもの】という考え方は、葵咲本紀の明石国行の言葉にも繋がっているように思えます。

時間遡行軍となって結城秀康を唆す怨念と化した稲葉江を救おうとする篭手切江に対し、「やっていることが気にくわない」と告げた際の言葉です。

「戦争ってそういうことやん。互いの正義のぶつかり合いや。ほいでもって勝った方が正義の中の正義。負けた方はいつだって悪者や」

そして明石はこの単純な構図について、心が壊れないようにするために必要なものだと言い、篭手切江がやろうとしていることを偽善だと切り捨てました。

稲葉江は歴史に名を遺した特別なものだから助けたい。なのに、自分たちとそう違いのない時間遡行軍のことは助けないのは「歴史に名を遺さなかった価値のないもの」だから。

この矛盾した行動に対して、明石が唯一本心を露にした台詞が、

「全てを救えないなら、誰も救えてないのと同じだ」

という一言。

でも明石は歴史に名を遺さないものを壊してもいいという考え方が赦せないのに、歴史に名を遺さない悲しい役割を背負わされた者たちの味方をする三日月を目の敵にしてるという…なんなんだ明石…おまえは何者なんだ本当に…。

 

話を戻します。

将門は歴史が【勝った者が語るもの】と割り切りながら、歴史に残らなかったものが【無かったもの】とはならないことを新々刀へ語ります。

たとえこの戦に敗北しようとも、歴史を語るものにはなれずとも、己の存在そのものが消えるわけではなく、この世で生きたことは確かなのだと。

この結論を聞いたとき、「形あるものがこの世のすべてではない」と言われたような気がして…その時の将門の表情も相まって、物凄く腑に落ちた爽やかな気分になりました。

勝ち負けに関係なく、歴史に遺ろうが遺らまいが関係なく、いま生きていること・かつて生きていたことは確かなのです。

つはものでも己が存在しているのかしていないのか不安がっていた膝丸に対し、髭切はこんな言葉を向けています。

「歴史上に存在していようとしていまいと、今ここに存在しているのは事実だろう?それでいいんじゃないかなあ」

 そんな気持ちのいい結論を出した将門が【新皇】を名乗ったのは、他でもない「惚れた女のため」。

いつも傍で咲いていた、美しい花を守るために彼は立ち上がったのです。

 

 

終わりなき花の歌

今作で唯一登場人物全員が歌唱しているのがこの歌。

歴史上の人物と刀剣男士が共に本編で歌うのって初めてなのでは?

これは刀ミュにおける歴史の流れの中に居る人々と、それを見つめる刀剣男士が歌う花の歌です。

将門は己の心を捉えて離さない一輪の花(桔梗)を歌い、

道灌は留めておけず零れ落ちた想いを受け止める黄金色の花(山吹)を歌い、

天海は三百年の子守唄を支えた汚泥に染まらぬ穢れなき花(白蓮華)を歌いました。

そして刀剣男士が歌うのは、花を咲かせる「」について。

「戦場に散る 無数の種

 血を浴びて芽吹くは いつの春か いつの時代か

 産み落とされた実がまた花を咲かす」

この歌の中の「種」は終わりゆく生命を指すのでしょう。

刀は肉と骨を断ち生命を奪うことができる、人の死に近い道具です。

戦場で種を散らし、花が芽吹くための血を浴びせることができる存在ともいえます。

花が生命なら、種はそれが尽きる瞬間。

いつか終わりがくる生命を持つ人間が花を歌い、終わりのない生命を持つ刀剣男士が種を歌う構図は対比されています。

大サビの歌い分けもそれぞれの存在に沿っているように見えました。特に印象に残ったのが、以下の歌詞の振り分けです。

  • 刀 → 終わりなき・永久に続く
  • 人 → 花の歌

刀剣男士は「この生命 終わりはない」と歌っている通り、人のように儚く散ることがないのでそれを表現した歌詞を振り分けられています。

対する人間は「この生命 終わりは来る 必ず来る」と歌い、咲いて散る花にその特性を重ねた歌詞を振り分けられているので天才の所業です。

斃れる人々とそれを見つめて共に歌う刀剣男士の図、あまりにも壮大すぎて大河ドラマのようでした。刀ミュでは歴史=大河の流れなので余計に。

 

 

綻びと開花

今作のメインである水心子だけは終わりなき花の歌のラスサビ前に離脱しています。

斃れても歌い続ける人々を見て戸惑ったような表情をしながら、段々と舞台上から姿を消し、歌が終わってから赤と白の花びらを手に現れました。

ここで水心子が最初に歌う曲には『月光ソナタ』のメロディーが組み込まれています。

生きる為に美しい花は生きる為に朽ち果てる。いつか生命の終わりが来ることを知りながら生きる人間という美しい花の宿命を、水心子は切なそうに歌います。

この時点で背景に映る月はこれまでのものとは違い、見えない部分が増えて三日月の形になっています。

それを見上げながら、水心子はこう呟きます。

「ずっと不思議だったんだ。僕には世界がいびつに見えてた。見上げる月はいつも三日月だった。でもそんな筈がないんだ。見えていなくても月はそこにあるんだ。まあるいはずなんだ」

水心子が見ていたいびつな世界は放棄された世界のことなのか、それとも、偏った視点でしか世界が見えていなかったということなのか。ここはまだ読み解けていません。

そしてこの台詞はつはものの髭切と繋がる言葉です。

「見えない部分も月だったよ。しっかりと光を放ってる。その光はやっぱり見えないけど…」

この「見えない部分が放つ光」「歴史の中で光のあたらないものへ注ぐ小さな光」です。

見えている部分と見えない部分は本来ひとつのもの。浮かぶ月はまさに「歴史」を体現しているといえます。

三日月自身はその光のことを「たかが三日月、されど三日月の放つ小さな光でも無いよりはましだとは思わないか?」と語っています。

 

歴史を駆け抜け、失われたものと友のために【想い】【願い】【祈り】を問い直してきた水心子は、歴史のなんたるかを知りました。

人々が「歴史」と認識しているのは「勝った者が語るもの」でしかなかったこと。

本当にあったことは誰も覚えていないこと。

そして、限りある生命が次に託した【願い】はこの先も残っていくこと。

この悲しくも美しい繰り返しを、水心子は否定せずに「それでいい」と受け入れました。

その背後では、咲き乱れる山吹の花に囲まれて、仮面の少女がゆっくりと舞っています。

それまで小袖を纏っていたように見えた少女が、この時だけは千早*10を纏っていました。

最初は庶民と同じ格好をしていた彼女は、鮮やかな黄金色のなかで神事に使われる小忌衣を纏っているのです。これは水心子が歴史を理解したことで、少女の霊格が上がった意味もあるのではないかと感じます。

 

水心子は序盤で「いつ生まれたかもわからぬ綻び」を見つけたと歌っていました。

その「綻び」を修正するのが今回の任務と思いきや、蓋を開けてみると「綻び」から生まれるものを知る旅だった、というのが私の感想です。

「固く閉ざされた 蕾が綻び

 戦い疲れた あなたは綻び

 想いが生まれた」

蕾が綻べば花が咲くように、閉ざされた心が綻ぶことで想いが生まれる。水心子が歌った「あなた」は三日月のこととも取れますし、歴史の中で生きた人々と考えることもできます。

「記録にも記憶にも残らなくても、そこに居たんだ。漸くわかったよ。愛しい、と想う心も、歴史を繋いでいるんだ」

もう、水心子のこの言葉が今作の全てです。完全勝利S。

歴史に遺らないからといって、無かったことにはならない。そこに生きた人は確かに存在した。そしてその人たちが居なければ、歴史がここまで繋がることはなかったのです。

作中で将門が呪いに取り込まれていく際、水心子は三日月がなぜ悲しい役割を背負わされた将門を救わないのかと疑問を口にしていました。

悲しい役割を背負わされた人の味方ならば、生かすことが救いではないのかと。

しかし、三日月が守ろうとしているのは悲しい役割を背負わされた人の生命そのものではないことに水心子はここで漸く気づきます。

彼が守ろうとしているのは、歴史の中で光の当たらない人の心に生まれた【想い】。

大河の流れを変えようとしているわけではなく、そこに飲み込まれる小さな川のせせらぎの美しさを守ろうとしていたのです。

「愛しい」という言葉は「悲しい」とも書き換えられます。「悲しい役割」に対する三日月宗近の「愛しい」と想う心もまた、歴史を繋ぐひとつの要素なのだと思います。

 

また、【想い】は【願い】であり【祈り】でもあります。

此方側が死者を弔い、その冥福を祈るように、彼方側もまた此方側のために祈っていることを教えてくれたのが真剣乱舞祭2018でした。

彼方側は此方側…つまり「生きとし生けるもののために」祈っています。

「あめつちはじめて出逢いし時 彼方と此方が祈り合う

 魂振り袖振り いついつまでも 此処から生まれて いついつまでも」

彼方側と此方側の祈りは、鎮魂と惜別の中で生まれ、いつまでも続いていく。その先に残った【想い】が歴史を繋いでいくのです。

 

個人的にはこのシーンで、たどり着いた結論を語る水心子の言葉を「うん、うん…!」と頷きながら否定することなく聞き届ける清磨の存在も大きいと考えています。

誰も居なければただの独白になってしまうところを、親友である清磨が聞き届けることでまた世界が広がっていくというか…新々刀だからこそ辿り着けた場面なのかもしれません。

本当にこう…水心子も清磨も、互いに向ける言葉や視線が優しさに満ちていて素晴らしいですね…。



 

 

エピローグ

三日月から托されたものと、ラストシーンのあれこれについて。

あともう少しだけお付き合いください。

 

 

役割と物語~三日月から托されたもの~

今作が次に繋がっていく要素をはっきり出してくるのが、三日月宗近と出陣した刀たちの対話シーンです。

三日月は新々刀へ「これまでとこれからを繋ぐ架け橋」となり、江の面々へ「人と人ならざるものの架け橋」となって欲しいと想いを托しました。

気になるのはここに三池の二振りだけが居ないこと。

新々刀と江は「三日月宗近にも出来ないこと」を托される存在でした。

三日月宗近は己の存在を問うことがテーマのつはもので「後の世に形の残った確かな存在」という表現をされています。

それに対し、今回三日月からできないことを託された面々は「確かな物語や歴史」の要素が薄いのです。

新々刀は刀工の名を持つ集合体なので決まった物語がないうえに、霊的要素も少ない存在。

江はそもそも江である確証がなく、江だろうというものたちの集まりですし、リーダーである豊前江に至っては来歴や行方が不明瞭です。

しかし、三池の二振りはそうではありません。彼らは確かな物語と歴史を持っていて、その物語を全うしてやろうと高らかに歌っています。

三日月と同じように自由には動けない存在であるため、三池はここに呼ばれていないのでしょう。

考えてみると、真剣乱舞祭2018で三日月に導かれた巴形薙刀も「逸話なき薙刀」でした。

そして巴形薙刀は決着をつけないという決断を知ります。これは歴史を決めつけず、諸説に逃がす方法をとった三日月だからこそ教えられたことなのだと思います。

また、三日月から想いを托されるこの構図は、『この花のように』を連想させるなあと。

一度巡れば

蓮に心寄せ

托されるは

生涯の約束

矛盾や悲しみという汚泥の中でもがいた先で、刀剣男士もまた心という花を咲かせるんですよね…。

 

 

仮面の少女は何者だったのか?

物語のラストは水心子が現代の東京に降り立つという、冒頭と繋がるシーンから始まります。

「君が誰なのかようやくわかった」と呼びかける水心子。しかし、そこにはもう仮面の少女の姿はなく、ただ降り注ぐ砂だけが言葉を聞いています。

このシーンで訥々と語り掛けられる水心子の台詞について、私が口をはさむ部分はありません。

ここはたぶん、この言葉を受け取った人が答えを考えるべき場面だからです。

秘すれば花とは正にこのこと。

そして各々が考えた先には、

「みんな、何が【正しい】なんて無いんだ。想いは…きみの想いは、届いてるからさ!ありがとう!」

という水心子の言葉があるのです。

これはひとつの救済であり、優しさであり、肯定です。

何度も何度も台詞を噛みしめて、その度に溢れ出す水心子からの優しさは、見たものの心の中にまたひとつ種を植えるのでしょう。

ただ、仮面の少女が出てこないことについては少し考えたことがあるので綴ろうと思います。

 

仮面の少女は水心子の呼びかけには答えず、最後までその姿を見せることはありませんでした。

そもそも彼女は本来見えないものだった、というのが序盤でも述べた私の考えです。

少女が見えていた時点で歴史は分岐し、あの東京は放棄された世界に繋がっていたのだと思います。

では、あの少女は何者だったのか。

本来見えない存在でありながら、歴史の分岐点に度々現れていた少女に繋がりそうな文章を見つけたので記載します。

 

 われわれはじぶんたちの生きている現在と決して完全に同時代にいることはない。歴史は仮面をつけて進行する。歴史は前の場面の仮面をつけたまま次の場に登場するのだが、そうなるとわれわれはもうその芝居がさっぱりわからなくなる。幕が上がるたびに、話の糸口をたどりなおさなければならないのだ。(レジス・ドブレ『革命の中の革命』)

寺山修司『ポケットに名言を』(角川文庫、2014、P40)

 

この「歴史は仮面をつけて進行する」のくだりがあの少女と繋がるな…と思いました。仮面をつけたまま次の場に登場するのも、幕が上がるたびに話の糸口をたどりなおす必要があるのも。

あの少女は「名を遺さないものの歴史」という仮面をつけた「我々が生きている現在」であり、同時代を生きる我々の目にも本来であれば映らないはずの存在だったのではないでしょうか。

そうなると、最後の水心子の呼びかけの際、仮面の少女が見えないのは分岐したはずの「現在」がいま此処にいる我々の「現在」と繋がったからだと考えられます。

あの水心子の言葉は仮面の少女と繋がっている我々へ向けられたものでもあったのだと、改めて実感することができました。



境界線~1部と2部ラストシーンの繋がり~

本編ラストシーンで時間遡行軍が現れ、再び結界が張られていくなかで水心子はこう叫びました。

「結界は人の心の中にしか存在しない!

必ずまた巡り会えるから、閉ざさないで欲しい!傷つかないで欲しい!

そのために私たちは───」

この言葉に導かれるように他の刀剣男士も現れ、時間遡行軍を倒そうと刀を抜いて、

「すべきことをする!」

と全員が叫び、舞台が暗転します。

この結界と時間遡行軍という組み合わせは、冒頭の場面とほとんど同じです。

違うのは、そこに現れた刀剣男士が水心子以外にも居たということ。

そして彼らは、時間遡行軍と共に結界も断ち切っているように見えました。

暗転する中で流れた音楽は、オープニングの『刀剣乱舞~東京心覚~』のイントロと一緒です。

状況としては1部冒頭と同じでしたが、結界ではなく刀剣男士が時間遡行軍を阻んだことで、歴史は分岐せずに元へ戻ったのかもしれません。

彼らの言う「すべきこと」「歴史の流れを守ること」…我々の住む現代を、放棄された世界にしないことも含まれるのだと思います。

結界は線、つまりは境界線です。水心子は結界は人の心の中にしか存在しないものだと叫んでいました。

結界は、境界線は、人が何かを分けようとするからできるもの。

コロナという人の繋がりを分かつものが蔓延する現代は、ある意味境界線だらけといえます。

ソーシャルディスタンス。リモートワークにリモート授業。イベントの規模縮小・中止。

それまで当たり前だったものが当たり前じゃなくなった世界。人との距離が開き続ける時代。

そんな世界に生きる我々へ向けて、水心子は「また巡り会えるから、閉ざさないで欲しい」と呼びかけていたのです。

存在しない境界線に囚われて心を閉ざしてしまえば、なにも繋がらなくなってしまうから。

 

1部のラストシーンで「すべきこと」をした刀剣男士達は、2部のラストシーンで「現代の東京」へ現れます。

そこには時間遡行軍が出現し、この現代の歴史を変えようとしていました。

時間遡行軍は時計が巻き戻る音をBGMに現れます。その背景には濁った水の流れと波紋が刻まれていました。

彼らは大河の流れに波紋を生み出し、水を濁らせる存在。

対する刀剣男士は大河の流れを守り、水の清らかさを保つ存在。

1部の冒頭とラストシーン、そして2部のラストシーンは全て「東京」へ降り立っていますが、すべて状況が違います。

1部の冒頭は、人の心の中にしか存在しない結界が作動し、時間遡行軍を弾いたパターン。ここでは刀剣男士の出番もありません。

1部のラストシーンは、張り巡らされた結界と時間遡行軍を刀剣男士が共に断ち切るパターン。ここで漸く分岐していた時代が元に戻り、我々の住む現代と歴史の流れが繋がります。

そして2部のラストシーンは、結界は存在せず刀剣男士だけが現れるパターン。阻む結界がない現代を蹂躙しようとする時間遡行軍を、今回出陣した刀剣男士達が斬り伏せました。

3度「東京」へ降り立った刀剣男士達は、3度目でやっと我々が生きる現代に辿り着き、あるがままの歴史を守ったのです。

 

 

日常シーンでの会話

今作においては五月雨江と村雲江も境界線を自ら作ることで対比されていました。

しかし、五月雨江は豊前江に導かれ、自ら線を引いて歌心を押し殺すことをやめました。

その結果、エピローグで描かれた日常シーンでは道灌に感化された歌心を押し殺すことなく、素直に歌を詠んでいます。

村雲江は桑名江に導かれ、過去の経験から生まれた線を引くことへの嫌悪感から抜け出し、視野を広げることができました。

五月雨江と語らう日常シーンでは、苦い経験だけに固執せず、まだ見ぬものへ目を向けられるようになっています。

彼らの成長は次の任務にも繋がって、歴史を守る力となるのでしょう。

 

三池の会話では、江戸幕府が三百年以上続いていたらどうなっていたか、というソハヤの質問に対し、大典太はどこかで綻びが出ていただろうと返します。

霊力には限りがある。だから永久に守り続けることはできないのだと。

しかし、「人の想いに限りはない」と大典太は言うのです。

綻びから生まれた人の想いは限りなく続いて、歴史の流れを繋いでいく。

江戸は終わってしまったけれど、江戸を守ろうとした天海の想いは消えずに残っているように。

 

そして新々刀の会話です。

ここで、あの仮面の少女の話題が出ます。

清磨に少女の名を問われた水心子は「知らない。まだ出逢っていないのだから」と答えていました。

この時点で彼らはまだ我々の生きる現代(2部のラストシーン)へ出陣していない状態です。

そして零れ落ちる砂を背に語り掛けていた時点では、まだあの東京の結界は断ち切られておらず、現在と繋がった我々とも出逢っていないことになっているのだと思います。

「現代の東京」と水心子が本当に出会うのは、2部のラストシーン後。

それでも水心子は、名も知らぬ少女のことをこう評するのです。

「きっと、そこで頑張っている子だと思う!」

あの少女は我々が生きる歴史であり、現在であり、我々自身。

水心子は名も知らぬ我々の想いを、頑張りを、知っていてくれるのです。

この台詞は音曲祭で初期刀が2部のMCで客席へ向けてくれた言葉と繋がっているように思えます。

主が頑張っているところをずっと見ていた、とこの先に明るい未来が待っていることを知っている刀剣男士が言ってくれる優しい空間。

音曲祭と違うのは、はっきり言葉にされる瞬間が少ないことくらいで、同じくらい優しさが詰まった作品がこの東京心覚なのです。

 

 

誰かが居ることの意味

今作の考察をしていて感じたのは「繋がり」をすごく意識している、ということです。

ラストの曲の歌詞はその傾向が顕著でした。

 「誰も居なくても 大地はそこにある

 誰も居なくても 空はそこにある

 誰も居なくても 風は吹き荒れる

 でも誰かが居なくては 歌は生まれない

 誰も居なくても 陽は昇り沈む

 誰も居なくても 時は止まらねえ

 誰も居ないなら 探しに行こう

 誰かが居る風景 誰かと居る景色」

刀ミュの歌詞はどれも天才なのですが今作のラスト曲は特に天才すぎて、『かざぐるま』と同じくらい好きです。

特にここは「誰も居なくても」当たり前に起こる出来事を歌ったあとに、「でも誰かが居なくては歌が生まれない」と人の必要性を歌うところ。そしてそのパートを他でもない五月雨江が歌っているところが天才です。

さらに「誰も居ないなら探しに行こう」と、刀剣男士たちが繋がりを求めて歩み寄ってくれるこの歌詞があまりにも優しくて…すきです…じわじわと染み渡るやさしさ…。

誰も居なくても時は平等に過ぎ去りますが、「誰か」が居なければ成立しないのが人の歴史なのです。

歴史に名を遺した人が居て、名を遺さなかった人も居て、名も知らぬ「誰か」が「誰か」と共に在る景色が続いて現在がある。誰もがひとりぼっちでは何も生まれなかったでしょう。

そして歴史のなかで生まれた【想い】や【願い】…【祈り】は、すべてがすべて正しく伝わるわけではありません。

覚えておいて欲しいこと。忘れて欲しいこと。見つけて欲しいもの。隠して欲しいもの。

水心子の問いかけに答える者と答えなかった者が居るように、【想い】【願い】【祈り】にも様々な種類があります。歴史に記されることだけが正義ではないのです。

歌に込めた想い。心に秘めた祈り。誰にも理解されない願い。誰にも受け止められずに零れ落ちる砂粒だとしても、それは確かに存在したものでした。

これは問わず語り。

誰の耳にも届かず消えていくだけのひとりごとを、最後に新々刀は「聞いて欲しかった」と歌いました。

このひとりごとは「誰か」の心に「想い」という種を宿します。

確かに存在したことを「誰か」ひとりでもどこかで知っていてくれるのなら、たとえいつか忘れてしまっても、歴史はまた繋がっていくのです。

 

 

 

 

おわりに~学びの場としての刀ミュ~

思ったこと、考えたことを一気に書き綴ってみたらびっくりするほど長くなってしまいました。

こんなに考えたの久しぶりかもしれない…すごい作品にまた出逢ってしまったなあ…。

ノリでアイキャッチ画像とかも作ってしまいました。最近のブログ進化してる。

今回も考察を書くにあたって色々と調べるうちに、これまでの人生で深く触れてこなかった知識を吸収することができました。

調べても調べても終わらないので時間はかかりましたが*11、とても楽しかったです。

刀ミュは趣味というより学びの場としての役割が大きいといつも感じます。

自分の世界や境界線の外側を教えてくれるもの。そして外側と内側に繋がりがあることを知るきっかけになるもの。

この「学び」について興味深い記事が新聞に掲載されていました。

 

 人は自分の中で“これは意味がある””これは意味がない”と物事を位置づけ、大方意味のある方(=役に立つ方)を選んでいます。でもそれではますます自分の世界に固執してしまいます。自分が持っている世界の外側にアクセスできるのが、実は”意味がない”と思っていた一見役に立たないような学びだったりするのです。

 例えば、古代文化や宇宙、哲学など、全く日常生活と関係のないもので構いません。必要を離れて、興味を持ったことに一歩踏み出してみる。すると何だか得も言われぬ解放感が味わえることがあるはずです。(中略)趣味も同様に心が軽くなったりしますが大抵の場合一過性です。学びはもっと持続的なもの。物の見方や人生の捉え方まで変化させる可能性があります。

田口茂「アップデートを続けよう:学び」『北海道新聞』 2021年3月25日/朝刊(オントナ)/p3

 

この記事を読んだとき「私にとっての刀ミュは学びの場でもあったんだ…!!!」と感動したのを覚えています。

学び、知ることは自分の境界線を超える方法です。今作に沿って考えると、歴史を繋ぐひとつの手段であるともいえます。

歴史に遺らなくても、そこで頑張って生きている名もなき人の想いを知った水心子は、我々の生きる現代を「放棄された世界」にしないために「すべきこと」をしにきてくれました。

名前がない、というのは比喩です。本当に名前がないわけではなく、「名前を知らない」ということ。本来そなわっていても知らなければ「ない」と認識されるもの。

けれど、知らなくても存在までは「ない」ことにはなりません。

名を知らずとも草木は伸び、花は咲く。人も花もそれは同じこと。そこには確かに生命が宿り、存在しているのです。

水心子はもうそのことを知っています。

その優しさだけで、『名もなき草』の「人生は、また希望である。」という一説がより染み渡ってくるような気がします。

ちなみに、これを書いている私の頭の中ではずっとこの曲が流れています。

www.uta-net.com

意外と良い歌詞だし、今の話とも割と繋がってるのがポイント。

 

また長くなってきたのでそろそろ締めたいと思います。

色々なことがありますが、また5月に進化した心覚が見られるように願っています。もう「奪われた時間」が増えませんように。

また次の考察と感想でお逢いできればうれしいです。

ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました!

 

 

 

*1:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E3%82%8A%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%9B 

*2:アイキャッチ画像参照

*3:天台宗の経典は他にもありますし、日蓮天台法華宗衆生を救う力がないと言い切っていますので、仲良しというわけでもないです。詳しくはwebで!

