これは水です

これは水です

言葉の流れに身を任せながら

生まれた理由を問い続ける歌~歌合 乱舞狂乱の考察と感想(後)

 

さあ楽しい歌合考察と感想ついに後編の時間です。
今まで勢いだけで前編・中編を書いてたんですけど、後編は難産でした。そうこうしてるうちに江戸城始まっちゃったし何ならそろそろ終わる。いらっしゃいませ大般若さん。出会って3秒で口説かれた。

 

前編(神遊び~根兵糖+ライブパート①まで)

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中編(篝火講談~梅theWay+ライブパート②まで)※2/26 URL修正済

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果たして後編で終わるのか?広げすぎた風呂敷はどこまで畳めるのか?そもそも脳内HDDの記憶はまだ残っているのか?
気力vs記憶の戦い、その決着をどうぞご覧ください。BGMはドリフの盆回しでよろしくお願いします。
いつも通り長々と書いているのでお時間のある時にでも眺めていただければ幸いです。

 

 

 

 

 

歌合 乱舞狂乱 後編

もうここで言う事はねえ……ただこの後編、前編の倍くらい文章量があるから気をつけてくれ……!!!!!スクロールバー頑張って!!!!!!!!

 

 

 

 

 

 

 

美的風靡

ぬばたまのわが黒髪に降りなづむ

天の露霜 取れば消につつ

万葉集・巻七 作者不明)

訳:空から降って私の黒髪に積もった露霜は、手に取ればすぐに消えてしまうのだなあ。

 

 

 


美の巨人たち

いや美人が過ぎる。
実装されたばかりの軽装を信じられないクオリティで叩きつけてくるの何??審神者のライフが尽きる音がする。
許容量を超えた美人集団が濡れた髪を拭く様、絵画にした方がいいと思います。私も髪を吹き抜ける時津風になりたいよ。あなたに会えた幸せ感じて風になりたいよ。
そんな美術鑑賞タイムからまさかの音楽鑑賞タイムになるとは思わないじゃないですか。堀川くん。あなたですよ。
えっ本当にもうなに??初見の時すごすぎてずっと口を開けてみていたんですけど、大千秋楽でも見逃しパックでもやっぱり口が開いたままでした。セサミストリートのアーニーみたいな顔で見てた。*1
何がすごいって堀川君、あれ生音ですよね……。私物らしいという話を聞いて更に????
歌もうまけりゃ楽器もうまい。もちろん兼さんのサポートは完璧。助手としてあまりにも出来すぎでは???
でも胡麻油を髪に塗ることは止めないあたりがいい味出してると思います。甘いだけじゃない、ちょっぴりスパイシーな脇差堀川国広
この話は思い出すと大体後半の土方組ディナーショーに持って行かれてしまうので、頑張ってその隙間を考察していきます。

 

 

 

椿油に込められた祈り

今回この話のメインとなるのは、青江が使っている椿油でした。
風呂上りの井戸端会議。その常連として居るはずの千子村正の不在。彼が未だ長期任務中であることが青江から明かされます。
つまりこれは三百年の子守唄の後、葵咲本紀の最中の出来事。酒井忠次としての役目を終えた青江が、井伊直政本多忠勝として役目を続けている千子村正蜻蛉切の無事を祈り、村正から貰った椿油を使い続けているという話です。
いや歌合の三百年メンツ……関係性がこう……めちゃくちゃ尊くないですか……ウッって声出ちゃう……。

 

椿油は文字通りツバキの種子から取り出した油のことを指します。名前からするとツバキの香りがしそうですが、実際は仄かな油分の香りしかありません。
他の油に比べて乾きにくい性質があるので、食用だけでなく保湿に使われることでも有名です。髪はもちろんのこと、肌に使うこともできます。
昔から日本で作られていた特産品の一つであり、遣唐使に持たせる土産物の中にも椿油があったとのこと。ただ、その頃は「椿」という名前ではなく「海柘榴(海石榴)」と呼ばれていました。
これは日本から唐へツバキが渡った際、唐にあった柘榴と似た実を付けることから「海を渡ってきた柘榴」として「海柘榴」の漢字があてられ、それがそのまま日本でも使われるようになった為と言われています。*2

 

ツバキは『日本書紀』において、その記録が残されている。景行天皇が九州で起こった熊襲の乱を鎮めたおり、土蜘蛛に対して「海石榴(ツバキ)の椎」を用いた。

これはツバキの材質の強さにちなんだ逸話とされており、正倉院に納められている災いを払う卯杖もその材質に海石榴が用いられているとされている。
733年の『出雲風土記』には海榴、海石榴、椿という文字が見受けられる。

 

ツバキ - Wikipedia

 

このように、ツバキ自体は古来から日本に自生していた植物でした。『続日本記』(797年)にも「渤海国ノ使者 都豪ノ来レルニヨリ、海石榴油ヲ贈ル」という表記があります。
この「海柘榴」という字がなぜ「椿」に変わったのか。それはツバキが厄除けや不老長寿の医薬品の素材に使われていたことから、中国の伝説にある大木「大椿(ダイチン)」から取った漢字を充てたのではないか言われています。*3
大椿はその伝説になぞらえて、長寿の意としても使われる言葉です。「大椿長寿」という四文字熟語もあります。「椿」は不老長寿の医薬品の素材として使われていたツバキに相応しい漢字と言えるでしょう。

 

よく「武士は首が落ちることを連想させる椿を嫌った」といった話も聞きますが、これは明治時代以降の創作だそうです。
豊臣秀吉茶の湯で椿を好んで使ったといいますし*4、2代目将軍の徳川秀忠も椿を好んだことで有名です。特に秀忠の影響は大きく、この頃から江戸時代の芸術に椿が多く取り入れられることとなりました。また、同時に椿の栽培も一般的に広まり、様々な品種が生まれました。*5
秀忠といえば葵咲ですよね……ここまで見越して、「先に帰還した青江が、(後に椿を好むようになる)秀忠が跡を継ぐことになる時代で任務をこなす村正派の無事を祈るために、村正から譲り受けた椿油を使っている」という設定を考えているとしたら……???
それ以外でも、「厄除け」の素材として使われている椿からとれた油で願掛けする、っていうのもこう……無事を祈る意味が込められてるよねってなります……。
刀ミュくん、本当に底が深すぎでは……???深淵すぎて深淵からもこっちが見えないよ……深淵も感動して泣いてる……。そして花関連のテーマが強い。

 

 

 

♦向かい風と追い風

ここまで散々花の話をしてきたのですが、この話のテーマはタイトル(美的風靡)にもある通り、「風」にあります。

「濡れた髪 乾くまで
 夕涼み 時津風

このように、劇中歌にも「風」という言葉が出てきます。しかしこのサビの歌詞、めちゃくちゃ美しくないですか……声に出して読みたい日本語……。
話を戻します。時津風には「ちょうどいい頃合いに吹く風」、つまり「順風」という意味があるので、この場合、濡れた髪を乾かすように吹いてくる夜風、といった考え方ができます。
そして、この風には彼らの髪を乾かすドライヤーの役目だけではなく、「風が運ぶは便りか祈りか」という歌詞からもわかる通り、「無事に帰って来て欲しい」という皆の祈りを届けるという重大な役割があります。

「願掛けなんて性に合わねえ
 けど仄かな香りが風に靡き届くのなら
 それも悪くねえと思った」

これは兼さんのソロパートにある歌詞なのですが、ここがすっごい肝になっていて。
濡れた髪に椿油を塗って、蜻蛉切と村正が無事に帰還するように、という願掛けをする青江に対して、最初は「俺もやる」と自分から言い出せない兼さん。対照的に蜂須賀は「俺も借りていいか?」とスマートに尋ねていました。
蜂須賀ってこういう時、先陣を切っていける意志の強さがあるよなあと幕末天狼傳と重ね合わせて思うわけなのですが(「御免!」のシーンでワンワン泣いた審神者の感想)
対する兼さんは素直になり切れないところが兼さんだなあ~!!!という感じ。でもそれは当然というか。
兼さんは土方さんの傍で「反骨の刃」として息づいていた記憶が隆起された存在です。新撰組という「時代の風」に逆らい、常に強い向かい風に吹かれながら生きてきた者達の影響を強く受けています。
加えて元主である土方さんもバラガキ精神が生きている、意地っ張りな面が強い人だったので、差し出された手を素直にとるかといったらそうじゃない訳ですよ。
コミカルなシーンに見えますけど、すごく繊細に「新撰組土方歳三の刀だった和泉守兼定」を表現してるなあと感じます。


