問わず語りという名の合わせ出汁~東京心覚の考察と感想~
お久しぶりの方も初めましての方もこんにちは。
前回の歌合の考察からはや1年、更新滞りまくりでしたがしっかり楽しんでおりました。
本当はステの感想とか歌合の再考察とか、なんなら音曲祭の考察とかを先に書くべきなのかもしれませんが、今回はどうしても東京心覚の感想が書きたくて筆を執りました。
なお、この考察は文字通りの問わず語りであり、初日公演の配信しか見ていない状態で書いたものになります。
アーカイブ配信後にもっと解像度を高めてアップしようか迷ったのですが、そうなるといつ書き終わるかわからないので、この時点での捉え方を記そうと思った次第です。
当然ながらネタバレしまくりなので、ネタバレ拒否の場合はそっとタブを閉じていただければ幸いです。
一部ふせったーに投稿した内容も加筆修正して入れています。
はじめに
今回の新作『東京心覚』を見て感じたのは、敢えて明確な答えを避けている、ということです。
物語の中でわかりやすく答えを描くことは可能ですし、それを起承転結に組み込むことでもちろん盛り上がりが生まれます。
だけど、今回彼らはそうしませんでした。
それどころか、時間軸が入り組んでいたり、抽象的な表現が多かったりと混乱するポイントが多く盛り込まれました。
それはなぜか?自分なりに考えました。
受け取り手、つまりは観客である我々に想像力を働かせ、各々の中に納得できる答えを探してほしいと思ったのではないでしょうか。
近年はインターネット文化が発達していて、疑問が生まれても検索すればたいていの答えを得ることができます。
SNSは集合知の面もあり、自分が知らなかったことを知っている人が大勢います。
自分が知らなくても誰かが答えを教えてくれる状況が当たり前になっているのです。
それは一種の思考停止にも近いのですが、当たり前になってしまうと危機感すら生まれません。
最近流行の曲はイントロがないという話をよく耳にします。
ストリーミング配信が主流となったことでイントロが長いと聞かない人が多くなったため、サビや歌入りを手前に持ってくることでヒットを狙う手法だそうです。
サビや印象的な歌詞という答えがすぐ用意されていないと、聞くことに飽きてしまう・疲れてしまう人が増えたという意味にもとれます。
これは近年の芸術作品に共通したもので、疑問を残す物語よりも答えが示される物語の方が好まれる傾向があると私は感じています。
答えがある物語は見ていて気持ちがいいし、なにより頭を働かせる必要がないので疲れません。
話が変わりますが、刀ミュの物語は秘伝の継ぎ足しダレみたいだなという話を歌合の感想のときにしました。
継ぎ足しダレは美味しいです。
「美味しいものに美味しい要素を入れると更に味が深まって美味しくなる」という素晴らしいサイクルを持っています。
今までの刀ミュはそういう物語が繋がって、どんどんタレの味を濃くしていた印象があります。
でも、今回は違いました。
タレの味は時々するのですが、どうも口にしてみると味が薄いのです。
この味の薄さに「あれ?」と思う審神者の方も多かったのではないでしょうか。
しかもつい最近まで音曲祭という特濃の継ぎ足しダレを味わっていたので尚更そう感じたと思います。
私も最初はそう感じていました。今回はずいぶん味が薄いなあ、と。
でもこれは別に味が薄かったわけではなくて、味が染み出している最中だったんですね。
具体的にいうと、今回のメインは継ぎ足しダレではなく、新しい出汁だったんです。
しかも鰹と昆布の合わせ出汁。
さらにいえば、物語の終幕時点でまだ削り節が濾されてないやつ。
何言ってんだこいつ…ってなったら合わせ出汁の取り方をご覧ください。
おわかりいただけただでしょうか。
出汁はすぐ味が出ないんですよ。昆布1時間つけてから弱火で沸騰させるんです。
火を止めた後に削り節を入れて待たなきゃいけないし、なんなら最後はサラシとかで濾す必要があるんです。
何が言いたいかというと、今回出された物語はこの合わせ出汁を取っている最中であって、濾すのは観客の役割だということ。
今回の物語が「わからない」のは当たり前です。
でも「わからないから面白くない」と思考停止しないで、考えて欲しい。想像力を働かせて欲しい。
それはひどく疲れることかもしれません。
でも、あなたが口にしたその合わせ出汁の削り節を濾せるのは、あなたしか居ません。
そんなメッセージを受け取ったがゆえにこの感想を書いています。
例え方がひどくて申し訳ありません。
自分で削り節を濾すためにいろんなことをしていたら、美味しい出汁が出てきたのでここに置いておきます。
これは正解ではなく、私が濾した東京心覚という名の合わせ出汁です。
お口に合う方・合わない方、それぞれ居らっしゃると思いますが、もし興味があればお付き合いください。
なぜ今回の出陣は彼らだったのか?
