いつか巡り逢うためのひとりごと~東京心覚の考察と感想③~
5月23日、東京心覚が大千穐楽を迎え、無事に幕を下ろしました。
いやー…………よかった…………。
色々言いたいことをひっくるめるとこの一言に尽きます。
前回の記事(※)で個人的に色々と掘り下げたので、大千秋楽後は余韻に浸るだけで終わるかと思いきや、そうもいかなかった結果がこの記事です。
※前回の記事
今回は考察をさらっとしつつ、2部にも少し触れていきたいなと思っています。
興味とお時間がもしあればお付き合いください。
余談ですがタイトルを出汁関連にしようとおもったけど「お吸い物」とか「煮物」しか思いつかなかったのでこれになりました。
パワーアップした凱旋公演
前回までの考察はあくまでも初日公演配信をじっくり見て掘り下げたものだったのですが、凱旋公演は当然のごとく初日公演よりも進化していて、感じ取れるもののレベルが更に上がっていました。
地方公演を経て進化しまくっている……と感じたのが、各キャラの表情が(歌声も含め)とても豊かになっていたところです。
初日公演から各刀剣男士達が元々のキャラクター性を大事にしながら舞台に立っていることは物凄く伝わってきていたのですが、凱旋公演になるとそのキャラクター性がより物語と融合していたというか……キャラクターの心から溢れ出す想いが、より自然な目線、表情、歌声となって現れていたというか……。
個人的に五月雨江の表情は印象的でした。
初日公演では極力表情を出さず真顔のシーンが多かった彼が、凱旋公演からは笑顔や驚愕を浮かべるようになっていたのを見て、なんだかじーんときてしまいましたね……。
歌声に関しても感情がより表に出るようになっていて、まさに「雲から溢れ零れ落ちる雨」のような歌い方だなと……。
また、清麿に関しても、水心子を見守るという姿勢は変わらなかったのですが、水心子の様子に合わせて表情や言葉に変化が出ていて、より彼の寄り添い方の深みが出ていた気がしました。
劇中で何度も清麿の口から語られる「水心子はすごいやつなんだよ」という台詞。
これは水心子に対する信頼感を表すものですが、その水心子の揺らぎに合わせて台詞に込められた感情も変化していたように感じます。
最初は対話する相手に言い聞かせるようなニュアンスだったものが、終盤では自分に言い聞かせるようなニュアンスへ。
この変化によって、目の前で水心子が倒れたことに対し、いつも優しく見守り笑顔を浮かべていた清麿が、あの場面では動揺していたのだと気づかされました。
あの優しい笑顔も、見守っている時の慈愛に満ちたものから、水心子が戻ってきたことを喜ぶもの、そして水心子が見つけた答えを聞いて頷く時の安堵と喜びと切なさが混ざった泣きそうなものと、様々な感情を込めたタイプがよりはっきり見えるようになっていてですね……本当に、こんなに優しい笑顔だけでここまでの想いが伝わってくるものなのだと、じんわりとした感動に浸ってしまいます……。
他にも水心子の最後の語り掛けが叫びではなく、とても穏やかな口調になっていたことで、水心子との距離が縮まっている……と感じられたりだとか。
ソハヤがより天海のことをしっかり見ながら文句を言っていたりだとか。
積み重ねた日々から生まれた想いがより細かいところまで詰め込まれていて、ずっと見ていたい温かさがありました。
水心子と清磨
今作の主役である水心子は、とにかくすごいやつでした。
なにがすごいって、演技は勿論のこと、声がすごい。
歌・台詞ともに声へ感情を乗せるのがとてもうまい。
前回の考察で新々刀の歌、『ほころび』について清磨がめちゃくちゃ優しいという話をしたのですが、今回は水心子の話をしたいと思います。
清磨が水心子を見守りながら語り掛けるこの歌で、水心子は己の役目をひとりでも果たそうという決意と誠実さに満ちた真っすぐな歌声を披露します。