兼さんも土方さんも、そして新撰組も、向かい風の中で決して諦めず進み続ける精神を持っています。先が見えずとも抱いた夢を手放さず、叶うと信じて。

「吹き荒れる怒涛の彼方に何があるのだろう
 俺は走り抜ける 叶わぬ想いがあるものか」

これはむすはじの刀剣乱舞Cメロの土方組の歌詞ですが、ここでも風を感じています。「怒涛」だけだと荒れ狂う波ですが、「吹き荒れる」が先に来ているので、ここは「疾風怒濤(怒涛は略字)」の意味を持つと考えます。
「疾風怒濤」は激しく吹く風と荒れ狂う波を意味する四文字熟語ですが、「時代が激しく変化する」ことを形容する言葉でもあるんですよ。もうめちゃくちゃ新撰組。そしてエノミュ。
「時代が激しく変化する」なかを、「俺は走り抜ける」と宣言する兼さん。向かい風上等!って感じ。幕末の時と同じ歌詞なのに意味がまた違って聞こえるのすごいですよね……。
そして極めつけはむすはじの劇中歌だった「倒れる終焉」の出だし、土方組のパートです。

「同じ景色を目に焼き付けて 同じ痛みを分け合って
 同じ景色 同じ痛み
 同じ風に吹かれよう 同じ風に吹かれよう」

おわかりでしょうか……兼さんにとって、「同じ風に吹かれる」ことは「共に駆け抜ける仲間」という意味があるんですよ……。
当たり前だよコノヤローって話だったら申し訳ないです。私はここで気づいてアーーーー!!!!!と五稜郭の方角に向かって叫びました。
そんな兼さんが「祈りを込めた仄かな椿油の香りがこの風に靡いて仲間の元に届くのなら、それも悪くねえ」と思ったの、エmmmmmッモくないですか……だって兼さんがいま感じてる風に乗って届くってことは、届いた先に居る彼らも同じ風を感じるってことじゃないですか……。
しかも時津風には「順風」、つまり「追い風」。背を押す役割がある。その風に乗って、彼らの戦いが無事終わり帰還してくれますようにという祈りが届けばいい。はっきり言葉にせずとも、この歌からそんな兼さんの仲間想いな一面がバチバチに伝わってきます。

 

正に「想いは言葉に、言葉は歌に」……いやほんと良すぎる。なにこれ。書きながら泣いてます。
あと、いま吹いている風を感じ続けることは仲間の証だけど、一瞬だけ 吹く風は追憶*6というのも、風を感じて生きてきた刀らしいなと。せめて願い叶うなら……ともに野を駆ける……。

兼さんからは離れますが、風が仲間を現すという点については石切丸も通ずる部分があるのかなと思います。刀剣乱舞の石切丸の歌詞も風が入ってますし、戦を嫌う彼はいつだって仲間のことを想っているから……。

 

 

 

 


♦余談~花鳥風月~

花の香に昔を懐かしみ
鳥の囀りに耳を澄まし
風に散る草葉の露に袂を濡らし
月傾く雪の朝に春を想う


歌合の序盤で判者の鶴丸が語ったこの言葉。これよーーーくみると「花鳥風月」で四季を表現していますね。今更気づいたのでちょっと掘り下げます。

を表すはミュ本丸における生者のテーマ。
を表すは仲間のモチーフ。
ではは?
現在のミュ本丸であればやはり鶴丸国永三日月宗近なんじゃないかなと。


「花鳥風月」は四季折々の風物を表す「花鳥」と、自然界の風景を表す「風月」に分けられます。つまり、ミュ本丸であれば風物側は鶴丸が、自然側には三日月がセットになっているような形です。
そして「花鳥」は花や鳥といった風物を詩歌等の芸術の題材にするときに使う言葉でもあります。対する「風月」は自然の風景に親しんで詩歌を作ることや、その才能を指す言葉として使われます。
詩歌の題材と、詩歌を作ること・その才能。夏と冬。互いに繋がってる~~まだ本編で出会ってないのに~~。季語としての鶴は冬だけど敢えての夏という。


あと歌合の話も「花」と「風」が主題になっているものが多いですね(根兵糖はどっちかわかりませんが)最後の小狐丸に至っては主題が「月」。「鳥」は判者である鶴丸そのものとしたなら、ここにも「花鳥風月」がある。

 

更なる余談として、むすはじの劇中最後に歌われた「序章」が本編に繋がってるなあと思った話も。

「これは序章 物語の始め
 いつか成る 極限へ一歩
 導くのは星か?月か?
 風か?渡る波か?」

これは「序章」の出だしなのですが、この「導くのは~」のあたりが、

  • 「星」=天狼星→幕末
  • 「月」=毎度おなじみ三日月宗近(暗躍含む)→阿津賀志山~つはもの
  • 「風」=同じ風に吹かれる・吹き荒れる怒涛(疾風怒濤)→むすはじ
  • 「波」=果てしない大海へ繋がる水脈*7→三百年

に通じてるようで、今までは序章だったのか……そういえば葵咲から刀ミュ第二章って言われてたな……と思いました。
ではミュ本丸における極限とは一体なんなのか。これまでの話からすると三日月宗近に関することのような気がしてなりません。極限、極月、極夜。どれも不穏。
極月は師走、つまり冬です。冬の月。極夜は明けない夜……つまりEndlessNightですね……。対義語は白夜です。驚きの白さ。しかも極夜は冬、白夜は夏ですよ。何処をとっても対比されてる……。

 

土方組ディナーショーの話だったのにまた脱線してしまった……。
ちなみに歌合みたあと椿油買った審神者ぜったい居ると思いますけど私もそのうちの一人です。推し(村正)のおかげで髪の調子がすこぶるいい。

 

 

 

 

 

 

 

ライブパート其の三

♦描いていた未来へ

 刀剣男士が生きているエネルギーを全身で感じさせてくれる歌。春夏秋冬を感じながら「生きるんだ」って笑う姿、めちゃくちゃ尊くないですか????
この歌のBメロがすggっごい好きなんですよ……春の花ってつまり桜で、顕現した時に降る桜吹雪のことじゃないですか……夏の風は兼さんと同じように仲間の意なのかなって思ってて……刀剣男士として顕現したことを「作られた」ではなく「生まれてきた」って表現することがもうエモさトップギア
三条の眩しさで浄化されるし加州くんのとこ安定が歌ってたりしてエモエモのエモじゃん……ていう。
仲間を想う話を経ての「描いていた未来へ僕らは行くんだ」ってこんなきらきらして歌われたらそりゃ泣く。審神者の体液枯渇寸前問題。
あと誰よりも元主が描いていた未来、新しい時代を見据えて戦うことを選んでくれたむっちゃんがこの曲に参加していたのも「「「理解」」」が深すぎました。そういうとこだよ刀ミュくん……ありがとうございます……。

 

 

 

 

 

 

 

小狐幻影抄

ふたつなき物と思ひしを水底の

山の端ならでいづる月かげ

古今和歌集・八八一 紀貫之

訳:こんな美しい月はこの世に二つもないと思っていたが、山の端でもない水底にも月が出てきている。

 

 

 

♦昇華と跳躍の物語

驚愕と感動。この言葉に尽きます。
ライビュだとカメラに割ともう一振りが隠れてる姿映ってしまってましたけど(円盤ではせっかくなので別アングルを採用して頂きたい)、最初現地で正面から見てた時は入れ替わりのタイミングもわからなくてマジでびっくりしたんですよ……。
えっ小狐丸二振りいるじゃん?!!えっさっき消えたのにえっあっちから出てきた?!!えっ!!?みたいな。もう完全に明石と同じリアクション。
しかも初見だと二振りの大きな違いに気づけないので余計にびっくりしました。CGでもないし何?!!!マジで狐に化かされたんだが??!!!って。
しかも音声と動き合いすぎてたじゃないですか……見事に化かされました……。

 

そんな衝撃を受けたあと刀ミュを履修して、阿津賀志山の巴里公演で何があったかを知って。それから見るこの話は初見の時とは全然意味合いが違いました。
長期公演における何かしらのトラブルは生きている人間が関わる限り避けられないものです。でもそれをこんな風に本編と融合させて更なる跳躍の場とするの、あまりにも素晴らしすぎて何ですか……?????
脚本を書かれたのが御笠ノさんのお弟子さんとのことだったんですけど、さすがとしか言いようがない。これまでの本編を踏まえた伏線の回収と昇華の仕方がすごすぎる ……。
刀ミュを知る前と知った後で二度美味しいし、味わいが増す。寝かせたカレーだと思ってたら実は秘伝の継ぎ足しタレだったみたいな……例えがひどくて申し訳ないですけど……!!!!