刀ミュで出陣する刀剣男士たちは、一見ばらばらに見えてどこか繋がっていることがあります。
今回出陣した彼らの共通点や、なぜ彼らが選ばれたのかを考えてみました。
各刀剣男士の簡単な来歴
豊前江
かつて伝来した豊前国小倉藩の小笠原家初代当主:小笠原忠真の正室(円照院)が徳川家康の養女であり、本多忠政の次女。
本多忠勝は祖父にあたる。なお、円照院の母(熊姫)は松平信康の次女だった。
現在は行方不明。実存しているかわからない・存在があやふやな刀。
桑名江
かつての主が本多忠政。蜻蛉切と同じく本多家に伝来。
元々は農家の神棚に飾られていた刀。朝5時に畑に集合する。
村雲江
豊臣秀吉から前田家→徳川将軍家(綱吉)に伝来。綱吉の代では五月雨江と過ごしている。
いっとき二束三文で売りに出されていたことや、柳沢吉保が後世では悪者として描かれていることが性格に色濃く出ている。
五月雨江
黒田長政から徳川将軍家(秀忠)→前田家→徳川将軍家(綱吉)と伝来。綱吉の代で村雲江と過ごす。
その後、尾張や将軍家の間を行き来した。
刀剣乱舞では名を詠んでくれた松尾芭蕉へのリスペクトがすごい。忍者。
「ここで一句」が自然にできる歌心を持つ。兼さんと岩融と俳句バトルしよう。
足利将軍家から豊臣秀吉→前田家へ形見分けされた天下五剣の一振り。
形見分けの際は二代目将軍秀忠を介したという説もある。
いずれにせよ病の治癒祈願をもとに前田家へ渡った刀。富田江、北野江とも関わりがある。
保管されていた蔵の上に烏すら留まらない・とまった烏が死んでいたという伝承がある。
この烏止まらずの蔵は前田家江戸藩邸にあったともいわれている。
注連縄をかけて保管されていたから足が紐で繋がっているのに何故か殺陣ができる謎スペック。
天下五剣たるもの蔵から出たらボイパもできる。
ソハヤノツルキ
源頼朝?→御宿家?→徳川家康と伝来し、家康の遺刀となった(家康以前は明確ではない)
無銘の刀ではあるものの「妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ」の切付銘があり、三池大典太作とされている。大典太光世とは兄弟。
家康の「不穏な動きをする西国へ切っ先を向けて久能山へ納めるように」という遺言に従って久能山東照宮へ納められた。
此御刀は御在世最御鐘愛品にて数度の御陣中はさらなり
常に御身を離し給はず夜は御枕刀となし給ひ終に今はの御際遺命ありて永世の鎮護と久能山に納め給ふ
今作では陽キャに見えるが大典太光世のボケを受け止め切る常識刀。
江戸三作の刀工のひとり、源清麿が打ったとされる刀の集合体。
特命調査では放棄された天保江戸の修正任務にあたっていた。
源清麿は別名四谷正宗とも呼ばれており、特命調査では彼が戻って来られるように水心子が懸命に正しい江戸の歴史を守ろうとしていた。
水心子とは親友。関東大震災後は源清麿の墓の隣に水心子正秀の墓が越してきた。
源清麿の打った刀は新々刀の中でもかなり人気があったとされる。
水心子正秀
江戸三作の刀工のひとり、水心子正秀が打ったとされる刀の集合体。
水心子正秀は新々刀の祖と呼ばれ、古刀復古を唱えていた刀工。
江戸末期に失われかけていた鍛刀技術を収集し、多くの弟子に伝授した。
「太平の世に慣らされきった刀剣を、本来あるべき姿に戻すべく生み出された刀」という台詞はこういった背景からきていると思われる。
清麿と同じく特命調査では天保江戸の修正任務を担当。清麿とは親友。
こうしてみると、徳川家繋がり+刀の時代(江戸)が終わるころに出来た新しい刀たちという繋がりがあります。
江戸の初期から徳川に関わり、様々な場所で人を見守っていた刀たち。
江戸の末期にかつての刀剣を想って作られた刀たち。
彼らなりに、いまの東京を形作った江戸を見ていたから選ばれたのかもしれません。
水心子正秀が主役だった理由
今回はいつもより2振り多い8振りでの出陣。その中でも水心子正秀の活躍はめざましいものがありました。
しかし何故この8振りの中で水心子正秀がメインだったのでしょうか。
今回がいつもの出陣と違うのは、各団体(うまい言い方が思いつかない)の繋がりが濃いという面にもあると思います。
具体的にいうと、
こんな感じ。
ここまで多くの団体が編成されるのも珍しい気がします。
これまでは、大勢の団体に一振りとか、兄弟刀が1~2組とかそういう感じでした。
同派といえば三条がぱっと思い浮かびます。
兄弟、つまりは家族。これは虎徹三兄弟や、村正派もそうですね。
兼さんと堀川くんみたいな相棒という関係性もありました。沖田組はのら猫2匹。
でも、親友という関係性は初出のような気がしないでしょうか。
同派でも兄弟でも相棒でもなく、親友。唯一無二の友。
友という言葉を口にする刀は居ます。
三日月宗近です。
彼は歴史の中で悲しい役割を背負った人間を、友と呼びました。
そしてその友の一部は「物部」となり、彼が携わった歴史をひそかに支えています。
でも三日月宗近は同派の刀を友とは呼びません。
今のところ、彼の「友」という言葉は人間に向けられています。*2
今作では初めて互いを「友」と認める新たな刀が登場しました。
それが新々刀。
そして水心子正秀はそんな新々刀の祖であり、「太平の世に慣らされきった刀剣を、本来あるべき姿に戻すべく生み出された刀」。
彼は刀剣男士であることに誇りを持ち、自分たちが刀剣である意味を理解しています。*3
そしてなによりも、人と刀剣男士の違いについて明言*4している刀でもあるのです。
「悲しみに寄り添いすぎると引きずられる」というのは今作の平将門公の台詞です。
【悲しみ】は【愛しみ】とも書くことができます。
【悲しい役割を背負った人間】への【愛】を持ちすぎたことで【悲しみ】が生まれ、寄り添おうとする。
悲しみに寄り添いすぎることで、人と刀剣男士との境界線が曖昧となり、【機能】という名の【呪い】と化してしまったのが三日月宗近だとしたら?