*4:山王祭自体が広く知られるようになるのは家康が江戸に来てからです。

*5:主祭神に対して合祀された神

*6:「そこに居られたのですね 何年も 何百年も。ええ、忘れてはおりませぬ 忘れてはおりませぬよ。語りましょう 歌いましょう 其方達の物語を」

*7:※実は古今和歌集にも紀貫之が詠んだ山吹の歌があります。吉野川 岸の山吹吹く風に 底の影さへうつろひにけり」…山吹を詠んだ歌は万葉集にも掲載されていましたが、この歌が詠まれてから、吉野川と山吹の組み合わせは常識となったそうです。

*8:本歌は最後が「かなしき」ではなく「あやしき」

*9:疑問なのはなぜ将門が時間遡行軍に狙われているのかなんですが…将門を早い時点で葬ることで武士政権を少しでも長くしようとしたとか、そういう話…?

*10:おそらく千早だと思うのですが違ったら申し訳ないです。

*11:犠牲になったもの:戦力拡充計画レベリング

問わず語りという名の合わせ出汁~東京心覚の考察と感想~

お久しぶりの方も初めましての方もこんにちは。

前回の歌合の考察からはや1年、更新滞りまくりでしたがしっかり楽しんでおりました。

本当はステの感想とか歌合の再考察とか、なんなら音曲祭の考察とかを先に書くべきなのかもしれませんが、今回はどうしても東京心覚の感想が書きたくて筆を執りました。

なお、この考察は文字通りの問わず語りであり、初日公演の配信しか見ていない状態で書いたものになります。

アーカイブ配信後にもっと解像度を高めてアップしようか迷ったのですが、そうなるといつ書き終わるかわからないので、この時点での捉え方を記そうと思った次第です。

当然ながらネタバレしまくりなので、ネタバレ拒否の場合はそっとタブを閉じていただければ幸いです。

一部ふせったーに投稿した内容も加筆修正して入れています。

 

 

はじめに

今回の新作『東京心覚』を見て感じたのは、敢えて明確な答えを避けている、ということです。

物語の中でわかりやすく答えを描くことは可能ですし、それを起承転結に組み込むことでもちろん盛り上がりが生まれます。

だけど、今回彼らはそうしませんでした。

それどころか、時間軸が入り組んでいたり、抽象的な表現が多かったりと混乱するポイントが多く盛り込まれました。

それはなぜか?自分なりに考えました。

受け取り手、つまりは観客である我々に想像力を働かせ、各々の中に納得できる答えを探してほしいと思ったのではないでしょうか。

近年はインターネット文化が発達していて、疑問が生まれても検索すればたいていの答えを得ることができます。

SNS集合知の面もあり、自分が知らなかったことを知っている人が大勢います。

自分が知らなくても誰かが答えを教えてくれる状況が当たり前になっているのです。

それは一種の思考停止にも近いのですが、当たり前になってしまうと危機感すら生まれません。

最近流行の曲はイントロがないという話をよく耳にします。

ストリーミング配信が主流となったことでイントロが長いと聞かない人が多くなったため、サビや歌入りを手前に持ってくることでヒットを狙う手法だそうです。

サビや印象的な歌詞という答えがすぐ用意されていないと、聞くことに飽きてしまう・疲れてしまう人が増えたという意味にもとれます。

これは近年の芸術作品に共通したもので、疑問を残す物語よりも答えが示される物語の方が好まれる傾向があると私は感じています。

答えがある物語は見ていて気持ちがいいし、なにより頭を働かせる必要がないので疲れません。

 

話が変わりますが、刀ミュの物語は秘伝の継ぎ足しダレみたいだなという話を歌合の感想のときにしました。

継ぎ足しダレは美味しいです。

「美味しいものに美味しい要素を入れると更に味が深まって美味しくなる」という素晴らしいサイクルを持っています。

今までの刀ミュはそういう物語が繋がって、どんどんタレの味を濃くしていた印象があります。

でも、今回は違いました。

タレの味は時々するのですが、どうも口にしてみると味が薄いのです。

この味の薄さに「あれ?」と思う審神者の方も多かったのではないでしょうか。

しかもつい最近まで音曲祭という特濃の継ぎ足しダレを味わっていたので尚更そう感じたと思います。

私も最初はそう感じていました。今回はずいぶん味が薄いなあ、と。

でもこれは別に味が薄かったわけではなくて、味が染み出している最中だったんですね。

具体的にいうと、今回のメインは継ぎ足しダレではなく、新しい出汁だったんです。

しかも鰹と昆布の合わせ出汁

さらにいえば、物語の終幕時点でまだ削り節が濾されてないやつ。

何言ってんだこいつ…ってなったら合わせ出汁の取り方をご覧ください。

 

www.yamaki.co.jp

 

おわかりいただけただでしょうか。

出汁はすぐ味が出ないんですよ。昆布1時間つけてから弱火で沸騰させるんです。

火を止めた後に削り節を入れて待たなきゃいけないし、なんなら最後はサラシとかで濾す必要があるんです。

何が言いたいかというと、今回出された物語はこの合わせ出汁を取っている最中であって、濾すのは観客の役割だということ。

 

今回の物語が「わからない」のは当たり前です。

でも「わからないから面白くない」と思考停止しないで、考えて欲しい。想像力を働かせて欲しい。

それはひどく疲れることかもしれません。

でも、あなたが口にしたその合わせ出汁の削り節を濾せるのは、あなたしか居ません。

そんなメッセージを受け取ったがゆえにこの感想を書いています。

例え方がひどくて申し訳ありません。

自分で削り節を濾すためにいろんなことをしていたら、美味しい出汁が出てきたのでここに置いておきます。

これは正解ではなく、私が濾した東京心覚という名の合わせ出汁です。

お口に合う方・合わない方、それぞれ居らっしゃると思いますが、もし興味があればお付き合いください。

 

 

 

なぜ今回の出陣は彼らだったのか?

刀ミュで出陣する刀剣男士たちは、一見ばらばらに見えてどこか繋がっていることがあります。

今回出陣した彼らの共通点や、なぜ彼らが選ばれたのかを考えてみました。

 

各刀剣男士の簡単な来歴

豊前

かつて伝来した豊前国小倉藩の小笠原家初代当主:小笠原忠真正室(円照院)が徳川家康の養女であり、本多忠政の次女。

本多忠勝は祖父にあたる。なお、円照院の母(熊姫)は松平信康の次女だった。

現在は行方不明。実存しているかわからない・存在があやふやな刀。


桑名江

かつての主が本多忠政。蜻蛉切と同じく本多家に伝来。

元々は農家の神棚に飾られていた刀。朝5時に畑に集合する。


村雲江

豊臣秀吉から前田家→徳川将軍家(綱吉)に伝来。綱吉の代では五月雨江と過ごしている。

その後、側用人であった柳沢吉保へ伝わる。

いっとき二束三文で売りに出されていたことや、柳沢吉保が後世では悪者として描かれていることが性格に色濃く出ている。


五月雨江

黒田長政から徳川将軍家(秀忠)→前田家→徳川将軍家(綱吉)と伝来。綱吉の代で村雲江と過ごす。

その後、尾張や将軍家の間を行き来した。

刀剣乱舞では名を詠んでくれた松尾芭蕉へのリスペクトがすごい。忍者。

「ここで一句」が自然にできる歌心を持つ。兼さんと岩融と俳句バトルしよう。


大典太光世

足利将軍家から豊臣秀吉→前田家へ形見分けされた天下五剣の一振り。

形見分けの際は二代目将軍秀忠を介したという説もある。

いずれにせよ病の治癒祈願をもとに前田家へ渡った刀。富田江、北野江とも関わりがある。

保管されていた蔵の上に烏すら留まらない・とまった烏が死んでいたという伝承がある。

この烏止まらずの蔵は前田家江戸藩邸にあったともいわれている。

注連縄をかけて保管されていたから足が紐で繋がっているのに何故か殺陣ができる謎スペック。

天下五剣たるもの蔵から出たらボイパもできる。


ソハヤノツルキ

源頼朝?→御宿家?→徳川家康と伝来し、家康の遺刀となった(家康以前は明確ではない)

無銘の刀ではあるものの「妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ」の切付銘があり、三池大典太作とされている。大典太光世とは兄弟。

家康の「不穏な動きをする西国へ切っ先を向けて久能山へ納めるように」という遺言に従って久能山東照宮へ納められた。

 

此御刀は御在世最御鐘愛品にて数度の御陣中はさらなり
常に御身を離し給はず夜は御枕刀となし給ひ終に今はの御際遺命ありて永世の鎮護と久能山に納め給ふ

久能山東照宮宝物解題 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

今作では陽キャに見えるが大典太光世のボケを受け止め切る常識刀。


源清麿

江戸三作の刀工のひとり、源清麿が打ったとされる刀の集合体。

特命調査では放棄された天保江戸の修正任務にあたっていた。

源清麿は別名四谷正宗とも呼ばれており、特命調査では彼が戻って来られるように水心子が懸命に正しい江戸の歴史を守ろうとしていた。

水心子とは親友。関東大震災後は源清麿の墓の隣に水心子正秀の墓が越してきた。

源清麿の打った刀は新々刀の中でもかなり人気があったとされる。

刀剣乱舞では長曾祢虎徹源清麿に打たれた設定になっている。


水心子正秀

江戸三作の刀工のひとり、水心子正秀が打ったとされる刀の集合体。

水心子正秀は新々刀の祖と呼ばれ、古刀復古を唱えていた刀工。

江戸末期に失われかけていた鍛刀技術を収集し、多くの弟子に伝授した。

「太平の世に慣らされきった刀剣を、本来あるべき姿に戻すべく生み出された刀」という台詞はこういった背景からきていると思われる。

清麿と同じく特命調査では天保江戸の修正任務を担当。清麿とは親友。


こうしてみると、徳川家繋がり+刀の時代(江戸)が終わるころに出来た新しい刀たちという繋がりがあります。

江戸の初期から徳川に関わり、様々な場所で人を見守っていた刀たち。

江戸の末期にかつての刀剣を想って作られた刀たち。

彼らなりに、いまの東京を形作った江戸を見ていたから選ばれたのかもしれません。

 

水心子正秀が主役だった理由

今回はいつもより2振り多い8振りでの出陣。その中でも水心子正秀の活躍はめざましいものがありました。

しかし何故この8振りの中で水心子正秀がメインだったのでしょうか。

今回がいつもの出陣と違うのは、各団体(うまい言い方が思いつかない)の繋がりが濃いという面にもあると思います。

具体的にいうと、

  • 豊前江・桑名江・村雲江・五月雨江 → 江(郷義弘作とされた同派*1の刀)
  • 大典太光世・ソハヤノツルキ → 三池刀(兄弟
  • 源清麿・水心子正秀 → 新々刀(親友

こんな感じ。

ここまで多くの団体が編成されるのも珍しい気がします。

これまでは、大勢の団体に一振りとか、兄弟刀が1~2組とかそういう感じでした。

同派といえば三条がぱっと思い浮かびます。

兄弟、つまりは家族。これは虎徹三兄弟や、村正派もそうですね。

兼さんと堀川くんみたいな相棒という関係性もありました。沖田組はのら猫2匹。

でも、親友という関係性は初出のような気がしないでしょうか。

同派でも兄弟でも相棒でもなく、親友。唯一無二の友。

友という言葉を口にする刀は居ます。

三日月宗近です。

彼は歴史の中で悲しい役割を背負った人間を、友と呼びました。

そしてその友の一部は「物部」となり、彼が携わった歴史をひそかに支えています。

でも三日月宗近は同派の刀を友とは呼びません。

今のところ、彼の「友」という言葉は人間に向けられています。*2

今作では初めて互いを「友」と認める新たな刀が登場しました。

それが新々刀。

そして水心子正秀はそんな新々刀の祖であり、「太平の世に慣らされきった刀剣を、本来あるべき姿に戻すべく生み出された刀」。

彼は刀剣男士であることに誇りを持ち、自分たちが刀剣である意味を理解しています。*3

そしてなによりも、人と刀剣男士の違いについて明言*4している刀でもあるのです。

「悲しみに寄り添いすぎると引きずられる」というのは今作の平将門公の台詞です。

【悲しみ】は【愛しみ】とも書くことができます。

【悲しい役割を背負った人間】への【愛】を持ちすぎたことで【悲しみ】が生まれ、寄り添おうとする。

悲しみに寄り添いすぎることで、人と刀剣男士との境界線が曖昧となり、【機能】という名の【呪い】と化してしまったのが三日月宗近だとしたら?

人と刀剣男士の境界線を見極め、刀剣男士の誇りと己の責務を全うしようとする水心子正秀。

三日月宗近が一振りで「友」を救おうと暗躍した歴史に生まれた歪みを、彼は「友」と共に解決しようと奔走した。

うまく言えないのですが、三日月宗近の呪いを軽減させた存在が「唯一無二の友」を持つ刀だったことに意味があるのかなと感じています。

さらにいえば、水心子正秀と源清麿は刀工にまつわる逸話に霊的要素が調べる限り一切ないんですよね。

三条宗近は小鍛冶にある通り、稲荷明神の力を借りて小狐丸を打ったりしていますし、三条の刀たちも霊的な役割や力を持っています。

それに対して新々刀は、失われかけていた刀剣の技術を復古させるため、人の力で作り出された存在。

こういうところも三日月宗近と対比されているのかなと感じています。

 

他の刀の関係性もちゃんと意味がある

親友という関係性の他に、同派や兄弟といった「互いを頼り、助け合う存在」を持つ刀たちが今作の任務にあたったことも意味があると思っています。

大典太光世は蔵に仕舞われていたということをコンプレックスに感じていますが、ソハヤノツルキはそれを気にする様子がありません。

時々発する大典太光世なりのボケもしっかり拾って時には諌めていましたし、ソハヤノツルキ自身も大典太光世と行動することで冷静さを保っていられる場面がありました。

江の面々は特に村雲江と五月雨江の関係性がそうですよね。

「あめさん」「くもさん」と呼び合う彼ら。村雲江は五月雨江と居るときに安心感を得ています。

豊前江は五月雨江の代わりに汚れ仕事を請け負い、桑名江は村雲江も必要な存在だと語り掛けた。

江は「郷義弘作と思われる刀」の集まりで、他の同派とはまた違った特徴を持っています。

それでも互いの存在があるから前を向ける、強く在れるという姿勢は変わりません。

一振りではできないことも、だれかと共にならやり遂げることができる。

一振りで暗躍する三日月宗近が彼らに言葉を向けたのは、自分にはできないことが出来ると判断したからかもしれません。

 

 

これまでの物語と今作の繋がり

今回は異色の作品ではありますが、これまでの刀ミュ本丸が携わってきた歴史との繋がりがないわけではありません。

これまでの物語が今作とどう繋がっているのかを考察しました。

 

今作の立ち位置

まず、これまでの物語が刀剣にとってどういうものだったのかを整理します。

  • 阿津賀志山・つはもの → 鎌倉時代武士政権の誕生
  • みほとせ・葵咲 → 戦国時代から江戸時代=武士の世から泰平の世
  • 天狼傳・むすはじ → 江戸時代末期から明治時代=刀の時代の終焉

このように、刀が重宝され始めた時代から、銃や大砲の登場で刀が使われなくなる時代までを描いてきました。

今作、『東京心覚』でメインになったのは新々刀の祖である水心子正秀。

彼は江戸時代末期に失われかけていた「戦うための刀を作る技術」を復古するために心血を注いだ刀工によって作られた刀です。

刀の役目が終わりゆく時代に生み出され、「銃ではなく刀剣であることに意味がある」ことを理解し、「太平の世に慣らされた刀剣をあるべき姿に戻す」ための存在。

この「太平の世」は普通に考えれば江戸時代を指していることにはなるのですが、大きな戦争がおこらない現代も含んでいるとすれば、彼は刀の時代の終焉の先を担うべく生み出された存在ともいえます。

つまり、今作はこれまでの物語の先を描いている、刀ミュ本丸の新たな一歩と呼べるのではないでしょうか。

パライソがどんな感じなのかまだわからないので断言はできませんが……。

ただ、三日月宗近が新々刀へ「これまでとこれからを繋ぐ刀となれ」と告げたのは、きっとこういうことなんだろうなと解釈しています。

 

歴史上の人物とこれまでの物語

今作に出てくる歴史上の人物が江戸の設計に関わっているのは調べればわかるのですが、これまでの歴史とも関わっているのでは?!と思って調べました。

ざっと調べた結果はこのような感じです。

つまりどういうことなのか、詳細は以下に。

平将門

平将門の乱が起こったことによって

が出来ました。

平貞盛の子孫が源頼朝義経

そして藤原秀郷の子孫が藤原泰衡

つまり阿津賀志山とつはものに深く関わる人物を産むきっかけを作ったといえます。

武家政権、つまり武士が時代を動かすきっかけも同時に作っています。

平将門がいなければ源氏は歴史上で名を挙げることはなく、鎌倉幕府が生まれることもなかったのでは?

そう考えるとかなり重要な役割を担っています。

でもこれは敗北が決まった役割。つまりは「悲しい役割」です。

刀剣が重宝されるために必要な歴史ではありつつも、三日月宗近は怨霊と呼ばれるほど強い想いを抱いて散った将門公を見過ごせなかったのではないかなと。

彼と三日月宗近の関わりについては今後描かれることを期待します。

 

なお、彼が朝敵となったのは横暴な政治を行っていた国司や朝廷に対する東国の民の悲鳴を聞き届けたためといわれています。

つまり、平将門は名もなき民草たちの声を聞いて立ち上がった存在でもあります。

彼はは既に三日月宗近接触しており、水心子正秀が来ることも知っていました。

水心子正秀の問いかけに対しての答えは「惚れた女のため」

平将門正室や側室については諸説ありますが、今作では桔梗の花について触れられたため、この「惚れた女」とは桔梗の前だと思われます。

寵姫のなかでも取り分け気に入られていたましたが、俵藤太秀郷と内通し将門の秘密を伝えたため、将門は討ち取られ、自身も悲惨な最期を遂げるという「悲しい役割」を背負った女性です。

桔梗の前に関する伝説も諸説あるため、「あったかもしれない」という幾重にも分かれたルートを辿ることが出来る歴史のひとつ。刀ミュ本丸と相性が良さそうです。

天海

とにかく長生き。なんと享年108歳

人間百年生きれば付喪神って言われてたけど、この人はほんとにそうかもしれないレベルです。

そんな天海ですが、今作で「三百年の子守唄」という台詞を口にしています。

これは今作の中でも珍しくわかりやすい繋がりを示すポイントなのですが、その台詞をなぜ天海が紡ぐのでしょうか。

個人的には、

  • 家康は自らの葬儀や神号について天海に託していた
  • 家康の死後、東照大権現という神号は天海のアドバイスによって決定した
  • 家康が始めて3代目将軍家光まで続いた江戸の街の設計を最初から最後までサポートした

という点がおそらく繋がってくるのかなと思いました。

天海は江戸という都市が、太平の世が、三百年にわたって繁栄するようにと願った一人だったのです。

みほとせで「徳川家康。彼は、になるんだ」と石切丸が言ってましたけど、神としての名をつけたのは実質この天海といえるのではないでしょうか。

そして、天海が江戸の街を設計する際、徹底した鬼門封じをしていることは劇中でも指摘されていました。

鬼門は北東、裏鬼門はその正反対に位置する南西。

江戸は富士山を北としているので、そこから見た北東と南西に鬼門封じの神社や寺を置いています。

〇北東

〇南西

多分劇中でもこれらの名前が出てたはずです(うろ覚え)

この鬼門封じの寺と神社を結ぶと、その真ん中に江戸城の本丸が現れるという徹底ぶり。

しかも平将門の体を封じた神社は、江戸に続く7つの街道と江戸城下の門の交差点に作られています。

交差点には魔が宿りやすいと昔から言われていますし、さらに江戸以外の場所に続く道に神社を置くことで外敵を防ぐ目的もあったと考えられています。

天海が江戸の街に施した宗教的な仕掛けについては、以下の記事がとても面白く、参考になりました。

 

shuchi.php.co.jp

 

天海が施した様々な仕掛け(結界)の結果、いまも旧江戸、つまり東京は栄えている。

江戸時代は終わってしまったけど、街と人は続いている。

天海は家康が望んだ世界を守るために奔走した人物といえます。

勝海舟

劇中でも描かれていた勝海舟西郷隆盛の会談で決定した江戸城無血開城は、戊辰戦争で計画されていた江戸総攻撃を未然に防ぐことが出来た偉業です。

もし江戸への総攻撃が開始されていたら、いまの東京の姿はなかったかもしれません。

しかしその結果、新政府軍と戦っていた旧幕府軍は負け、土方歳三は戦死。

新選組の刀たちが語る「刀の時代の終焉」が訪れました。

勝海舟はひとつの時代を終わらせ、新しい時代が始まるきっかけを作った人物なのです。

つまり、「これまで」と「これから」を繋いだ存在。

「江戸の街を守った」と語り継がれる勝海舟ですが、水心子正秀の問いかけには「俺が守ろうとしたのはそんな小せえもんじゃねえ」と答えました。

海外進出を狙う勝海舟の言葉を聞いて「やはりあなたは結界を国全体に広げようとしていたのだな!」と水心子正秀は言います。

結界は「境界線」であり「何かを守るもの」。

勝海舟は江戸の街という小さな括りではなく、日本という国全体を考えて行動したのだと水心子正秀は納得した様子でした。

ここでなぜ「やはり」なのか。

勝海舟は元々剣豪としても有名な人物です。

彼が所持していた刀は、水心子正秀と海舟虎徹

その中でも水心子正秀を愛刀としていました。

しかし勝海舟は水心子正秀を抜いて人を斬ったことはありません。

それがあの時間遡行軍に対する唾攻撃に繋がるのです。

水心子正秀が刀剣の「これまで」と「これから」を繋ぐ存在であるのに対し、主の一人であった勝海舟もまた同じ立ち位置だったといえます。

太田道灌

今回かなり重要なポジションだったのが太田道灌です。

刀ミュにおいて花は大きな役割を持っています。

そして今作を彩っていた山吹の花は太田道灌と深い繋がりがあります。

江戸城を建てた太田道灌歌人としても名をはせましたが、歌心を得るきっかけとなったのが有名な山吹伝説です。

鷹狩りに出かけ、雨に当たった道灌が民家に蓑を貸してもらえないか尋ねた際、対応した少女が何も言わずに山吹の枝を差し出したことに道灌は激怒します。

しかし、後から少女が山吹の枝を差し出したのは「七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだになきぞかなしき」という歌になぞらえ「(貧しいため)蓑がない」という申し訳ない気持ちを伝えていたためだとわかり、自分の無知を恥じ歌を学び始めたという伝説です。

 

道灌はのちに築いた江戸城武州江戸二十四番歌合」を開催しています。

この歌合で詠まれた道灌の歌は、

うなばらや水巻く竜の雲の浪はやくもかへす夕立の雨

お題は「海上夕立」。大海原に起きた竜巻が雲を産み、激しい夕立を降らせる様を詠んだ歌です。

雨は雲がなければ振りません。その様を描いた歌は、どこか「雨が降るためには雲も必要だよ」という桑名江の台詞に通ずるものがあります。

また、太田道灌が暗殺されるというのは劇中でも描かれていましたが、死の間際も動じずに歌を詠んだという話もあります。

刺客が「かかるときさこそ命の惜しからめ(死ぬときはどんな武勇を持っている人でも命が惜しいはずだ)」と詠んだのに対し、道灌は「かねてなき身と思い知らずば(いつも死ぬことを考えていないのならそうやって命を惜しむのだろう)」と答えたそうです。

歌にまつわる逸話や、詠んだ歌が今作のなかの関係性を示している感じ、なんだか歌合に通ずるものがあるな……と歌合のオタクは思うのでした。

 

 

各刀剣男士の行動についての考察

とは言いつつ、どうまとめていいか自分でもわからない考察の群れ。

色々と入り混じっています。

 

新々刀の最初の曲

「水清ければ魚棲まず」(水心子正秀パート)

あまりに清廉すぎるものはかえって人に親しまれず孤立してしまうことのたとえ

→つまり一振りで暗躍している三日月宗近のこと?

「水清ければ月宿る」源清麿パート)

水が澄んでいれば月がきれいに映る。心に穢れがなければ神仏の恵みがあるというたとえ
→これも三日月宗近のことを表してはいるが、水面に映る月は虚像です。

水面に月が映るためには空にも月が浮かんでいる必要があります。

水面と夜空、ふたつの月=表と裏(歌合の小狐幻影抄

美しすぎるがゆえに孤高であるもの。美しいから穢れのないもの。これもまた表裏一体。

水→水心子 清→清麿 に合わせて歌詞を当てはめているのでは?