 

 

 

♦狐や遊べ

かつて本丸で起こった小狐丸の小さな(大きいけれど小狐丸という台詞のオマージュにも取れる)事件について語られる今作。別名:狐面つけた四振り可愛すぎ事件。
明石が来る前の話とされていますが、そう見ると御手杵って割と初期から顕現してたんだなあと。堀川くんと長曽祢さんは幕末から居るし、鶴丸は既に阿津賀志山のあたりで長期の別任務に就いてたっぽいし、その辺と一緒に出てくるということは御手杵もずっとミュ本丸に居たってことですよね。
確かに葵咲でも後から合流したとき蜻蛉切に「御手杵!!」って親しみを込めて呼ばれてたし、旧知の仲なんだなというのは伝わってきましたけど、改めて初期から本丸に顕現してたんだなーと感じました。

 

この話のテーマは「表と裏」。序盤の『狐や踊れ』では翁と神、武者と亡霊、乙女と狂女、鬼と獣。それぞれ対になる存在になぞらえて「この世と狐には表と裏がある」という言葉で締めくくられます。
これが後に出てくる四振りになると

  • 長曽祢→偽と真=贋作と真作、及び新撰組の「誠」も掛けていると思われる
  • 御手杵→夢と現=己が焼失するときの夢、そして一度消えた筈なのに存在している現在
  • 堀川→般若と菩薩=優しそうに見えて闇討ち暗殺お手のものである面、新撰組鬼の副長であった土方さんの厳しさと優しさ
  • 鶴丸→死者と生者=墓の中で死者と眠っていた記憶と生者に掘り起こされた後のいろいろ

という個々が抱える表裏の言葉に変わるのもいいですよね。この世と狐のうち、この世側の表と裏。それが本丸に顕現していたこの四振りに宛がわれるの綿密じゃん……。
しかも全員それを傷跡や遺恨として自ら見せつけることがなく、一見表と裏があるようには感じられないのがまた……国語と歴史の授業か……????


これは表と裏に関係ない話なんですが、鶴丸が歌う「神の気まぐれか」ってところめちゃくちゃ好きなんですよ~~~「気まぐれ」の「れ」のとこの巻き舌が死ぬほど楽しそうで鶴丸国永すぎる……本当は狐だけど……。
あと狐面の中身の口元が見えてるデザインも良かったです。鶴丸の口元ずっとニヤニヤしててうわーーー鶴丸国永ーーーー!!!!ってなりました。
「狐にゃ表と裏がある」のとこの振り付けも良すぎませんか??!!小狐丸二振りでやるのとこの四振りでやるのとだとまた違った魅力があって……特に御手杵の脚が長すぎてステージの半分を覆ってた……すぐ股下の話をしてしまう……。
「コン!!」って出てくるところもみんな可愛いですよね……あれみんな垣根に隠れて一瞬で狐面つけてくるの早業!!って感じなんですけど、映像だとそこが映ってなかったので円盤で何卒……何卒……。
踊るから遊ぶに歌詞が変わってるところも、序盤の『神遊び』で触れた「舞」や「遊び」が神に捧げる鎮魂の意味を持つってところと繋がってそうでわくわくします。

 

 

♦真打と影打、表と裏

「さてさて、これが真打かな」というのはボスマスに辿り着いた時の小狐丸の台詞ですが、この言葉と共にもう一振りの小狐丸が現れる演出には鳥肌がたちました。
真打とは一般的に最も実力のあるものを指します。この場合も、ボスが一番強い=真打という意味合いになるでしょう。
しかし、日本刀における真打とは一番出来の良い刀、つまり納めるべきところに納め、正規の名を冠する刀を指します。その対義語は影打、同じ素材で作られた製作者の手元に残される真打ではない刀。日の目を見るもの、見ないもの。正に表と裏です。
小狐丸を化かした狐の親玉との邂逅というシーンで台詞は原作通り(ボスマス到達)と思わせつつ、二重の意味を持った言葉として使われているとしたら……『ふたつの影』で歌われる「影なりや 我なりや」はそういう意味かなと……。


表と裏はミュ本丸の小狐丸にとってはお馴染みの言葉でもあります。
つはものの『あどうつ聲』や阿津賀志山の巴里公演での『向かう槌音』といった、小狐丸が劇中で披露する舞には「表に彼の名 裏には我が名」という歌詞が必ず入ります。これは小狐丸の伝承『小鍛冶』からとったものです。
『小鍛冶』はざっくりいうと、帝(一条天皇)の使いから刀を打つように依頼されるも、相槌を打てる者が居らず途方に暮れた三条宗近が稲荷明神に救いを求めたところ、影向の狐が現れ相槌を打ってくれたので小狐丸が出来上がる、という内容です。この時、三条宗近は表銘に己の名(小鍛冶宗近)と裏銘に小狐丸の名を刻んだとされています。
日本刀の表銘は刀工名が入っていることが殆どで、時代によって居住地、受領国名などが加わる場合もあります。
反対に、裏銘は制作年月日が入るのが一般的です。ものによっては所有者の名前や試し斬りをした結果が入っていることもあります。もちろん例外もあります。『小鍛冶』の小狐丸はその例外に該当するでしょう。


表銘がはいる「表」は茎の外側(左側)を指します。そしてこの「表」は太刀と刀で変わります。太刀は刃を下に向けて佩き(佩表)、刀は刃を上に向けて佩く(差表)ので、両者にとって「表」は真逆の位置にあるのです。*8
つまり、何方かの表が何方かの裏となる……表裏一体ともいえますよね。そして刀は溶ければ皆鉄となりひとつになる。「向き合えば影の如く 溶け合えば鉄の如く」表も裏もなくなるわけで……。
「溶ければ皆鉄よ」とは錬結時の小狐丸の台詞ですけど、これすごい台詞ですよね。自分も相手も鉄の塊だと把握している。小狐丸、主に対する懐き具合とは別に己のことはものすごく客観的に見ているわけですよ。

 

♦小狐丸が持つ客観性

ミュ本丸は勝負事の白黒がいつもつかない世界なのだと先輩審神者から教わりました。
確かに歴代らぶフェスも、今回の歌合も、まるで勝敗がついていません。歌合の最初、石切丸の話に出てくる囲碁ですらついていないのだと聞いたときは拘り~!!!!となりました。
本編においても、絶対的な悪というものがまるでない。敵として存在している時間遡行軍ですら、むすはじで心情を慮る場面がありましたし、葵咲でも「彼らの正義」という言葉が出てきます。
立場によって善悪が変わる複雑な構造は現実世界と似たものを感じます。物事は勧善懲悪で割り切れるほど単純ではないのです。


本編1作目である阿津賀志山異聞の中では、軽傷を負った今剣の対応を巡って隊長の加州清光と石切丸が対立するシーンがあります。今剣の心が動揺していたことにいち早く気づき撤退を提案した石切丸と、任務を遂行するためにたとえ傷を負っても突き進もうとした加州くん。
今剣が傷を負った責任が何処にあるのか、誰が悪かったのか。正解がわからない加州くんは小狐丸に「俺と石切丸、どっちが正しいと思う?」と問いかけます。
そこで小狐丸は「答えは知っていますが、やめておきましょう。それは自ら導くことで初めて答えになるものですから」と、明確な答えを出さず立ち去りました。
後に岩融が語った此縁性の教えで「何方か一方が正しいわけではない」と悟る加州くん。彼がこの答えに至ることができたのは、あの場で答えを出さなかった小狐丸の気遣いがあったからだと思います。
心に抱えた矛盾に定まった答えはなく、表も裏もない。それを知っていたからこそ小狐丸はこの行動をとることが出来たのでしょう。
小狐丸、1作目からこれですよ。心を得たことで戸惑い壁にぶつかる刀剣男士の中でもダントツの客観性を持っていることがわかります。