やわらかな清麿の歌声の後に、「私の役目」と歌いだした瞬間のあの声音!!!すごくないですか……一瞬でやわらかなものが鋭くなるようなあの歌声……。
あそこで水心子は清磨の方を見ていないのですが、凱旋公演を見てからあれは【見えていない】のではなく【敢えて見ていない】のではないかと思うようになりました。
清磨は水心子の親友で、いつも彼を見守り、信頼し、支えてくれる存在です。
水心子が悩み、立ち止まり、揺らいだ時、望めばいつだって手を差し伸べてくれるでしょう。
だから水心子は敢えて清磨を見ようとはしなかったのではないでしょうか。
いつでも助けてくれることがわかっているからこそ、助けを求めるわけにはいかない。
立っている場所がわからなくなるほどの揺らぎを感じながら、水心子はあそこで清磨を見ないことで線を引いたのです。
自分にしか見えない綻びの意味を知るまでは、ひとりでも役目を果たそうという決意と共に。
水心子の実直さや責任感の表れでもあると同時に、これはある意味「水心子正秀という名の線」を保つ行為にも繋がります。
「誰かが呼んでくれるから存在している」のなら、自分がどこにいるかわからなくなっても、清磨が水心子を見守り、水心子の名を呼んでくれることで水心子は存在を保つことができるのだと思います。
水心子が自己と向き合い、認識が曖昧になり、境界線が不確かな迷子になっても、清磨は「僕が見つけ出すよ」という通り。
水心子の誠実さと責任感の強さを理解し、無理に聞き出そうとはせず、傍で見守る清磨。
清磨が見守ってくれていることを理解し、敢えて助けを求めずに役目を果たそうとする水心子。
互いを支え合う親友という関係性を持つ新々刀だからこそ作れる優しい距離感なんですよねきっと……。
道灌と豊前江・五月雨江
前回の考察で、道灌と豊前江は【確かなもの】と【不確かなもの】の対比であるという話をしました。
凱旋公演では、共に石を運ぶシーンでよりその対比が伝わってきたように思います。
道灌が「この立派な石はこの先ずっとここで歴史を支えてゆく!」と歌った時の豊前江の表情!!
はっとしてから、ものすごく嬉しそうな顔をするんですよ豊前江……。
【曖昧な存在】である豊前江がいま触れている石が、このさきずっと歴史を支えていく【確かなもの】であるということに対する驚きと喜び。
ここで豊前江が偶然にも手伝ったことが後の江戸を支えるひとつの要因となる展開、天才では……。
それに対して豊前江が歌うのが『遺された志』というのがもう……改めて見てもここはせつなさと爽やかさが同居しているたまらないシーンです……。
表情豊かになった五月雨江と道灌のシーンもまた深みが増していましたね。
道灌に「美しいと思った人の心が美しい」ことを教えられ、とても嬉しそうな顔で「わん!」と吠えていたのが最高でした。
あの五月雨江の笑顔が見えたことで、道灌のこの言葉は五月雨江の歌心を肯定する言葉でもあったのだと感じました。
目にした景色の美しさを「心に留めておけぬから」歌うことは、それを歌う者の心が美しいから。
豊前江は道灌のことを「生きるということを知っている」立派な奴だったと評しています。
そんな道灌から「人が関わることで生まれる美しさ」を教えられた五月雨江。
刀剣男士の役目に徹することだけが生きる目的ではなく、溢れてくる想いを歌うこともまた生きることなのだと受け入れるきっかけになったのではないかなと。
だからこそ『問わず語り』で五月雨江は「でも誰かが居なくては歌は生まれない」と歌えたのでしょう。
また、この場面で道灌は水心子からの問いかけに歌を返します。
この歌を返す直前に、道灌は五月雨江の方を見て笑っているんですよね……。*1
水心子には「そのうちわかる時がくる」と語って去っていく道灌ですが、恐らくこの歌の意味を受け取ったのは水心子ではなく五月雨江なのだと思います。