人と刀剣男士の境界線を見極め、刀剣男士の誇りと己の責務を全うしようとする水心子正秀。
三日月宗近が一振りで「友」を救おうと暗躍した歴史に生まれた歪みを、彼は「友」と共に解決しようと奔走した。
うまく言えないのですが、三日月宗近の呪いを軽減させた存在が「唯一無二の友」を持つ刀だったことに意味があるのかなと感じています。
さらにいえば、水心子正秀と源清麿は刀工にまつわる逸話に霊的要素が調べる限り一切ないんですよね。
三条宗近は小鍛冶にある通り、稲荷明神の力を借りて小狐丸を打ったりしていますし、三条の刀たちも霊的な役割や力を持っています。
それに対して新々刀は、失われかけていた刀剣の技術を復古させるため、人の力で作り出された存在。
こういうところも三日月宗近と対比されているのかなと感じています。
他の刀の関係性もちゃんと意味がある
親友という関係性の他に、同派や兄弟といった「互いを頼り、助け合う存在」を持つ刀たちが今作の任務にあたったことも意味があると思っています。
大典太光世は蔵に仕舞われていたということをコンプレックスに感じていますが、ソハヤノツルキはそれを気にする様子がありません。
時々発する大典太光世なりのボケもしっかり拾って時には諌めていましたし、ソハヤノツルキ自身も大典太光世と行動することで冷静さを保っていられる場面がありました。
江の面々は特に村雲江と五月雨江の関係性がそうですよね。
「あめさん」「くもさん」と呼び合う彼ら。村雲江は五月雨江と居るときに安心感を得ています。
豊前江は五月雨江の代わりに汚れ仕事を請け負い、桑名江は村雲江も必要な存在だと語り掛けた。
江は「郷義弘作と思われる刀」の集まりで、他の同派とはまた違った特徴を持っています。
それでも互いの存在があるから前を向ける、強く在れるという姿勢は変わりません。
一振りではできないことも、だれかと共にならやり遂げることができる。
一振りで暗躍する三日月宗近が彼らに言葉を向けたのは、自分にはできないことが出来ると判断したからかもしれません。
これまでの物語と今作の繋がり
今回は異色の作品ではありますが、これまでの刀ミュ本丸が携わってきた歴史との繋がりがないわけではありません。
これまでの物語が今作とどう繋がっているのかを考察しました。
今作の立ち位置
まず、これまでの物語が刀剣にとってどういうものだったのかを整理します。
- 阿津賀志山・つはもの → 鎌倉時代=武士政権の誕生
- みほとせ・葵咲 → 戦国時代から江戸時代=武士の世から泰平の世へ
- 天狼傳・むすはじ → 江戸時代末期から明治時代=刀の時代の終焉
このように、刀が重宝され始めた時代から、銃や大砲の登場で刀が使われなくなる時代までを描いてきました。
今作、『東京心覚』でメインになったのは新々刀の祖である水心子正秀。
彼は江戸時代末期に失われかけていた「戦うための刀を作る技術」を復古するために心血を注いだ刀工によって作られた刀です。
刀の役目が終わりゆく時代に生み出され、「銃ではなく刀剣であることに意味がある」ことを理解し、「太平の世に慣らされた刀剣をあるべき姿に戻す」ための存在。
この「太平の世」は普通に考えれば江戸時代を指していることにはなるのですが、大きな戦争がおこらない現代も含んでいるとすれば、彼は刀の時代の終焉の先を担うべく生み出された存在ともいえます。
つまり、今作はこれまでの物語の先を描いている、刀ミュ本丸の新たな一歩と呼べるのではないでしょうか。
パライソがどんな感じなのかまだわからないので断言はできませんが……。
ただ、三日月宗近が新々刀へ「これまでとこれからを繋ぐ刀となれ」と告げたのは、きっとこういうことなんだろうなと解釈しています。
歴史上の人物とこれまでの物語
今作に出てくる歴史上の人物が江戸の設計に関わっているのは調べればわかるのですが、これまでの歴史とも関わっているのでは?!と思って調べました。
ざっと調べた結果はこのような感じです。
- 平将門 → 源氏が名を挙げるきっかけとなった(平将門の乱)=阿津賀志山・つはもの
- 天海 → 長年徳川幕府を支え江戸の街の設計に宗教的な面で携わった=みほとせ・葵咲
- 勝海舟 → 戊辰戦争の際、江戸城無血開城を成し遂げ江戸の街を守った=天狼傳・むすはじ
- 太田道灌 → 歌人としても優れ、死ぬ間際にも歌を詠んだことで有名=歌合
つまりどういうことなのか、詳細は以下に。
平将門
平将門の乱が起こったことによって
が出来ました。
つまり阿津賀志山とつはものに深く関わる人物を産むきっかけを作ったといえます。
武家政権、つまり武士が時代を動かすきっかけも同時に作っています。
将門公がいなければ源氏は歴史上で名を挙げることはなく、鎌倉幕府が生まれることもなかったのでは?