さて、彼の客観性はつはものの劇中歌である『守るべきもの』からも感じ取ることが出来ます。

「揺るがないのは 我らの使命」
「ここに在る意味 問うまでもない」

揺るがない。迷わない。使命に対して真っ直ぐなんですよね。三日月宗近も彼と対峙した時にその点を羨ましいと述べています。
持ち前の真っ直ぐさゆえに三日月宗近とはぶつかってしまう訳ですが、彼がやろうとしている事と真意(のようなもの)を髭切から聞いた後、小狐丸はそれを否定しませんでした。
三日月宗近がやっている事を正しいとは思わないが、間違っているとも思わない」という答えを出せたのは、感情だけに支配されず、理性を以て考えた結果なんだと思います。
しかも怒った理由が「任務を逸脱している」からなんです。誰かを傷つけたとか殺したとかじゃない、結果的にやったことが使命の域を超えているという。感情で怒ってるわけじゃないっていうか、圧倒的に理性で考えてるじゃないですか。ここが人間とは違うポイントかなと。

 

で、小狐丸は何故この考え方をいち早く得る事ができたのか、についてなのですが。これはこの話でも出てくるように、己の欲望を鎮める為に行っていた舞の稽古の中で辿り着いた答えなのではないかなと。
元々三条の刀は神格が高いというか、人間と乖離した視点を持っていると思います。その一つが客観性、自分が何者であるかの自覚です。特に小狐丸は稲荷明神の影向が相槌を打ったという逸話が元になっているので、その面が強かったのではないでしょうか。
しかし、人の身を得たことで生まれた欲望(油揚げが食べたい!)を制御することができず、欲望と理性の間で戸惑います。舞の稽古を通じて己の欲望と向き合ったことで、欲望も刀剣男士としての自分の一部なのだと悟り、より客観性が研ぎ澄まされた結果が現在なのでは?
この悟りを得たきっかけこそ、今回のこの事件。もう一振りの小狐丸が目の前に現れたことなのではないかと。
たぶん阿津賀志山の時はこの事件後だったからああいう気遣いができた。巴里公演での舞の稽古は己の為ではなく、主に披露するためでしたしね。*9
最初は自分と向き合う為に行っていたことが、やがて主の前で披露するくらい上達しているの、共に過ごす時の流れを感じて良いですね……。


あと「月光に宿る影はふたつ」っていうところ、照らす月は満月なんですよね。ここ、三日月と対比されてるなあと。
鶴丸三日月宗近は立ち位置が真逆(太陽と月)の対比ですが、小狐丸と三日月宗近は近くに居るし見ているモノは同じだけど違う(満月と三日月)、というんでしょうか。俯瞰して見えるものは鶴丸が、傍で見えるものは小狐丸が拾っているような。対極と対照というか。拙者、Timeline大好き侍と申す者だがニホンゴムズカシイネ…。
いやこれ、後出しのはずなのに綺麗に前と繋がってるの本当こう、すごいとしか言いようがないですね……。

 

 

 

♦人なりや物なりや

「物なりや 人なりや」
デン!!真剣乱舞祭2016で何度も三条の刀たちが問いかけていたヤツ~!!!!
どの祭よりも一番彼岸に近かった(当社比)2016年の祭ですが、そこからまさか持ってくる?!という話。
あの時も小狐丸は最初狐面をつけていましたね。ていうか神様側の三条めちゃくちゃ怖かった。神隠しだよあんなの。
刀という物なのか、肉体を得たから人なのか。彼岸と此岸、どちらに属するのか。元主への想いが強く人寄りの新撰組の刀達と、不確かな伝説・逸話が元になったり千年以上も人を見守ってきた付喪神(物)寄りの三条。
この両極端だけど刀剣男士としては避けられぬ選択肢を、阿津賀志山と幕末を経た加州くんは「物であり人であることが刀剣男士」であるとして、どちらも選びました。
正解はない。表も裏もない。刀という物で、男士という人。物は理性、人は感情の比喩でもある。そのどちらも「自分」であること、抱えた矛盾を受け入れる。それこそが刀剣男士である、と。
小狐丸が先に得た悟りを、更に昇華して見せた加州くん。この結論があったからこそ、つはものでの小狐丸は三日月宗近を受け入れたのかなと考えています。

そしてこの「正解はない」という考え方はその後のらぶフェスにも引き継がれます。2017では完成しない百物語、2018では無勝負の東西祭対決へと繋がるので最早ミュ本丸の根っこにあると言っても過言ではない考え方です。

 

それから、劇中歌である『ふたつの影』で歌われる「神なりや 妖なりや」というところについて考えたことを。
神という存在は人による信仰がなくなると神格が堕ちて、妖の類になってしまうと言われています。つまり、神と妖は表と裏の関係性を持つわけです。

 

人々は「妖怪」を「神」に変換するために祭祀を行なう。
また、人々の祭祀が不足すると、「神」は「妖怪」に変貌することになるのだ。
(中略)
別のいい方をすれば、祭祀された「妖怪」が「神」であり、祭祀されない「神」が「妖怪」ということになるのである。

 

引用:小松和彦「魔と妖怪-祭祀される妖怪、退治される神霊-」『妖怪学新考-妖怪からみる日本人の心-』小学館,1994年,p163~164

 
ここで言う「妖」はこういった意味の他にも、刀剣男士が心にある闇を力として開放することにより、時間遡行軍と同等の禍々しさを纏ってしまうことも指しているのかなと。
文字通り、感情に溺れてしまえば敵の存在に等しくなってしまう。三百年の石切丸や、葵咲の村正がそうでした。闇落ちとまではいきませんが、あの強さと力は心を蝕む邪悪なものだと伝わってきました。
神に寄りすぎてしまうと受け取る信仰がなくなった場合に受動的に神から妖になってしまい、かといって人に寄り過ぎれば抱えた感情を制御できず能動的に妖側へ行ってしまいそうになる。
物であり人である刀剣男士にはどちらの可能性もある。だからこの問い掛けがあったんじゃないかなと。
ちなみに、逆に妖から神になるパターンもあります。ここに関しては葵咲の稲葉江がわかりやすい例だと思います。
「影なりや 我なりや」はこの神と妖を踏まえつつ、真打と影打の話に通じます。影=裏が居た証として、元々本丸に存在していた小狐丸の手元に残されたのは面=表だけ、という演出も最ッッッ高ですね……。

 

この事件について、小狐丸はこんな言葉を残しています。

「虚構も事実も表裏一体なのですよ。
 信じてもよし 信じなくてもよし。
 私は信じ、もう一振りの己を受け入れた。
 それもまた、よし」

もうほんと、アーーーーVersus----!!!!!!みたいな……「本当と嘘が絡まり合って真実さえもはや無意識だ」ですよこんなの……。
正解はない。何方を選び取るかは全て自分次第。それを他でもない明石に言うところが意味しかねえ~~!!!!
だって明石、最初から小狐丸のこと尾行してたじゃないですか。すぐばれてたけど。あれ恐らく、三日月宗近の行いを許している者を探ってるんだと思うんですね。
何方を選ぶのか、何方を捨てるのか、選択肢はそれだけではない。明石は己の存在意義を結構単純化して切り捨ててるところがあるので、こういう矛盾の話を聞かせることはすごく意味があるなと。
この話が今後明石が岐路に立った時、良き道しるべとなることを祈ります。

 

は~~書きたい事ありすぎて蛇行に蛇行を重ねましたね。スクロールバー、盛り上がってるー??!!!

ここ実はまだ全体の半分なんですよ。まだまだいきます。

 

 

 

 

 

 

 

ライブパート其の四

今回もおおかた大千秋楽の記憶を初見みたいに言ってます。辻斬りタイムあたりから記憶が入り混じりますのでご了承ください。

 

 

 

♦響きあって

はァ~~~~かっこよすぎるんじゃ~~~!!!!!!!!!!!イントロからかっこよすぎる音頭。もうめちゃくちゃ響きあってる。フィルハーモニー管弦楽団もびっくりするくらい響きあってる。
あの指貫手袋???京極夏彦がつけてるみたいなあれをこう、ぐっと引っ張ってカメラ目線で色気を散布する蜻蛉切is最高of最高でした本当にありがとうございました。
いやなんですかあの視線……根兵糖切どこいった……すごい、すごいセクシーデリバリー蜻蛉切……さすがは村正派の槍…………。
後方ステージのみほとせ組がぎゅってなってるの可愛かったですね……色気と可愛さ固めて回転させましたみたいな贅沢さでした……。
あとイントロで拳を合わせる幕末組もほんttっと……蜂須賀と長曾祢さん、兼さんと堀川くん……オ゛ッッッ……て呻いてしまう……。
この曲で一番すきなとこ、Cメロの掛け合いとそれに続くラスサビの英語のハモリなんですが、村正いないから誰がやるんだろ?と思ってたら兼さん!!!!!!!!!!!!!
脚が長い×歌がうめえ=かっこよくてつよーーい!!!!!!!!!!!!
 