 

水心子正秀が見ていたもの

フィルム状になっていることから、刀ミュ本丸におけるアカシックレコード(アカシャ)の可能性があると考えました。

アカシックレコード(アカシャ)とは「地球で起きうる出来事を過去から未来にかけて記録している第五元素(エーテル)もしくはアストラル光」

そこで三日月が暗躍して「悲しい役割を背負った人たちに手を差し伸べた歴史」から続くものを見てしまったのでは?

その続いた先が現在のコロナ禍の東京だった可能性は大きいと思います。

もしくは、「今の東京に至るまでの歴史」……戦争で壊れた街や、景気悪化する都市、そして感染症

それらに対して「守る価値があるのか」と問いかけたのかもしれません。

「歴史を守るのが刀剣男士の使命」だとわかっていながら「守る価値があるのか」と問いかけを投げるのって、ものすごく矛盾していますよね……。

このアカシックレコードが水心子正秀の心に矛盾が生まれるきっかけになったとも考えられます。

人間である刀ミュ本丸の審神者にはその判断は下せません。どんな過程があろうと、結果として歴史を守らなければいけないからです。

たとえ彼らの元主を再び殺すことになっても。

この根本的な、命題とも呼べる問いかけを主に対して直接投げかけたのも、静かな水面に石を投げ入れて波紋を産むような演出だな……と感じました。

 

桑名江が耕していた場所

畑かと思いきや硬いものを砕く音+ツルハシ装備から始まり、二回目は鍬になっていた桑名江の耕作。

硬いもの=瓦礫と考えると、現代に続くまでで東京が瓦礫に塗れたのは関東大震災第二次世界大戦中の東京大空襲だと考えられます。

これら二つが発生した時期を考えると、

となります。

東京大空襲は実際何度も起こっていますが、一番被害が大きかったのが3月なのです。

 

東京都は、1944年(昭和19年)11月24日以降、106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。
その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲(下町空襲・作戦名:Operation MEETINGHOUSE)を指す。この3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超えた。
(引用:東京大空襲 - Wikipedia

 

3月10日は『東京心覚』公演日。

これまでの刀ミュは

など、公演内容に関わる歴史的事件が起こった日に開催されていると諸先輩方から伺っているので、そう考えると東京大空襲説が濃厚なのかなと。

東京大空襲で焼けた刀剣ってご存知でしょうか?そう、御手杵です。

実際御手杵が焼けたのは5月の空襲なのですが……すべてを合わせての「東京大空襲」。

だから水心子正秀は「存在があやふやだ」というくだりで、葵咲の御手杵の言葉*5を口にしていたのでは……?

同じ理屈でいくと、序盤で勝海舟西郷隆盛と行った江戸城無血開城も3月13~14日にかけて行われています。3月15日には江戸城総攻撃が予定されていました。

ここまではふせったーに載せたのと同じ話なんですが、だんだん関東大震災説も無きにしも非ずなのかと感じています。

なぜなら、水心子正秀の墓が源清麿の墓の隣に越してきたきっかけが関東大震災だからです。

新々刀の親友という稀有な関係性に繋がることでもあるので、もしかしたら?という気持ちもあります。

いわゆる諸説あるがの!!です。

 

豊前江とパライソ

正直にいうと、音曲祭の演出をみてからずっと、今回のメインは豊前江だと思っていたんですよね。

いざ蓋を開けてみたら新々刀という新たな風が大きな物語をさらに前へ進めてくれていたので、豊前江は江をまとめる役割として呼ばれたのだろうかと序盤は考えていました。

でも、太田道灌の暗殺が失敗した後、にこやかに挨拶を交わした直後に太田道灌を殺した豊前江を見て、「こいつは既に何かを乗り越えてきていやがる……」という気持ちに変わりました……。

 

劇中で主要な歴史上の人物を刀剣男士が正面切って殺したのは初めてです。

「正しい歴史」のために殺そうとした刀剣男士は居ました。

でも、みほとせの石切丸は信康を殺せなかったし、むすはじの兼さんも出来なかった。代わりに陸奥守吉行が引き金を弾きました。*6

天狼傳の長曾祢虎徹近藤勇の首を落とそうとしましたが、自分の気持ちを殺してまでやろうとする姿を赦せなかった蜂須賀虎徹がそれを止めて代わりに手を下しました。

心を持ったが故の葛藤。人に対する、元主に対する愛情がそれを阻んだ。それがこれまでの刀ミュの物語。

けれど、豊前江は迷わなかった。

何気なく挨拶をして、そのまま刀を振り下ろした。

これは結構衝撃的でした。

「正しい歴史を守るのが刀剣男士の役割」だと豊前江は言います。言いますけど、それは今までも散々みんなが口にしてきた台詞じゃないですか。

そう考えて迷いなく行動できるのは、絶対的にここまでの道のりで何かあったからじゃ……。

からの「あんたも静かの海に連れていってやれりゃあよかったんだけど」ってあの……本当にパライソで何があったんですか……?????怖すぎる。

パライソまじで不穏な気配しかないんですよ。音曲祭の刀剣乱舞の歌詞もめちゃくちゃ怖かった。

「無常の風吹くワダツミの静寂」

無常の風は「人の生命を消滅させる無常の理法を、花を散らし灯火を消す風にたとえていう語」。

花という生命を散らす風が吹く海神の静寂って、人が死んで静まり返った海ってことでは……ないですかね……。

 

それと江戸城を作るための石が意思を継いでいくという豊前江の見解、これはむすはじの『いびつないし』に繋がる言葉です。

石は意思であり、遺志であり、「一つとておなじかたちなし 一つとておなじおもいなし 一つとておなじおわりなし」。

豊前江は果たして最初からこの視点を持っていたのでしょうか。

それともパライソを経てこの視点を得たのでしょうか。

わっかんねーけど、秋のパライソに乞うご期待!

 

ソハヤノツルキが天海を嫌がっていた理由

徳川家康の遺言に従い、ソハヤノツルキはその遺体と共に久能山東照宮に入ったという話を序盤でしたのですが。
天海はこの後、改葬として家康の御霊を日光東照宮に移しています。

この時、遺体も同時に移されたと考えられているのですが、ソハヤノツルキは現在も久能山に納められています。

今作でソハヤノツルキは結構天海のことを嫌がっている感じがありました。

これは家康の遺体と一緒に日光へ移されなかったからなのでは?

ソハヤノツルキは家康の最後の愛刀でした。家康が永い眠りについた後も、傍で彼の望んだ世界を守ろうとした存在といえます。

それなのに天海が遺体を日光へ移したせいで、家康と離れてしまった。だから嫌がっているのではないでしょうか。

ただ、久能山では遺体は移されず、御霊を分霊化をしたのではないかという見解を持っています。

「あればあるなければなしと駿河なる くのなき神の宮うつしかな」という天海が詠んだ歌になぞらえ、「くのなき」を「躯(遺体)のない神の宮遷し」と解釈しているそうです。*7

なお、久能山も日光も遺体の発掘が行われていないため真偽は不明とのこと。

つまり、「かもしれない」歴史なのでどちらとも捉えられますよね。

ここに関しては、つはものの膝丸と通ずるところがあると感じます。

つはものでは、箱根神社に本体を見に行くか髭切に問われた時、膝丸は見に行こうとしませんでした。

膝丸は物語によって記述が違いますし、大覚寺にある膝丸、箱根神社にある膝丸、個人蔵の膝丸とで作りも刀工も変わります。

曖昧な存在とも呼べる本体を見に行かず、確定させないことで自身の存在の揺らぎに足を踏み入れなかった。

でもここは双騎で補完されていましたね。

刀ミュ本丸の膝丸は曾我兄弟の仇討ちに使われた箱根神社の膝丸だという歴史を、人間側をなぞることで確定させていました。

もしかしたらソハヤノツルキもいつか自分が持つ曖昧さと対峙する時が来るのかもしれません。*8

 

 

今作における花の役割

刀ミュでは花が重要な役割を果たすのは御存じの通りです。

今作では山吹がメインでしたが、様々な花の名も紡がれていました。

 

名もなき草

一度目の開拓時、路傍に生えていた草の名前を村雲江に訊かれ、桑名江は「名前はあるけど名もなき草と呼ばれている」と答えました。

名前があるはずなのに名もなき草。つまり、歴史には残らなかった民草を指すのでは?

歴史という川の流れは一人では作り出せないもの。その時代に居た人々が支えることで出来ています。

人間ひとりでは歴史とはならず、歴史となるべき人間をそうたらしめる存在=周囲の人間が必要だというのはみほとせで石切丸が言っていました。

その周囲の人間というのは歴史に名を残すものばかりではありません。

吾平のような、知っているものしか知らないものの存在があります。

けれど、「正しい歴史」としてその名を残されるのは、その流れの中で勝ったものだけ。

今回の作品における「名もなき草」は現代に生きる我々でもあり、これまでの時代で名を残さなかった人々でもあるのでしょう。

桑名江は後半で植物の循環を語っていましたが、それは森羅万象すべてに繋がることです。

農業は森羅万象すべてと繋がる学問。

桑名江、実は誰よりも人の生命が花のように循環することを理解しているのかもしれません。

 

山吹の花

今回メインだった山吹の花は太田道灌の伝説繋がりです。

山吹は「実をつけない花」「歴史には残らないもの」という意味にも取れます。

強く咲き誇る山吹の花のなかで踊る仮面の少女は、「名もなき民草」の象徴であると捉える事もできます。

また、劇中で仮面の少女は太田道灌へ山吹の枝を差し出していました。

これもまた山吹伝説に出てくる少女=「名もなき民草」を具現化したものと考えられます。

さらに、山吹伝説は太田道灌の歌心を生んだ出来事。

「人の心を縁とし生まれ出るは歌も我らも同じこと」

これは歌合の判者であった鶴丸国永の言葉です。

これもひとつの人の心(気遣い)を縁として生まれたものといえるでしょう。

豊前江が太田道灌を斬った後に五月雨江が詠んだ句にも山吹が出てきます。

「ほろほろと山吹散るか滝の音」

松尾芭蕉吉野川に散る山吹を見て人生の儚さを詠んでいる歌です。

儚い命ながら咲き誇る実のない花。歴史には名を残さないもの。そこには確かに人の心が宿っていた。

桑名江が耕した大地に植えられた山吹の花が咲き誇り、少女が踊るあのシーンが忘れられません。

 

劇中で語られた花の名前+α

「終わりなき花の歌」という歌詞にも繋がる花の名。

意味があるかはわかりませんが、花言葉も添えてみました。

蓮の華

つはもの、つまりは三日月宗近という機能が明らかになったきっかけの華。

泥水を吸い上げ美しい花を咲かせる様は仏教において理想の姿とされる

花言葉は「清らかな心」「救ってください」

竜胆

双騎で膝丸(筥王)が持っていた花。源氏の紋に描かれている。

花言葉は「悲しんでいるあなたを愛する」

葵咲本紀のテーマ。徳川家の家紋は三つ葉葵。

家康は威厳を知らしめるために一部の家臣以外が葵紋を使うことを禁じた。

本多葵は桑名江の刃紋にも描かれている。

花言葉は「大望」「野心」

都忘れ

みほとせで大俱利伽羅が吾平の墓に備えようとしていた花。

花言葉は「しばしの別れ」

トリカブト

みほとせと葵咲の千子村正が持っている毒のある花。

花言葉は「人間嫌い」「復讐」「騎士道」

山吹

太田道灌の山吹伝説から。実を結ばない花。つまり本作のテーマ。

花言葉は「気品」「待ちわびる」

桔梗

平将門の寵姫であった桔梗の前に関わる花。

これまで桔梗が出てきた物語は描かれていないため、もしかすると今後に繋がるかもしれない。

花言葉は「永遠の愛」

スミレ

水心子正秀のペンライト色。

花言葉は「誠実」「小さな幸せ」

「山路きて何やらゆかし菫草」

アヤメ

源清麿のペンライト色。

花言葉は「希望」「友情」

「あやめ草足に結ばん草鞋の緒」

 

ざっとこんな感じです。

ちなみに、

みたいな繋がりもあります。

あと新々刀のペンラ色も花の名前なんですよね。

今まで花の名前のペンラ色があてがわれた男士はいなかったので、ここにも何か意味があるのかもしれないと思った次第です。

どちらも五月雨江にゆかりのある松尾芭蕉が詠んだ俳句があったので入れてみました。

 

花を美しいと感じる心

太田道灌と五月雨江、豊前江の会話から。

江戸城が美しいのは人がいるから、というのは「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という武田信玄の言葉に通じます。

「では花などの自然はどうでしょうか?人がいなくても美しい」

「それは美しいと思った心が美しいんだ」

人が居なくても美しいものがある、と語る五月雨江に、人の心があるから美しさが生まれると語った太田道灌

花にまつわる人の心から歌心を得た太田道灌が、人に作られた刀から励起された刀剣男士にこの台詞を言うのがものすごくエモいな……と思いました(語彙力の消失)

誰も居なくても時は進むけど、人がいないと作られなかった刀たちが歴史に関わってきた人の心を守るのが刀剣乱舞なんですよね……。

 

 

意味、そして役割

終盤の展開から感じたことをつらつらと。台詞の記憶が曖昧で申し訳ないです。

 

こぼれ落ちていく砂

砂から連想するのは、手から滑り落ちるもの。砂上の楼閣。砂時計。

今作においてこの砂は、受け止められなかった声・流れる歴史には残らなかった名もなき民草のひとりごとだと私は捉えました。

本来ならば誰にも気づかれず零れ落ちていくもの。

でも水心子正秀だけは、それが見えて、聞こえていたんです。

最初はそれが何なのか、誰のものなのか、彼はわかっていませんでした。

今回の任務で歴史と呼ばれるものには勝者の声しか残っていないことに気づいて、やっとその意味を知りました。

この名もなき声は、ひとりごとは、おそらく見ている我々の声でもあったのでしょう。

彼は最後に語り掛けてきました。

「どうか傷つかないでほしい」と。

様々な立場で、様々な想いを抱えている名もなき声が築き上げた歴史はここにある。

どんな世界になろうと、この歴史は間違いではない、守るべき歴史であると。

後から考えるとこれ、物凄い肯定の言葉だな……。

この辺の台詞、直感的にとらえていて具体的なところはうろ覚えなんですが、本当に真摯な言葉を向けられていたことだけは覚えています。

そのあと、源清麿が「好きな時に好きな人と好きな場所に行けないことも?」といった台詞を言うところがあるんですが、見ていた当初はここでやっと「現代に向けた話」だったんだなと思いました。

 

問わず語りと心覚

最後の曲がもうめちゃくちゃに好きだったんですが、その中の歌詞に「これは問わず語り」という部分がありましたよね。

問わず語り。人がたずねないのに自分から語りだすこと、ひとりごと。

つまりこれは水心子正秀たちの問わず語りで、尋ねていないけど語り聞かされた我々は、答えを自分の中に見つけるしかないんだなと。

ここもうろ覚えですが、「誰かが言った 覚えていてほしいと 誰かが言った 忘れてほしいと」的な歌詞もありました。

様々な想いや立場は真逆の言葉を紡ぐこともあります。ある意味、表裏一体です。

また、「見えない部分も歴史であり、月の光がない場所もまた月だった」といったニュアンスの台詞も最後に水心子正秀が言っていました。

これはつはものの髭切に繋がる言葉です。

髭切は本能的に三日月宗近を理解している感じでしたが、水心子正秀は「なぜ三日月宗近はそうするのか」を突き詰めていきました。

その途中で、水面に映った虚像の三日月宗近との対話シーンがありました。

あれは水心子正秀の誠実さが作り出した虚像。ある意味彼自身の問わず語りだったのかもしれません。

 

タイトルの「心覚」は心に覚えていること、忘れないために印などをつけること、その印を意味します。

これは水心子正秀の「(歴史には残らないものを)ずっと覚えている、忘れない」という風な台詞(あったと記憶している)に繋がってきます。

歴史に名を遺すことのない民草を、我々のことを、彼は覚えていてくれる。

この物語は「日本の中心である東京(江戸)という街を作り、守ってきた人々の心を忘れないためのしるし」なのかもしれません。

 

江の役割

「江の者たちよ。お前たちは人ならざる者と人とを繋ぐ存在であれ」みたいなことを三日月宗近は言っていました。

「郷とお化けは見たことがない」という言葉から「人ならざる者との繋がり」を指しているのかな?と思っていたのですが、江の由来を考えるとそれだけではなさそう。

あのとき、江の面々に聞こえてきた声は恐らく【名もなき刀の戦いの記憶】

豊前江の「俺たち江はたぶん───」の続きは遮られてしまいましたが。

江は、郷義弘という刀工が打ったと思われる無銘の刀たちの集まりで、「刀の特徴から見て郷義弘作だと思われる」という理由で後から銘を入れられている存在です。

無銘の刀ということは時間遡行軍という「人ならざる者」の中にも無銘の江がいるかもしれないんですよね。

葵咲では稲葉郷がまさにそうでした。

だから歌合の時は顕現儀式前に時間遡行軍があそこまで迫ってきていたのでは?

それを阻んだのが結界。境界線。そして刀剣男士たちの歌だった。

そう考えると、江の面々が歌って踊るのはある意味厄払いの面があるのかもしれません。

 

 

余談

ここからは完全に余談なのですが、今作を見ていて繋がりを感じた作品がありました。

どこが繋がってるのか、何の作品なのか気になる方だけどうぞ。

 

『モモ』(著:ミヒャエル・エンデ

刀ミュにおいて花は生命の象徴です。

咲いて散りまた蕾をつける仏教的思考に基づいていると考えられます。

今作ではその花々を大々的に取り上げていましたし、「終わりなき花の歌」という歌詞が出てきました。

個人的に、花を人の生きる時間と重ねる手法は『モモ』に出てくる「時間の花」と似ていると感じています。

「時間の花」は人間の心の中にある花で、人間が持っている残り時間(生命)に呼応して咲きます。

人間が時間を使い切った時にその花は散り、別の蕾が色づくというシステムは「終わりなき花の歌」に通ずるものがあるな……と。

また、作者であるエンデは『モモ』が【とある人物から聞いた話】を元にしているとあとがきで語っています。

その【とある人物】は『モモ』の元となる話を語ったあと、

 

「わたしはいまの話を、過去に起こったことのように話しましたね。

でもそれを将来起こることとしてお話してもよかったんですよ。

わたしにとっては、どちらでもそうちがいはありません。」

引用:『モモ』-作者のみじかいあとがき(著 ミヒャエル・エンデ/訳 大島かおり)《岩波書店》P355

 

と言ったそうです。

この感じ、なんだか今回の過去と未来、そして現在が入り混じる演出に似ている気がしないでもない(こじつけ)

語り部である水心子正秀自体が過去や未来を行き来しているので、この【とある人物】と重なる部分はあるんですよね。

『モモ』は主人公のモモが時間どろぼうが人間から奪った時間の花を取り戻す話です。

様々な視点の話が入り組んでいて色々想像しないと受け止められない、ちょっと複雑な構造の物語でもあります。

モモは寂れた古代の円形劇場(アンフィシアター)を根城にしている小さな女の子で、その劇場を中心に様々な物語が起こっていきます。

この本の訳者(大島かおり氏)は、

 

劇場というのは、人間の生の根源的なすがたを芝居という形で観客に見せてくれるところです。

そして観客は、芝居という架空のできごとをたのしみながら、そこに示された人間のもうひとつの現実をともに生き、ともに感じ、ともに考えるのです。

おそらく作者は、この芝居と観客との関係を、この本の物語と読者のあいだに期待しているのではないでしょうか。

引用:『モモ』-訳者のあとがき(著 ミヒャエル・エンデ/訳 大島かおり)《岩波書店》P359

 

と記しています。(ここでいう作者はエンデのこと)

芝居と観客の関係は、示された答えを受け止めるのではなく、見せられた世界に対する答えを自分なりに感じて考えるもの。

今回の『東京心覚』はそんな関係性を改めて求める作品だった気がしています。


あとは平将門の封印のくだりで『帝都物語』も思い浮かびました。

オカルト要素が多い話ですが、刀剣乱舞との相性は良さそうだと感じます。

 

残った疑問点

初見で読み解けた部分もありましたが、読み解けない部分もあったので今後落としどころを見つけていきたいです。

  • 三池の刀はいつどこで蔵から出て天海と出逢ったのか?
  • 水心子正秀はどの出陣であのアカシックレコードを見るようになってしまったのか?
  • 今回の面子に語り掛ける三日月宗近はどこにいたのか?
  • 時間遡行軍と戦える天海も三日月宗近接触していたのか?

あと青江が「いいことばかりが続くと悪いことが起きる」みたいなことを言ってたから単騎出陣をすることも言ってましたよね。

青江単騎も本編とがっつり関わってくるフラグなんでしょうか。きになる。

 

 

おわりに

これまでの刀ミュの人間賛歌は『かざぐるま』のような、大きな生命の流れに向けられていましたが、今回は現代に生きる我々をピンポイントで肯定する内容だったなと感じています。

また、物語に大きく関わっている三日月宗近の役割を「呪い」とし、それを救えないと言い切りながら負担を減らそうとしてくれた刀剣男士が実装されたことが何だかうれしかったです。

親友という新たな関係性を引っ提げてきた新々刀。

個人的には源清麿の存在が大きいです。

彼はいち早く水心子正秀の異変に気づいて、「どうか見守ってほしい」と主に声をかけていました。

もうめちゃくちゃ優しい……優しさにはいろんな形があるって三日月宗近も言ってたけど、源清麿の優しさが私は物凄く心に沁みました……。

ゲーム内の台詞にもありますが、源清麿は水心子正秀のすごさを認めて信頼しています。

そして水心子正秀もまた、源清麿のすばらしさを知っている。

だから解決に動き出したとき、一振りではなく二振りで行動を開始したのだと思います。

 

今作はとにかく分かりにくい物語です。

でも答えが明確に示されないぶん、それぞれの中に答えが生まれる物語でもあります。

こんな挑戦的な演出や物語をこうして最高のクオリティで見せてくれるミュージカル刀剣乱舞を好きになれて良かった。

まだ一度しか見ていないのですが、そこで受け取ったものをまずここに記し、私の一度目の問わず語りとします。

アーカイブ配信を見た後にまた色々と考えると思うので、二度目の問わず語りでもお逢いできれば幸いです。

長々しい文章……合わせ出汁??にお付き合いいただきありがとうございました!

 

 ※2021/04/20追記

アーカイブ配信みてから色々こねくりまわした考察と感想ができました。

mugs.hateblo.jp今回の記事の倍量の長さなので(たぶん歌合の感想レベルで長い)お時間のある時にどうぞ。

 

 

 

*1:厳密には違うかもしれませんが今回はこう呼称させていただきます。

*2:もしかすると今後鶴丸をそう呼ぶ機会があるかもしれませんが…(壽歌の「友よ 友よ ともに」のところ見てて思った)

*3:近侍台詞の「刀剣男士の誇りはここに」「銃ではなく、我らは刀剣である事に意味があるのだ」から

*4:「我が主よ。私は刀、あなたは人。違う存在なのだ」

*5:「すべての人に忘れられても存在していると言えるのか」

*6:土方歳三が銃弾で撃たれて死ぬことは正しい歴史なので、兼さんが土方歳三を殺さなかったのはある意味正解でもあります。

*7:【家康改葬(2)】「久能山」か「日光」か 家康の遺体はどちらにある(1/4ページ) - 産経ニュース

*8:個人的には音曲祭の演出から豊前江が自分の行方を探すパターンもありかと考えています。

私は何度でも産声を上げる ~歌合アーカイブの魅力と再考察~

 

みなさんこんにちは。
前回、三部にわたって歌合の感想とか考察を溢れ出すパッションのまま書き殴ってから約一ヶ月半が経ちました。
三部て。改めて読んでも「ながーーい!!!」と思いました。貴重な時間を割いて読んでくださった方々には感謝の気持ちしかありません。
正直あそこで色々吐き出し過ぎて燃え尽きた感が否めず、過去作の感想を書くことなくここまで来てしまいました。
書きたい気持ちに気力がついてこない……生粋の面倒くさがり屋がここで発揮されてしまった……早割り入稿ができないタイプの生き物です。
しかも燃え尽きている間に色々と……色々とこう、大変な状況になっていて……何がとは言いませんが、本当に悔しいことが多くて気が滅入る……。

 

が、しかァし!!!!(『散るは火の花』の岩融の声で再生してください)
そんな弱った気力に鞭を打ってでも伝えたい、どうしても書きたいことがあったので筆を執りました。
もう辛いこととか悲しいことは一切なしです。つまり好きなものの話を好きなようにして免疫力を上げるんだ私はよ!!!!