そう考えるとかなり重要な役割を担っています。
でもこれは敗北が決まった役割。つまりは「悲しい役割」です。
刀剣が重宝されるために必要な歴史ではありつつも、三日月宗近は怨霊と呼ばれるほど強い想いを抱いて散った将門公を見過ごせなかったのではないかなと。
彼と三日月宗近の関わりについては今後描かれることを期待します。
なお、彼が朝敵となったのは横暴な政治を行っていた国司や朝廷に対する東国の民の悲鳴を聞き届けたためといわれています。
つまり、将門公は名もなき民草たちの声を聞いて立ち上がった存在でもあります。
彼はは既に三日月宗近と接触しており、水心子正秀が来ることも知っていました。
水心子正秀の問いかけに対しての答えは「惚れた女のため」
将門公の正室や側室については諸説ありますが、今作では桔梗の花について触れられたため、この「惚れた女」とは桔梗の前だと思われます。
寵姫のなかでも取り分け気に入られていたましたが、俵藤太秀郷と内通し将門公の秘密を伝えたため将門公討ち取られ、自身も悲惨な最期を遂げるという「悲しい役割」を背負った女性です。
桔梗の前に関する伝説も諸説あるため、「あったかもしれない」という幾重にも分かれたルートを辿ることが出来る歴史のひとつ。刀ミュ本丸と相性が良さそうです。
天海
とにかく長生き。なんと享年108歳。
人間百年生きれば付喪神って言われてたけど、この人はほんとにそうかもしれないレベルです。
そんな天海ですが、今作で「三百年の子守唄」という台詞を口にしています。
これは今作の中でも珍しくわかりやすい繋がりを示すポイントなのですが、その台詞をなぜ天海が紡ぐのでしょうか。
個人的には、
- 家康は自らの葬儀や神号について天海に託していた
- 家康の死後、「東照大権現」という神号は天海のアドバイスによって決定した
- 家康が始めて3代目将軍家光まで続いた江戸の街の設計を最初から最後までサポートした
という点がおそらく繋がってくるのかなと思いました。
天海は江戸という都市が、太平の世が、三百年にわたって繁栄するようにと願った一人だったのです。
みほとせで「徳川家康。彼は、神になるんだ」と石切丸が言ってましたけど、神としての名をつけたのは実質この天海といえるのではないでしょうか。
そして、天海が江戸の街を設計する際、徹底した鬼門封じをしていることは劇中でも指摘されていました。
鬼門は北東、裏鬼門はその正反対に位置する南西。
江戸は富士山を北としているので、そこから見た北東と南西に鬼門封じの神社や寺を置いています。
〇北東
〇南西
多分劇中でもこれらの名前が出てたはずです(うろ覚え)
この鬼門封じの寺と神社を結ぶと、その真ん中に江戸城の本丸が現れるという徹底ぶり。
しかも将門公の体を封じた神社は、江戸に続く7つの街道と江戸城下の門の交差点に作られています。
交差点には魔が宿りやすいと昔から言われていますし、さらに江戸以外の場所に続く道に神社を置くことで外敵を防ぐ目的もあったと考えられています。
天海が江戸の街に施した宗教的な仕掛けについては、以下の記事がとても面白く、参考になりました。
天海が施した様々な仕掛け(結界)の結果、いまも旧江戸、つまり東京は栄えている。
江戸時代は終わってしまったけど、街と人は続いている。
天海は家康が望んだ世界を守るために奔走した人物といえます。
勝海舟
劇中でも描かれていた勝海舟と西郷隆盛の会談で決定した江戸城無血開城は、戊辰戦争で計画されていた江戸総攻撃を未然に防ぐことが出来た偉業です。
もし江戸への総攻撃が開始されていたら、いまの東京の姿はなかったかもしれません。
しかしその結果、新政府軍と戦っていた旧幕府軍は負け、土方歳三は戦死。
新選組の刀たちが語る「刀の時代の終焉」が訪れました。
勝海舟はひとつの時代を終わらせ、新しい時代が始まるきっかけを作った人物なのです。
つまり、「これまで」と「これから」を繋いだ存在。
「江戸の街を守った」と語り継がれる勝海舟ですが、水心子正秀の問いかけには「俺が守ろうとしたのはそんな小せえもんじゃねえ」と答えました。
海外進出を狙う勝海舟の言葉を聞いて「やはりあなたは結界を国全体に広げようとしていたのだな!」と水心子正秀は言います。
結界は「境界線」であり「何かを守るもの」。
勝海舟は江戸の街という小さな括りではなく、日本という国全体を考えて行動したのだと水心子正秀は納得した様子でした。
ここでなぜ「やはり」なのか。
勝海舟は元々剣豪としても有名な人物です。
彼が所持していた刀は、水心子正秀と海舟虎徹。
その中でも水心子正秀を愛刀としていました。
しかし勝海舟は水心子正秀を抜いて人を斬ったことはありません。
それがあの時間遡行軍に対する唾攻撃に繋がるのです。
水心子正秀が刀剣の「これまで」と「これから」を繋ぐ存在であるのに対し、主の一人であった勝海舟もまた同じ立ち位置だったといえます。
太田道灌
今回かなり重要なポジションだったのが太田道灌です。
刀ミュにおいて花は大きな役割を持っています。
そして今作を彩っていた山吹の花は太田道灌と深い繋がりがあります。
江戸城を建てた太田道灌は歌人としても名をはせましたが、歌心を得るきっかけとなったのが有名な山吹伝説です。
鷹狩りに出かけ、雨に当たった道灌が民家に蓑を貸してもらえないか尋ねた際、対応した少女が何も言わずに山吹の枝を差し出したことに道灌は激怒します。
しかし、後から少女が山吹の枝を差し出したのは「七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだになきぞかなしき」という歌になぞらえ「(貧しいため)蓑がない」という申し訳ない気持ちを伝えていたためだとわかり、自分の無知を恥じ歌を学び始めたという伝説です。
道灌はのちに築いた江戸城で「武州江戸二十四番歌合」を開催しています。
この歌合で詠まれた道灌の歌は、
うなばらや水巻く竜の雲の浪はやくもかへす夕立の雨
お題は「海上夕立」。大海原に起きた竜巻が雲を産み、激しい夕立を降らせる様を詠んだ歌です。
雨は雲がなければ振りません。その様を描いた歌は、どこか「雨が降るためには雲も必要だよ」という桑名江の台詞に通ずるものがあります。
また、太田道灌が暗殺されるというのは劇中でも描かれていましたが、死の間際も動じずに歌を詠んだという話もあります。
刺客が「かかるときさこそ命の惜しからめ(死ぬときはどんな武勇を持っている人でも命が惜しいはずだ)」と詠んだのに対し、道灌は「かねてなき身と思い知らずば(いつも死ぬことを考えていないのならそうやって命を惜しむのだろう)」と答えたそうです。
歌にまつわる逸話や、詠んだ歌が今作のなかの関係性を示している感じ、なんだか歌合に通ずるものがあるな……と歌合のオタクは思うのでした。
各刀剣男士の行動についての考察
とは言いつつ、どうまとめていいか自分でもわからない考察の群れ。
色々と入り混じっています。
新々刀の最初の曲
「水清ければ魚棲まず」(水心子正秀パート)
あまりに清廉すぎるものはかえって人に親しまれず孤立してしまうことのたとえ
→つまり一振りで暗躍している三日月宗近のこと?