 

 

♦百万回のありがとう

きました恒例辻斬りタイム。カメラは定まった場所を映すからそんなに目が忙しくない(そんなことはない)けど、これ現地だと首取れそうになったやつですね。目が100個欲しい。
だって四方八方から刀剣男士でてきたらそうなるでしょ……????時間遡行軍もびびるわよ……。
最初はなんかすごいありがとうって言われてるな……と思っていたこの歌も、みほとせを経たらエモさの塊になっているわけです。
「誰一人おいてはいかないよ」という歌詞で毎度救われた気持ちになります。こちらこそ手を取ってくれてありがとう。
あと初演では「今までありがとう」*10だったのが「十年後も二十年後もあなたと歩めますように」になってるのもいいですよね……そして極めつけは「千年後も二千年後もそばにいられますように」ですよ……人の一生を見守る付喪神じゃん…………ありがとう………。

 

 

 

♦勝ちに行くぜベイベー

初見殺し~!!!!!音源化されてねえ!!!!!!
タオルを振ってくれという指示がありましたが初見では無理でした。口を開けたままタオルを握ることしかできなかった……。まじで何処見ていいかわからん案件。
現地で曲終わりに蜻蛉切が目の前でお辞儀したのをみて「でっかいのにめちゃくちゃ丁寧なお辞儀する……」と思った記憶があります(失礼)
大千秋楽のあおさく組ニッコニコでSo Cute……って感じでしたね……明石が歌ってる時に肩をすくめる蜻蛉切可愛かったです。あと映像で見てると毎度篭手切くんの目線が完璧でファンサの神と化してた。秋に実装されたばかりでは……?!?!??!
これ二階席とか行くのも機動順なんですかね。らぶフェスのバクステ見てても思ったけど刀剣男士めちゃくちゃ走り回ってるな……すごい体力である……。
この辺の辻斬りタイムはTwitterに流れてくる各定点カメラ審神者の報告を全て合わせて上映して欲しいなと思います。何度も言うけど目が足りんのじゃ……。
 

 

 

♦獣

辻斬りからのトドメです。 審神者の命は儚い。
もうこの曲に関しては言葉で語るのも野暮というか……だってずっと殴られ続けてるじゃん……。なので感じたことを正直に書きます。
イントロで飛び出してきた今剣ものっすごい機動でしたよね??!!!何回転したの??!!そしてなんて美しい動き……!!!!!
2番を大俱利伽羅が歌ったのも真剣乱舞祭2017を彷彿とさせて演出アツすぎでは??!?!!となったところでぶち込まれる伊達組の絆アピール……。
みんな前方ステージにいると思ってたんですが伊達組だけ後方に居たんですね……次の舞台に行く二振りだけが……違う場所に居る……!!!
今回のライブパート見てて思ったんですけど、鶴丸と大俱利伽羅にとって挑戦の場がたくさんあったなと。次に持っていくもの、受け継ぐものを感じる……!!!
春の新作公演で、これまで先輩方から受け継いだものを更に新しい子たちに伝える役目を担った二振りだからこその挑戦があって、それを見届けることができたの、貴重だなとおもいました…。

 

あと問題のシーン。石切丸の手袋事件。あれはやばい。大太刀の打撃こわい。生き残れるわけがない。
だってあんな、「自分の色気ここ一番で出してまーーーーーす!!!!!」みたいな顔で、あんな、ドセンターであんな、やります普通?????
ライビュで見てたんですけど映画館の悲鳴「キャー!」じゃなかったですよ。「ピギ……」みたいな、みんな息も絶え絶えの悲鳴でした。死屍累々です。
だけど私あの、そんな石切丸の後ろで虎視眈々と己の出番を待つ蜻蛉切の獣感がやっべーーーー好きだったんですけど皆様いかがお過ごしでしょうか?!!!!
スポットライトの後方でひな壇に腰掛けながら前のめりで自分のパートを待つあの蜻蛉切の殺気っていうんですか?!背筋寒くなるくらいの気合っつーんですか?!あそこがむちゃくちゃ好きです……。
極めつけは最後の「己に牙を剥け」の小狐丸~!!!!!!!!!!!!!!野性ゆえ獣!!!!!!!!!
小狐丸のパフォーマンス、普段の落ち着いた理性と野性みのある凶暴さが共存してて好きなんですけど、この獣は完全に後者に極振りしててめっちゃかっこよかった……。

 

結論としては獣でしんだって話です。これも目が足りねえんだよなあ……!!!!!

 

 

 

 

 

 

 

かみおろし

さて、ここまで6つの歌を火にくべてきたわけですが。
これらの歌が、万葉集古今和歌集からそれぞれ3つずつ使われていることにお気づきでしょうか。

  1. 天地の神を祈りて我が恋ふる 君いかならず逢はずあらめやも万葉集・巻第十三 よみ人しらず)
  2. 世の中は夢かうつつかうつつとも 夢とも知らずありてなければ古今和歌集・九四二 よみ人しらず)
  3. 夏虫の身をいたづらに成すことも ひとつ思いになりてよりけり古今和歌集・五四四 よみ人しらず)
  4. 梅の花折りてかざせる諸人は 今日の間は楽しくあるべし万葉集・巻五 神司荒氏稲布)
  5. ぬばたまのわが黒髪に降りなづむ 天の露霜取れば消につつ万葉集・巻七 よみ人しらず)
  6. ふたつなき物と思ひしを水底の 山の端ならでいづる月かげ古今和歌集・八八一 紀貫之

万葉集古今和歌集、その違いとはいったい何なのでしょう。編纂時期が違うのは当たり前なので省きますね。注目すべきは収録歌の特徴だと思います。
一般的に、万葉集は内容が具体的・現実的であり、生活の中にある美しさや感動を素朴な表現で伝える歌が多いとされています。
対する古今和歌集は内容が抽象的・婉曲的で、現実離れした風流さを様々な技法で表す歌が多いといわれます。言葉遊びが多いのも特徴的です。

そう考えると、各話にあてられた歌、絶妙にイメージが合ってませんか……??
「懐かしき音」「梅theWay」「美的風靡」は現実、日常の話。「根兵糖合戦」「にっかり青江 篝火講談」「小狐幻影抄」は夢や過去、そして現実だったのだろうか?と思うような話。
夢と現、表と裏。それらを均等に火にくべ、神へ捧げたわけですよ。どちらか一方だけでなく、どちらも持つのが刀剣男士だから。

 

そして歌物語を焚き上げた篝火に向かって、判者と講師は「まれびとまだか」と問いかけます。
まれびと。こことは別の世界からやってくるもの。異なるもの。異邦からの客人。
前編でも紹介した民俗学者折口信夫は、「まれびととは何か。神である。時を定めて来り臨む大神である。*11」と定義しています。
この歌合でいう神は付喪神、つまりは未だ顕現していない刀剣男士であると考えます。時が満ち、条件が揃えば顕現する。その仕上げの場がこの『かみおろし』です。


鶴丸が語った「大和歌は人の心を種としてよろずの言の葉とぞなれりける」は古今和歌集の序文。全文は以下の通りです。

 

やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける
世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり
花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける
力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり・・・

 

引用:古今和歌集仮名序 - Wikipedia

 

これ、冒頭の『神遊び』で鶴丸が語った言葉と繋がってるんですね。最初と最後が繋がって円のようになっている。『菊花の約』のように。
これを想いによって呼び起こされる刀剣男士が語るからエモい。古典の教養がもっと欲しい。文法がいつまでたっても理解できなくてフィーリングで読み続けた学生時代のこと思い出すと悲しくなります。活用方法とかむずかしいよね。
「人の想いで紡がれた物語を縁(よすが)とし、この世に生まれ出るのは歌も我らも同じこと」という鶴丸の言葉、ほんともう存在意義そのものって感じでそっと手を合わせて天を拝むしかない。
さまざまな人の想いや逸話、伝説、歴史を物語る歌と刀。言の葉と歌の音が依り代になるもの。だから歌う。だから舞う。だって同じことだから。
なんでしょうねこの、日本文化と融合させながら彼らの、彼らだからこその存在意義を伝えられている感じ。今までにない感覚で新鮮です。
Twitterでも見ましたけど鶴丸に「これより先は神の領域」って台詞言わせたの本当に天才だと思います。一度は言われたい台詞なのわかる。