 

先に結論から言います。
「歌合 乱舞狂乱」アーカイブ、めちゃくちゃ良いので見て欲しい。

 

ママ~~~この人まだ歌合の話してる~~~。
しってます。何と言われようとします。歌合のアーカイブを見て欲しい。
「いやもう見てるし」という方。最高です。どこが良かったか語るので興味があったら読んでみてください。
「ディレイ配信で見たからアーカイブは見てない」という方。ちょっと待ってください。
いまからアーカイブ配信のどこが良かったかを情熱のままに語るので、興味が湧いたら見て頂けないでしょうか。
何かと自宅に居る機会が多くなった今日この頃。歌合アーカイブを見ることが、殺伐とした空気を和らげる手助けになったらいいなあと思います。
今回はただただ「歌合アーカイブはいいぞ……」って言うだけの話なので前回みたいに長くなりません。たぶん。スクロールバーに優しい記事です。

 

 

 

 


歌合アーカイブのここが良い!

まず始めに、歌合アーカイブの何が一体そんなに良かったのかを軽く説明すると、とにかくディレイ配信に比べて

  • 音質が格段に良くなっている
  • アングルがより良いものに変更されている

という点が挙げられます。
この二点が改善されたことにより、ディレイ配信では見られなかった各刀剣男士の細かな表情や仕草が画面に映し出され、更にはクリアになった臨場感たっぷりの音がライブシーンを始めとした各所で流れだすので、今まで以上に目と耳が幸せになります(IQ3の結論)
それと単純にアーカイブは好きな時に買って好きな時に見られるという点も良いです。購入するパックによって視聴期限はつきますが。
顔良し、歌よし、話よしの三拍子なのは当然のことながら、ここに高音質と絶妙なアングルがつくことで更なる桃源郷が見えます。

 

いやほんと、音質がめちゃくちゃ良くなってて……特に感じた箇所が青江の「篝火講談」なんですけれども。
大千秋楽ライビュやディレイだと「菊花の約」の終わりにかけての『菊花輪舞』のイントロの入りが大きすぎて青江の声が一部聞き取りにくかったんですが……アーカイブではここが!綺麗に!整えられていました!
青江の声を前面に押し出しつつイントロが静かに入る最&高の演出…………ここをしっかり直してくれるあたり"理解"が深いですね………。
あとライブパートもほんとに、めっちゃ、音が、いい。歌声も台詞を読む声もすごくクリアになってるし、マイクが拾っていた雑音も消えている………。
雑音が消えたことにより刀剣男士たちの声がより近く感じられて個人的には免疫力も上がる……。

 

アングルに関してはライビュやディレイで見えなかったところや、見えすぎていたところが修正されていました(主に本編、時々ライブ)(当社比)
「懐かしき音」でお百度参り用の石を設置する御手杵&篭手切くんに「なにしてるんですかー!」と駆け寄る今剣がしっかり映っていたのが優勝アングル。
「たーんれんしましょういーわとおしー♪」って歌いながら出てくる今剣の可愛さで全国の桜が開花する。
「懐かしき音」は全体を映すアングルが多くなっていて、石切丸の歌の最中にみんなが何をしてるかも良く見えるようになってましたね……!石切丸を追いつつもみんなの表情や仕草がもっと見える感じ。
というか本編全てにおいて引きアングルが多くなっていたので舞台全体が見えるシーンが増えていて嬉しかったです。「根兵糖合戦」なんかも戦闘シーン(?)の全貌が見えてとてもこんぺいとうでした。

 

寄せのアングル代表例は「梅theWay」ですかね。明石の言葉に合わせてしっかり梅の木がアップになっていて、いまどんな状況なのかが分かりやすくなったように感じました。
「小狐幻影抄」も問題のアングル(感想後編参照)が修正されていましたし、化けた四振りと踊るシーンが絶妙なアングルでアップになって小狐丸の表情がより鮮明に見えるようになってました。
そこでそんな表情してたんだ!!という感動。すごくいい顔でした。正面からのアングルではわかりにくい箇所をよくぞ斜めから……ありがてえ……。

 

ライブはディレイの記憶が割と薄れているんですが、『前進か死か』で家康公のカットが多くなっていたり、『獣』で各振りのカットが多めになっていたり……あと辻斬りタイムの視点も結構変わっていたかと思います。
『mistake』のむっちゃんのカットも増えてた!!気がする!!(自信がない)『Nameless Fighter』も正面アングルが斜めアングルに変更されていたり、青江と大俱利伽羅の交互カットが増えていたり……。
また『菊花輪舞』の話しますけど、これもめっちゃいいローアングルになってました。スポットライトが絶妙な逆光になって歌ってる青江の表情だけが見えなくて、手の振りだけが闇の中でくっきりとして……あまりにも完璧…………。

 

とにかく色んなシーンの音とかアングルが、一度見た人でも「おっ!」となるくらいより良くなっているので、ほんとアーカイブを見て欲しいです。
DMM.comで好評配信中です。一週間パックならなんと1700円。一年パックは3300円。ちなみに円盤は7月発売予定です。
これはDMMの回し者でもなんでもない、ただ歌合をみてから刀ミュにはまった新米審神者の叫びです。外に出られないこの時期だからこそ浴びるように見て免疫力を上げようキャンペーン(?)開催中。
さてダイマはここまでです。さすがにURLは貼らないので、気になった方は検索してみてくださいね。

次からはアーカイブを見て気づいたことや考察の追記になります。あれ??こっちの方が長くない??なんで??

 

 

 

 

 

 

 

 

歌合アーカイブ再考察

声なきものの声

前回の前編で歌合とは一体何ぞや、という点には触れていたのですが、後々調べてみると【付喪神達による歌合】という御伽草子が存在することがわかりました。
その名も『調度歌合』。調度品、つまり日常生活で使われる道具たちによる歌合です。
付喪神を扱った作品といえば行列を為して妖怪たちが練り歩く『百鬼夜行絵巻』が有名ですが、まさか歌合までしていたとは思いませんでした。勉強不足だった。
『調度歌合』では、碁盤や塵取、灯台や屏風といった二十種類の付喪神たちがそれぞれ左右に分かれて歌合を行う様が描かれています。
しかもこれ、付喪神たちの視点じゃなく、偶然目撃した人間という第三者目線から描かれているんですね。歌の優劣とその理由についても客観的に解説が添えられています。
人間は付喪神たちの歌合に参加する側ではなく目撃する側である構図は、今回の歌合を見ていた我々に通ずるところがある気がします。

 

この歌合ではそれぞれの付喪神の特徴を活かした歌、主に恋の歌が詠まれます。花を愛で、風を撫で、恋煩う……和歌のメインテーマです。
それぞれが詠んだ歌については割愛します。注目すべきは目撃した人間、つまりは主人公がこの付喪神たちの歌合を見て、最後に詠んだ歌です。

鶯も蛙も歌を詠むなれば 声なきものの声もありけり

ハイここ!!!!!歌合にでます!!!!!!ていうかでました!!!!!!
そう、花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」古今和歌集の序文……つまり冒頭の鶴丸の台詞です!!!
鶯も蛙でも歌を詠むと言われている。だから普段声を出さない調度品であっても歌を詠むことはあるのだ、と。これも鶴丸が語った「人も鬼も妖も、そして我らも」に繋がる気がしてなりません。
声なきものの声、付喪神の歌。そこに想いがあれば、どんなものでもこの世にある限りは歌を詠む。だからこその「想いは言葉へ 言葉は歌へ」なんですね。
さらに言えば、歌合は一人では行うことができない。歌を詠み合わせ、聞き届けてくれる誰かがいるから成立するもの。そう、「歌はあなたへ」向けられている。
「あなたと歌合」……今更ながらこの歌詞に込められた意味をしみじみと感じます。後編でも言いましたけど、こちら側に向けた愛ですよね……。

 

あと『あなめでたや』の歌詞の一部が序盤の『神遊び』でも使われていることに今更気づきもしました。
「歌うたう 桜咲く 音おどる」のところです。『神遊び』の最初のサビであり、『あなめでたや』の最後でもある。しかも何方にも「あなたと歌合」って歌詞が入ってくる……。 
ああ~~最初と最後が繋がる構図~~!!!!綺麗な円を描いていますね……好きすぎる……。 

 

 

 

 

 

『君待ちの唄』の意味

何故『君待ちの唄』だけが「歌」ではなく「唄」なのかという話。
後編で調べた時は「唄」という言葉が持つ意味からその理由を推測しました。そもそも成り立ちに仏教的な意味があって、かつ伝統芸能という意味もあると。
ただ、それを刀ミュ本丸の中にある様々な前提に合わせたら、また違う側面が見えたので、改めてまとめたいと思います。
ここでいきなり双騎の話を出すんですけど、冒頭で瞽女が歌う『私が語るべきこと』の中に「唄」の意味があるな!!!とアルバムの歌詞カードみたときに気づきました。

見えぬからこそ 語りましょう
この口で この唄で

瞽女は女盲(おんなめくら)とも呼ばれる盲目の語り手、三味線や胡弓を手に口頭伝承を語り継ぐ芸能者です。
この瞽女は『七十一番職人歌合』という職人たちが描かれた歌合絵巻にも出てくるんですが、それについてはいつか双騎の感想を書くときにでも触れたいと思います。絶対長くなるので。
いま注目すべきはこの「唄」に触れている歌詞。見ての通りなんですが、「この唄」は「語りましょう」にかかっています。
つまり、唄」は「語りかけること」という意味にとれます。
と、いうことはです。『君待ちの唄』は、これから顕現する刀剣男士へ向けた「語りかけ」だったので「歌」ではなく「唄」だったのではないかと。
「唄」が持つ元々の意味はそのままに、「語りかける」という意味を持ってこその「君待ちの唄」なのだなあと感じた次第です。
いやーー…………歌詞を文字で見てみたいですね。文字になることで新たな意味を持つことだってあるから。歌詞カードをくれ。金なら出す。

 

 

 

水中の月と天の月

刀ミュ本丸の世界には仏教的な考えが多く取り入れられているのは周知の事実ですが、一概に仏教といっても様々な宗派があります。
そして宗派が違えば宗祖が違う、つまり考え方が違う。この本丸に根差している宗派については明言できませんが、考えの元となっている経典については法華経だろうと推測できます。
法華経』は『妙法蓮華経』の略称です。そしてこの『妙法蓮華経』はサンスクリット語で「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」を訳したもの。
「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」、修行前の千子村正会心の一撃の台詞ですよね。最初きいたとき大半の人が「????」となるあの台詞です。
そもそも千子村正の根底にあるのは「妙法村正」です。この妙法村正は表銘に「妙法蓮華経」の文字、裏銘に日蓮上人の忌日(入滅日)が刻まれている刀で、刀工であった千子村正自身も「法華宗」とも呼ばれていた日蓮宗に帰依していたようです。
つまり村正は『法華経』と深い関わりがある刀なのです。そんな村正は、唯一歌合以外で【歌と共に顕現するシーンが描かれた刀剣男士】だったりします。まあ歌は衝撃的ですけど!!!脱ぎまショウか???!!*1

 

法華経』は前半と後半に分かれていて、それぞれ前半を「迹門」、後半を「本門」と呼びます。これらを合わせて本地垂迹とも言います。
本地垂迹」は神仏習合思想に起因する考え方で、簡単に言えば八百万の神々というのは実は様々な仏が化身として顕れた姿である(権現である)」といった意味です。
本地とは一切衆生のシンボルである仏、垂迹とは仏の化身としての神を示す言葉なので、実像と虚像の関係性を持っていることがわかります。
実像と虚像。「本門」と「迹門」はその特色から、【天に浮かぶ月】【水中の月】に喩えられます。
そう、ここで繋がるのは「小狐幻影抄」です。
ただ、「本門」と「迹門」が『法華経』内で持つ本来の意味が込められているというよりは、その喩えを利用した話なのかなという感じです。詳しい意味については調べたら出てくるので割愛しますが、この「本地垂迹」についてある程度理解していないとマジで何言ってるかわからない。私はわからなかった。宗教用語は理解が及ぶまでちょっと難しい。
本地垂迹」についてはちょっと本編と繋がりが見える気がします。ミュ本丸の刀剣男士は付喪神でありながら、根底にある考え方が『法華経』という大乗仏教に関わることなので……ある意味、神仏習合の存在なのかもしれない……。

 

ご存知かもしれませんが、先に説明した「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」、直訳すると「正しい教えである白い蓮の花の経典」になります。
仏教と言えば蓮。蓮と言えば……半座分かつ華のうてな……。
三日月宗近と考え方は対照的でありながら、見ている方向は同じである小狐丸にこのモチーフを当てはめるの、すっごいな……というあまりにも語彙力がない感想を抱くの巻。
Timelineの振り付け思い出すんですよね。交わらないけれど重なり合うというあの構図……いやここについてはらぶフェスとつはものの感想で触れます。恐らく。

 

 


懐かしき音の余談~忘れないということ~

『懐かしき音』で石切丸はかつてあった出来事を懐かしむことを噛み締めるように「それでいい」と受け入れていました。
時が経ち、色褪せた思い出を懐かしむことは決して過去を忘れることではない。三百年の子守唄で経験した出来事を手記に遺し、背負っていこうと考えた彼が紡ぐからこそ重みのある言葉です。
現在という時はどうあがいても止められません。そして現在はいつか過去となり、彼らにとって守るべき歴史となるもの。そして未来に繋がるものになります。
この『懐かしき音』は、個人的に葵咲本紀の『約束の空』と繋がるものがあると感じました。
まだ発売前なので正しさについて自信はないのですが、『約束の空』はサビの最後に「I'll never forget.」という歌詞があります。
そして葵咲本紀の本編でも、御手杵と貞愛のシーンで「たとえ歴史から消されても、本体が焼けてしまっても、互いのことを忘れない」という言葉が交わされます。
信康も一兵卒ではあったけれど大切な友であった吾平の名を継いでいましたし、既に徳川家としては亡き者であった信康のことを秀康はずっと想っていました。
稲葉江が欲望に呑まれたときは、篭手切くんがその存在を「覚えていた」から呼び戻すことが出来た。「思い出してください」と叫ぶことができた。
忘れない、ということは、背負い続ける、ということだと思います。
三百年の子守唄から続いた一つの大きな流れ、物語を、たとえ色褪せたとしても彼らは忘れない。背負っていく。それを改めて伝える『懐かしき音』と『約束の空』の繋がりを何となく感じ取った話でした。

 

 


懐かしき音の余談~手を合わせて祈るということ~

過去のらぶフェスと照らし合わせてみると、どの祭でも先陣を切って話を進めるのは石切丸なんですよね~~2018年は話というよりも祭そのものでしたが。
過去の祭繋がりだと青江の講談が2017と繋がってる感じでしたけど、「懐かしき音」で玉砂利の音を思い出した=昔を思い出した石切丸に対して「石切丸さま!ごいっしょにどうです?」って今剣が声をかけるのも2017年ラストのオマージュなのでは?と思ったり。
2017年祭のラストでは己に染み付いた過去の逸話を語ろうとした青江、つまり幼子を再び斬ろうとした青江を石切丸が止めていました。そしてそんな二人を本丸に続く帰り道へ誘ったのが今剣です。
「にっかりさん、いっしょにかえりましょう?」というあの台詞が、「懐かしき音」で石切丸へ呼びかける台詞に似ている気がしました。
そして今剣が二振りを導いた後、2017年祭で歌われる『手のひら』の歌詞に、

てんてんてのひら 握って繋いで
伝わる温度 届く祈り 

という部分があります。
百度参りは、一心不乱に手のひらを合わせて祈ること。
「何度祈れば届くかな?」という『お百度禱歌』に対する答えがここにあるのでは……?
あと『手のひら』はこの後の歌詞で「その手のひらで掴めぬものはない」っていうんですよ。だからきっと、叶わない願いや祈りはなくて、いつかきっと届くんだろうなって……。
【何かを掴むための手のひら】って、三百年の子守唄と葵咲本紀を繋ぐテーマの一つでもあったのと、石切丸にとっては『力があれば…』て零れ落ちるものを掬い・救いたいと願った象徴でもあるので、再演と葵咲を経て改めてこういう風に描かれるのは本当にエモいですね……。
祈りを聞き届ける側だった石切丸が「偶には祈る側にまわる」こと、「さあ、みんなで祈ろうか」と共に手を合わせて祈ること。いつか届くその祈りに添えられた和歌が【天地の神を祈りて我が恋ふる 君い必ず逢はざらめやも】なの、あまりにも優しくて切なくて視界が滲む……。

なにがすごいって歌合、この話から始まるんですよ。これが一話目。すごいよ本当に……。

 

 

 

 

 

 

 

まとめ

歌合アーカイブを見て欲しいという話だったのに結局考察の方が多くなってしまいました。しつこくてすいません。
歌合、人生初のあまりにも衝撃的な刀ミュとの出逢いだったので、生まれたてのひよこ並みに産みの親だと思ってる節があります。見ての通り題名がオギャってるのはそういうことです(?)
そろそろ親離れして他の作品についても触れていきたいですね。どこから触れようか迷うところなんですが。

 

あとこれを書いてる途中でまさかの秋冬新作が幕末天狼傳という発表があって???!?!?!!!めちゃくちゃ見たい。
過去作を履修しはじめて、初めてボロッボロに泣いたのがこの幕末なので……そこからどんどん涙腺が弱くなっていって大変なことになってるんですが。
秋口には色々と落ち着いていることを願います。今はとにかくできる事をするしかない。
余談ですが年末から再開した本丸に漸く松井と桑名がきました!あなめでたや!!
大演練だって!双騎再演だって!幕末だってあるんだ!あおさくの円盤と新譜もある!!!未来は明るいぞ!!!!
あと私はステの新作もみたいです!!亀甲の真剣必殺がみたいです!!維伝おもしろかったです!!

 

ではまた、次の感想でお逢いできたら嬉しいです。
ここまで読んでくださりありがとうございました!

 

 

*1:脱ぐな!!!!!!

生まれた理由を問い続ける歌~歌合 乱舞狂乱の考察と感想(後)

 

さあ楽しい歌合考察と感想ついに後編の時間です。
今まで勢いだけで前編・中編を書いてたんですけど、後編は難産でした。そうこうしてるうちに江戸城始まっちゃったし何ならそろそろ終わる。いらっしゃいませ大般若さん。出会って3秒で口説かれた。

 

前編(神遊び~根兵糖+ライブパート①まで)

mugs.hateblo.jp

 

中編(篝火講談~梅theWay+ライブパート②まで)※2/26 URL修正済

mugs.hateblo.jp

 

果たして後編で終わるのか?広げすぎた風呂敷はどこまで畳めるのか?そもそも脳内HDDの記憶はまだ残っているのか?
気力vs記憶の戦い、その決着をどうぞご覧ください。BGMはドリフの盆回しでよろしくお願いします。
いつも通り長々と書いているのでお時間のある時にでも眺めていただければ幸いです。

 

 

 

 

 

歌合 乱舞狂乱 後編

もうここで言う事はねえ……ただこの後編、前編の倍くらい文章量があるから気をつけてくれ……!!!!!スクロールバー頑張って!!!!!!!!

 

 

 

 

 

 

 

美的風靡

ぬばたまのわが黒髪に降りなづむ

天の露霜 取れば消につつ

万葉集・巻七 作者不明)

訳:空から降って私の黒髪に積もった露霜は、手に取ればすぐに消えてしまうのだなあ。

 

 

 


美の巨人たち

いや美人が過ぎる。
実装されたばかりの軽装を信じられないクオリティで叩きつけてくるの何??審神者のライフが尽きる音がする。
許容量を超えた美人集団が濡れた髪を拭く様、絵画にした方がいいと思います。私も髪を吹き抜ける時津風になりたいよ。あなたに会えた幸せ感じて風になりたいよ。
そんな美術鑑賞タイムからまさかの音楽鑑賞タイムになるとは思わないじゃないですか。堀川くん。あなたですよ。
えっ本当にもうなに??初見の時すごすぎてずっと口を開けてみていたんですけど、大千秋楽でも見逃しパックでもやっぱり口が開いたままでした。セサミストリートのアーニーみたいな顔で見てた。*1
何がすごいって堀川君、あれ生音ですよね……。私物らしいという話を聞いて更に????
歌もうまけりゃ楽器もうまい。もちろん兼さんのサポートは完璧。助手としてあまりにも出来すぎでは???
でも胡麻油を髪に塗ることは止めないあたりがいい味出してると思います。甘いだけじゃない、ちょっぴりスパイシーな脇差堀川国広
この話は思い出すと大体後半の土方組ディナーショーに持って行かれてしまうので、頑張ってその隙間を考察していきます。

 

 

 

椿油に込められた祈り

今回この話のメインとなるのは、青江が使っている椿油でした。
風呂上りの井戸端会議。その常連として居るはずの千子村正の不在。彼が未だ長期任務中であることが青江から明かされます。
つまりこれは三百年の子守唄の後、葵咲本紀の最中の出来事。酒井忠次としての役目を終えた青江が、井伊直政本多忠勝として役目を続けている千子村正蜻蛉切の無事を祈り、村正から貰った椿油を使い続けているという話です。
いや歌合の三百年メンツ……関係性がこう……めちゃくちゃ尊くないですか……ウッって声出ちゃう……。

 

椿油は文字通りツバキの種子から取り出した油のことを指します。名前からするとツバキの香りがしそうですが、実際は仄かな油分の香りしかありません。
他の油に比べて乾きにくい性質があるので、食用だけでなく保湿に使われることでも有名です。髪はもちろんのこと、肌に使うこともできます。
昔から日本で作られていた特産品の一つであり、遣唐使に持たせる土産物の中にも椿油があったとのこと。ただ、その頃は「椿」という名前ではなく「海柘榴(海石榴)」と呼ばれていました。
これは日本から唐へツバキが渡った際、唐にあった柘榴と似た実を付けることから「海を渡ってきた柘榴」として「海柘榴」の漢字があてられ、それがそのまま日本でも使われるようになった為と言われています。*2

 

ツバキは『日本書紀』において、その記録が残されている。景行天皇が九州で起こった熊襲の乱を鎮めたおり、土蜘蛛に対して「海石榴(ツバキ)の椎」を用いた。

これはツバキの材質の強さにちなんだ逸話とされており、正倉院に納められている災いを払う卯杖もその材質に海石榴が用いられているとされている。
733年の『出雲風土記』には海榴、海石榴、椿という文字が見受けられる。

 

ツバキ - Wikipedia

 

このように、ツバキ自体は古来から日本に自生していた植物でした。『続日本記』(797年)にも「渤海国ノ使者 都豪ノ来レルニヨリ、海石榴油ヲ贈ル」という表記があります。
この「海柘榴」という字がなぜ「椿」に変わったのか。それはツバキが厄除けや不老長寿の医薬品の素材に使われていたことから、中国の伝説にある大木「大椿(ダイチン)」から取った漢字を充てたのではないか言われています。*3
大椿はその伝説になぞらえて、長寿の意としても使われる言葉です。「大椿長寿」という四文字熟語もあります。「椿」は不老長寿の医薬品の素材として使われていたツバキに相応しい漢字と言えるでしょう。

 

よく「武士は首が落ちることを連想させる椿を嫌った」といった話も聞きますが、これは明治時代以降の創作だそうです。
豊臣秀吉茶の湯で椿を好んで使ったといいますし*4、2代目将軍の徳川秀忠も椿を好んだことで有名です。特に秀忠の影響は大きく、この頃から江戸時代の芸術に椿が多く取り入れられることとなりました。また、同時に椿の栽培も一般的に広まり、様々な品種が生まれました。*5
秀忠といえば葵咲ですよね……ここまで見越して、「先に帰還した青江が、(後に椿を好むようになる)秀忠が跡を継ぐことになる時代で任務をこなす村正派の無事を祈るために、村正から譲り受けた椿油を使っている」という設定を考えているとしたら……???
それ以外でも、「厄除け」の素材として使われている椿からとれた油で願掛けする、っていうのもこう……無事を祈る意味が込められてるよねってなります……。
刀ミュくん、本当に底が深すぎでは……???深淵すぎて深淵からもこっちが見えないよ……深淵も感動して泣いてる……。そして花関連のテーマが強い。

 

 

 

♦向かい風と追い風

ここまで散々花の話をしてきたのですが、この話のテーマはタイトル(美的風靡)にもある通り、「風」にあります。

「濡れた髪 乾くまで
 夕涼み 時津風

このように、劇中歌にも「風」という言葉が出てきます。しかしこのサビの歌詞、めちゃくちゃ美しくないですか……声に出して読みたい日本語……。
話を戻します。時津風には「ちょうどいい頃合いに吹く風」、つまり「順風」という意味があるので、この場合、濡れた髪を乾かすように吹いてくる夜風、といった考え方ができます。
そして、この風には彼らの髪を乾かすドライヤーの役目だけではなく、「風が運ぶは便りか祈りか」という歌詞からもわかる通り、「無事に帰って来て欲しい」という皆の祈りを届けるという重大な役割があります。