道灌は五月雨江が受け取れると把握したうえで、あの歌を詠んだのです。
「やはり歌詠みは、同じ歌詠みに出逢うと感化されるものですね」
そう最後に語ったのは五月雨江ですが、この時の道灌も同じ気持ちだったのではないでしょうか。
山吹伝説で歌に想いを托した、あの名もなき少女のように。
天海とソハヤ
回を重ねるごとにじわじわと理解を帯びてくるのがここの関係性でした。
天海に「本意ではなかったであろうが、お前のおかげで江戸は守られた。礼を言うぞ」と告げられたソハヤ。
何か言葉を返す前に天海が息を引き取ったことで、ソハヤの想いは行き場を失くします。
劇中で三池は何度も「江戸の守りが破られようとしている」「江戸が終わる」と、自分たちの守ってきたものが崩れていく様を見つめるシーンがあります。
もっと自分たちに霊力があれば続いたのではないか。
もっと守り刀としての役目を果たせたのではないか。
そんなほろ苦い想いを抱えながら、どこか諦観のこもった視線で終わり行く江戸を眺めていました。
そこに向けられた、江戸の設計者たる天海からの「お前のおかげで江戸は守られた」という言葉。
天海はソハヤという存在を認識していたことを暗に明かして息を引き取ります。
この後、江戸は三百年という長い時を経て、その幕を下ろします。
「江戸を守り切れなかった」という後悔を抱えていたソハヤへ、彼を守り刀として確立させたといっても過言ではない天海から「江戸は守られた」という言葉が投げかけられるのは、ある意味「守り切れなかった」という呪縛からの解放でもあったのかなと。
それと同時に、最終的に江戸が終わることは約束されている=正しい歴史であるため、皮肉とも捉えられます。
「持て余した強さが齎した皮肉」
『全うする物語』で大典太が歌うこの歌詞は、ソハヤの霊力の強さを誰よりも信じていた天海から向けられたこの言葉にも通じる気がしました。
それでもソハヤは天海に対して「よくやったんじゃねえか、互いにな」と歌います。
与えられた役目を、どんな形であれ互いに全うした健闘を称えて。
そして、「江戸は守られた」という「期待以上の物語」を全うしてやろうと、ここでやっと前を向いたのです。
江戸は終わったけれど、その後に続く東京を、日本を、歴史を守るための刀で在ろうと。
ここでの水心子の問いかけに天海は答えを示しませんでした。
しかし、答えずともソハヤがその想いを誰よりも感じて、繋いでいくのではないでしょうか。
天海の「期待以上」の活躍をしてやろう、と。そんな前向きな気持ちと共に。
花と因果
刀ミュの中では「花」が重要なアイテムとして語られます。
今回は歴史上の人物ごとにその「花」が違いました。
将門公であれば桔梗。道灌であれば山吹。天海であれば蓮。
これらの花に想いを馳せながら歌うのが『はなのうた』です。
限りある生命を持つ人がいつか散り行く花を歌うのに対し、終わりのない生命を持つ刀剣男士はその花を咲かせる種を歌います。
この花と種の関係性は、仏教でいう【縁起】に繋がっているように思えます。
縁起とは「関係による生起」という意味。物質も精神の作用も、一切のものは因・縁・果の連鎖とする考えかたである。因縁・因果というのも同じ意味。
因───種子があって草が生えるように、それが生じた直後の原因。
縁───いろいろな関係(状況)。水や光などがそろわなければ草が育たないように、すべては縁によって生じる。間接的原因や生起する条件をさす。
果───因と縁によって生じた結果。その結果がまた、因となり縁となっていく。この果を受けることを「報」といい、果報ともいう。
この考え方は、阿津賀志で岩融が口にしていた「此有れば彼有り」……つまり【此縁性】にも繋がっています。*2
