共に超える境界線~真剣乱舞祭2022の考察と感想~
久しぶりの投稿です。なんと前回から約1年ぶり。
約1年ぶりに何の話かといいますと、絶賛開催中の真剣乱舞祭2022の話です。
パライソと江水はどうしたんだよって自分でもなっているんですが、もうすぐ大千穐楽を迎えるこの稀代の祭がどういうものなのか、何のためにあるのか、それをいま書き留めておこうと思った次第です。
ほとんど殴り書きなので、乱舞祭が終わった後に見たら恥ずかしくなりそうですが、とりあえず書きます。
言わずもがな盛大なネタバレをしているので、読んでからの苦情は海に流してください。
なお、ライブ本編の感想は今回ほぼありません。乱舞祭の物語に関する考察と感想ばかりです。
はじめに
そもそも何故勢い余って乱舞祭の話をするかというと、今回の物語がめちゃくちゃ心覚と地続きだったからです。
出だしから最後までたっぷり心覚。年始から春にかけて江水で頭いっぱいになっていたところにぶち込まれた爆弾といっても過言ではありません。
ご覧の通り(?)この辺鄙なブログは心覚にかなり心を奪われていて、何回書くんだよというレベルで脳内に生まれた言葉を投稿しています。
冒頭であの仮面の少女が出てきた時は息が止まるかと思いました。
そして今回のアジテーターは水心子。これまでとこれからを繋ぐ役目を担った刀剣男士。
ここまで祭に心覚をぶち込まれるとは誰が予想しただろうか。
初日から配信を見て、現地にも足を運んで、ここまで様々な角度から乱舞祭を見てきました。
長かった祭もあと少しで終わってしまうから、その前にこの祭が何のためにあるのか、それを自分の中で明確にしておきたいと思い、筆をとりました。
東京心覚を土台に始まった祭が、東京で終わりを迎える。
その意味を噛みしめながら。
何を送るための「神送り」なのか
今回の祭で一番衝撃的だったのはこのオープニングでした。
いや毎度祭のオープニングは衝撃的なんですけど…。
「神送り」という単語が何度も出てくるので、曲名を仮に神送りとします。
仮面の少女が水面を行く船に乗り、それを眺めながら水心子だけが紡ぐ歌。
そこから全員が歌う神送りへの変化。
ここの内容を少し自分なりに整理して、今回の神送りには3つの意味があると感じました。
①神からの見送り
まず文字通り、「神」からの見「送り」としての神送りです。
松明を手に小舟を囲む刀剣男士たち。彼らはこう歌います。
「風が運ぶは花びら、落ち葉 命宿る種
風が運ぶは噂、便り あの人の歌声
この河で この海で 迷わぬように
この灯り みちしるべ
船よ行け
今 もやいを解こう
神送り」
耳で聞いた歌詞なので細かい表記は間違っているかもしれませんが、大体こういう言葉だったはず…。
「ひゅるり、ひゅるり」という風の音に乗せて、花びら・落ち葉・種というミュにおける人の生命を表すものが運ばれてきます。
その人が生きた証として、誰かの噂や手紙、いつか口ずさんだ歌声も共に。
いずれにしても、散った花びらや落ち葉、さらには種が運ばれてきているということは、生命が終わったことを表現していると思われます。
東京心覚で歌われた『はなのうた』は、人を花に喩えた生命の歌です。
人は「謳歌(うたわ)ずにはいられない 終わりなきはなのうた」を紡ぐ存在であり、刀剣男士から見れば「戦場に散る無数の種」であるもの。
そして刀剣男士はその「終わりなきはなのうた」を聞くために、大河の流れを守るもの。
風に乗って届くその歌を聞きながら、彼らはみちしるべとして松明を掲げながら小舟を導いているんですね…。
風に吹かれ、大海原に続く川の途中で彷徨う死者の魂を正しく送り届けるための「神送り」。
ここに登場する刀剣男士(回替わり男士省く)には以下のように「人の死」との繋がりがあるのではないかと考えています。
- 和泉守兼定→元主(土方歳三)の死
- 大和守安定→元主(沖田総司)の死
- 浦島虎徹→名もなき兄弟の死
- 豊前江→太田道灌の暗殺
- ソハヤノツルキ→元主(天海)の死
- 蜂須賀虎徹→近藤勇の斬首
- 五月雨江→太田道灌の死
- 小狐丸→源義経の死、裏表一体をつかさどる三条
- 今剣→元主(源義経)の死
- 肥前忠広→元主(岡田以蔵)の殺害
- 小竜景光→任務先で主君となった人物(吉田松陰)の殺害、元主(井伊直弼)の死
それぞれ任務先で縁のある人間の死を傍で見送っている刀たちなんですよね……。
しかも、「船よ 行け」で小舟を先導するのは唯一元主をその手で斬った肥前くんなんですよ……。