「願掛けなんて性に合わねえ
 けど仄かな香りが風に靡き届くのなら
 それも悪くねえと思った」

これは兼さんのソロパートにある歌詞なのですが、ここがすっごい肝になっていて。
濡れた髪に椿油を塗って、蜻蛉切と村正が無事に帰還するように、という願掛けをする青江に対して、最初は「俺もやる」と自分から言い出せない兼さん。対照的に蜂須賀は「俺も借りていいか?」とスマートに尋ねていました。
蜂須賀ってこういう時、先陣を切っていける意志の強さがあるよなあと幕末天狼傳と重ね合わせて思うわけなのですが(「御免!」のシーンでワンワン泣いた審神者の感想)
対する兼さんは素直になり切れないところが兼さんだなあ~!!!という感じ。でもそれは当然というか。
兼さんは土方さんの傍で「反骨の刃」として息づいていた記憶が隆起された存在です。新撰組という「時代の風」に逆らい、常に強い向かい風に吹かれながら生きてきた者達の影響を強く受けています。
加えて元主である土方さんもバラガキ精神が生きている、意地っ張りな面が強い人だったので、差し出された手を素直にとるかといったらそうじゃない訳ですよ。
コミカルなシーンに見えますけど、すごく繊細に「新撰組土方歳三の刀だった和泉守兼定」を表現してるなあと感じます。


兼さんも土方さんも、そして新撰組も、向かい風の中で決して諦めず進み続ける精神を持っています。先が見えずとも抱いた夢を手放さず、叶うと信じて。

「吹き荒れる怒涛の彼方に何があるのだろう
 俺は走り抜ける 叶わぬ想いがあるものか」

これはむすはじの刀剣乱舞Cメロの土方組の歌詞ですが、ここでも風を感じています。「怒涛」だけだと荒れ狂う波ですが、「吹き荒れる」が先に来ているので、ここは「疾風怒濤(怒涛は略字)」の意味を持つと考えます。
「疾風怒濤」は激しく吹く風と荒れ狂う波を意味する四文字熟語ですが、「時代が激しく変化する」ことを形容する言葉でもあるんですよ。もうめちゃくちゃ新撰組。そしてエノミュ。
「時代が激しく変化する」なかを、「俺は走り抜ける」と宣言する兼さん。向かい風上等!って感じ。幕末の時と同じ歌詞なのに意味がまた違って聞こえるのすごいですよね……。
そして極めつけはむすはじの劇中歌だった「倒れる終焉」の出だし、土方組のパートです。

「同じ景色を目に焼き付けて 同じ痛みを分け合って
 同じ景色 同じ痛み
 同じ風に吹かれよう 同じ風に吹かれよう」

おわかりでしょうか……兼さんにとって、「同じ風に吹かれる」ことは「共に駆け抜ける仲間」という意味があるんですよ……。
当たり前だよコノヤローって話だったら申し訳ないです。私はここで気づいてアーーーー!!!!!と五稜郭の方角に向かって叫びました。
そんな兼さんが「祈りを込めた仄かな椿油の香りがこの風に靡いて仲間の元に届くのなら、それも悪くねえ」と思ったの、エmmmmmッモくないですか……だって兼さんがいま感じてる風に乗って届くってことは、届いた先に居る彼らも同じ風を感じるってことじゃないですか……。
しかも時津風には「順風」、つまり「追い風」。背を押す役割がある。その風に乗って、彼らの戦いが無事終わり帰還してくれますようにという祈りが届けばいい。はっきり言葉にせずとも、この歌からそんな兼さんの仲間想いな一面がバチバチに伝わってきます。

 

正に「想いは言葉に、言葉は歌に」……いやほんと良すぎる。なにこれ。書きながら泣いてます。
あと、いま吹いている風を感じ続けることは仲間の証だけど、一瞬だけ 吹く風は追憶*6というのも、風を感じて生きてきた刀らしいなと。せめて願い叶うなら……ともに野を駆ける……。

兼さんからは離れますが、風が仲間を現すという点については石切丸も通ずる部分があるのかなと思います。刀剣乱舞の石切丸の歌詞も風が入ってますし、戦を嫌う彼はいつだって仲間のことを想っているから……。

 

 

 

 


♦余談~花鳥風月~

花の香に昔を懐かしみ
鳥の囀りに耳を澄まし
風に散る草葉の露に袂を濡らし
月傾く雪の朝に春を想う


歌合の序盤で判者の鶴丸が語ったこの言葉。これよーーーくみると「花鳥風月」で四季を表現していますね。今更気づいたのでちょっと掘り下げます。

を表すはミュ本丸における生者のテーマ。
を表すは仲間のモチーフ。
ではは?
現在のミュ本丸であればやはり鶴丸国永三日月宗近なんじゃないかなと。


「花鳥風月」は四季折々の風物を表す「花鳥」と、自然界の風景を表す「風月」に分けられます。つまり、ミュ本丸であれば風物側は鶴丸が、自然側には三日月がセットになっているような形です。
そして「花鳥」は花や鳥といった風物を詩歌等の芸術の題材にするときに使う言葉でもあります。対する「風月」は自然の風景に親しんで詩歌を作ることや、その才能を指す言葉として使われます。
詩歌の題材と、詩歌を作ること・その才能。夏と冬。互いに繋がってる~~まだ本編で出会ってないのに~~。季語としての鶴は冬だけど敢えての夏という。


あと歌合の話も「花」と「風」が主題になっているものが多いですね(根兵糖はどっちかわかりませんが)最後の小狐丸に至っては主題が「月」。「鳥」は判者である鶴丸そのものとしたなら、ここにも「花鳥風月」がある。

 

更なる余談として、むすはじの劇中最後に歌われた「序章」が本編に繋がってるなあと思った話も。

「これは序章 物語の始め
 いつか成る 極限へ一歩
 導くのは星か?月か?
 風か?渡る波か?」

これは「序章」の出だしなのですが、この「導くのは~」のあたりが、

  • 「星」=天狼星→幕末
  • 「月」=毎度おなじみ三日月宗近(暗躍含む)→阿津賀志山~つはもの
  • 「風」=同じ風に吹かれる・吹き荒れる怒涛(疾風怒濤)→むすはじ
  • 「波」=果てしない大海へ繋がる水脈*7→三百年

に通じてるようで、今までは序章だったのか……そういえば葵咲から刀ミュ第二章って言われてたな……と思いました。
ではミュ本丸における極限とは一体なんなのか。これまでの話からすると三日月宗近に関することのような気がしてなりません。極限、極月、極夜。どれも不穏。
極月は師走、つまり冬です。冬の月。極夜は明けない夜……つまりEndlessNightですね……。対義語は白夜です。驚きの白さ。しかも極夜は冬、白夜は夏ですよ。何処をとっても対比されてる……。

 

土方組ディナーショーの話だったのにまた脱線してしまった……。
ちなみに歌合みたあと椿油買った審神者ぜったい居ると思いますけど私もそのうちの一人です。推し(村正)のおかげで髪の調子がすこぶるいい。

 

 

 

 

 

 

 

ライブパート其の三

♦描いていた未来へ

 刀剣男士が生きているエネルギーを全身で感じさせてくれる歌。春夏秋冬を感じながら「生きるんだ」って笑う姿、めちゃくちゃ尊くないですか????
この歌のBメロがすggっごい好きなんですよ……春の花ってつまり桜で、顕現した時に降る桜吹雪のことじゃないですか……夏の風は兼さんと同じように仲間の意なのかなって思ってて……刀剣男士として顕現したことを「作られた」ではなく「生まれてきた」って表現することがもうエモさトップギア
三条の眩しさで浄化されるし加州くんのとこ安定が歌ってたりしてエモエモのエモじゃん……ていう。
仲間を想う話を経ての「描いていた未来へ僕らは行くんだ」ってこんなきらきらして歌われたらそりゃ泣く。審神者の体液枯渇寸前問題。
あと誰よりも元主が描いていた未来、新しい時代を見据えて戦うことを選んでくれたむっちゃんがこの曲に参加していたのも「「「理解」」」が深すぎました。そういうとこだよ刀ミュくん……ありがとうございます……。

 

 

 

 

 

 

 

小狐幻影抄

ふたつなき物と思ひしを水底の

山の端ならでいづる月かげ

古今和歌集・八八一 紀貫之

訳:こんな美しい月はこの世に二つもないと思っていたが、山の端でもない水底にも月が出てきている。

 

 

 

♦昇華と跳躍の物語

驚愕と感動。この言葉に尽きます。
ライビュだとカメラに割ともう一振りが隠れてる姿映ってしまってましたけど(円盤ではせっかくなので別アングルを採用して頂きたい)、最初現地で正面から見てた時は入れ替わりのタイミングもわからなくてマジでびっくりしたんですよ……。
えっ小狐丸二振りいるじゃん?!!えっさっき消えたのにえっあっちから出てきた?!!えっ!!?みたいな。もう完全に明石と同じリアクション。
しかも初見だと二振りの大きな違いに気づけないので余計にびっくりしました。CGでもないし何?!!!マジで狐に化かされたんだが??!!!って。
しかも音声と動き合いすぎてたじゃないですか……見事に化かされました……。

 

そんな衝撃を受けたあと刀ミュを履修して、阿津賀志山の巴里公演で何があったかを知って。それから見るこの話は初見の時とは全然意味合いが違いました。
長期公演における何かしらのトラブルは生きている人間が関わる限り避けられないものです。でもそれをこんな風に本編と融合させて更なる跳躍の場とするの、あまりにも素晴らしすぎて何ですか……?????
脚本を書かれたのが御笠ノさんのお弟子さんとのことだったんですけど、さすがとしか言いようがない。これまでの本編を踏まえた伏線の回収と昇華の仕方がすごすぎる ……。
刀ミュを知る前と知った後で二度美味しいし、味わいが増す。寝かせたカレーだと思ってたら実は秘伝の継ぎ足しタレだったみたいな……例えがひどくて申し訳ないですけど……!!!!

 

 

 

♦狐や遊べ

かつて本丸で起こった小狐丸の小さな(大きいけれど小狐丸という台詞のオマージュにも取れる)事件について語られる今作。別名:狐面つけた四振り可愛すぎ事件。
明石が来る前の話とされていますが、そう見ると御手杵って割と初期から顕現してたんだなあと。堀川くんと長曽祢さんは幕末から居るし、鶴丸は既に阿津賀志山のあたりで長期の別任務に就いてたっぽいし、その辺と一緒に出てくるということは御手杵もずっとミュ本丸に居たってことですよね。
確かに葵咲でも後から合流したとき蜻蛉切に「御手杵!!」って親しみを込めて呼ばれてたし、旧知の仲なんだなというのは伝わってきましたけど、改めて初期から本丸に顕現してたんだなーと感じました。

 

この話のテーマは「表と裏」。序盤の『狐や踊れ』では翁と神、武者と亡霊、乙女と狂女、鬼と獣。それぞれ対になる存在になぞらえて「この世と狐には表と裏がある」という言葉で締めくくられます。
これが後に出てくる四振りになると

  • 長曽祢→偽と真=贋作と真作、及び新撰組の「誠」も掛けていると思われる
  • 御手杵→夢と現=己が焼失するときの夢、そして一度消えた筈なのに存在している現在
  • 堀川→般若と菩薩=優しそうに見えて闇討ち暗殺お手のものである面、新撰組鬼の副長であった土方さんの厳しさと優しさ
  • 鶴丸→死者と生者=墓の中で死者と眠っていた記憶と生者に掘り起こされた後のいろいろ

という個々が抱える表裏の言葉に変わるのもいいですよね。この世と狐のうち、この世側の表と裏。それが本丸に顕現していたこの四振りに宛がわれるの綿密じゃん……。
しかも全員それを傷跡や遺恨として自ら見せつけることがなく、一見表と裏があるようには感じられないのがまた……国語と歴史の授業か……????


これは表と裏に関係ない話なんですが、鶴丸が歌う「神の気まぐれか」ってところめちゃくちゃ好きなんですよ~~~「気まぐれ」の「れ」のとこの巻き舌が死ぬほど楽しそうで鶴丸国永すぎる……本当は狐だけど……。
あと狐面の中身の口元が見えてるデザインも良かったです。鶴丸の口元ずっとニヤニヤしててうわーーー鶴丸国永ーーーー!!!!ってなりました。
「狐にゃ表と裏がある」のとこの振り付けも良すぎませんか??!!小狐丸二振りでやるのとこの四振りでやるのとだとまた違った魅力があって……特に御手杵の脚が長すぎてステージの半分を覆ってた……すぐ股下の話をしてしまう……。
「コン!!」って出てくるところもみんな可愛いですよね……あれみんな垣根に隠れて一瞬で狐面つけてくるの早業!!って感じなんですけど、映像だとそこが映ってなかったので円盤で何卒……何卒……。
踊るから遊ぶに歌詞が変わってるところも、序盤の『神遊び』で触れた「舞」や「遊び」が神に捧げる鎮魂の意味を持つってところと繋がってそうでわくわくします。

 

 

♦真打と影打、表と裏

「さてさて、これが真打かな」というのはボスマスに辿り着いた時の小狐丸の台詞ですが、この言葉と共にもう一振りの小狐丸が現れる演出には鳥肌がたちました。
真打とは一般的に最も実力のあるものを指します。この場合も、ボスが一番強い=真打という意味合いになるでしょう。
しかし、日本刀における真打とは一番出来の良い刀、つまり納めるべきところに納め、正規の名を冠する刀を指します。その対義語は影打、同じ素材で作られた製作者の手元に残される真打ではない刀。日の目を見るもの、見ないもの。正に表と裏です。
小狐丸を化かした狐の親玉との邂逅というシーンで台詞は原作通り(ボスマス到達)と思わせつつ、二重の意味を持った言葉として使われているとしたら……『ふたつの影』で歌われる「影なりや 我なりや」はそういう意味かなと……。


表と裏はミュ本丸の小狐丸にとってはお馴染みの言葉でもあります。
つはものの『あどうつ聲』や阿津賀志山の巴里公演での『向かう槌音』といった、小狐丸が劇中で披露する舞には「表に彼の名 裏には我が名」という歌詞が必ず入ります。これは小狐丸の伝承『小鍛冶』からとったものです。
『小鍛冶』はざっくりいうと、帝(一条天皇)の使いから刀を打つように依頼されるも、相槌を打てる者が居らず途方に暮れた三条宗近が稲荷明神に救いを求めたところ、影向の狐が現れ相槌を打ってくれたので小狐丸が出来上がる、という内容です。この時、三条宗近は表銘に己の名(小鍛冶宗近)と裏銘に小狐丸の名を刻んだとされています。
日本刀の表銘は刀工名が入っていることが殆どで、時代によって居住地、受領国名などが加わる場合もあります。
反対に、裏銘は制作年月日が入るのが一般的です。ものによっては所有者の名前や試し斬りをした結果が入っていることもあります。もちろん例外もあります。『小鍛冶』の小狐丸はその例外に該当するでしょう。


表銘がはいる「表」は茎の外側(左側)を指します。そしてこの「表」は太刀と刀で変わります。太刀は刃を下に向けて佩き(佩表)、刀は刃を上に向けて佩く(差表)ので、両者にとって「表」は真逆の位置にあるのです。*8
つまり、何方かの表が何方かの裏となる……表裏一体ともいえますよね。そして刀は溶ければ皆鉄となりひとつになる。「向き合えば影の如く 溶け合えば鉄の如く」表も裏もなくなるわけで……。
「溶ければ皆鉄よ」とは錬結時の小狐丸の台詞ですけど、これすごい台詞ですよね。自分も相手も鉄の塊だと把握している。小狐丸、主に対する懐き具合とは別に己のことはものすごく客観的に見ているわけですよ。

 

♦小狐丸が持つ客観性

ミュ本丸は勝負事の白黒がいつもつかない世界なのだと先輩審神者から教わりました。
確かに歴代らぶフェスも、今回の歌合も、まるで勝敗がついていません。歌合の最初、石切丸の話に出てくる囲碁ですらついていないのだと聞いたときは拘り~!!!!となりました。
本編においても、絶対的な悪というものがまるでない。敵として存在している時間遡行軍ですら、むすはじで心情を慮る場面がありましたし、葵咲でも「彼らの正義」という言葉が出てきます。
立場によって善悪が変わる複雑な構造は現実世界と似たものを感じます。物事は勧善懲悪で割り切れるほど単純ではないのです。


本編1作目である阿津賀志山異聞の中では、軽傷を負った今剣の対応を巡って隊長の加州清光と石切丸が対立するシーンがあります。今剣の心が動揺していたことにいち早く気づき撤退を提案した石切丸と、任務を遂行するためにたとえ傷を負っても突き進もうとした加州くん。
今剣が傷を負った責任が何処にあるのか、誰が悪かったのか。正解がわからない加州くんは小狐丸に「俺と石切丸、どっちが正しいと思う?」と問いかけます。
そこで小狐丸は「答えは知っていますが、やめておきましょう。それは自ら導くことで初めて答えになるものですから」と、明確な答えを出さず立ち去りました。
後に岩融が語った此縁性の教えで「何方か一方が正しいわけではない」と悟る加州くん。彼がこの答えに至ることができたのは、あの場で答えを出さなかった小狐丸の気遣いがあったからだと思います。
心に抱えた矛盾に定まった答えはなく、表も裏もない。それを知っていたからこそ小狐丸はこの行動をとることが出来たのでしょう。
小狐丸、1作目からこれですよ。心を得たことで戸惑い壁にぶつかる刀剣男士の中でもダントツの客観性を持っていることがわかります。


さて、彼の客観性はつはものの劇中歌である『守るべきもの』からも感じ取ることが出来ます。

「揺るがないのは 我らの使命」
「ここに在る意味 問うまでもない」

揺るがない。迷わない。使命に対して真っ直ぐなんですよね。三日月宗近も彼と対峙した時にその点を羨ましいと述べています。
持ち前の真っ直ぐさゆえに三日月宗近とはぶつかってしまう訳ですが、彼がやろうとしている事と真意(のようなもの)を髭切から聞いた後、小狐丸はそれを否定しませんでした。
三日月宗近がやっている事を正しいとは思わないが、間違っているとも思わない」という答えを出せたのは、感情だけに支配されず、理性を以て考えた結果なんだと思います。
しかも怒った理由が「任務を逸脱している」からなんです。誰かを傷つけたとか殺したとかじゃない、結果的にやったことが使命の域を超えているという。感情で怒ってるわけじゃないっていうか、圧倒的に理性で考えてるじゃないですか。ここが人間とは違うポイントかなと。

 

で、小狐丸は何故この考え方をいち早く得る事ができたのか、についてなのですが。これはこの話でも出てくるように、己の欲望を鎮める為に行っていた舞の稽古の中で辿り着いた答えなのではないかなと。
元々三条の刀は神格が高いというか、人間と乖離した視点を持っていると思います。その一つが客観性、自分が何者であるかの自覚です。特に小狐丸は稲荷明神の影向が相槌を打ったという逸話が元になっているので、その面が強かったのではないでしょうか。
しかし、人の身を得たことで生まれた欲望(油揚げが食べたい!)を制御することができず、欲望と理性の間で戸惑います。舞の稽古を通じて己の欲望と向き合ったことで、欲望も刀剣男士としての自分の一部なのだと悟り、より客観性が研ぎ澄まされた結果が現在なのでは?
この悟りを得たきっかけこそ、今回のこの事件。もう一振りの小狐丸が目の前に現れたことなのではないかと。
たぶん阿津賀志山の時はこの事件後だったからああいう気遣いができた。巴里公演での舞の稽古は己の為ではなく、主に披露するためでしたしね。*9
最初は自分と向き合う為に行っていたことが、やがて主の前で披露するくらい上達しているの、共に過ごす時の流れを感じて良いですね……。


あと「月光に宿る影はふたつ」っていうところ、照らす月は満月なんですよね。ここ、三日月と対比されてるなあと。
鶴丸三日月宗近は立ち位置が真逆(太陽と月)の対比ですが、小狐丸と三日月宗近は近くに居るし見ているモノは同じだけど違う(満月と三日月)、というんでしょうか。俯瞰して見えるものは鶴丸が、傍で見えるものは小狐丸が拾っているような。対極と対照というか。拙者、Timeline大好き侍と申す者だがニホンゴムズカシイネ…。
いやこれ、後出しのはずなのに綺麗に前と繋がってるの本当こう、すごいとしか言いようがないですね……。

 

 

 

♦人なりや物なりや

「物なりや 人なりや」
デン!!真剣乱舞祭2016で何度も三条の刀たちが問いかけていたヤツ~!!!!
どの祭よりも一番彼岸に近かった(当社比)2016年の祭ですが、そこからまさか持ってくる?!という話。
あの時も小狐丸は最初狐面をつけていましたね。ていうか神様側の三条めちゃくちゃ怖かった。神隠しだよあんなの。
刀という物なのか、肉体を得たから人なのか。彼岸と此岸、どちらに属するのか。元主への想いが強く人寄りの新撰組の刀達と、不確かな伝説・逸話が元になったり千年以上も人を見守ってきた付喪神(物)寄りの三条。
この両極端だけど刀剣男士としては避けられぬ選択肢を、阿津賀志山と幕末を経た加州くんは「物であり人であることが刀剣男士」であるとして、どちらも選びました。
正解はない。表も裏もない。刀という物で、男士という人。物は理性、人は感情の比喩でもある。そのどちらも「自分」であること、抱えた矛盾を受け入れる。それこそが刀剣男士である、と。
小狐丸が先に得た悟りを、更に昇華して見せた加州くん。この結論があったからこそ、つはものでの小狐丸は三日月宗近を受け入れたのかなと考えています。

そしてこの「正解はない」という考え方はその後のらぶフェスにも引き継がれます。2017では完成しない百物語、2018では無勝負の東西祭対決へと繋がるので最早ミュ本丸の根っこにあると言っても過言ではない考え方です。

 

それから、劇中歌である『ふたつの影』で歌われる「神なりや 妖なりや」というところについて考えたことを。
神という存在は人による信仰がなくなると神格が堕ちて、妖の類になってしまうと言われています。つまり、神と妖は表と裏の関係性を持つわけです。

 

人々は「妖怪」を「神」に変換するために祭祀を行なう。
また、人々の祭祀が不足すると、「神」は「妖怪」に変貌することになるのだ。
(中略)
別のいい方をすれば、祭祀された「妖怪」が「神」であり、祭祀されない「神」が「妖怪」ということになるのである。

 

引用:小松和彦「魔と妖怪-祭祀される妖怪、退治される神霊-」『妖怪学新考-妖怪からみる日本人の心-』小学館,1994年,p163~164

 
ここで言う「妖」はこういった意味の他にも、刀剣男士が心にある闇を力として開放することにより、時間遡行軍と同等の禍々しさを纏ってしまうことも指しているのかなと。
文字通り、感情に溺れてしまえば敵の存在に等しくなってしまう。三百年の石切丸や、葵咲の村正がそうでした。闇落ちとまではいきませんが、あの強さと力は心を蝕む邪悪なものだと伝わってきました。
神に寄りすぎてしまうと受け取る信仰がなくなった場合に受動的に神から妖になってしまい、かといって人に寄り過ぎれば抱えた感情を制御できず能動的に妖側へ行ってしまいそうになる。
物であり人である刀剣男士にはどちらの可能性もある。だからこの問い掛けがあったんじゃないかなと。
ちなみに、逆に妖から神になるパターンもあります。ここに関しては葵咲の稲葉江がわかりやすい例だと思います。
「影なりや 我なりや」はこの神と妖を踏まえつつ、真打と影打の話に通じます。影=裏が居た証として、元々本丸に存在していた小狐丸の手元に残されたのは面=表だけ、という演出も最ッッッ高ですね……。

 

この事件について、小狐丸はこんな言葉を残しています。

「虚構も事実も表裏一体なのですよ。
 信じてもよし 信じなくてもよし。
 私は信じ、もう一振りの己を受け入れた。
 それもまた、よし」

もうほんと、アーーーーVersus----!!!!!!みたいな……「本当と嘘が絡まり合って真実さえもはや無意識だ」ですよこんなの……。
正解はない。何方を選び取るかは全て自分次第。それを他でもない明石に言うところが意味しかねえ~~!!!!
だって明石、最初から小狐丸のこと尾行してたじゃないですか。すぐばれてたけど。あれ恐らく、三日月宗近の行いを許している者を探ってるんだと思うんですね。
何方を選ぶのか、何方を捨てるのか、選択肢はそれだけではない。明石は己の存在意義を結構単純化して切り捨ててるところがあるので、こういう矛盾の話を聞かせることはすごく意味があるなと。
この話が今後明石が岐路に立った時、良き道しるべとなることを祈ります。

 

は~~書きたい事ありすぎて蛇行に蛇行を重ねましたね。スクロールバー、盛り上がってるー??!!!