『はなのうた』で刀剣男士が歌うパートが特にこの【縁起】をわかりやすく表しているように聞こえました。
「戦場に散る 無数の種
血を浴びて芽吹くは いつの春か いつの時代か
産み落とされた実がまた花を咲かす」
「無数の種」が因ならば、「産み落とされた実」は文字通りの果。
「花」が生命ならば、「種」は死、または輪廻。
これらの「縁」を繋ぐのが刀剣男士という終わりなき生命を持つ存在……と考えた時、ただ単に正しい歴史を守ることではなく、歴史に遺らなかった「想い」も共に「縁」として繋いでいくことが、今回水心子たちが見つけた「すべきこと」の中に含まれているのではないかな……という小難しい話でした。
ミュは仏教思想と相性が良すぎる。
それと、『はなのうた』で人間が戦場で斃れていく様を見下ろしながら、唯一地面に手を置いている男士が居るんですよ……そう、桑名江です。
人は死ねば土になります。それを一番理解しているのは農耕に通ずる桑名江です。
『大地とこんにちは』でも、大地に触れながらこう歌っています。
「こんこんこん
知ってますか
知ってますよね
ここであなたが生きたこと」
「生きたこと」という過去形からしてもう生きていない者への問いかけなんですよねこれ……。
種が芽吹くのは土の中。つまり大地です。大地はずっとそこで人が生きて散る様を見ています。
静かに大地に手を置いて、人の生命の終わりを見下ろす桑名江。
そこに確かに生きた者が居たことを知るために、大地の記憶を聞いているのだろうか……と思った次第です。
4つの蓮華
天海が登場する時にかかるBGMに入ってる謎の呪文の話です。
あれは恐らくお経で、繰り返し唱えられているのは以下の蓮華の名前でした。
これは仏典*3に記されている蓮の種類で、仏教上では分陀利華(白蓮華)と波頭摩華(紅蓮華)が重要視されています。
白蓮華は清浄さの象徴であり、紅蓮華は仏の救済の象徴です。
天海自身は「咲き誇れ 分陀利華」と歌っているのでメインは分陀利華ですが、後ろでも蓮華の名前を唱えているとは思っていませんでした。
三日月絡みもあってか、めちゃめちゃ蓮フィーチャーされてる。
この流れで天海の結界陣みたいなのも解き明かしたいのですが、四神相応とかあの辺を掘り下げていく必要がありそうなので、また機会と時間があれば。
水心子と豊前江~仮面の少女が現れる場所~
大千秋楽をじっくり見てて気になったのがこの二振りについてでした。
今作における水心子と豊前江の共通点は【存在が曖昧】であること。
己の存在が揺らぎ始めた水心子に「存在しているのかしていねえのか、俺だって俺自身がよくわからねえ」と豊前江が語り掛けるシーンでは、彼らと同じく【曖昧】なものたちが同時に存在していました。
何らかの理由で歴史改変を目論む遡行軍。仮面をつけた謎の少女。
彼らは、彼女は、みな「存在しているのかしていないのか」わからない、【曖昧】なものたちです。
遡行軍はともかく、今回のキーパーソンとも呼べる仮面の少女はどうやら水心子にしか見えていませんでした。
劇中でも彼女が舞台上に現れるのは、その姿を認識できる水心子が同時に存在している時がほとんどです。
本来見えないはずの【存在が曖昧】である仮面の少女は、水心子が認識することで形を保っていたのだと思われます。
しかし、唯一水心子が居ない時にも出現する場面があるのです。
遡行軍が阻んだ太田道灌の暗殺を、正しい歴史とするために豊前江が刀を抜き、その生命を奪った、あのシーンです。
こと切れた道灌の傍らにやってきて、静かに山吹の花を供えて去っていく少女。
誰かが認識することで形を保っていられるであろう曖昧な存在が、なぜあそこで唯一認識できる水心子の居ない場面に出てくることができたのか。
おなじ曖昧さをもつ存在として惹かれ合ったからなのでしょうか。そんなスタンド使いみたいなことある…?