「水清ければ月宿る」(源清麿パート)
水が澄んでいれば月がきれいに映る。心に穢れがなければ神仏の恵みがあるというたとえ
→これも三日月宗近のことを表してはいるが、水面に映る月は虚像です。
水面に月が映るためには空にも月が浮かんでいる必要があります。
水面と夜空、ふたつの月=表と裏(歌合の小狐幻影抄)
美しすぎるがゆえに孤高であるもの。美しいから穢れのないもの。これもまた表裏一体。
水→水心子 清→清麿 に合わせて歌詞を当てはめているのでは?
水心子正秀が見ていたもの
フィルム状になっていることから、刀ミュ本丸におけるアカシックレコード(アカシャ)の可能性があると考えました。
アカシックレコード(アカシャ)とは「地球で起きうる出来事を過去から未来にかけて記録している第五元素(エーテル)もしくはアストラル光」
そこで三日月が暗躍して「悲しい役割を背負った人たちに手を差し伸べた歴史」から続くものを見てしまったのでは?
その続いた先が現在のコロナ禍の東京だった可能性は大きいと思います。
もしくは、「今の東京に至るまでの歴史」……戦争で壊れた街や、景気悪化する都市、そして感染症。
それらに対して「守る価値があるのか」と問いかけたのかもしれません。
「歴史を守るのが刀剣男士の使命」だとわかっていながら「守る価値があるのか」と問いかけを投げるのって、ものすごく矛盾していますよね……。
このアカシックレコードが水心子正秀の心に矛盾が生まれるきっかけになったとも考えられます。
人間である刀ミュ本丸の審神者にはその判断は下せません。どんな過程があろうと、結果として歴史を守らなければいけないからです。
たとえ彼らの元主を再び殺すことになっても。
この根本的な、命題とも呼べる問いかけを主に対して直接投げかけたのも、静かな水面に石を投げ入れて波紋を産むような演出だな……と感じました。
桑名江が耕していた場所
畑かと思いきや硬いものを砕く音+ツルハシ装備から始まり、二回目は鍬になっていた桑名江の耕作。
硬いもの=瓦礫と考えると、現代に続くまでで東京が瓦礫に塗れたのは関東大震災か第二次世界大戦中の東京大空襲だと考えられます。
これら二つが発生した時期を考えると、
となります。
東京大空襲は実際何度も起こっていますが、一番被害が大きかったのが3月なのです。
東京都は、1944年(昭和19年)11月24日以降、106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。
その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲(下町空襲・作戦名:Operation MEETINGHOUSE)を指す。この3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超えた。
(引用:東京大空襲 - Wikipedia)
3月10日は『東京心覚』公演日。
これまでの刀ミュは
など、公演内容に関わる歴史的事件が起こった日に開催されていると諸先輩方から伺っているので、そう考えると東京大空襲説が濃厚なのかなと。
東京大空襲で焼けた刀剣ってご存知でしょうか?そう、御手杵です。
実際御手杵が焼けたのは5月の空襲なのですが……すべてを合わせての「東京大空襲」。
だから水心子正秀は「存在があやふやだ」というくだりで、葵咲の御手杵の言葉*5を口にしていたのでは……?
同じ理屈でいくと、序盤で勝海舟が西郷隆盛と行った江戸城無血開城も3月13~14日にかけて行われています。3月15日には江戸城総攻撃が予定されていました。
ここまではふせったーに載せたのと同じ話なんですが、だんだん関東大震災説も無きにしも非ずなのかと感じています。
なぜなら、水心子正秀の墓が源清麿の墓の隣に越してきたきっかけが関東大震災だからです。
新々刀の親友という稀有な関係性に繋がることでもあるので、もしかしたら?という気持ちもあります。
いわゆる諸説あるがの!!です。
豊前江とパライソ
正直にいうと、音曲祭の演出をみてからずっと、今回のメインは豊前江だと思っていたんですよね。
いざ蓋を開けてみたら新々刀という新たな風が大きな物語をさらに前へ進めてくれていたので、豊前江は江をまとめる役割として呼ばれたのだろうかと序盤は考えていました。
でも、太田道灌の暗殺が失敗した後、にこやかに挨拶を交わした直後に太田道灌を殺した豊前江を見て、「こいつは既に何かを乗り越えてきていやがる……」という気持ちに変わりました……。
劇中で主要な歴史上の人物を刀剣男士が正面切って殺したのは初めてです。
「正しい歴史」のために殺そうとした刀剣男士は居ました。
でも、みほとせの石切丸は信康を殺せなかったし、むすはじの兼さんも出来なかった。代わりに陸奥守吉行が引き金を弾きました。*6
天狼傳の長曾祢虎徹も近藤勇の首を落とそうとしましたが、自分の気持ちを殺してまでやろうとする姿を赦せなかった蜂須賀虎徹がそれを止めて代わりに手を下しました。
心を持ったが故の葛藤。人に対する、元主に対する愛情がそれを阻んだ。それがこれまでの刀ミュの物語。
けれど、豊前江は迷わなかった。
何気なく挨拶をして、そのまま刀を振り下ろした。
これは結構衝撃的でした。
「正しい歴史を守るのが刀剣男士の役割」だと豊前江は言います。言いますけど、それは今までも散々みんなが口にしてきた台詞じゃないですか。
そう考えて迷いなく行動できるのは、絶対的にここまでの道のりで何かあったからじゃ……。
からの「あんたも静かの海に連れていってやれりゃあよかったんだけど」ってあの……本当にパライソで何があったんですか……?????怖すぎる。
パライソまじで不穏な気配しかないんですよ。音曲祭の刀剣乱舞の歌詞もめちゃくちゃ怖かった。
「無常の風吹くワダツミの静寂」
無常の風は「人の生命を消滅させる無常の理法を、花を散らし灯火を消す風にたとえていう語」。
花という生命を散らす風が吹く海神の静寂って、人が死んで静まり返った海ってことでは……ないですかね……。
それと江戸城を作るための石が意思を継いでいくという豊前江の見解、これはむすはじの『いびつないし』に繋がる言葉です。
石は意思であり、遺志であり、「一つとておなじかたちなし 一つとておなじおもいなし 一つとておなじおわりなし」。
豊前江は果たして最初からこの視点を持っていたのでしょうか。
それともパライソを経てこの視点を得たのでしょうか。
わっかんねーけど、秋のパライソに乞うご期待!