 

 

 

 

 

 

 

君待ちの唄

♦成長するモノ、呼びかけるモノ
さあ感想も最後の大仕上げに入ってきましたよ!!!!がんばってスクロールバー、アンタが死んだら(略)
歌合の中で一番大きな意味を含む『君待ちの唄』。神を降ろし、刀剣男士の肉体を創り、心を宿す儀式。
そもそも何故「歌合」なのに、これだけ「唄」なのか?これは漢字自体の由来によるものではないかと思います。
「歌」は漢文表現などで良く使われていたので、政治や儒学を通じて日本に入ってきた漢字です。対する「唄」は梵語が元となっており、これが仏教を賛美する歌という意味のサンスクリット語から来ているとされています。仏教色が濃いんですね。
また、「歌」は韻を踏む和歌を含めた音楽全般に使える言葉ですが、「唄」は伝統的な邦楽の場合に使われるという違いもあります。
つまり、『君待ちの唄』は伝統的邦楽に当てはまるということになります。なぜならこれは神楽であり、神に捧げる古典芸能でもあるから……たぶん。
そんなミュ本丸の伝統的な邦楽である『君待ちの唄』、その歌詞から色々と探っていきたいと思います。

 

一つ 心の臓が脈打ち始め(石切丸)
二つ 赤き血はめぐり巡る(小狐丸)
三つ 眼はまだ光を知らず(巴)
四つ 手足は別れ指をなし(青江)
五つ 耳は音の意味もわからず(大倶利伽羅
六つ 口はまだ言葉をもたず(大和守安定)
七つ その肺に空気を吸い込めば(和泉守兼定
君は産声を上げるだろう(蜻蛉切

 

胎児の成長過程とほぼ一緒ですね。
初期は心臓の形成から始まり、血が巡り、目や鼻ができる。中期に入ると手足の形が見えて指も形成される。耳も聞こえるようになる。
後期の最後には顔や体の形がはっきりとする。そうして生れ出た赤子は肺に空気を吸い込んで産声を上げる。
ヒトとしての身体を形成する唄の背後で、講師の二振りはずっと鍛刀の過程を歌っています。モノとして創られること、ヒトとして形成されること。同時に行わなければ「刀剣男士」にはなれない。
失敗したらどうなるんだろう?的な話をちらほら見かけたんですけど……失敗したらやっぱ時間遡行軍に持っていかれてしまうんだろうか……『かみおろし』が行われる直前みたいに……。


怖いので話を戻します。この歌い手についてなのですが、神に近い刀として『神遊び』でも最初を担った石切丸と小狐丸から始まり、次に続くのが巴、青江でした。
巴と青江は過去の真剣乱舞祭の進行役、謂わば主役でしたよね。向こう側にいる神をこちら側へ呼び寄せる『君待ちの唄』で、彼岸と此岸を繋いだ祭を担った二振りがこの次にあてがわれているの、意味がありまくりでは?!と興奮する審神者
更に大俱利伽羅、大和守安定、和泉守兼定蜻蛉切と続くわけですが。
大俱利伽羅は三百年で吾平の死を、安定は幕末で沖田総司の死を、兼さんはむすはじで土方歳三の死をそれぞれ目の当たりにしています。己と最も関わりが深かった人間の死を知っている。そしてそれを乗り越えて強くなった刀。
死をきっかけに生まれ変わったとも言える刀たち。そんな共通点がある気がします。
蜻蛉切は数を口にしていないのでこの七振りとはまた別なのでしょうが、葵咲で語り部のような役割を持つ主役でもありました。また、三百年では本田忠勝として家康、信康を育てる役目も果たしています。
生まれた人間を育て見届けた彼は死よりも生に近い。だから「産声」という最も目覚めと生命に近いパートを請け負ったのではないでしょうか。
あと単純に蜻蛉切の歌声がめちゃくちゃ生命力に溢れてるっていうのもあると思います。すごい迫力だったじゃないですか……あんなん産声いくらでもあげてしまう……。

 

 

 

♦ 宿るもの、祈るもの

大迫力の呼び声に応じるように曲が転調し、ここから一気にトランス状態になります。盛り上がることで神をよぶ。宿れ、祈れ、と踊り、歌う刀剣男士たち。
ここでは刀剣男士に宿るべきものと祈るべきものがそれぞれ分けられています。『神遊び』とちょっと似てますね。

宿るもの=刀剣男士としての役目

  • 生命(篭手切江)
  • 形(御手杵
  • 歴史(陸奥守吉行)
  • 身体(大和守安定)

祈るもの=刀剣男士として背負うべきもの

 歌われた内容と歌い手で分けてみました。これにも意味がすごいありそう。予想しかできないけど簡単に考えたことなど。
まず篭手切くんの「生命」ですが、篭手切くんってこう、仲間を呼び起こす役目を担ってるんじゃないかと思いまして。葵咲の稲葉江にはじまり、今回の歌合の江派についても。
彼岸にある仲間を呼び起こし、「生命」を宿す。一緒に夢を見るために。「いつか」と望みを託せる未来を信じてるから。そういう意味かな……全然自信がないけど……ここはまだ考察の余地ありです。
次に御手杵「形」。後に身体がきてるので、こっちは刀剣本体としての形。葵咲で「たとえ消えても たとえ焼けても 覚えている」から、刀本体が焼失していても、誰かが覚えていてくれるなら、人の想いがそこにあるなら存在するんだって貞愛から教えてもらった御手杵だからこそ歌えたパート。
むっちゃんの「歴史」、これは刀剣としての歴史でしょう。むすはじで「坂本龍馬が目指した未来があるこの歴史を守る」というゆるぎない信念を持っていたむっちゃんが歌うしんどさよ…。つまり主が関わった歴史が正しく宿るようにってことですね。
安定の「身体」は勿論刀剣男士としての姿形なのでしょうが、憧れた元主に似た姿を得た安定が言うから意味深すぎるという……逸話や装飾をもとにした姿になりがちですが、主への想いが姿に宿ることもあるよね……。

 

そして背負うべきもの。これも重いぞ。
物吉くんの「契り」。これは物吉貞宗を持つことで自分は幸運だと信じていた家康の想いを受け止め、「自分は幸運を運ぶ役目がある」と自覚していた物吉くんのように、使い手と刀の信頼関係を表した「契り」かなと。大切にしてくれる人との信頼関係があってこそ武器としての逸話も輝きますし。
明石の「禊」イザナギが黄泉比良坂を通りイザナミから逃げ帰った後にした「禊」に関連しているような気がします。穢れた身体を清める為の禊ですが、イザナギの穢れからは災いを司る禍津日神と、それを直すための直毘神が生まれています。表と裏ですね。刀剣男士も感情に支配されすぎるとあちら側に堕ちて災いを齎す存在になってしまうから、そうならない為の「禊」なのかなって。
虎徹兄弟の「運命」「役目」はもうまんま幕末の『選ばれぬ者』ですね……飾られる運命、人を斬る役目。どちらも選べるものではなく、選ばれることで果たせる。人がなれるものにしかなれないように、受け入れなければならないもの。
 

各々が歌う意味がありすぎて息切れしてきた……ハァッハァッ……。
宿るもの、祈るものを言の葉にすればあとは「こちらへ」と呼びかける作業です。さあさあ!!!
ここも序盤と同じく、本体が焼失している御手杵とむっちゃんの出番。力強い声が神域に響き渡るのすっごい痺れました。
からの、えおえおあ(極)!!「行くぜ、主!」っていう鶴丸、マジで鶴丸すぎて初見の時鶴丸だ!!!ヨシ!!!!!」って大事なシーンなのに現場猫みたいになってしまった。

 

 