豊前江にはあの少女が見えていなくとも、無意識下で存在を認識できていたのでしょうか。
今回、水心子があの少女を認識できたのは、歴史に生まれた綻びに気づいて己の存在が曖昧になったことで、何らかのチューニングが合ってしまった結果*4だと思っているのですが、じゃあ最初から曖昧だった豊前江はどうなのかな……と。
また、水心子と豊前江は将門公の怨霊封印の際にも姿を現していません。
具体的には、1人目の封印には姿を現さず、7人目の封印になってやっと水心子が加わりました。
豊前江はどちらの場面にも姿を現しませんでした。
これもまた【存在が曖昧】であるが故なのかな…と感じています。
1人目の時点で水心子は自分と自分以外の境界線を見つけられず、揺らいでいました。
しかし、7人目では自分のやるべきことを見つけてしっかりと【水心子正秀】として存在していたため、戦いに加わったのです。
民俗学者の小松和彦氏によれば、怨霊や呪いといった【ケガレ】は本来、外側からやってくるものとされています。
外側、つまり「外部」からやってきた邪悪なものが「内部」に侵入することで【ケガレ】の原因を作り出します。
この【ケガレ】を【浄化】することで【ハレ】の状態=清浄さを取り戻せるのです。
「内部」と「外部」があれば、そこには当然、境界が存在する。具体的にいえば、家の入口とか門、峠、川、浜、村はずれ、国境などが境界とみなされることが多い。
「結界」という言葉がある。呪術によって境界つまり「外部」と「内部」を作り、その内部を守ろうとする呪的バリアのことである。注連縄はそうしたもののひとつである。守るためには囲われていなければならない。一ヵ所でも外部への通路があれば結界は成立しない。
つまり、「内部」とは閉じられた領域であり、たとえていえば、紙の上にどんな形であれ線を引いていって、再び始点に戻ったときにできる内側が「内部」、そうでない開かれた領域が「外部」と理解してもらってもいいだろう。
つまり、【ケガレ】を【浄化】できるのは「内部」に居る者だけ。
今作でいえば、天海と封印の場にいた刀剣男士たちとなります。
あの場に居なかった水心子と豊前江は、内側に居ない……「外部」に近しい存在と考えられるのではないでしょうか。
水心子は将門公が呪いという機能に取り込まれるシーンに居合わせていますが、あれもまた「外部」の出来事なのでは……。
今作における「内側」は、正しい歴史の流れ、もしくは存在の確かさに繋がるもの。
そして「外側」は、正しい歴史には残らない綻び、もしくは存在の曖昧さに繋がるもの。
主役であった水心子は最終的に存在の確かさを取り戻していましたが、豊前江はそのままの状態です。
静かの海で会ったとき、この存在の曖昧さについて触れられたら情緒が死んでしまう気がします。
ただ、劇中でこの仮面の少女が現れる場面については太田道灌もある意味重要人物だと考えられます。
『要となる城 気付く歌』の時も、豊前江の手で殺された時も、舞台上では仮面の少女と共に道灌が存在していました。
仮面の少女は「記録にも記憶にも残らなくてもそこに居た」もの。
山吹伝説という名もなき少女*5からの想いを受け止めた道灌と仮面の少女は繋がりがあったとも考えられます。
道灌と共に現れる仮面の少女は必ずその手に山吹の花を持っていたので……。
こう考えると道灌も豊前江も何かしら少女との繋がりを持ちながら、無意識のうちに存在を認識していたのかもしれません。
余談ですが、強大な【ケガレ】を【浄化】する方法として「祀り上げ」というものが存在します。
この「祀り上げ」の最大規模とされているのが、菅原道真で有名な北野天満宮と将門公で有名な神田明神なのだそうです。
心覚の考察で引用している小松和彦氏の本はこういった内容も書かれているので、興味がある方はお手に取ってみてください。
問わず語りから見える風景
もはや名曲と名高い『問わず語り』ですが、凱旋公演は更にパワーアップしていて本当に良かったですね……。
しかも両A面シングル化!!おめでとうございます!!!買います!!!!
初日公演では聞こえなかったサビのファルセットがとても綺麗に聞こえてきたときはその優しい旋律にまた画面が滲んでしまいました。
この『問わず語り』で歌われる風景はおそらく江戸から東京にかけてのもの(泰平の世の風景)で、その中にみほとせとあおさく、あの二大巨編に繋がるものがあるなあと思った話です。
「群青の空 黄金色の波
棚引く水穂
実り 祈り」
ここの「黄金色の波」からの「棚引く水穂」……これ、あおさくで吾平(信康)が語っていた夢が叶った風景なんじゃないかって……。
「戦は腹が減るから起きる」……あおさくで、秀忠に信康は言いました。
そして、「国中の土地という土地を畑や田んぼに変えて、戦などする気も失せるくらい国中の者の腹を膨れさせてやる」ことが夢だと。
この「黄金色の波」は桑名江たちがあの世界に植えた山吹を指しているようにも思えます。
しかし、「棚引く水穂」や「実り」と続くことで、たわわに実った稲穂が揺れる「黄金色の波」という解釈もできます。
水田一面に実った稲穂が一斉に、群青色の空の下で揺れる風景。
それは、人の空腹を癒すもの。家康とは別の道で泰平の世を目指した信康の夢です。
腹を満たせずとも必要である花(山吹)と、腹を満たすことで戦をおさめる稲穂。
どちらも「黄金色の波」を作り出す「実り」であり、信康や道灌、そして「そうだったらいいなあ」と口にした村雲江の「祈り」を背負っているものです。
どちらの意味にせよ美しく、そして優しい歌詞だなと感じます。
また、曲のメロディについては作曲家である和田俊輔さんが自身のVoicyチャンネルで語ってくれていましたが、これがまたいい話だったので、聞き逃している方はぜひ聞いて頂きたいです…。
この優しい歌詞を活かすやわらかなメロディはこうして作られたのか!と感動しながら聞いていました。
ニューシングルについて音楽的な解説をしました😌
— 和田俊輔 Shun Wada (@wadasyun) 2021年5月24日
まさかの30分長編に!!