ここ実はまだ全体の半分なんですよ。まだまだいきます。

 

 

 

 

 

 

 

ライブパート其の四

今回もおおかた大千秋楽の記憶を初見みたいに言ってます。辻斬りタイムあたりから記憶が入り混じりますのでご了承ください。

 

 

 

♦響きあって

はァ~~~~かっこよすぎるんじゃ~~~!!!!!!!!!!!イントロからかっこよすぎる音頭。もうめちゃくちゃ響きあってる。フィルハーモニー管弦楽団もびっくりするくらい響きあってる。
あの指貫手袋???京極夏彦がつけてるみたいなあれをこう、ぐっと引っ張ってカメラ目線で色気を散布する蜻蛉切is最高of最高でした本当にありがとうございました。
いやなんですかあの視線……根兵糖切どこいった……すごい、すごいセクシーデリバリー蜻蛉切……さすがは村正派の槍…………。
後方ステージのみほとせ組がぎゅってなってるの可愛かったですね……色気と可愛さ固めて回転させましたみたいな贅沢さでした……。
あとイントロで拳を合わせる幕末組もほんttっと……蜂須賀と長曾祢さん、兼さんと堀川くん……オ゛ッッッ……て呻いてしまう……。
この曲で一番すきなとこ、Cメロの掛け合いとそれに続くラスサビの英語のハモリなんですが、村正いないから誰がやるんだろ?と思ってたら兼さん!!!!!!!!!!!!!
脚が長い×歌がうめえ=かっこよくてつよーーい!!!!!!!!!!!!
 

 

 

♦百万回のありがとう

きました恒例辻斬りタイム。カメラは定まった場所を映すからそんなに目が忙しくない(そんなことはない)けど、これ現地だと首取れそうになったやつですね。目が100個欲しい。
だって四方八方から刀剣男士でてきたらそうなるでしょ……????時間遡行軍もびびるわよ……。
最初はなんかすごいありがとうって言われてるな……と思っていたこの歌も、みほとせを経たらエモさの塊になっているわけです。
「誰一人おいてはいかないよ」という歌詞で毎度救われた気持ちになります。こちらこそ手を取ってくれてありがとう。
あと初演では「今までありがとう」*10だったのが「十年後も二十年後もあなたと歩めますように」になってるのもいいですよね……そして極めつけは「千年後も二千年後もそばにいられますように」ですよ……人の一生を見守る付喪神じゃん…………ありがとう………。

 

 

 

♦勝ちに行くぜベイベー

初見殺し~!!!!!音源化されてねえ!!!!!!
タオルを振ってくれという指示がありましたが初見では無理でした。口を開けたままタオルを握ることしかできなかった……。まじで何処見ていいかわからん案件。
現地で曲終わりに蜻蛉切が目の前でお辞儀したのをみて「でっかいのにめちゃくちゃ丁寧なお辞儀する……」と思った記憶があります(失礼)
大千秋楽のあおさく組ニッコニコでSo Cute……って感じでしたね……明石が歌ってる時に肩をすくめる蜻蛉切可愛かったです。あと映像で見てると毎度篭手切くんの目線が完璧でファンサの神と化してた。秋に実装されたばかりでは……?!?!??!
これ二階席とか行くのも機動順なんですかね。らぶフェスのバクステ見てても思ったけど刀剣男士めちゃくちゃ走り回ってるな……すごい体力である……。
この辺の辻斬りタイムはTwitterに流れてくる各定点カメラ審神者の報告を全て合わせて上映して欲しいなと思います。何度も言うけど目が足りんのじゃ……。
 

 

 

♦獣

辻斬りからのトドメです。 審神者の命は儚い。
もうこの曲に関しては言葉で語るのも野暮というか……だってずっと殴られ続けてるじゃん……。なので感じたことを正直に書きます。
イントロで飛び出してきた今剣ものっすごい機動でしたよね??!!!何回転したの??!!そしてなんて美しい動き……!!!!!
2番を大俱利伽羅が歌ったのも真剣乱舞祭2017を彷彿とさせて演出アツすぎでは??!?!!となったところでぶち込まれる伊達組の絆アピール……。
みんな前方ステージにいると思ってたんですが伊達組だけ後方に居たんですね……次の舞台に行く二振りだけが……違う場所に居る……!!!
今回のライブパート見てて思ったんですけど、鶴丸と大俱利伽羅にとって挑戦の場がたくさんあったなと。次に持っていくもの、受け継ぐものを感じる……!!!
春の新作公演で、これまで先輩方から受け継いだものを更に新しい子たちに伝える役目を担った二振りだからこその挑戦があって、それを見届けることができたの、貴重だなとおもいました…。

 

あと問題のシーン。石切丸の手袋事件。あれはやばい。大太刀の打撃こわい。生き残れるわけがない。
だってあんな、「自分の色気ここ一番で出してまーーーーーす!!!!!」みたいな顔で、あんな、ドセンターであんな、やります普通?????
ライビュで見てたんですけど映画館の悲鳴「キャー!」じゃなかったですよ。「ピギ……」みたいな、みんな息も絶え絶えの悲鳴でした。死屍累々です。
だけど私あの、そんな石切丸の後ろで虎視眈々と己の出番を待つ蜻蛉切の獣感がやっべーーーー好きだったんですけど皆様いかがお過ごしでしょうか?!!!!
スポットライトの後方でひな壇に腰掛けながら前のめりで自分のパートを待つあの蜻蛉切の殺気っていうんですか?!背筋寒くなるくらいの気合っつーんですか?!あそこがむちゃくちゃ好きです……。
極めつけは最後の「己に牙を剥け」の小狐丸~!!!!!!!!!!!!!!野性ゆえ獣!!!!!!!!!
小狐丸のパフォーマンス、普段の落ち着いた理性と野性みのある凶暴さが共存してて好きなんですけど、この獣は完全に後者に極振りしててめっちゃかっこよかった……。

 

結論としては獣でしんだって話です。これも目が足りねえんだよなあ……!!!!!

 

 

 

 

 

 

 

かみおろし

さて、ここまで6つの歌を火にくべてきたわけですが。
これらの歌が、万葉集古今和歌集からそれぞれ3つずつ使われていることにお気づきでしょうか。

  1. 天地の神を祈りて我が恋ふる 君いかならず逢はずあらめやも万葉集・巻第十三 よみ人しらず)
  2. 世の中は夢かうつつかうつつとも 夢とも知らずありてなければ古今和歌集・九四二 よみ人しらず)
  3. 夏虫の身をいたづらに成すことも ひとつ思いになりてよりけり古今和歌集・五四四 よみ人しらず)
  4. 梅の花折りてかざせる諸人は 今日の間は楽しくあるべし万葉集・巻五 神司荒氏稲布)
  5. ぬばたまのわが黒髪に降りなづむ 天の露霜取れば消につつ万葉集・巻七 よみ人しらず)
  6. ふたつなき物と思ひしを水底の 山の端ならでいづる月かげ古今和歌集・八八一 紀貫之

万葉集古今和歌集、その違いとはいったい何なのでしょう。編纂時期が違うのは当たり前なので省きますね。注目すべきは収録歌の特徴だと思います。
一般的に、万葉集は内容が具体的・現実的であり、生活の中にある美しさや感動を素朴な表現で伝える歌が多いとされています。
対する古今和歌集は内容が抽象的・婉曲的で、現実離れした風流さを様々な技法で表す歌が多いといわれます。言葉遊びが多いのも特徴的です。

そう考えると、各話にあてられた歌、絶妙にイメージが合ってませんか……??
「懐かしき音」「梅theWay」「美的風靡」は現実、日常の話。「根兵糖合戦」「にっかり青江 篝火講談」「小狐幻影抄」は夢や過去、そして現実だったのだろうか?と思うような話。
夢と現、表と裏。それらを均等に火にくべ、神へ捧げたわけですよ。どちらか一方だけでなく、どちらも持つのが刀剣男士だから。

 

そして歌物語を焚き上げた篝火に向かって、判者と講師は「まれびとまだか」と問いかけます。
まれびと。こことは別の世界からやってくるもの。異なるもの。異邦からの客人。
前編でも紹介した民俗学者折口信夫は、「まれびととは何か。神である。時を定めて来り臨む大神である。*11」と定義しています。
この歌合でいう神は付喪神、つまりは未だ顕現していない刀剣男士であると考えます。時が満ち、条件が揃えば顕現する。その仕上げの場がこの『かみおろし』です。


鶴丸が語った「大和歌は人の心を種としてよろずの言の葉とぞなれりける」は古今和歌集の序文。全文は以下の通りです。

 

やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける
世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり
花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける
力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり・・・

 

引用:古今和歌集仮名序 - Wikipedia

 

これ、冒頭の『神遊び』で鶴丸が語った言葉と繋がってるんですね。最初と最後が繋がって円のようになっている。『菊花の約』のように。
これを想いによって呼び起こされる刀剣男士が語るからエモい。古典の教養がもっと欲しい。文法がいつまでたっても理解できなくてフィーリングで読み続けた学生時代のこと思い出すと悲しくなります。活用方法とかむずかしいよね。
「人の想いで紡がれた物語を縁(よすが)とし、この世に生まれ出るのは歌も我らも同じこと」という鶴丸の言葉、ほんともう存在意義そのものって感じでそっと手を合わせて天を拝むしかない。
さまざまな人の想いや逸話、伝説、歴史を物語る歌と刀。言の葉と歌の音が依り代になるもの。だから歌う。だから舞う。だって同じことだから。
なんでしょうねこの、日本文化と融合させながら彼らの、彼らだからこその存在意義を伝えられている感じ。今までにない感覚で新鮮です。
Twitterでも見ましたけど鶴丸に「これより先は神の領域」って台詞言わせたの本当に天才だと思います。一度は言われたい台詞なのわかる。

 

 

 

 

 

 

 

君待ちの唄

♦成長するモノ、呼びかけるモノ
さあ感想も最後の大仕上げに入ってきましたよ!!!!がんばってスクロールバー、アンタが死んだら(略)
歌合の中で一番大きな意味を含む『君待ちの唄』。神を降ろし、刀剣男士の肉体を創り、心を宿す儀式。
そもそも何故「歌合」なのに、これだけ「唄」なのか?これは漢字自体の由来によるものではないかと思います。
「歌」は漢文表現などで良く使われていたので、政治や儒学を通じて日本に入ってきた漢字です。対する「唄」は梵語が元となっており、これが仏教を賛美する歌という意味のサンスクリット語から来ているとされています。仏教色が濃いんですね。
また、「歌」は韻を踏む和歌を含めた音楽全般に使える言葉ですが、「唄」は伝統的な邦楽の場合に使われるという違いもあります。
つまり、『君待ちの唄』は伝統的邦楽に当てはまるということになります。なぜならこれは神楽であり、神に捧げる古典芸能でもあるから……たぶん。
そんなミュ本丸の伝統的な邦楽である『君待ちの唄』、その歌詞から色々と探っていきたいと思います。

 

一つ 心の臓が脈打ち始め(石切丸)
二つ 赤き血はめぐり巡る(小狐丸)
三つ 眼はまだ光を知らず(巴)
四つ 手足は別れ指をなし(青江)
五つ 耳は音の意味もわからず(大倶利伽羅
六つ 口はまだ言葉をもたず(大和守安定)
七つ その肺に空気を吸い込めば(和泉守兼定
君は産声を上げるだろう(蜻蛉切

 

胎児の成長過程とほぼ一緒ですね。
初期は心臓の形成から始まり、血が巡り、目や鼻ができる。中期に入ると手足の形が見えて指も形成される。耳も聞こえるようになる。
後期の最後には顔や体の形がはっきりとする。そうして生れ出た赤子は肺に空気を吸い込んで産声を上げる。
ヒトとしての身体を形成する唄の背後で、講師の二振りはずっと鍛刀の過程を歌っています。モノとして創られること、ヒトとして形成されること。同時に行わなければ「刀剣男士」にはなれない。
失敗したらどうなるんだろう?的な話をちらほら見かけたんですけど……失敗したらやっぱ時間遡行軍に持っていかれてしまうんだろうか……『かみおろし』が行われる直前みたいに……。


怖いので話を戻します。この歌い手についてなのですが、神に近い刀として『神遊び』でも最初を担った石切丸と小狐丸から始まり、次に続くのが巴、青江でした。
巴と青江は過去の真剣乱舞祭の進行役、謂わば主役でしたよね。向こう側にいる神をこちら側へ呼び寄せる『君待ちの唄』で、彼岸と此岸を繋いだ祭を担った二振りがこの次にあてがわれているの、意味がありまくりでは?!と興奮する審神者
更に大俱利伽羅、大和守安定、和泉守兼定蜻蛉切と続くわけですが。
大俱利伽羅は三百年で吾平の死を、安定は幕末で沖田総司の死を、兼さんはむすはじで土方歳三の死をそれぞれ目の当たりにしています。己と最も関わりが深かった人間の死を知っている。そしてそれを乗り越えて強くなった刀。
死をきっかけに生まれ変わったとも言える刀たち。そんな共通点がある気がします。
蜻蛉切は数を口にしていないのでこの七振りとはまた別なのでしょうが、葵咲で語り部のような役割を持つ主役でもありました。また、三百年では本田忠勝として家康、信康を育てる役目も果たしています。
生まれた人間を育て見届けた彼は死よりも生に近い。だから「産声」という最も目覚めと生命に近いパートを請け負ったのではないでしょうか。
あと単純に蜻蛉切の歌声がめちゃくちゃ生命力に溢れてるっていうのもあると思います。すごい迫力だったじゃないですか……あんなん産声いくらでもあげてしまう……。

 

 

 

♦ 宿るもの、祈るもの

大迫力の呼び声に応じるように曲が転調し、ここから一気にトランス状態になります。盛り上がることで神をよぶ。宿れ、祈れ、と踊り、歌う刀剣男士たち。
ここでは刀剣男士に宿るべきものと祈るべきものがそれぞれ分けられています。『神遊び』とちょっと似てますね。

宿るもの=刀剣男士としての役目

  • 生命(篭手切江)
  • 形(御手杵
  • 歴史(陸奥守吉行)
  • 身体(大和守安定)

祈るもの=刀剣男士として背負うべきもの

 歌われた内容と歌い手で分けてみました。これにも意味がすごいありそう。予想しかできないけど簡単に考えたことなど。
まず篭手切くんの「生命」ですが、篭手切くんってこう、仲間を呼び起こす役目を担ってるんじゃないかと思いまして。葵咲の稲葉江にはじまり、今回の歌合の江派についても。
彼岸にある仲間を呼び起こし、「生命」を宿す。一緒に夢を見るために。「いつか」と望みを託せる未来を信じてるから。そういう意味かな……全然自信がないけど……ここはまだ考察の余地ありです。
次に御手杵「形」。後に身体がきてるので、こっちは刀剣本体としての形。葵咲で「たとえ消えても たとえ焼けても 覚えている」から、刀本体が焼失していても、誰かが覚えていてくれるなら、人の想いがそこにあるなら存在するんだって貞愛から教えてもらった御手杵だからこそ歌えたパート。
むっちゃんの「歴史」、これは刀剣としての歴史でしょう。むすはじで「坂本龍馬が目指した未来があるこの歴史を守る」というゆるぎない信念を持っていたむっちゃんが歌うしんどさよ…。つまり主が関わった歴史が正しく宿るようにってことですね。
安定の「身体」は勿論刀剣男士としての姿形なのでしょうが、憧れた元主に似た姿を得た安定が言うから意味深すぎるという……逸話や装飾をもとにした姿になりがちですが、主への想いが姿に宿ることもあるよね……。

 

そして背負うべきもの。これも重いぞ。
物吉くんの「契り」。これは物吉貞宗を持つことで自分は幸運だと信じていた家康の想いを受け止め、「自分は幸運を運ぶ役目がある」と自覚していた物吉くんのように、使い手と刀の信頼関係を表した「契り」かなと。大切にしてくれる人との信頼関係があってこそ武器としての逸話も輝きますし。
明石の「禊」イザナギが黄泉比良坂を通りイザナミから逃げ帰った後にした「禊」に関連しているような気がします。穢れた身体を清める為の禊ですが、イザナギの穢れからは災いを司る禍津日神と、それを直すための直毘神が生まれています。表と裏ですね。刀剣男士も感情に支配されすぎるとあちら側に堕ちて災いを齎す存在になってしまうから、そうならない為の「禊」なのかなって。
虎徹兄弟の「運命」「役目」はもうまんま幕末の『選ばれぬ者』ですね……飾られる運命、人を斬る役目。どちらも選べるものではなく、選ばれることで果たせる。人がなれるものにしかなれないように、受け入れなければならないもの。
 

各々が歌う意味がありすぎて息切れしてきた……ハァッハァッ……。
宿るもの、祈るものを言の葉にすればあとは「こちらへ」と呼びかける作業です。さあさあ!!!
ここも序盤と同じく、本体が焼失している御手杵とむっちゃんの出番。力強い声が神域に響き渡るのすっごい痺れました。
からの、えおえおあ(極)!!「行くぜ、主!」っていう鶴丸、マジで鶴丸すぎて初見の時鶴丸だ!!!ヨシ!!!!!」って大事なシーンなのに現場猫みたいになってしまった。

 

 


♦八つの神

イネイミ ヒタクク
ワサワカ ハケララ
サクツハ ヤミオミ
クツヤヒ カカツ
ノヒヅミ ハオチ


歌合前に公開された謎動画で話題をかっさらったえおえおあ(極)。縦読みすると神様の名前になるって聞いたけど本当かな?!本当でした。なんなら縦読みも横読みもできるからすごすぎる。

 

 

古事記』に書かれている神々の名前ですね。*12しかも、イザナギが十拳剣でイザナミが死ぬ原因となった火の神カグヅチを殺したことで生まれた神々。は〜〜血に塗れている~~。
これらはカグヅチの血が十拳剣についたことで生まれた神。刀剣から生まれた神ってことです。斬られたカグヅチの死体から生まれる神とは別なんですよね……。
古事記の該当箇所は以下のようになっています。

 

ここに伊耶那岐の命、御佩(みはかし)の十拳(とつか)の劒を拔きて、その子迦具土(かぐつち)の神の頸(くび)を斬りたまひき。

ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著ける血、湯津石村(ゆついはむら)に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、石拆(いはさく)の神。次に根拆(ねさく)の神。次に石筒(いはづつ)の男(を)の神。

次に御刀の本に著ける血も、湯津石村に走りつきて成りませる神の名は、甕速日(みかはやび)の神。次に樋速日(ひはやび)の神。次に建御雷(たけみかづち)の男(を)の神。またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豐布都(とよふつ)の神三神。

次に御刀の手上(たがみ)に集まる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出(で)て成りませる神の名は、闇淤加美(くらおかみ)の神。次に闇御津羽(くらみつは)の神。

引用:古事記/上卷 - Wikibooks 

 

斬った刀剣の先端についた血からイワサク・ネサク・イワツツノオが生まれ、鍔についた血からミカハヤビ・ヒハヤビ・タケミカヅチノオが生まれ、柄に溜まった血が指の間を流れたものからクラオカミクラミツハが生まれたという話。神様の血めっちゃ子だくさん。
イワサク・ネサク・イワツツノオが生まれた場所は火の神を斬り殺した刀剣の先端。これは人が火を操る比喩であり、この火を利用して鉄製品を作り出したことを示しているのではないかと推測されています。また、火の神を斬り伏せるほどの切れ味を表現しているとも。つまり鉄製品の中には刀剣も含まれていたってわけですね。


ミカハヤビ・ヒハヤビは漢字で書くと甕(土器)と樋(水路)を現すので、農耕関係の神とも考えられますが、古代の製鉄に於いて重要な役割を果たしていた*13とも考えられます。そしてこの二神とセットになっているタケミカヅチノオは軍神・雷神とも呼ばれていますし、「剣の神」としても有名です。

タケミカヅチノオの神話に「出雲の国譲り」というものがあるのですが、この中でなんと彼は手をツララや剣に変えて敵対相手を怯ませます。こえーよ。詳しい内容はググったらでてきます。
ちなみにこの時、タケミカヅチノオはアメノトリフネという神と一緒に行動しているのですが、『日本書紀』になるとこれがイワイヌシに変わります。イワイヌシは香取神宮の祭神なんですけど、実は物部氏の祭神でもあるんですよ~~ミュ本丸に於ける物部って、血縁を記す名前ではないですけど、大きな意味を持ちますよね……。
 

最後はクラオカミクラミツハ。この二神はどちらも水を司る神とされます。オカミは龗とも表記され、龍の古語であるこの言葉が使われていることから龍神とも考えられています。クラは光の届かない谷を示すことから、暗い谷の中から水が湧き出でる様を現すとも。また、水というものは豊かさを齎すだけでなく水害=人に牙をむく面も持っていたので、表と裏を表す言葉でもあったかもしれません。
これらは全て製鉄に重要なものを司っていたり、はたまた剣そのものの神だったりと、とにかく武器に関わりの深い神々だと感じます。刀剣によって生まれた八神の名を唱え、八つ目の呼び声とする。そうして時が満ちたとき、やってくるのがまれびとなのです。 

 

このクライマックスシーン、皆頭を垂れていましたけど、良く良く見ると青江の姿勢だけめちゃくちゃ低い。青江って敵に斬りかかるとき、かなり身を低くすることがあるんですけど、あれと一緒なんじゃないかってくらいの臨戦態勢。
話に聞くところによれば青江、顕現したときもすっごいほっとしてたとか、失敗したら自分が出て来たものを斬り伏せようとしてるんじゃないかとか色々言われてて……青江定点カメラ欲しい。ていうか全員分定点カメラ欲しい。 

 

余談ですが、この後、イザナギは死んだイザナミを追って黄泉の国へ向かいます。有名な黄泉比良坂の伝説に繋がるわけです。
黄泉比良坂といえば真剣乱舞祭2016じゃないですか……?ちなみにこの伝説が元となり人間の「生」と「死」という概念が誕生したと言われています。
生と死。表と裏。此岸と彼岸。全部繋がってるんだなあ……。

 

 

 

 

 

 

八つの炎 八つの苦悩

歌声と呼び声に応じて現れたモノは、苦しみに満ちた産声を上げて問い掛けます。

 「我を呼び起こすのは 燃えたぎる八つの炎
 我に与えられたのは 肉体と八つの苦悩
 五蘊盛苦
 身に宿る苦しみ 痛み 悩み
 何故我を生み出した」

八つの炎とはわかりやすく言えば交わされた六つの歌と、『神遊び』『君待ちの唄』を合わせた八つの奉踊儀式を篝火へくべたことを指すのかなと思います。
刀剣から生まれた八神の名を唱えたことで、本体が製鉄される意味合いもあったのかな?
ただ炎となると地獄も関係してそうだなあとか。八大地獄、ありますよね。しかもこの地獄、堕ちる条件すべてに殺生が入ってます。
八繋がりで行くと仏教の八正道もありますけど、こっちは炎じゃない。解散!


次いで八つの苦悩。これは仏教における「四苦八苦」ですね。生まれた事で背負わなければならない苦しみの数々。前述した『君待ちの唄』での宿るもの、祈るものも合わせて八つ。
「四苦八苦」のうちの「四苦」とは「生苦」「老苦」「病苦」「死苦」を指し、「八苦」は更に愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」を「四苦」に足したものを言います。
このどれもがこの世に生まれた者が避けられない苦しみである、というのが仏教思想です。それぞれの意味は調べたらすぐにわかるので割愛。ちなみに私が好きなのは「愛別離苦」です。いいですよね「愛別離苦」。


で、この歌で名指しされる苦しみが最後の「五蘊盛苦」。これは「肉体を得たことで発生する苦しみ」を意味します。「四苦八苦」のうち七つの苦しみはすべて肉体があるからこそなのだ、という苦しみ。つまりは死です。
武器のままであれば、焼失や破損という終わりはあっても、肉体としての死はなかった。肉体を得たことで与えられた苦しみは、武器の頃では有り得なかったものばかり。生きることは苦しいことなのに、何故肉体を与えて自分を生み出したのか。何故苦しいのに生きなければならないのか。
当然の疑問です。そしてこの疑問は、どんな人間にも当てはまるものです。なんでこんなに苦しいのに生きて居るんだろう?と考えない人のほうが少ないんじゃないでしょうか。
現れたモノがこの感覚を持っているの、既に武器寄りなのに人寄りの考え方です。武器の視点から人の身の不便さ、不条理さを問うている。今までは扱われるばかりで疑問に思うのもあまりなかったであろうことを。


この問い掛けに対し、物であり人である刀剣男士達はこう返します。

「共に戦う為
 使命果たす為
 どうか力を貸したまえ」

「こうしたいから」とかじゃないんですよ。やるべき事ははっきりしてるんです。
歴史を守る為に戦うこと。正しい歴史を守るという使命を果たすこと。その為に、肉体を得たことで生まれる苦しみをも受け入れるのだと。
はっきりと「刀剣」としての意識を持ちながら、肉体と苦悩を受け入れる「男士」である。これこそが、ミュージカル刀剣乱舞の本丸に顕現した刀剣男士なのです。
余計な言葉はない。必要な言葉しかない。力を貸して欲しいと願う彼らのなんと神々しく、尊いことか。
「共に戦う為」の時に呼びかける篭手切くんの仕草、物凄く必死で泣きそうになりました。稲葉江を呼びもどした彼だからこその表情というか。同じ江の者を呼び続ける必死さが違った。
貸したまえ、とお辞儀する蜂須賀の丁寧さもすっごく良かった。強制するわけじゃなくて、あくまで嘆願している側であることを理解した恭しいお辞儀。

 

そして、この答えを聞いたうえでの返歌が素晴らしくて。

「生まれた理由(わけ)は問い続けよう
 この身が語る物語を紡ごう」

あんなに、あんなに苦しんで生まれて来たモノが。
生まれた理由を問い続けるって言うんですよ。何故こんな苦しみを伴ってまで生まれてきたのか、その理由を、投げ出さずに識ろうとして。
自身に宿った歴史や逸話、これから触れていく歴史や想いを、語り、紡ぐと。
初めて聞いたとき、訳もわからないまま見て居ましたが、ここで気付けば泣いていました。
苦しみを感じながらも、共に在ることを選んでくれた。生きることを否定しなかった。その強さと優しさに胸が熱くなってボロボロ涙が零れて止まらなかったです。
これ、人の肯定でもあると思っていて。人として生きる私たちの苦しみも、いま生まれた子は肯定してくれた。苦しくても生きる。生まれた理由がどこかにあるはずだから。
それは今本丸にいる刀剣男士たちも変わらない。彼らも生まれた理由を問い続け、その身が語る物語を歌い、紡ぎ、我々に見せてくれている。だからこんなにも胸に響くんだなって。
愛ですよこんなの……愛が詰まってる……作品への愛、刀剣男士への愛、生きとし生けるものへの愛。ここ、今回の歌合のサビだと思います。感想文のタイトルにもしてしまったくらい好きなとこ。

 

からの「来たれ、新たなる刀剣男士!」というビッグサプライズ。私が現地で見た時は桑名江だったんですね。だから大千秋楽で松井江が出て来たときめっちゃびっくりしました。
江が揃ったーーー!!!??って。年末に豊前江が新作に出る事は告知されてたので。そりゃ篭手切くん必死になるわー!!!
しかも松井江死ぬほど美人で暫く脳の機能が停止しましたね……なに……なにをみているのいま……??????と言う感じで。
まさかの二振り顕現。しかも江。やっぱ歌って踊れるからですか?!