♦八つの神

イネイミ ヒタクク
ワサワカ ハケララ
サクツハ ヤミオミ
クツヤヒ カカツ
ノヒヅミ ハオチ


歌合前に公開された謎動画で話題をかっさらったえおえおあ(極)。縦読みすると神様の名前になるって聞いたけど本当かな?!本当でした。なんなら縦読みも横読みもできるからすごすぎる。

 

 

古事記』に書かれている神々の名前ですね。*12しかも、イザナギが十拳剣でイザナミが死ぬ原因となった火の神カグヅチを殺したことで生まれた神々。は〜〜血に塗れている~~。
これらはカグヅチの血が十拳剣についたことで生まれた神。刀剣から生まれた神ってことです。斬られたカグヅチの死体から生まれる神とは別なんですよね……。
古事記の該当箇所は以下のようになっています。

 

ここに伊耶那岐の命、御佩(みはかし)の十拳(とつか)の劒を拔きて、その子迦具土(かぐつち)の神の頸(くび)を斬りたまひき。

ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著ける血、湯津石村(ゆついはむら)に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、石拆(いはさく)の神。次に根拆(ねさく)の神。次に石筒(いはづつ)の男(を)の神。

次に御刀の本に著ける血も、湯津石村に走りつきて成りませる神の名は、甕速日(みかはやび)の神。次に樋速日(ひはやび)の神。次に建御雷(たけみかづち)の男(を)の神。またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豐布都(とよふつ)の神三神。

次に御刀の手上(たがみ)に集まる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出(で)て成りませる神の名は、闇淤加美(くらおかみ)の神。次に闇御津羽(くらみつは)の神。

引用:古事記/上卷 - Wikibooks 

 

斬った刀剣の先端についた血からイワサク・ネサク・イワツツノオが生まれ、鍔についた血からミカハヤビ・ヒハヤビ・タケミカヅチノオが生まれ、柄に溜まった血が指の間を流れたものからクラオカミクラミツハが生まれたという話。神様の血めっちゃ子だくさん。
イワサク・ネサク・イワツツノオが生まれた場所は火の神を斬り殺した刀剣の先端。これは人が火を操る比喩であり、この火を利用して鉄製品を作り出したことを示しているのではないかと推測されています。また、火の神を斬り伏せるほどの切れ味を表現しているとも。つまり鉄製品の中には刀剣も含まれていたってわけですね。


ミカハヤビ・ヒハヤビは漢字で書くと甕(土器)と樋(水路)を現すので、農耕関係の神とも考えられますが、古代の製鉄に於いて重要な役割を果たしていた*13とも考えられます。そしてこの二神とセットになっているタケミカヅチノオは軍神・雷神とも呼ばれていますし、「剣の神」としても有名です。

タケミカヅチノオの神話に「出雲の国譲り」というものがあるのですが、この中でなんと彼は手をツララや剣に変えて敵対相手を怯ませます。こえーよ。詳しい内容はググったらでてきます。
ちなみにこの時、タケミカヅチノオはアメノトリフネという神と一緒に行動しているのですが、『日本書紀』になるとこれがイワイヌシに変わります。イワイヌシは香取神宮の祭神なんですけど、実は物部氏の祭神でもあるんですよ~~ミュ本丸に於ける物部って、血縁を記す名前ではないですけど、大きな意味を持ちますよね……。
 

最後はクラオカミクラミツハ。この二神はどちらも水を司る神とされます。オカミは龗とも表記され、龍の古語であるこの言葉が使われていることから龍神とも考えられています。クラは光の届かない谷を示すことから、暗い谷の中から水が湧き出でる様を現すとも。また、水というものは豊かさを齎すだけでなく水害=人に牙をむく面も持っていたので、表と裏を表す言葉でもあったかもしれません。
これらは全て製鉄に重要なものを司っていたり、はたまた剣そのものの神だったりと、とにかく武器に関わりの深い神々だと感じます。刀剣によって生まれた八神の名を唱え、八つ目の呼び声とする。そうして時が満ちたとき、やってくるのがまれびとなのです。 

 

このクライマックスシーン、皆頭を垂れていましたけど、良く良く見ると青江の姿勢だけめちゃくちゃ低い。青江って敵に斬りかかるとき、かなり身を低くすることがあるんですけど、あれと一緒なんじゃないかってくらいの臨戦態勢。
話に聞くところによれば青江、顕現したときもすっごいほっとしてたとか、失敗したら自分が出て来たものを斬り伏せようとしてるんじゃないかとか色々言われてて……青江定点カメラ欲しい。ていうか全員分定点カメラ欲しい。 

 

余談ですが、この後、イザナギは死んだイザナミを追って黄泉の国へ向かいます。有名な黄泉比良坂の伝説に繋がるわけです。
黄泉比良坂といえば真剣乱舞祭2016じゃないですか……?ちなみにこの伝説が元となり人間の「生」と「死」という概念が誕生したと言われています。
生と死。表と裏。此岸と彼岸。全部繋がってるんだなあ……。

 

 

 

 

 

 

八つの炎 八つの苦悩

歌声と呼び声に応じて現れたモノは、苦しみに満ちた産声を上げて問い掛けます。

 「我を呼び起こすのは 燃えたぎる八つの炎
 我に与えられたのは 肉体と八つの苦悩
 五蘊盛苦
 身に宿る苦しみ 痛み 悩み
 何故我を生み出した」

八つの炎とはわかりやすく言えば交わされた六つの歌と、『神遊び』『君待ちの唄』を合わせた八つの奉踊儀式を篝火へくべたことを指すのかなと思います。
刀剣から生まれた八神の名を唱えたことで、本体が製鉄される意味合いもあったのかな?
ただ炎となると地獄も関係してそうだなあとか。八大地獄、ありますよね。しかもこの地獄、堕ちる条件すべてに殺生が入ってます。
八繋がりで行くと仏教の八正道もありますけど、こっちは炎じゃない。解散!


次いで八つの苦悩。これは仏教における「四苦八苦」ですね。生まれた事で背負わなければならない苦しみの数々。前述した『君待ちの唄』での宿るもの、祈るものも合わせて八つ。
「四苦八苦」のうちの「四苦」とは「生苦」「老苦」「病苦」「死苦」を指し、「八苦」は更に愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」を「四苦」に足したものを言います。
このどれもがこの世に生まれた者が避けられない苦しみである、というのが仏教思想です。それぞれの意味は調べたらすぐにわかるので割愛。ちなみに私が好きなのは「愛別離苦」です。いいですよね「愛別離苦」。


で、この歌で名指しされる苦しみが最後の「五蘊盛苦」。これは「肉体を得たことで発生する苦しみ」を意味します。「四苦八苦」のうち七つの苦しみはすべて肉体があるからこそなのだ、という苦しみ。つまりは死です。
武器のままであれば、焼失や破損という終わりはあっても、肉体としての死はなかった。肉体を得たことで与えられた苦しみは、武器の頃では有り得なかったものばかり。生きることは苦しいことなのに、何故肉体を与えて自分を生み出したのか。何故苦しいのに生きなければならないのか。
当然の疑問です。そしてこの疑問は、どんな人間にも当てはまるものです。なんでこんなに苦しいのに生きて居るんだろう?と考えない人のほうが少ないんじゃないでしょうか。
現れたモノがこの感覚を持っているの、既に武器寄りなのに人寄りの考え方です。武器の視点から人の身の不便さ、不条理さを問うている。今までは扱われるばかりで疑問に思うのもあまりなかったであろうことを。


この問い掛けに対し、物であり人である刀剣男士達はこう返します。

「共に戦う為
 使命果たす為
 どうか力を貸したまえ」

「こうしたいから」とかじゃないんですよ。やるべき事ははっきりしてるんです。
歴史を守る為に戦うこと。正しい歴史を守るという使命を果たすこと。その為に、肉体を得たことで生まれる苦しみをも受け入れるのだと。
はっきりと「刀剣」としての意識を持ちながら、肉体と苦悩を受け入れる「男士」である。これこそが、ミュージカル刀剣乱舞の本丸に顕現した刀剣男士なのです。
余計な言葉はない。必要な言葉しかない。力を貸して欲しいと願う彼らのなんと神々しく、尊いことか。
「共に戦う為」の時に呼びかける篭手切くんの仕草、物凄く必死で泣きそうになりました。稲葉江を呼びもどした彼だからこその表情というか。同じ江の者を呼び続ける必死さが違った。
貸したまえ、とお辞儀する蜂須賀の丁寧さもすっごく良かった。強制するわけじゃなくて、あくまで嘆願している側であることを理解した恭しいお辞儀。