ごめんなさいー😭!!
---------
ミュージカル刀剣乱舞『問わず語り』の、作曲目線なひとりごと - 舞台音楽作曲家 和田俊輔https://t.co/gXUkgGGHLd#Voicy
個人的には最後の歌詞のメロディの話がものすごくぐっと来たので、⑤まで聞いて欲しいですね…。
「聞いて欲しかったひとりごと」がどんな「ひとりごと」なのか。歌詞を見て作られたメロディに込められた想いを知ることができます。
もっと『問わず語り』が好きになる、そんな素敵なお話でした。
2部のはなしをしよう
前回、前々回はとにかく1部の考察とか感想で忙しかったのですが、今回ついに2部に触れていきます!!
といっても、2部に関しては考察というより簡単な感想になるのですが。
初見では全員衣装がここまでバラバラになると思わなくて戸惑った記憶があります。
でもよく見てみると、全員衣装のどこかにあおさく組とかつはもの組に使われてるあの和柄の生地が組み込まれているんですね…!!*6ちゃんと共通点あった!!
それぞれの特徴にあわせたテーマで曲が提供されているのも良かったですし、あと8振り同時に歌う曲が多めなのもうれしかったです。
特に『ETERNAL FLAME』がサイコーーーーに好きです。たのしすぎる。
第3形態もすばらしかった。はやくあの衣装で『獣』踊って欲しいですね…!!!!
個人的には大典太と御手杵と兼さんに並んでミュ三大股下男士を結成してほしいです。
江と夢~葵咲本紀を添えて~
2部はそれぞれの特徴にあわせたテーマの曲があった、と先ほどお話したのですが、その中でも特に印象的だったのが江の『I want to be here』です。
メロディのアイドル感もさることながら、この曲のサビがどこまでも江。
「僕らの先は夢 誰も邪魔できない
手にしたその鍵は 重ねた奇跡
扉の先は未来 無限に広がる
Ah みんな一緒なら」
最初聞いたとき、ジャ●ーズ?????となるくらいアイドル感ばりばりのキラキラソングなんですが、ここで「夢」というキーワードが江にあてはめられているのがエモくないですか……???
「夢」は江にとって大事なテーマです。
というのも、江として初登場した篭手切江があおさくで「夢」というキーワードを背負っていたから。
初めて舞台に出る際に歌ったのは『未熟な私は夢を見る』……最初は篭手切江のみのすていじでしたが、音曲祭で豊前江・松井江・桑名江を加えたまさに「夢」の状態で披露されました。
ここで「夢」が叶った!と思いきや、サビが終われば他の江たちは退場し、あれはまだ篭手切江の「夢」であったことがわかります。
また、あおさくの見せ場である稲葉江との対話シーンで歌われたのは『夢語り』です。
ここで篭手切江は怨恨に身をゆだねる稲葉江へこう語り掛けます。
「哭いてもいいです 嘆いても構わない
ただ見失わないで… 共に共に夢を見ましょう」
いつか江が揃って歌って踊ることを「夢」見る篭手切江が、自分の物語や江のことを忘れてしまったかつての仲間へ、「共に夢を見ましょう」と語りかける。
江にとって「夢」は「江であること」と繋がっているのではないかなと。
「夢は見るもの/見るために在る
夢は語るもの/物は何を語る?