ソハヤノツルキが天海を嫌がっていた理由
徳川家康の遺言に従い、ソハヤノツルキはその遺体と共に【久能山東照宮】に入ったという話を序盤でしたのですが。
天海はこの後、改葬として家康の御霊を【日光東照宮】に移しています。
この時、遺体も同時に移されたと考えられているのですが、ソハヤノツルキは現在も久能山に納められています。
今作でソハヤノツルキは結構天海のことを嫌がっている感じがありました。
これは家康の遺体と一緒に日光へ移されなかったからなのでは?
ソハヤノツルキは家康の最後の愛刀でした。家康が永い眠りについた後も、傍で彼の望んだ世界を守ろうとした存在といえます。
それなのに天海が遺体を日光へ移したせいで、家康と離れてしまった。だから嫌がっているのではないでしょうか。
ただ、久能山では遺体は移されず、御霊を分霊化をしたのではないかという見解を持っています。
「あればあるなければなしと駿河なる くのなき神の宮うつしかな」という天海が詠んだ歌になぞらえ、「くのなき」を「躯(遺体)のない神の宮遷し」と解釈しているそうです。*7
なお、久能山も日光も遺体の発掘が行われていないため真偽は不明とのこと。
つまり、「かもしれない」歴史なのでどちらとも捉えられますよね。
ここに関しては、つはものの膝丸と通ずるところがあると感じます。
つはものでは、箱根神社に本体を見に行くか髭切に問われた時、膝丸は見に行こうとしませんでした。
膝丸は物語によって記述が違いますし、大覚寺にある膝丸、箱根神社にある膝丸、個人蔵の膝丸とで作りも刀工も変わります。
曖昧な存在とも呼べる本体を見に行かず、確定させないことで自身の存在の揺らぎに足を踏み入れなかった。
でもここは双騎で補完されていましたね。
刀ミュ本丸の膝丸は曾我兄弟の仇討ちに使われた箱根神社の膝丸だという歴史を、人間側をなぞることで確定させていました。
もしかしたらソハヤノツルキもいつか自分が持つ曖昧さと対峙する時が来るのかもしれません。*8
今作における花の役割
刀ミュでは花が重要な役割を果たすのは御存じの通りです。
今作では山吹がメインでしたが、様々な花の名も紡がれていました。
名もなき草
一度目の開拓時、路傍に生えていた草の名前を村雲江に訊かれ、桑名江は「名前はあるけど名もなき草と呼ばれている」と答えました。
名前があるはずなのに名もなき草。つまり、歴史には残らなかった民草を指すのでは?
歴史という川の流れは一人では作り出せないもの。その時代に居た人々が支えることで出来ています。
人間ひとりでは歴史とはならず、歴史となるべき人間をそうたらしめる存在=周囲の人間が必要だというのはみほとせで石切丸が言っていました。
その周囲の人間というのは歴史に名を残すものばかりではありません。
吾平のような、知っているものしか知らないものの存在があります。
けれど、「正しい歴史」としてその名を残されるのは、その流れの中で勝ったものだけ。
今回の作品における「名もなき草」は現代に生きる我々でもあり、これまでの時代で名を残さなかった人々でもあるのでしょう。
桑名江は後半で植物の循環を語っていましたが、それは森羅万象すべてに繋がることです。
農業は森羅万象すべてと繋がる学問。
桑名江、実は誰よりも人の生命が花のように循環することを理解しているのかもしれません。
山吹の花
今回メインだった山吹の花は太田道灌の伝説繋がりです。
山吹は「実をつけない花」=「歴史には残らないもの」という意味にも取れます。
強く咲き誇る山吹の花のなかで踊る仮面の少女は、「名もなき民草」の象徴であると捉える事もできます。
また、劇中で仮面の少女は太田道灌へ山吹の枝を差し出していました。
これもまた山吹伝説に出てくる少女=「名もなき民草」を具現化したものと考えられます。
さらに、山吹伝説は太田道灌の歌心を生んだ出来事。
「人の心を縁とし生まれ出るは歌も我らも同じこと」
これは歌合の判者であった鶴丸国永の言葉です。
これもひとつの人の心(気遣い)を縁として生まれたものといえるでしょう。
豊前江が太田道灌を斬った後に五月雨江が詠んだ句にも山吹が出てきます。
「ほろほろと山吹散るか滝の音」
松尾芭蕉が吉野川に散る山吹を見て人生の儚さを詠んでいる歌です。
儚い命ながら咲き誇る実のない花。歴史には名を残さないもの。そこには確かに人の心が宿っていた。
桑名江が耕した大地に植えられた山吹の花が咲き誇り、少女が踊るあのシーンが忘れられません。
劇中で語られた花の名前+α
「終わりなき花の歌」という歌詞にも繋がる花の名。
意味があるかはわかりませんが、花言葉も添えてみました。
蓮の華
つはもの、つまりは三日月宗近という機能が明らかになったきっかけの華。
泥水を吸い上げ美しい花を咲かせる様は仏教において理想の姿とされる
花言葉は「清らかな心」「救ってください」
竜胆
双騎で膝丸(筥王)が持っていた花。源氏の紋に描かれている。
花言葉は「悲しんでいるあなたを愛する」
葵
葵咲本紀のテーマ。徳川家の家紋は三つ葉葵。
家康は威厳を知らしめるために一部の家臣以外が葵紋を使うことを禁じた。
本多葵は桑名江の刃紋にも描かれている。
都忘れ
みほとせで大俱利伽羅が吾平の墓に備えようとしていた花。
花言葉は「しばしの別れ」
トリカブト
みほとせと葵咲の千子村正が持っている毒のある花。
花言葉は「人間嫌い」「復讐」「騎士道」
山吹
太田道灌の山吹伝説から。実を結ばない花。つまり本作のテーマ。
花言葉は「気品」「待ちわびる」
桔梗
将門公の寵姫であった桔梗の前に関わる花。