 

 

 

 

 

 


あなめでたや

新刀剣男士の顕現を祝ううた。みんなニッコニコでとても可愛くて幸せなうた。
出だしの「めでたい雲が空に翻り カササギの声響き渡る」ってところ、めでたい雲は瑞雲、仏教的に重要なイベントでよく発生する瑞兆を現す雲のことですね。
カササギも吉兆を運ぶ鳥として中国では喜鵲(きじゃく)と呼ばれています。また、七夕伝説で織姫と彦星を出逢わせるために群れをなして天の川の上に橋を作ってくれるともされています。嬉しい事、喜ばしいことを運ぶ鳥なんです。
あとカササギの鳴き声って子供に似てるとも言うので、子供=生命の誕生を表現している部分もあるのかなと思ったり。 

 

とにかくめでたさを目一杯に伝えてくれるこの曲ですが

「想いは言葉へ
 言葉は歌へ
 歌はあなたへ
 そして新たに生まれる音に
 あなたと歌合」

まさかのここでタイトル回収が発生します。
この後も「歌唄う 桜咲く 音踊る あなたと歌合」という歌詞が出てくるんですよ。
本来の歌合としての競い合いではなく、「人の想いによって生まれた」ものとして言葉を紡ぎ、それを歌にし、他の誰でもない「あなた」へ向けてうたうこと。そこからまた新しい音が生まれる。それがこの歌合が持つ意味だと。
いやもうなんか……とにかく愛がすごい……この「あなた」は我々でもあり、ミュ本丸の審神者でもあり、仲間でもあるんでしょう……こちら側に対する呼びかけがあるの、存在の肯定じゃないですか……はーーーーもう涙で舞う桜が滲んじゃうよ。何度思い出しても感動してしまう。


「天晴れ!寿 松竹梅」のとこもめーーーっちゃいいです。蜻蛉切が歌うと草木咲き乱れ水が湧き出でるって感じの生命感があっていい。トトロで畑の植物が一気に伸びるシーンみたいな。嘘じゃないもん、蜻蛉切いたもん!!!!!
天晴れのとこで手を叩く振りがあるのもいいですね……御手杵が手を強く叩き過ぎてマイクがバチン!!!!て音拾ってたからフフッってなっちゃいました。フフッ。
最初は戸惑っていた新刀剣男士が最後は笑顔で皆と同じ振り付けでこの曲を歌うのも……いい……初めて皆と一緒にうたう歌がこんな、こんな祝福に満ちているんですよ……生まれたことにはちゃんと意味があるんだ……。
歓迎会に向かう面々も可愛かった。最後に新刀剣男士が「歌が聞こえたんだ。懐かしくて、気付けば一緒に歌っていた」っていうシーンも、聞いてた篭手切くんほんっと嬉しかっただろうな。私も嬉しかった。

 

この曲の優しくて嬉しい、「生まれてきてくれて嬉しい、ありがとう」って気持ちがいっぱいいっぱい詰まった感じが本当に好きです。
死ぬ時に聴きたいのは三百年の『瑠璃色の空』ですが、次に自分が人間として産まれる時は『あなめでたや』をかけて欲しいと思いました。そうだ、来世まで持っていこう。
 

 

 

 

 

 

 

 

あなたと歌合(まとめ)

そんなこんなで今回も決着がつかないまま対決が終わったわけですが。
歌合は彼岸から此岸、幽世から現世へ神を降ろす儀式でした。
個人的に、真剣乱舞祭2016は彼岸寄りの狭間、2017は此岸から彼岸への誘い(一歩間違えば彼岸へ堕ちる危険性もある)、2018は彼岸と此岸を繋ぐ祭としての集大成という印象を持っているので、歌合は狭間を乗り越えて刀剣男士たちがこちら側に来てくれたからこそ出来た儀式なのかなあと。
歴代の祭の意味と成長を踏まえて踏み出した新たな一歩。とても素晴らしかったです。もっと早く知りたかったという言葉より、初めて見た刀ミュが歌合で良かったなという感情が勝っています。
自分がこれまで歩んできた道で学んだ事と繋がるものが多くて、見るのも楽しくて、考察するのも楽しくて、こんなに一つの作品に対して感想ぶつけたの初めてかもしれません。すごいものに出逢ってしまった。
めちゃくちゃ好きに書き散らしまくったんですけど初心者の感想として面白がっていただけたら幸いです。あと歌詞は耳コピなので参考程度に。スクロールバー息してる…?

 

春の新作公演も楽しみです。きっとまた辛い展開があるんだろうけど、そのぶん美しいものもあるって信じられる。それだけのものが刀ミュにはありますね。
時間を見つけて過去公演の感想とかも書けたらいいなと思います。こっちは不定期に書き連ねていこうかなと。私には葵咲本紀1年パックという強い味方がいるので(円盤が待ち切れなかった) 

きっと歌合も円盤みたら新たな考察とか気付きがあるはずなので、その時は番外編として書きたしていきたいですね。とりあえず全振り分のフィーチャリング映像がほしい。


ここまで長々とお付き合い頂き本当にありがとうございました。
また別の感想でお会いできたら嬉しいです。それでは!!!!   

 

 

おまけの考察

mugs.hateblo.jp

 

 

※2/26 誤字や表記諸々修正

*1:http://www.sesamestreetjapan.org/characters

*2:(4)つばき油の歴史と製法 | 株式会社 山中油店

*3:大椿は荘子の逍遥遊篇に記載があります。「上古有大椿者 以八千歲為春 以八千歲為秋」(上古に大椿なるもの有り。八千年を以て春と為なし、八千年を以て秋と為す。)

*4:椿の別名に「茶花の女王」というものがあります

*5:ツバキ(椿) - 歴史まとめ.net

*6:ひとひらの風

*7:ここはらぶフェス2017のかざぐるまもあるかもしれません。「風が生み出す川の波 たどり着くべきは大海原」

*8:https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/rekihaku-meet/seminar/bugu-kacchuu/tk_intro1.html

*9:トライアルと初演は見えないところで稽古していたはず(都合のいい解釈)

*10:君の想い星

*11:まれびと - Wikipedia

*12:日本書紀』だと少し表記が変わりますが今回は基本『古事記』の方で進めます

*13:甕速日(みかはやひ)|樋速日(ひはやひ) | 「いにしえの都」日本の神社・パワースポット巡礼

生まれた理由を問い続ける歌 ~歌合 乱舞狂乱 感想と考察(中)

 

皆さんこんにちは。前編に続き今回も歌合の個人的な感想とか考察をドバドバ書き殴っていきたいと思います。
脳内HDDに保存している歌合の記憶が薄れぬうちに…鉄は熱いうちに打たなければ…。
ちなみに前編はこちら。

 

mugs.hateblo.jp

 
書いてる最中は最高にテンションが上がっているんですが、いざ公開すると「誰が楽しいんだこれ……???」という疑問に苛まれます。
まあ答えは決まってるんですけどね。私だよ。
という訳で、今回も蛇行に蛇行を重ねて好き勝手に書き散らしておりますゆえ、お時間がある時にお付き合いいただければ幸いです。
  

 

 

 

 

歌合 乱舞狂乱 中編

既に前半の時点で情報量がやばいのですが中編もその手が緩まることはありませんでした。審神者のキャパは東京ドーム何個分だと思われてるんですか?大演練ですか?
最大火力でずっと殴られてる。そして打ち込まれる新たなナンバー(和歌)……昼目の神も乗るしかない、このビッグウェーブに……。

 

 

 

  
 

 


にっかり青江 篝火講談〜夏虫の戯れ〜

 

夏虫の身をいたづらに成すことも

ひとつ思いに なりてよりけり

古今和歌集・五四四 よみ人しらず)

訳:夏の虫が火に飛び込んで身を焼かれることも、私が恋に身を焼かれることも、同じ「思ひ(火)」に因るものなのだなあ。

 

 

 


♦講談師・にっかり青江

まさかそうくるとは。この一言に尽きます。
最初後方ステージに青江が出てきた時は、後から誰か正面ステージに出てくるんだろうと思っていました。まさか一振りでやりきるとは。
しかもそのスタイルが講談ときた!!言葉と表情、そして声音。すべて1人で物語を語る講談師。それを刀である青江がやる。「物が語る故、物語」の極みじゃないですか。
青江が一振りで、それも怪談を語るというのは、2017年の真剣乱舞祭を思い出させるものがありました。歴代らぶフェスの中でも一番好きな演出だったので気づいたとき鳥肌が立ちましたね……。

 

講談というのは戦国時代の御伽集を経て、江戸時代の大道芸にあった辻講釈から始まったと言われています。江戸末期から明治初期にかけて大ブームを迎え、歌舞伎や浄瑠璃と交わりながら発展した伝統芸能の一つです。
講談には様々な演目が存在し、それらは大きく「軍談」「御記録物(御家騒動物)」「世話物」の三つに分けられます。

  • 軍談 … 歴史的に有名な合戦を題材とする。「太閤記」「太平記」など。
  • 御記録物 … 将軍家や大名といった有名人にまつわる伝記のこと。これが変化したものが御家騒動物」と呼ばれる。代表的なのは「赤穂浪士伝」。
  • 世話物 … その他の幅広い演目に当てはまる。怪談は有名な世話講談のひとつ。

昔から「講談師、冬は義士、夏はお化けで飯を食い」と言われるほど、講談師は冬は赤穂浪士伝、夏は怪談を演目としてきました。
それほどまでに代表的な演目の一つである怪談を語ることについて、講談師としては初の人間国宝である一龍斎貞水師はこう語っています。

 

世話物は人物を細やかに語り出すことが特徴で、世話講談が上手い人は人物を語るのもうまい。
怪談話でも、登場人物のデッサンをはっきり語り出すことが大事なんですよ。それがないと怪談にならない。
哀れな人はうんと哀れに、悪い人は極悪非道で語り出す。そういう人間を語ることで怪談は成り立つんです。
(中略)
芝居とか音楽はもう内容が決まっていますから、会場が変わろうがお客さんが変わろうが、一度作ったものはやり方を変えません。
ところが、講談は一人でやっていますから、同じ話をするのでも、会場や客層を見て、ちょっと話の切り口を変えてみたり、演出を変えてみたりする。
そういう風にお客さんと一緒に話を作っていく。だから寄席の芸は生きた芸だといわれるんですね。
寄席の客席はフラットに明るくするんですけど、怪談の時だけは暗くするんです。
そうすると、お客さんの顔が分かりません。
お客さんとのキャッチボールは息づかいだけでやらなくちゃならない。
そういう面でも、講談の怪談は難しいんですよ。 

 

引用:人間国宝 講談師・一龍斎貞水が語る怪談の世界(取材・文 村上健司)《怪 vol.31 20101129 角川書店》P200〜201

 
そう、講談も、そして怪談も、決して簡単なものではないのです。人物の描写を、言葉で、声で、表情で細かく伝えなければならない。
2017年のらぶフェスではメインを務め、最後の話を担当した青江。あの時の空気を塗り替える様も見事でしたが、今回は更にその上を行っていました。
ミュ本丸に於けるにっかり青江の懐の深さ、そして演者である荒木さんの表現力の幅広さ。その全てが高次元で重なり合い、誰も見たことがない化学反応を起こしている様は本当にすごかった。
この講談は、加州清光単騎、髭切膝丸双騎に並ぶ刀ミュの新たな挑戦だったと感じます。その瞬間を目撃できたのは幸せでした。

 
 

 

雨月物語について

「交は軽薄の人と結ぶことなかれ」
青江の講談はこんな戒めから始まります。軽薄なものは価値がなく、長続きもしないので交わるべきではない。それに対し、軽薄について納得しながらも、交わることへの羨望を語る青江。
隆起された付喪神として歴史を守るという役目を当たり前のようにこなしているけれど、彼らにも心があり、個々の考えがある。道具ではなく人の身を持って顕現した刀剣男士は生きている。そう感じる言葉の数々。
生きているけれど、交わることはできない。人との違いを理解しているから羨望を抱くのでしょう。
青江は線引きをはっきりする刀です。寄り添えるところと、分け合えないものを理解している。でもそれは決して諦めている訳ではなく、分け合えないものに触れてみたいという気持ちはあるんですよね。
心と現状を切り離せる理性を兼ね備えているだけで、冷徹という訳ではないんです。青江の語る物語にはそういった人間味があって惹き込まれるのだと思います。

 

さて、この講談で青江が語ったのは『菊花の約』……上田秋成の『雨月物語』に収録されている短編怪談です。
この雨月物語は江戸時代に出版された読本のひとつですが、怪談という括りを超えて各話の完成度が高く、近代文学作家である芥川龍之介谷崎潤一郎に影響を与えた作品です。
現代作家として有名な村上春樹も『海辺のカフカ』でこの雨月物語をモチーフとして取り入れていました。これについては『羊をめぐる冒険』から取り入れているという意見もあります。
そもそも村上春樹は幽霊や怪談を好み、上田秋成の作品を名作として挙げることもあるほどです。『七番目の男』という本格的な怪談も執筆しています。
日本の古典文学には数多く怪談が存在していますが、雨月物語はその中でも代表作とされているのです。

 

中国の白話小説(口語体の文学作品)をモチーフとしたこの雨月物語は、9つの怪奇短編集で、各話の一部要素がそれぞれ関連して円を描くような構造になっています。
また話中で怪異との邂逅シーンに差し掛かると雨と月に関する情景描写が差し込まれるのも特徴的です。
今回青江が語った『菊花の約』では、山の端に月が隠れる=闇が深まった場面で幽霊となった宗右衛門が左門の前に姿を現します。
これは完全に邪推なんですが、月にまつわる描写、というのが刀ミュの本編に関連してきそうな予感がしませんか……ねえ三日月宗近……。
今回は月が隠れた常闇での出来事なので直接関係があるというより、見守る月もない夜は彼岸に近くなるとか、そういう感じかもしれません。
この辺もらぶフェス2017の青江と繋がっているのかなと。だって、蒼然百物語は新月の夜に語られる仄暗い話」ですからね。月が出ていないんですよ。

 

 


重陽節句と白い菊

『菊花の約』に出てくる重陽節句は旧暦9月9日に定められた五節句の一つです。そも、節句とは中国の陰陽思想に基づいて設定された節目の日を指します。
陰陽思想では奇数を陽、偶数を陰とし、奇数が重なる日を節句としています。*1
特に9は旧暦の奇数の中でも最大値=陽の気が一番大きいと考えられており、「陽」が「重なる」として「重陽」の名がつけられました。
重陽節句は邪気払いの他に、長寿と健康を祈願していました。昔は五節句の中でも重陽節句が重要視されていたようです。
その重要な節目の日に必ず帰ると約束した宗右衛門。そしてそれを待つ左門は白菊を生け、薄酒を用意して兄の帰りを待ちます。帰ってきた兄と、互いの長寿を願うために、菊酒を交わしながら話をしたいと思っていたのでしょう。

 

菊は桜と並んで日本の国花とされていますが、元々は中国から伝わった薬用植物のひとつでした。
伝来時期については諸説ありますが、平安時代には既に定着していたとされます。鎌倉時代には後鳥羽上皇が菊をモチーフとした紋を身の回りのものに施し、後にそれが皇室の紋章(菊花紋章)とされたとも。
平安時代には「菊合」といって、左右二組に分かれて白菊を出し、それに歌をつけて競う遊びもありました。そうです、歌合とほぼ一緒です。
しかし、なぜ“白”菊なのでしょう?
古来の日本文化においては、「紅色」が美しく、「紫色」が高貴な色とされていました。聖徳太子が制定した冠位十二階の一番上は紫色ですし、『万葉集』で多く読まれた色は紅色です。
しかし平安時代以降は文化の変遷と共に派手な原色よりも、薄い色の方が重視されるようになります。特に白は美しく清浄な色とされ、女性の化粧(おしろい)にも使われるようになりました。
また、昔から「色」を作り出すために植物を染料として使っていましたが、この染料だけで純粋な白を作ることは大変難しいことでした。
そもそも「古事記」から白は赤・青・黒と並んで表記されていますし、白鹿や白猪など「神の使い」を表す色でもあります。こういったこともあって、白は希少価値が高いとされ、菊合などの行事でも使われるようになったのではないでしょうか。(自信はない)
今回の歌合で皆が身にまとう白狩衣もそうですね。狩衣は平安時代の朝廷制服でしたが、白狩衣は清浄を表す「浄衣」なので神事に参加するのであれば身分問わず身に着けることができます。これは嚴島神社の奉納公演でも同じでした。
付喪神である刀剣男士達が神事してる姿ってほんと……いいですよね……なんて美しいんだろう……。

 

 


♦刀剣男士と愛別離苦

「人一日に千里をゆくことあたはず 魂よく一日に千里をもゆく」
故郷で捕らわれの身をとなった宗右衛門は、左門との約束を果たすため、自害をして幽霊となり姿を現します。
大切な人との契りのために死をも厭わないその姿勢は、宗右衛門を捉えた人々の軽薄さを強調しながら、見る者の涙を誘います。
青江が語るこの物語で重要なのは、宗右衛門の魂が人魂の形を取らず、かつての宗右衛門の形を保っていたことにあります。
冒頭で青江が語る「人魂と幽霊の違い」を覚えていますでしょうか。
曰く、人魂は「彷徨い果てて形をなくした思念」ではなく「まだ何物にも染まっていない純粋な思念」であると。
曰く、幽霊は「執念深くこの世にしがみついた結果、【こうでありたかった姿】がはっきりしているモノ」であると。
宗右衛門は左門との約束を果たしたかった。約束を果たすことを己の使命とすら考えて自害を選んだ。その想いが、かつての宗右衛門の姿を作っている。
つまり、想いが強ければ強いほど姿かたちが隆起され、幽霊となる。この構造は刀剣男士の在り方に通ずるものがあります。
彼らは元が神なので幽霊にはなりませんが、強い想いに姿かたちを隆起される点は似通っています。
そして顕現したその形をこの世に留めているのは「歴史を守る使命を果たす」という彼ら自身の想い。
「守りたい」という想いが強くなればなるほど、その姿かたちがはっきりとして、特がついたり、修行に出て極になってくるのではないでしょうか。
また、刀剣男士たちは顕現したことで心を得て、その不安定さに戸惑う場面が多々あります。道具であった頃とは感じ方が段違いなので、その落差に追いつけないのです。


「心のこと。あまり無理をすると…壊れてしまうんだって」
これは三百年の子守唄で、使命と感情の間で揺れる物吉くんへ青江がかけた言葉です。
初めて得た心は柔らかく繊細で、いわば人魂に近い存在なのかもしれません。欲望が幼く、愚かで、純粋なのです。
かつての主を救いたい。歴史に殺された人を守りたい。「守りたい」という気持ちの純粋さ。けれど、その心に従えば使命を果たせない。
優先すべきはもちろん使命です。彼らはそのために存在している。ですが、人の身を得た以上、生まれた感情を無視し続ければ体より先に心が壊れてしまいます。そしてこの心は、どんなに辛くても手に入れてしまった以上、捨てることができない。
だから、自分の心に生まれた感情を、使命と照らし合わせてどう納得させるかが、彼らにとっては大きなテーマとなります。悩んで、苦しんで、でも諦めないで、最後に前を向いて自分の選択を誇れるように。
この辺は、四苦八苦のなかでいうなら愛別離苦に当てはまるのかなと。ミュ本丸の本筋とも繋がる気がします。
彼らも、そして幽霊も、同じ「思ひ(火)」に焼かれてこの世にいるのは変わりない。
最後の「うん、僕もそう思うよ」という青江の答えは、そんな自分たちの心を重ねていたんじゃないかなと感じます。

 

 

 

♦菊花輪舞から見る死生観

講話の最後に青江が歌う「菊花輪舞」はその名の通り、菊の花を輪に見立てている歌詞が印象的です。これは冒頭で書いた、『雨月物語』の各話の一部要素がそれぞれ関連している構造=円を描く構造と、『菊花の約』自体の序文と結びが繋がっているのをイメージしていると考えられます。
そして、ここにはもう一つの要素、人の生き死にを花に喩える仏教思想が込められているのでは?とも考えました。
花が種から芽を出し、茎をのばし、実を結ぶ(咲き誇る)様を人の一生と重ね合わせ、地道に成長を重ねた末に悟りを開くことを理想の一つとする仏教。
咲いた花が散って枯れていく様は人の死を連想させます。美しい花もいつかは散るように、生きているものはいつか死ぬ。これは仏教における無常観と通じています。
しかし、花は枯れた後に種を残すものです。そしてそこから再び芽が出て花が咲く。この繰り返しは、仏教の輪廻転生*2を思わせます。
仏教では人の生死と花の一生が深く結びついていると言っても良いでしょう。


「菊花輪舞 くるくる廻る
 菊花輪舞 散り散り契り
 咲き乱れよ 散り乱れよ」


ここで言う「咲き乱れる」ことは悟りを得るというよりも、本懐を遂げるという感じでしょうか。
花びらが重なり、渦のようにみえる菊花のごとく人の縁は廻り、交わり、契り、千切れていく。咲き誇った先にあるのは散りゆくさだめ。
約束を果たせず生きながらえるよりも、死んでも左門の元へ戻ることで宗右衛門は本懐を遂げて消えていきました。左門は悲しみのあまり一晩中泣き続けた、というところで青江の講談は終わります。
原作ではこの後、左門は宗右衛門の故郷まで出向き、領主に命じられ宗右衛門を捉えた者(宗右衛門の従兄弟)へ兄の誠実さを語り聞かせたのちに、その者を斬り殺し逃走します。仇討を果たすのです。
逃走した後の足取りまでは描かれていませんが、兄である宗右衛門を失った左門の本懐はこの仇討にあったのでしょう。
部下を殺された領主も、そこまでして約束を果たした宗右衛門と、兄の誠実さを想って仇討を果たした左門の絆の強さに感服し、左門を追うことはありませんでした。そして、「ああ、軽薄なものと交わりを結ぶべきではない」という言葉をこぼしたところで、物語が終わります。
「交は軽薄の人と結ぶことなかれ」という言葉で始まった物語は、「咨軽薄の人と交は結ぶべからず」という同じ意味を持つ言葉で終わるのです。
最初と最後が繋がることで物語が円を描く様は、美しくも物悲しいものがあります。

 

講談が終わり、歌を詠む直前。青江はこうも語ります。
「触れられぬものを恐れるよりも、この身に触れるものの毒をゆっくり味わいながら、惜別の喜びに身を任せるよ」
この「触れられぬもの」は恐らく「いつか来る別れ」を指しているのでしょう。会者定離。出逢いは別れの始まりという、愛別離苦に繋がる思想です。
「惜別の喜び」というのは矛盾した表現に聞こえますが、「別れを惜しむほど大切に思い合ったことを感じたい」とも取れます。
「思ひ(火)」に焼かれること。それが心を得た自分に許された「交わり」である、と。


火といえば、人魂は「火の玉」とも呼ばれます。火に和歌をくべることで神降ろしを行う歌合。ここで人魂が出てくるのにも意味があるのでしょう。
日本風俗史の基礎を築き、妖怪変化についても研究していた江馬務は著書『日本妖怪変化史』の中で以下のように人魂についてまとめています。

 

世の中には「天火」「地火」「人火」といって火に三種あり、「天火」は星精の飛火、竜の火、雷の火で、木を切り石をすりて出るを「地火」といい、人の魂の火はすなわち「人火」であるが、その火のなかに陽火と陰火とあり、陽火は物を焼くが、陰火は焼かない。

 

引用:江馬務「火の玉」 『日本妖怪変化史』 中央公論新社,1976年,p161

 
物を焼かない火である「人火」である人魂は、和歌をくべて神に届けるための「忌火」と対比されているようにも思えます。
講談の始まりは人魂が四つなのに、終わりには八つになってるんですよね。これは後に出てくる「八つの炎」を表しているのかもしれません。
更に言えば、タイトルと和歌にもある「夏虫」は「火や明かりに寄ってくる虫」という意味がありますが、「セミ」や「ホタル」の異名にもなっています。
「ホタル」って、死者の霊魂とも言われていますよね…。つまり、この「夏虫」……人魂のことでもあるのでは……青江が人魂に対して「いい子だ」っていうのは戯れてるから……?