夢は共に/影だろうが
目指すもの/在るものは在る」
そう考えると、『夢語り』のこの歌詞はすべての江へ向けられていると考えてもいい気がします。
しかもこの歌詞のパート分け、「夢」の部分がすべて篭手切江なんですよね。
そして必死の語り掛けに呼び戻された稲葉江を闇から解放するのも篭手切江の台詞です。
「また、一緒に夢を見ましょうよ、先輩」
江は【江だと思われる無銘の刀】の集まりです。
それは自分たちが江だという「夢」を見て、「夢」を語り、「夢」を共に目指すから実現しているのかもしれません。
あおさくで稲葉江を呼び戻し、歌合では桑名江・松井江の顕現に深く携わった篭手切江が誰よりも「まぶしいすていじ」を「夢」を見ているから。
こう考えると、今作で江が歌った「夢」というキーワードが大変にエモい。
『未熟な私は夢を見る』の篭手切江は最終的にまだ「夢」を叶えられていません。
でもこの心覚で集まった江は、その「夢」を叶えて、歌として語り、共に目指しています。
「みんな一緒なら」自分たちの先にある「未来」は「無限に広がる」と歌っているんですよ……。
そして曲のタイトルともなっている言葉が『I want to be here』……「ここに居たい」という確固たる意志。
「ここに立ち続けられるのなら すべて越えてやる」
「散り散りの想い集め ひとつになった今を
心に刻んで 目に焼き付けて
ずっと I want to be here」
この辺とかもう歌詞が江そのものじゃないですか……。
キラキラアイドルソングかと思いきやテーマが深い。それが江。
篭手切江……ここに江はいるよ、「夢」を歌い、「夢」を見ながら、ちゃんと存在しているよ……。
江が6振り揃う時を楽しみにしつつ、今後なにが起こるのかをおびえて待ちたいと思います。
清らかな水と見えないもの
今作は1部と2部の最後が繋がっていました。
ここの時間軸については前回考察した通りです。
もっとも分かりやすい演出として、2部の最後に舞台上へ集まった時間遡行軍が明らかに客席側…つまり、現代に居る我々の方を見ている、というものがあります。
1部冒頭では客席に視線を向ける前に結界に阻まれ、1部終盤では中央に降り注ぐ砂の方を向いている遡行軍が、2部の最後では此方側を向くのです。
「正しい歴史」という「大きな川の流れ」の水を濁す存在が、いまこの現代に降り立った。
その瞬間、濁った水を一瞬で清らかなものに変える澄んだ音と共に現れるのが水心子正秀です。
とにかく水心子正秀の刃は研ぎ澄まされています。魚も棲まないほどに。そして、月が宿るほどに。
あそこは何度見てもかっこよすぎて背筋が震えます。
2部で盛り上がった心を一瞬で現実に引き戻して、刀剣男士の役目と強さを見せてくれる。
水心子が口にする「刀剣男士の誇り」とはこういうことを言うのだなと感じる、大好きなシーンのひとつです。
カーテンコールでは各登場人物が姿を現します。
その中には名もなき雑兵と共に、あの仮面の少女も登場します。
しかし、少女はそこにしか現れませんでした。
最後、刀剣男士が『刀剣乱舞』を歌う時も、挨拶をするときも、去っていくときも。
少女は名もなき雑兵と共に現れたのみで、姿を消します。
「見えなくなった」と言った方が適切でしょうか。
刀ミュは挨拶の時も物語としての姿勢を崩さない作品です。
1部の最後で水心子にも認識できなくなった少女は、カーテンコールの一瞬のみ(存在していたかしていないかわからない)名もなき雑兵たちと共に姿を現し、また見えなくなったのではないかなと。
ほんの一瞬だけ、あそこでも道灌と同時に存在してるんですよね、仮面の少女。
それはそれとして、カーテンコールの仮面の少女のキレッキレのダンス、かっこよかったな……。
想像力と東京心覚
改めて見てみると、やっぱり東京心覚は一度見ただけでは捉えきれないものが多く散りばめられていると感じます。
私はこうして独り言を書き散らすことは慣れているのですが、他者へおすすめする巧い言い回しなどは思いつきません。
なんか…すごくいいから見て……という語彙力のかけらもないおすすめ文が出来上がります。