一番身近な人間を、放棄された歴史とはいえ手にかけた肥前くんが、彷徨える魂が乗る船を導く役目を担っているの、あまりにも……あまりにも……。
さらにいうと、その殿を務めるのは小竜くん。
元主の死を三度(史実+放棄された歴史+正しく修正された歴史)も見送り、任務上で主と定めた人間を斬り捨てた彼が、殿に居るんですよ……。
ここ、個人的に勝手なしんどさ激強ポイントです……。
また、ここで見送られるのは歴史に名を遺した人物ばかりではありません。
冒頭で仮面の少女が踊っていたこと。この面子に浦島くんが居ること。
名もなき民草の魂も、人知れず咲いて散った花の種も、一緒に見送ってくれているのだと思います。
②神を送るための祭
2つ目は文字どおりの「神送り」です。
そもそも神送りには2つの意味が存在していて、その1つが神を送るための祭とされています。
陰暦9月晦日 (みそか) 、または10月1日に、全国の神々がへ旅立つこと。また、これを送る行事。この日は強い風が吹くといわれる。《季 冬》「しぐれずに空行く風や―/」⇔。
出雲大社に神様が集合するのが神無月というのは有名な話ですが、それを見送る祭が神送りなんですね。
刀剣男士も付喪神。つまり神様と呼べる存在ですが、今回のお祭りでは送る側に居ます。
では、今回送られる神は誰なのか。
あの大きな船に乗って現れた、平将門公です。
将門公が出てきた途端、神送りは転調して荒々しい曲へと変化します。
あの瞬間、船を送り出していた面々は立ち止まり、荒波から小舟を守るように身を固めます。後から駆け付けた男士たちも戸惑うように辺りを見回しているのです。
この場面、私は最初「向かっていた先にある海が荒れ始めたから驚いているのだろう」と考えていたのですが、Twitterで「将門公は招かれざる存在(本来呼んではいない神)だったのではないか?」という考察を読み、この結論に達しました。
大きな雷鳴と共に現れた将門公に向かって放たれるのは、「何故?」という疑問です。
「強き風 何故に吹き荒ぶ?
荒ぶる風 何故猛り狂う?
沈まれ風よ 沈まれ海よ!」
神送りの日は強い風が吹くとされています。そして将門公が現れた時も激しい風音がしています。
おそらく、此処に現れた将門公は文字通り「荒魂」なのだと思います。
荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。勇猛果断、義侠強忍等に関する妙用とされる一方、崇神天皇の御代には大物主神の荒魂が災いを引き起こし、疫病によって多数の死者を出している。
将門公って人じゃないの?神様なの?という疑問があるかもしれませんが、神田明神や築土神社に祀られているので、死後神様となっています。
将門公は心覚でも、霊刀として力を持つはずの大典太とソハヤですら歯が立たなかったほどの霊力を持つ圧倒的な存在として描かれていました。
今回の神送りに顕現したのは、その面を含めた荒魂としての将門公なのでは?という見方です。
荒魂将門公は荒ぶる心を叫ぶだけの存在。
それを和魂として鎮めるため、あるいはあるべき姿に戻すための「神送り」。
同じ神として、また送るべき存在として、「共に吹き荒れろ」と刀剣男士たちは荒魂将門公を今回の乱舞祭に誘ったのではないでしょうか。
③疫神送
さて、神送りにはもう1つ意味があります。
疫神を追い払う行事のことです。
疫神を村界から外へ送り禳ふ行事。疫神禳(えきじんばら〔ひ脱カ〕、疫神流(えきじんながし)ともいふ。
例年六月十三日を期とし、愛知県三河国南設楽郡作手村〔現新城市作手地区〕で行はれる。一名祇園送。当日は小麦を紙に包んだものを竹の先に挟んで門に立て、疫神払ひの禁厭とする。
また疫神除却の方法として、之〔これ〕を川に流すものに疫神禳がある。それは岐阜県吉城郡高原郷〔現飛騨市神岡地区、高山市上宝地区〕の習俗で、流行病が猖獗を極める時、藁を以て船の形を造り、神職を招じて行疫の悪神禳ひを行つた後、疫神を其の藁船に移して川に流し、一同茅輪をくぐり、一切後を見ずに帰るのである。
これに似て稍々〔やや〕形のかはつたものに、兵庫県飾磨郡家島村〔現姫路市家島〕の疫神流がある。ここでは伝染病の時に際して、小形の船を作り、村内を舁ぎ廻り、各病家で積込む藁人形をそれに乗せて、「送れ送れ、疫病神送れ」と賑やかに囃しつつ海に流し遣るのである。
疫神とは文字通り疫病神。人に災いや病気を齎す悪神です。
もうね、コロナですよね……。
昔なら疫病と呼ばれるべきもの。それが世界中に蔓延って、様々な祭も中止になって、人々の楽しみや遊びも奪われて。
それを悪しきものとして送る「神送り」が今回の乱舞祭の大きなテーマの一つになっているんだと思います。