 

そして、この答えを聞いたうえでの返歌が素晴らしくて。

「生まれた理由(わけ)は問い続けよう
 この身が語る物語を紡ごう」

あんなに、あんなに苦しんで生まれて来たモノが。
生まれた理由を問い続けるって言うんですよ。何故こんな苦しみを伴ってまで生まれてきたのか、その理由を、投げ出さずに識ろうとして。
自身に宿った歴史や逸話、これから触れていく歴史や想いを、語り、紡ぐと。
初めて聞いたとき、訳もわからないまま見て居ましたが、ここで気付けば泣いていました。
苦しみを感じながらも、共に在ることを選んでくれた。生きることを否定しなかった。その強さと優しさに胸が熱くなってボロボロ涙が零れて止まらなかったです。
これ、人の肯定でもあると思っていて。人として生きる私たちの苦しみも、いま生まれた子は肯定してくれた。苦しくても生きる。生まれた理由がどこかにあるはずだから。
それは今本丸にいる刀剣男士たちも変わらない。彼らも生まれた理由を問い続け、その身が語る物語を歌い、紡ぎ、我々に見せてくれている。だからこんなにも胸に響くんだなって。
愛ですよこんなの……愛が詰まってる……作品への愛、刀剣男士への愛、生きとし生けるものへの愛。ここ、今回の歌合のサビだと思います。感想文のタイトルにもしてしまったくらい好きなとこ。

 

からの「来たれ、新たなる刀剣男士!」というビッグサプライズ。私が現地で見た時は桑名江だったんですね。だから大千秋楽で松井江が出て来たときめっちゃびっくりしました。
江が揃ったーーー!!!??って。年末に豊前江が新作に出る事は告知されてたので。そりゃ篭手切くん必死になるわー!!!
しかも松井江死ぬほど美人で暫く脳の機能が停止しましたね……なに……なにをみているのいま……??????と言う感じで。
まさかの二振り顕現。しかも江。やっぱ歌って踊れるからですか?!

 

 

 

 

 

 


あなめでたや

新刀剣男士の顕現を祝ううた。みんなニッコニコでとても可愛くて幸せなうた。
出だしの「めでたい雲が空に翻り カササギの声響き渡る」ってところ、めでたい雲は瑞雲、仏教的に重要なイベントでよく発生する瑞兆を現す雲のことですね。
カササギも吉兆を運ぶ鳥として中国では喜鵲(きじゃく)と呼ばれています。また、七夕伝説で織姫と彦星を出逢わせるために群れをなして天の川の上に橋を作ってくれるともされています。嬉しい事、喜ばしいことを運ぶ鳥なんです。
あとカササギの鳴き声って子供に似てるとも言うので、子供=生命の誕生を表現している部分もあるのかなと思ったり。 

 

とにかくめでたさを目一杯に伝えてくれるこの曲ですが

「想いは言葉へ
 言葉は歌へ
 歌はあなたへ
 そして新たに生まれる音に
 あなたと歌合」

まさかのここでタイトル回収が発生します。
この後も「歌唄う 桜咲く 音踊る あなたと歌合」という歌詞が出てくるんですよ。
本来の歌合としての競い合いではなく、「人の想いによって生まれた」ものとして言葉を紡ぎ、それを歌にし、他の誰でもない「あなた」へ向けてうたうこと。そこからまた新しい音が生まれる。それがこの歌合が持つ意味だと。
いやもうなんか……とにかく愛がすごい……この「あなた」は我々でもあり、ミュ本丸の審神者でもあり、仲間でもあるんでしょう……こちら側に対する呼びかけがあるの、存在の肯定じゃないですか……はーーーーもう涙で舞う桜が滲んじゃうよ。何度思い出しても感動してしまう。


「天晴れ!寿 松竹梅」のとこもめーーーっちゃいいです。蜻蛉切が歌うと草木咲き乱れ水が湧き出でるって感じの生命感があっていい。トトロで畑の植物が一気に伸びるシーンみたいな。嘘じゃないもん、蜻蛉切いたもん!!!!!
天晴れのとこで手を叩く振りがあるのもいいですね……御手杵が手を強く叩き過ぎてマイクがバチン!!!!て音拾ってたからフフッってなっちゃいました。フフッ。
最初は戸惑っていた新刀剣男士が最後は笑顔で皆と同じ振り付けでこの曲を歌うのも……いい……初めて皆と一緒にうたう歌がこんな、こんな祝福に満ちているんですよ……生まれたことにはちゃんと意味があるんだ……。
歓迎会に向かう面々も可愛かった。最後に新刀剣男士が「歌が聞こえたんだ。懐かしくて、気付けば一緒に歌っていた」っていうシーンも、聞いてた篭手切くんほんっと嬉しかっただろうな。私も嬉しかった。

 

この曲の優しくて嬉しい、「生まれてきてくれて嬉しい、ありがとう」って気持ちがいっぱいいっぱい詰まった感じが本当に好きです。
死ぬ時に聴きたいのは三百年の『瑠璃色の空』ですが、次に自分が人間として産まれる時は『あなめでたや』をかけて欲しいと思いました。そうだ、来世まで持っていこう。
 

 

 

 

 

 

 

 

あなたと歌合(まとめ)

そんなこんなで今回も決着がつかないまま対決が終わったわけですが。
歌合は彼岸から此岸、幽世から現世へ神を降ろす儀式でした。
個人的に、真剣乱舞祭2016は彼岸寄りの狭間、2017は此岸から彼岸への誘い(一歩間違えば彼岸へ堕ちる危険性もある)、2018は彼岸と此岸を繋ぐ祭としての集大成という印象を持っているので、歌合は狭間を乗り越えて刀剣男士たちがこちら側に来てくれたからこそ出来た儀式なのかなあと。
歴代の祭の意味と成長を踏まえて踏み出した新たな一歩。とても素晴らしかったです。もっと早く知りたかったという言葉より、初めて見た刀ミュが歌合で良かったなという感情が勝っています。
自分がこれまで歩んできた道で学んだ事と繋がるものが多くて、見るのも楽しくて、考察するのも楽しくて、こんなに一つの作品に対して感想ぶつけたの初めてかもしれません。すごいものに出逢ってしまった。
めちゃくちゃ好きに書き散らしまくったんですけど初心者の感想として面白がっていただけたら幸いです。あと歌詞は耳コピなので参考程度に。スクロールバー息してる…?

 

春の新作公演も楽しみです。きっとまた辛い展開があるんだろうけど、そのぶん美しいものもあるって信じられる。それだけのものが刀ミュにはありますね。
時間を見つけて過去公演の感想とかも書けたらいいなと思います。こっちは不定期に書き連ねていこうかなと。私には葵咲本紀1年パックという強い味方がいるので(円盤が待ち切れなかった) 

きっと歌合も円盤みたら新たな考察とか気付きがあるはずなので、その時は番外編として書きたしていきたいですね。とりあえず全振り分のフィーチャリング映像がほしい。


ここまで長々とお付き合い頂き本当にありがとうございました。
また別の感想でお会いできたら嬉しいです。それでは!!!!   

 

 

おまけの考察

mugs.hateblo.jp

 

 

※2/26 誤字や表記諸々修正

*1:http://www.sesamestreetjapan.org/characters

*2:(4)つばき油の歴史と製法 | 株式会社 山中油店

*3:大椿は荘子の逍遥遊篇に記載があります。「上古有大椿者 以八千歲為春 以八千歲為秋」(上古に大椿なるもの有り。八千年を以て春と為なし、八千年を以て秋と為す。)

*4:椿の別名に「茶花の女王」というものがあります

*5:ツバキ(椿) - 歴史まとめ.net

*6:ひとひらの風

*7:ここはらぶフェス2017のかざぐるまもあるかもしれません。「風が生み出す川の波 たどり着くべきは大海原」

*8:https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/rekihaku-meet/seminar/bugu-kacchuu/tk_intro1.html

*9:トライアルと初演は見えないところで稽古していたはず(都合のいい解釈)

*10:君の想い星

*11:まれびと - Wikipedia

*12:日本書紀』だと少し表記が変わりますが今回は基本『古事記』の方で進めます

*13:甕速日(みかはやひ)|樋速日(ひはやひ) | 「いにしえの都」日本の神社・パワースポット巡礼