これまで桔梗が出てきた物語は描かれていないため、もしかすると今後に繋がるかもしれない。
花言葉は「永遠の愛」
スミレ
水心子正秀のペンライト色。
花言葉は「誠実」「小さな幸せ」
「山路きて何やらゆかし菫草」
アヤメ
源清麿のペンライト色。
花言葉は「希望」「友情」
「あやめ草足に結ばん草鞋の緒」
ざっとこんな感じです。
ちなみに、
みたいな繋がりもあります。
あと新々刀のペンラ色も花の名前なんですよね。
今まで花の名前のペンラ色があてがわれた男士はいなかったので、ここにも何か意味があるのかもしれないと思った次第です。
どちらも五月雨江にゆかりのある松尾芭蕉が詠んだ俳句があったので入れてみました。
花を美しいと感じる心
江戸城が美しいのは人がいるから、というのは「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という武田信玄の言葉に通じます。
「では花などの自然はどうでしょうか?人がいなくても美しい」
「それは美しいと思った心が美しいんだ」
人が居なくても美しいものがある、と語る五月雨江に、人の心があるから美しさが生まれると語った太田道灌。
花にまつわる人の心から歌心を得た太田道灌が、人に作られた刀から励起された刀剣男士にこの台詞を言うのがものすごくエモいな……と思いました(語彙力の消失)
誰も居なくても時は進むけど、人がいないと作られなかった刀たちが歴史に関わってきた人の心を守るのが刀剣乱舞なんですよね……。
意味、そして役割
終盤の展開から感じたことをつらつらと。台詞の記憶が曖昧で申し訳ないです。
こぼれ落ちていく砂
砂から連想するのは、手から滑り落ちるもの。砂上の楼閣。砂時計。
今作においてこの砂は、受け止められなかった声・流れる歴史には残らなかった名もなき民草のひとりごとだと私は捉えました。
本来ならば誰にも気づかれず零れ落ちていくもの。
でも水心子正秀だけは、それが見えて、聞こえていたんです。
最初はそれが何なのか、誰のものなのか、彼はわかっていませんでした。
今回の任務で歴史と呼ばれるものには勝者の声しか残っていないことに気づいて、やっとその意味を知りました。
この名もなき声は、ひとりごとは、おそらく見ている我々の声でもあったのでしょう。
彼は最後に語り掛けてきました。
「どうか傷つかないでほしい」と。
様々な立場で、様々な想いを抱えている名もなき声が築き上げた歴史はここにある。
どんな世界になろうと、この歴史は間違いではない、守るべき歴史であると。
後から考えるとこれ、物凄い肯定の言葉だな……。
この辺の台詞、直感的にとらえていて具体的なところはうろ覚えなんですが、本当に真摯な言葉を向けられていたことだけは覚えています。
そのあと、源清麿が「好きな時に好きな人と好きな場所に行けないことも?」といった台詞を言うところがあるんですが、見ていた当初はここでやっと「現代に向けた話」だったんだなと思いました。
問わず語りと心覚
最後の曲がもうめちゃくちゃに好きだったんですが、その中の歌詞に「これは問わず語り」という部分がありましたよね。
問わず語り。人がたずねないのに自分から語りだすこと、ひとりごと。
つまりこれは水心子正秀たちの問わず語りで、尋ねていないけど語り聞かされた我々は、答えを自分の中に見つけるしかないんだなと。
ここもうろ覚えですが、「誰かが言った 覚えていてほしいと 誰かが言った 忘れてほしいと」的な歌詞もありました。
様々な想いや立場は真逆の言葉を紡ぐこともあります。ある意味、表裏一体です。
また、「見えない部分も歴史であり、月の光がない場所もまた月だった」といったニュアンスの台詞も最後に水心子正秀が言っていました。
これはつはものの髭切に繋がる言葉です。
髭切は本能的に三日月宗近を理解している感じでしたが、水心子正秀は「なぜ三日月宗近はそうするのか」を突き詰めていきました。
その途中で、水面に映った虚像の三日月宗近との対話シーンがありました。
あれは水心子正秀の誠実さが作り出した虚像。ある意味彼自身の問わず語りだったのかもしれません。
タイトルの「心覚」は心に覚えていること、忘れないために印などをつけること、その印を意味します。
これは水心子正秀の「(歴史には残らないものを)ずっと覚えている、忘れない」という風な台詞(あったと記憶している)に繋がってきます。
歴史に名を遺すことのない民草を、我々のことを、彼は覚えていてくれる。
この物語は「日本の中心である東京(江戸)という街を作り、守ってきた人々の心を忘れないためのしるし」なのかもしれません。
江の役割
「江の者たちよ。お前たちは人ならざる者と人とを繋ぐ存在であれ」みたいなことを三日月宗近は言っていました。
「郷とお化けは見たことがない」という言葉から「人ならざる者との繋がり」を指しているのかな?と思っていたのですが、江の由来を考えるとそれだけではなさそう。
あのとき、江の面々に聞こえてきた声は恐らく【名もなき刀の戦いの記憶】
豊前江の「俺たち江はたぶん───」の続きは遮られてしまいましたが。
江は、郷義弘という刀工が打ったと思われる無銘の刀たちの集まりで、「刀の特徴から見て郷義弘作だと思われる」という理由で後から銘を入れられている存在です。
無銘の刀ということは時間遡行軍という「人ならざる者」の中にも無銘の江がいるかもしれないんですよね。
葵咲では稲葉郷がまさにそうでした。
だから歌合の時は顕現儀式前に時間遡行軍があそこまで迫ってきていたのでは?