 



♦余談~花から見る刀ミュ~

これは本当に余談なのですが、仏教と関係する花で一番重要視されているのは何だかご存知でしょうか。
答えは「蓮」です。
泥(不浄)の中から美しい花を咲かせる蓮は、極楽浄土に相応しい花とされています。多くの仏像が「蓮華座」と呼ばれる蓮の花の上に座っているのも、そういった思想に起因しているそうです。
この思想が色濃く出た言葉に、「一蓮托生」があります。これは死後、浄土で同じ蓮の花…蓮の台(うてな)の上に生まれよう、という意味を持ち、固い絆で結ばれた家族や友人・恋人と死後に浄土で逢い、一緒に暮らしたいという願いが込められています。
一つの蓮の台の半分を他の人に分け与える、という意味で「半座を分かつ」とも言います。
「半座分かつ 華のうてな」
この言葉が尚更重たいわけですけれど…………約束は守るさ……。


刀ミュって高い確率で花がモチーフとして出てきますよね。
阿津賀志山では花そのものというよりも、「矛盾という名の蕾」で歌われたように、刀剣男士たちが抱える心の矛盾自体を花に喩えていました。
幕末天狼傳は、メインとなるのは天狼星という星座ですが、主題歌である「ユメひとつ」に「徒花を咲かせたれ」という歌詞が登場します。徒花は実を結ばない花を指しますが、これは志半ばで散っていった新選組の面々を指していると考えられます。
三百年の子守唄でも、幼い信康がトリカブトを持ってきたりもしますし、メインテーマである「かざぐるま」も玩具である風車とカザグルマクレマチス)のダブルミーニングなんじゃないでしょうか。
そしてこの続きである葵咲本紀では、題名の通り葵の花が人物関係の描写に使われています。また、序盤で村正が信康と同じくトリカブトを持っていました。
つはものは言わずもがな、蓮の花。これは阿津賀志山の巴里公演でも取り入れられました。もう蓮の花が出てくるとしんどくて仕方ない。
むすはじでは花そのものではなく、植物が根をはり、葉を生い茂らせる様、そしてそれがいつか枯れてしまう無常を「倒れる終焉」で歌っています。こじつけっぽいけど関連してると思いたい。
刀剣男士たちが関わる、歴史上の人物。彼らの人間としての生き様を花に見立てているように思えるのです。*3

初見の時、一番衝撃的で印象に残ったのがこの青江の講談でした。すごかった。すごすぎて感想が蛇行に蛇行を重ねてしまった。
まだ中編の序盤なんですよね。どういうことなんだろう……。笑顔が一番だよ、最終的にはね……。

 

 

 

 

 

 

 

梅 the Way

 

梅の花折りてかざせる諸人は

今日の間は楽しくあるべし

万葉集・巻五 神司荒氏稲布)

訳:梅の花を手折って髪飾りにしている人々は、今日という一日を楽しんでいるに違いない。

 

 

 

 

♦桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿

出ました(個人的に)問題作。初見の時は「ちょっと明石ィ~!やめなよ~!」って感じだったんですけど、葵咲みてからそんなこと言えなくなりました。
この話はひとつ前の青江と構造が対照的になっています。青江が講談なら、明石は落語。講談は地の文を交えながら歴史や教訓を話し手が第三者として語りますが、落語は基本的に笑わせること目的としており、教訓よりもオチが重視されます。また、話し手が当事者となっているのも特徴的です。
そして落語の場合、掛け合いのひとつひとつに洒落が仕込まれています。今回の明石の話も至る所に仕掛けがあったんじゃないの?!という邪推がたくさん出てきちゃう。私が受け取れたのはそのほんの一部です。

 

話の主軸は「ミュ本丸の審神者が大事にしている梅の木」でした。梅の木は成長が早いことから、時期を見定めて枝を剪定しなければ伸び放題になってしまい、良い実がつかない植物です。
反対に桜の木は一度枝を伐ると花が咲かず、伐った箇所から木が腐り枯れてしまうこともあります。梅と桜は同じバラ科の植物でも、その育て方が違うため、特徴に合わせた世話をしなければなりません。
「桜伐る馬鹿梅伐らぬ馬鹿」というのは、それぞれの特性を無視した一方的なやり方を戒める諺です。
この梅の木、様々な考察で「歴史そのものを表しているんじゃないか」と話題でしたね。私も改めて見て、あーーーほんとだーーーーと色々繋がりました。
梅の木には枝が6本あって、明石達が折ってしまった枝は3本でした。まず、この6本は今まで修正してきた歴史(阿津賀志山・幕末・三百年・つはもの・むすはじ・葵咲)の数と同じです。
今剣が最初に折った枝は実際最初に明石が折ったものでしたが、これを省いて、「今剣が枝を1本折ってしまったが故にバランスが悪くなった梅の木を整えるために折った枝」が1本。これをまず今剣が関わった歴史分……つまり阿津賀志山の分とします。
次に、明石に言いくるめられて自ら枝を折ってしまった小狐丸。彼は「今剣が原因で折れた(と思わせている)2本の枝」も持たされます。このうち1本は明石の分として省きますが、前述した今剣の分と、今回自分で折った分、計2本。これを、小狐丸と、更に今剣が関わった阿津賀志山とつはものの分とします。
最後に、一番最初に明石が折ってしまった枝。これは明石が関わった歴史がまだ葵咲しかないので1本だけとします。
こう見ると小狐丸だけ枝を多く持っているように感じますが、最終的に今剣と共犯扱いになっていたので、二振りとも同じ本数を背負った……つまり阿津賀志山とつはものの2本としていいのでは?(残り1本は前述のように明石の葵咲分)というガバガバ計算式です。算数下手か?
そして、この折れた3本の枝とされる歴史すべてに三日月宗近が姿を見せている」んですよね。阿津賀志山とつはものはもちろんのこと、葵咲でも映像出演したじゃないですか。


ここ、明石達が囲んでいたのが桜の木だったら更に怖かったなあと。だって伐ったところから腐ってしまうんですよ。梅は伐った枝から更に小枝を伸ばすので、枝ぶりが良くなって立派な花や実をつけるんです。折ってしまった梅の枝の断面から新たな枝が伸びる可能性があるなら、取り返しがもうつかない訳じゃない。
きっと三日月宗近が表立って関わったこの歴史は、折れた枝(彼の暗躍によって変わった歴史)の断面から更に小枝が広がり、様々な可能性に分岐していくんじゃないでしょうか。
でも明石はこの梅の木自体を伐ることを提案したんですよ……「あったかもしれない」という可能性・分岐が多くなる歴史を消す。なぜ明石がこう考えたのかは、やはり葵咲での篭手切くんとのやり取りに詰まってるのかなと思います。

 

 

 

♦梅は伐れ、桜は伐るな

明石は葵咲で、堕ちた同胞を救おうとする篭手切くんの行動に対し、厳しい言葉を投げかけていました。
「全てを救えないなら、誰も救えてないのと同じだ」
同胞が堕ちた時間遡行軍と、刀剣男士。それらの違いを問うた時、篭手切くんは「違いはない」と答えました。違いはないのに同胞だけを助けるという篭手切くんの矛盾を明石は受けいれられなかった。
明石が何故ああも三日月宗近の所業に目くじらを立てるのか。それは人が創り上げてきた歴史の流れが、一振りの力では変わらないほど強大だからでしょう。どんなに「あり得たかもしれない分岐」を選んでも、どこかで矛盾が発生して歴史が変わり、違うところで苦しむ結果が生まれる。
そうなれば「歴史を守る」という刀剣男士たちの使命、存在意義を裏切ることになる。政府に目を付けられ、本丸が解体される恐れだってある。そのリスクを冒してまで歴史に介入した三日月宗近は、最後までその責任を取れるのか。明石の言動はそういった猜疑心の表れなのではないかなと……。
3本の枝が折れた梅の木(三日月宗近が大きく関わった3つの歴史の比喩)を見て「バランスが悪い」と言ったのは、「全てを救えていない」ことに対する皮肉にもなっているのでは?という邪推もできます。
「バランスが悪い」梅の木(歴史)を、同じ三条である今剣と小狐丸に伐らせるの、めちゃくちゃ怖いんですけど。しかもこの二振りは三日月宗近が一番動き回ったことがわかる、つはものを経ているからこそ。

 

まあ結局は「こんな梅の木はなかった」から「こんな話はなかった」という妄想オチで終わるのですが、それもそれで恐ろしい。
だって明石の語ったこの話は、いつか有り得た歴史かもしれないんですよ。歴史がなかったことにされたようなものでしょう。考えすぎなのはわかっていますが……この先、新作にこの話がどう関わっていくのかと思うと気が気じゃありません。

 

 

 

♦梅花歌と令和

さて、ところで新元号である「令和」の名が、万葉集巻五に収録されている「梅花歌三十二首并序」に由来すると言われているのをご存知でしょうか。*4

「初春の令月にして、気淑よく風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す」

この中の令月と風和から文字が使われて、「令和」という元号が作られたそうです。令月とは旧暦2月、新春の頃を指します。
他にも「嘉辰令月」というように、何をするにも良い月・めでたい月とも言われます。風和は「穏やかな風」といった意味合いです。
「梅花歌三十二首」とは、奈良時代大伴旅人が開いた「梅花の宴」というイベントで詠まれた三十二首の歌を纏めたものです。ここに大伴旅人自身が付け足した序文(上記)が元号を決めるときに使われた形になります。
当時、梅は中国から渡来した珍しい植物の一つだったので、選ばれた人しか栽培・観賞することができませんでした。そんな貴重な植物を皆で囲んで宴を開き、咲き誇る梅花の美しさを歌に残したのが「梅花三十二首」。そして今回明石の話で詠まれた歌も、この「梅花三十二首」に入っているんですよね。
……歴史そのものと思われる梅の木が題材とされる話で、私たちの歴史に刻まれた新たな元号に関わる歌を詠むって、どういう思考回路で辿り着くんですかね…???昼目の歌の時も思いましたが、控えめに言ってすごくないですか??
あとあんなに三日月宗近のやり口を好いていない明石がメインの話で、間接的とはいえ「月」が関わっているのもこう、因果…!!となります。

 

 

 

♦青江と明石の対比

ここまで梅の話で持ちきりでしたが、最後は対比の話を。
冒頭で書いたように、この明石の話、つまり落語は一つ前の青江の講談と対比されています。講和と落語、菊の花と梅の花、過去と現在。様々な要素が対になっているように感じますが、これって実は歌合だけの話じゃないんですよね。
青江と明石の二振りは三百年と葵咲で既に対比されていたんだな…と今気づいた話なんですけど。


明石は葵咲で「戦争は互いの正義のぶつかり合いであり、勝った方が正義の中の正義となるが、負けた方はいつだって悪者になるもの」だと語っていました。そしてこの単純さは、心が壊れないために必要なものだと。
戦争が孕む矛盾を直視してしまえば、心が壊れてしまう。無理をしすぎてしまうから。これ、三百年で青江が物吉くんに言った言葉と根底は同じだと感じます。
でも青江の場合は心に生まれた矛盾を「刀剣男士だから」という理由だけで納得しようとした物吉くんを諫め、逆に明石はその矛盾を割り切らずに「同じ(同派という意味も込めて)付喪神だから」という理由で堕ちた同胞を救おうとした篭手切くんを批判しました。
心が壊れやすいことを知っているけど、二振りの考え方や行動には大きな違いがあります。矛盾に寄り添うか、割り切るか。明石の場合は来派の兄刀なので、お兄ちゃんが弟の無謀さを叱るみたいな感覚(現実を教える役目)もあったのかもしれません。
あと、「物語の行末を見守ろう」と劇中で口にするのもこの二振りは共通しているなと。心に何かを抱える刀に気付いて、そこに踏み込む役目も含めて。飄々としながらよく見ているんですよね。*5
実装されたばかりなのに、ほぼ一振りで数十分の舞台を回すのもらぶフェス2017の青江っぽいですよね。あの青江の話も出てきたのは三振りだったなあ…。


唯一違うのは、明石の話だけ歌がないこと。想いが言葉から歌になるこの本丸で、明石だけが歌を唄わなかったんです。つまり明石は話の中で自分の想い=本心を語っていない。
これにどういう意味があるのか……また怖い話になってきたのでこの辺で締めます。明石、底が知れないにも程がありまくる。

 

 

 

 

 

 

 

ライブパート其の二

えー、前編でも言ったんですが、初見時の記憶がほとんど前編ライブパートで消えてるのでまるで初めて見たような感想になります。
なおライブパートの感想は語彙力を溶かして書いてるので、アホなこと言ってても笑いながら聞き流してやってください。よろしくお願いします。

 

 

 

♦Brand New Sky

むすはじ組なかよしすぎ尊いんじゃ〜^^^^^^^^^出だしの長曽根さんの日替わりセリフがもーーーー絆アピールすぎてペンライト握り潰しそうになりました。
これ後方ステージから正面ステージに走る速度半端ねえなと思うんですけど皆股下が長いから3歩くらいで辿り着いてますよね????
この曲の爽やかさで全時間遡行軍が青空に浮かんで消えていく。私には見える。最終回とかでよくあるあれ。青空に散っていった仲間の面影が見えるやつ。時間遡行軍……いい奴だったよ……。
歌合で全員揃ってるチームって幕末とむすはじだけだったのもあって、このメンバーの安定感と信頼感といったらなかったですね…。めっちゃ楽しそうだしサビの「大切な仲間が出来た」のとこで肩組み合うのも眩しすぎて砂になりました。
は〜〜兼さん♡♡地球跨いで♡♡♡って団扇作って掲げたい。地球も喜ぶ。絶対喜ぶ。
あと間奏の巴なんなんですかあれは???!?!?!セーラーマーキュリーじゃん!!!!!!!!!巴はセーラー戦士だった…????
安定のアクロバットと巴のセーラーマーキュリーが合わさる画面の強さといったらない。すっごい楽しそうなむっちゃんで無事にTHE END.....

 

 

 

♦Nameless Fighter

イントロと同時に会場が赤と紺に染まった瞬間鳥肌立ちました。もうほんと、この曲を、大倶利伽羅と青江でやってくれたの感謝しかないんですよ…初見の記憶はまるでないので三百年を摂取した後の感想になるんですけど…。
三百年初演とらぶフェス2017で財木さんの大倶利伽羅が披露したこの曲を、再演で2代目大倶利伽羅を演じた牧島くんがやること。これってめちゃくちゃ緊張するし重荷にもなるし、大きな挑戦でもあったと思います。
それでも堂々と、大倶利伽羅として青江と背中を預けあって歌い切った牧島くん…まじですごかった…気合の入りようが伝わってきた…。
この曲、三百年の大倶利伽羅にとって大切な曲だと思っていて。誰かを守りたい、とか、守れなかった痛みを知ったからこそ得られる強さとか、そういう想いが沢山詰まっているので、再演を経た大倶利伽羅が歌ってくれたのが嬉しすぎて赤と紺のペンライトあほみたいに握り締めて感動していました。
青江も青江で、最初の頃とはまた違う余裕みたいなのがあって、しっかり大倶利伽羅を支えて時にはリードしていて、あ、荒木さんの懐の深さーーーー!!!!!ってなりました……。
あと後ろ髪触るタイミングis完璧。あんな素敵な笑顔で「君だけのヒーロー」なんて言われたら泣くしかない。名もなきファイターかっこよすぎる……。
三百年の曲のなかでもすっごい好きな曲なので、リアルタイムで聴けたのも嬉しかったです。この曲を歌合でやろうと決めた方々と歌ってくれた二振り……圧倒的感謝……ッッッ…!!!ボロボロの羽を目一杯広げてくれてありがとう……。
 

 

 

♦約束の空

大好きです。メロディも歌詞もメンバーも。
これは個人的なエモポイントなんですけど、構成メンバーがあまりにも完璧だったんですね。葵咲で実装された鶴丸、明石、御手杵、篭手切くんに加えて、村正と蜻蛉切の代わりに堀川くんと物吉くんが入っていて。
堀川くんは村正派の歌唱力担当。これはよくわかる。なんていったって堀川くんなので。
物吉くんです。物吉くんがいるのがめっちゃくちゃエモかった。村正と蜻蛉切との繋がりを感じて三百年推しの審神者は静かに泣きました。


三百年で村正派と共に家康に仕えた物吉くん。彼はあの話の要でした。徳川家康の一生を知っていたから、彼を中心に子育てができた。
劇中でも、本多忠勝になりきれない蜻蛉切を激励したり、家康と信康に笑顔を教えたり、その最期を看取ったりと大活躍でした。
葵咲でも姿こそ見えないものの、大きな役割を担っていたと感じます。村正は最初、家康が物吉くん扮する鳥居元忠が死ぬことになる伏見城に残したことを怒っていました。正しい歴史の流れとはいえ、仲間を見殺しにするような真似が許せなかったから。
でもその死の報せを耳にした家康は涙を流しながら笑うんですよ。「すまんのう、元忠。すまんのう」と謝りながら、最後まで元忠…つまり物吉くんが教えた「どんな時も笑顔ですよ!」という言葉を守って。「うまく笑えているかのう」と問いかけながら。
それを眺めていた村正は切ないような、驚いたような表情で目を伏せていました。家康は元忠を見捨てたのではなかったと気づいたからです。


三百年でも、葵咲でも、最期まで笑っていた家康の心を支えたのは、「不幸のどん底のような人生でも幸運を信じた家康の想いを受け止め続けた物吉貞宗」が扮した元忠の言葉だった。これがなければ葵咲本紀という題名は成り立ちませんでした。それくらい物吉くんの存在は大きかったんです。
そんな物吉くんが村正と蜻蛉切のポジションを担うようにこの歌を唄ってる様が嬉しくて仕方ありませんでした。
ていうかこの、Nameless Fighterからの約束の空の流れもずるくないですか!!!!!三百年からの葵咲っていうのがビシバシ伝わってくる……ハァッハァッ……。


それから間奏のダンスパートもエモかったんですけどあの!!!葵咲で蜻蛉切が立ってたポジションに御手杵が立っていて!!!!あーーーっお客様困りますお客様槍槍槍槍---ッッッ!!!
御手杵が来たことによって槍同士が対角線上に置かれるポジションとかが多くてすごい滾ります。体格のいい槍を!!左右に置いてくださり!!誠にありがとうございます!!!!
村正派も槍も好きなのでこう……おいしいところがいっぱいあってありがてえ限りなんですよね……葵咲での槍の連携技とか……こういうポジショニングとか……。
あと単純に御手杵のスタイルが良すぎて真ん中に立つとしなやかな美しさが最大限に発揮されてしまうんですね。脚が長すぎるからまた世界一周しちまったぜ。蜻蛉切のずっしりとした存在感とはまた違った魅力が開花している。
これが独自解釈で感動&興奮する審神者の図です御覧ください。あとはやく約束の空の音源が欲しいです。葵咲のCD心待ちにしています。

 

 

 

前進か死か 〜スットコドッコイ物部珍道中〜

副題は勝手につけました。
いっぱい鯛を持ってきてくれる時間遡行軍さんvs物部2人の切実な攻防戦……手に汗を握りましたね……。
貞愛が面白すぎてずっと笑ってました。信康に対してあんなに弟として振舞ってるのに、父上に対する塩対応面白すぎてだめだった。この竹を割ったような貞愛の性格、愛おしくて仕方ないです。
前進か死か」も好きです。「嗅ぎ分けろ」の振り付けめちゃくちゃかっこよくないですか……あと最後に貞愛が後ろ髪をサラっとするのも良かった……色気……。
ラスサビの「だがいいか 忘れるな」のところ父上が歌う演出も良かったです。説得力すごい。この歌の歌詞も曲もいい感じに泥臭くて好きなんですよーーーわかりますかね、この…eastern youthとかTheピーズっぽさ…!!!!唐突に捻じ込む邦楽ロック!!!
あと葵咲はアーカイブで見た勢なので貞愛と秀康がしっかり双子の姿を見られたのも嬉しかったです(加古さんの秀康も狂気振り切ってて好きでした)おかえりなさい…!!!!
しかし「三日月殿から聞いた話じゃ!父上は鯛の天ぷらにあたってお亡くなりになったと…!」ってさらっと信康が言ってるけど三日月宗近はどこまで歴史を教えてるんですかねえ??!!!
これから先も物部は増えていくんでしょうか。エノミュならぬ物部ミュもあっていいと思います。信康の吹き矢が炸裂するやつ。通りすがりの裸のおじさん直伝なんでしょうね…。

 

あとこの徳川家のターンの前に大俱利伽羅の畑仕事シーン(と言っていいかどうかはわからない)があるのもいいですよね。朝早く起きて肥料を土に混ぜていたんだってね……よく見てるよむっちゃん……気づいてくれてありがとう……。
土がよくなり、作物が大きく育てばみんながお腹いっぱいになる。「腹が減って戦をする人たちが居なくなれば天下は泰平になる」と信じた信康(吾平ドン)の理想に近いのがもう……。
きっと大俱利伽羅の手にも農作業の跡がついている。それを見たら吾平はどんな顔をするでしょう。きっとすごく嬉しいんじゃないかな。
信康ーーー!!!!吾平ーーーー!!!!!!いつかみてくれこの畑をーーー!!!!!!
ハイヒールで畑仕事する巴も好きだよ。かわいいね。

 

 

 

 

 

 

幕間

ここまで全速力で駆けてきたんですけど文字数えぐいことになってますね。ひとつ掘り下げると他にも繋がりが見えてどんどん穴を広げてしまう癖があるのがよくわかります。まとめる能力が低い!!!!
最初に言ったように自分が楽しいからやっているんですけども!!!

 

そして長々と書いているうちに新作の詳細が発表されてしまいましたね……パライソ……島原の乱ではないかという話を聞いていまから怯えています。だって絶対つらいやつじゃん……。
静かの海で月に手が届くのでしょうか。鶴丸、はやく三日月宗近と出会ってくれ……と祈らずにはいられない。
あと歴史上キャストにハイパー殺陣上手すごすぎ役者の中村誠治郎さんがでると聞いて、舞BASAから2.5に入った私は無事に討ち死にしました。おいおいおいおいまじか。あの石田三成だったせいじろさんが刀ミュくんに出るのか???!!!!
どうせならめちゃくちゃ殺陣多い演出を期待します。本当にすごいんですよ。BASARAのトンデモ技を表現できてしまう上に納刀アクションがゲームに逆輸入された人です。よろしくお願いします。
中村誠治郎vs刀剣男士とかになったら刀剣男士の方がやばそうなのでお守り必須にしてください。それか極になってから対決してください。

 
今回も好き勝手な考察と感想にお付き合い頂き、ありがとうございました。
では後編でお逢いしましょう。

 

後編はこちら

mugs.hateblo.jp

 

 

*1:1月1日だけは元日なので例外として1月7日になっています。

*2:輪廻転生は、六道と呼ばれる六つの世界の中のどれか一つに生まれ、死んだらまたそのうちのどれかに生れ落ちて……と回り続ける車輪のように生死を繰り返すことです。

*3:生き様は花だけど、家族に関わることは雁が多いなあとも思います。三百年の竹千代とか、双騎の一万と筥王とか。偶然だろうけど……。

*4:国文学研究資料館(最終閲覧日:2020年2月9日)― https://www.nijl.ac.jp/koten/kokubun1000/1000aida.html

*5:そういう話だとつはものの兄者もそうなんですけど…あれは見ているというよりもう直感に近いなって…。