この作品に関して理解を深めるために、様々な物語を読んだり思い出したりしているのですが、一番最初に思いついた物語について少し触れてみたいと思います。
この【明確な答え】が示されない、わっかんねー!と思うと当時に想像力を搔き立てる作品を見た時、脳裏に浮かんだのは「想像力を使いなさいよ」という、とある物語の台詞でした。
これはハイム・ポトクの短編小説である『ゼブラ』に出てくる台詞です。
『ゼブラ』という題名に聞き覚えのある方もいるかもしれません。これは中学の国語の教科書に掲載されていた短編小説です。
『ゼブラ』は事故で挫折した少年(ゼブラ)が、同じ傷を持った美術の先生(ウィルスン)に出逢い、想像力を使いながら互いの傷を乗り越えていく話です。
この美術の先生が絵を描く子供たちへ語り掛ける言葉に、「かこうとするものの輪郭を見るのではなく、その輪郭を包む空間を見ること」というものがあります。
輪郭そのものではなく、それを包む空間を見る。
目に見えるものをそのまま受け止めるのではなく、見えるものを包む空間、つまり「想像力」を駆使して目に見えないものを見る、ということです。
学生の立場から見ると、ここテストに出たら嫌すぎますね……教育用語だと「象徴認識力」と呼ぶようです。*7
『ゼブラ』における「想像力」について研究している論文には、美術の先生の台詞に対しこう記されています。
輪郭とは、ある既存の概念やことばを通して個物を個物としてとらえること、つまりあらかじめ概念的に規定されている目なら目という輪郭、唇なら唇という輪郭で事物をとらえ、理解した結果に過ぎない。事物が輪郭として概念的に現出する以前の、「線」「丸み」「形」へと視点が転換されることで、既存の事物の概念的な理解は揺さぶられ相対化されていく。(中略)
そして、ウィルスンは、輪郭を包む空間を見ろと言っている。これは、既存の概念的な輪郭として個物に捉えられていることから脱却し、輪郭にこだわらず、個物に溺れない全体性への視点を持つことである。
中村哲也.教材「ゼブラ」と思春期の心の成長──共感と回復──.福島大学人間発達文化学類論集.第8号,p21-32,2008(福島大学学術機関リポジトリ)hdl.handle.net/10270/2025 ,(参照 2021-05-29)
私は『ゼブラ』から「想像力」を駆使して、見えているものを包む空間を見ることを学びましたが、この論文を読んでみると「線」や「形」といった輪郭以前のものを見つめることで全体性への視点を持つという点が今作の水心子の行動に繋がっているようにも思えます。
さらにいえば、物語という輪郭ではなく、その中にある刀剣男士や歴史上の人物の想いへ目を向けることで、なんとなく作品に込められたものを感じ取れたような気がしています。気がしているだけですが。
この考察も感想も正解ではありませんし、私個人が感じた『東京心覚』でしかありません。
でもこれが「間違い」なのかと問われると、それもやはり違います。
「みんな、何が【正しい】なんて無いんだ」
この水心子の言葉がすべてです。
最初は何も見えなかったのに、いつのまにか温かくて、ふわふわで、とても優しいものになっていた東京心覚。
こんな時代になってしまっても、こんな時代だからこそ出逢える物語がそこにはありました。
出演者・スタッフをはじめとした関係者はもちろん、観客であった審神者のみんなも頑張ったんだって、最後の最後に刀剣男士から褒めてもらえて、拍手までもらえたから、やっぱりこの歴史は守る価値があるものなんだなと思えました。
この2か月間、ずっと想いを馳せて、心を揺さぶられ続けた物語。
間違いなく、この先の人生をそっと支えてくれる名作に出逢えたと思っています。
この先立ち止まったとしても、心覚のことを思い出せば前を向けるし、笑顔を増やすこともできるはず。
ありがとう、東京心覚。ありがとう、ミュージカル刀剣乱舞。
シングルCD、アルバム、円盤の発売を心待ちにしながら、はからずとも長編となってしまった考察と感想を一旦区切りたいとおもいます。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
また次の考察と感想でお会いできることを願って。