それを阻んだのが結界。境界線。そして刀剣男士たちの歌だった。
そう考えると、江の面々が歌って踊るのはある意味厄払いの面があるのかもしれません。
余談
ここからは完全に余談なのですが、今作を見ていて繋がりを感じた作品がありました。
どこが繋がってるのか、何の作品なのか気になる方だけどうぞ。
『モモ』(著:ミヒャエル・エンデ)
刀ミュにおいて花は生命の象徴です。
咲いて散りまた蕾をつける仏教的思考に基づいていると考えられます。
今作ではその花々を大々的に取り上げていましたし、「終わりなき花の歌」という歌詞が出てきました。
個人的に、花を人の生きる時間と重ねる手法は『モモ』に出てくる「時間の花」と似ていると感じています。
「時間の花」は人間の心の中にある花で、人間が持っている残り時間(生命)に呼応して咲きます。
人間が時間を使い切った時にその花は散り、別の蕾が色づくというシステムは「終わりなき花の歌」に通ずるものがあるな……と。
また、作者であるエンデは『モモ』が【とある人物から聞いた話】を元にしているとあとがきで語っています。
その【とある人物】は『モモ』の元となる話を語ったあと、
「わたしはいまの話を、過去に起こったことのように話しましたね。
でもそれを将来起こることとしてお話してもよかったんですよ。
わたしにとっては、どちらでもそうちがいはありません。」
と言ったそうです。
この感じ、なんだか今回の過去と未来、そして現在が入り混じる演出に似ている気がしないでもない(こじつけ)
語り部である水心子正秀自体が過去や未来を行き来しているので、この【とある人物】と重なる部分はあるんですよね。
『モモ』は主人公のモモが時間どろぼうが人間から奪った時間の花を取り戻す話です。
様々な視点の話が入り組んでいて色々想像しないと受け止められない、ちょっと複雑な構造の物語でもあります。
モモは寂れた古代の円形劇場(アンフィシアター)を根城にしている小さな女の子で、その劇場を中心に様々な物語が起こっていきます。
この本の訳者(大島かおり氏)は、
劇場というのは、人間の生の根源的なすがたを芝居という形で観客に見せてくれるところです。
そして観客は、芝居という架空のできごとをたのしみながら、そこに示された人間のもうひとつの現実をともに生き、ともに感じ、ともに考えるのです。
おそらく作者は、この芝居と観客との関係を、この本の物語と読者のあいだに期待しているのではないでしょうか。
と記しています。(ここでいう作者はエンデのこと)
芝居と観客の関係は、示された答えを受け止めるのではなく、見せられた世界に対する答えを自分なりに感じて考えるもの。
今回の『東京心覚』はそんな関係性を改めて求める作品だった気がしています。
あとは将門公の封印のくだりで『帝都物語』も思い浮かびました。
オカルト要素が多い話ですが、刀剣乱舞との相性は良さそうだと感じます。
残った疑問点
初見で読み解けた部分もありましたが、読み解けない部分もあったので今後落としどころを見つけていきたいです。
- 三池の刀はいつどこで蔵から出て天海と出逢ったのか?
- 水心子正秀はどの出陣であのアカシックレコードを見るようになってしまったのか?
- 今回の面子に語り掛ける三日月宗近はどこにいたのか?
- 時間遡行軍と戦える天海も三日月宗近と接触していたのか?
あと青江が「いいことばかりが続くと悪いことが起きる」みたいなことを言ってたから単騎出陣をすることも言ってましたよね。
青江単騎も本編とがっつり関わってくるフラグなんでしょうか。きになる。
おわりに
これまでの刀ミュの人間賛歌は『かざぐるま』のような、大きな生命の流れに向けられていましたが、今回は現代に生きる我々をピンポイントで肯定する内容だったなと感じています。
また、物語に大きく関わっている三日月宗近の役割を「呪い」とし、それを救えないと言い切りながら負担を減らそうとしてくれた刀剣男士が実装されたことが何だかうれしかったです。
親友という新たな関係性を引っ提げてきた新々刀。
個人的には源清麿の存在が大きいです。
彼はいち早く水心子正秀の異変に気づいて、「どうか見守ってほしい」と主に声をかけていました。
もうめちゃくちゃ優しい……優しさにはいろんな形があるって三日月宗近も言ってたけど、源清麿の優しさが私は物凄く心に沁みました……。
ゲーム内の台詞にもありますが、源清麿は水心子正秀のすごさを認めて信頼しています。
そして水心子正秀もまた、源清麿のすばらしさを知っている。
だから解決に動き出したとき、一振りではなく二振りで行動を開始したのだと思います。
今作はとにかく分かりにくい物語です。
でも答えが明確に示されないぶん、それぞれの中に答えが生まれる物語でもあります。
こんな挑戦的な演出や物語をこうして最高のクオリティで見せてくれるミュージカル刀剣乱舞を好きになれて良かった。
まだ一度しか見ていないのですが、そこで受け取ったものをまずここに記し、私の一度目の問わず語りとします。
アーカイブ配信を見た後にまた色々と考えると思うので、二度目の問わず語りでもお逢いできれば幸いです。
長々しい文章……合わせ出汁??にお付き合いいただきありがとうございました!
※2021/04/20追記
アーカイブ配信みてから色々こねくりまわした考察と感想ができました。
今回の記事の倍量の長さなので(たぶん歌合の感想レベルで長い)お時間のある時にどうぞ。
*1:厳密には違うかもしれませんが今回はこう呼称させていただきます。
*2:もしかすると今後鶴丸をそう呼ぶ機会があるかもしれませんが…(壽歌の「友よ 友よ ともに」のところ見てて思った)
*3:近侍台詞の「刀剣男士の誇りはここに」「銃ではなく、我らは刀剣である事に意味があるのだ」から
*4:「我が主よ。私は刀、あなたは人。違う存在なのだ」
*5:「すべての人に忘れられても存在していると言えるのか」
*6:土方歳三が銃弾で撃たれて死ぬことは正しい歴史なので、兼さんが土方歳三を殺さなかったのはある意味正解でもあります。