ついつい神様のほうにばかり目が行ってしまって、最初はここまで考えが及ばなかったのですが、先輩審神者からの貴重な意見と、心覚自体がコロナ禍で生まれた物語であることをすり合わせて達した結論です。
神送りの最後に「船よ行け 荒波乗りこなせ 行きつく先に 晴れ渡る空が待つだろう」という歌詞があるのですが、この晴れ渡る空というのはコロナ渦が明けた世の中にも捉えることができるなあと。
まさに疫病退散。ハレハレ祭りが令和の世でも見られて嬉しいです。
まとめ:3つの神送り
これらの神送りの意味を合わせると、この乱舞祭は歴史上の人物だけじゃなく、過去に居た人だけじゃなく、今を生きる私たちに向けた祭でもあることがわかります。
だから水心子は言うのです。この祭は「楽しい方がいい」と。
「彼岸も此岸も、あちら側もこちら側も、夢も現も、貴方も私も。
遊ぼう、今を共に!」
貴方も私も、なんて言葉が出るのは、心覚でこちら側に語り掛けてくれた水心子だからこそなんだろうなと。
この言葉を初めて聞いたとき、その優しさに視界が滲みました。
みんなずっと苦しくても我慢して、傷ついて、時には泣いて、それでも明るい未来が来るって信じて、心から楽しみにしていたお祭りです。
それを「共に」と呼び掛けてくれるんですよ、水心子は……しかも「楽しい方がいい」って、つまり見た人が笑顔になれることじゃん……。
「歴史を守る」という任務の難しさに対して「笑顔になれることを増やせばいい」と言った水心子が、それをこの乱舞祭で実行してるんです……。
笑顔になりながら泣いてしまうこんなの。ありがとうございます。
それぞれの立ち位置
乱舞祭に限らず、ミュは刀剣男士の立ち位置なんかにも深い意味があったりするのですが、今回特に気になったところを軽く掘り下げていきます。
水先案内人としての鶴丸国永
鶴丸国永、立ち位置が意味深すぎる男士トップ3に入りますね。
ちなみに後の二振りは三日月宗近と明石国行なんですけど。
今回の鶴丸は唯一船に乗った男士です。
夢うつつを漂う水心子を呼び起こした時、鶴丸はあの仮面の少女が乗っていた小舟から現れます。
あの小舟は河を渡り、海へ出るためのもの。将門公や榎本武揚が乗っていた大船も然り。いわば三途の川の渡し船です。
もうこの世には居ないものにしか乗れない船とも言えます。
その船に唯一乗って出てきたのが鶴丸国永なんですよ……。
鶴は仙界に住み人界にやってきた霊鳥として崇められていたので、彼岸と此岸を行き来できる存在として今回船にも乗れたのではないかなと思っています。
おそらくですが、鶴丸国永は彷徨える魂の行先も、その導き方も知っているんじゃないでしょうか。
でも敢えて行先や導き方を告げることはせず、夢うつつの狭間を揺蕩う水心子にその役目を任せている。それが鶴丸国永の役目だから。
水心子が自分で答えを見つけられるようにさりげなく導きながら、最後の最後で彼岸に辿り着く船を先導するんですよね……人界から仙界へ帰る鶴のように……。
この立ち位置、2018年の乱舞祭での三日月宗近とそっくりなので、やっぱり三日月宗近=夜と鶴丸国永=朝で対比されてるのかなあと思いました。
そうなると今回は最後に夜が明けて朝が来ていたのも、水先案内人が鶴丸だったからということになるんですが……鳥は夜に飛ばないので……。
祭における将門公
もう一つ気になったのが祭に出る将門公です。
今回は珍しく刀剣男士以外の存在である将門公もメインとして祭に参加していました。
ただ、すべての祭に参加していたわけではありません。
将門公が出ていたのは、ねぶた祭りとエイサー、そして最後のよさこいソーランが全ての祭と混ざり合った混沌の中だけです。
2018年の東西祭り対決では東軍に位置する祭に出ていたので、坂東武者代表としての参加なのかな?と思っていたのですが、祭の起源を見てみると、どうも霊送りの意が込められた祭に参加しているようです。
ねぶた祭りはその起源に精霊流しがあり、エイサーは祖先を送るための念仏踊りそのものです。どちらも霊送りの意を持ちます。
また、ねぶた祭りはねぶたの題材に有名な物語が用いられることも多いため、将門公という数多の伝説を持つ存在は惹かれるものがあったのではないでしょうか。
阿波踊りも一応盆踊りを起源とする説がありますが、蜂須賀がメインを張っているあたり徳島城落成を祝うものとして扱われていそうです。
最後はその全てが混ざり合った混沌の中で、どちらともつかず手を伸ばしながら将門公は存在していました。
亡くなった人の魂を送るための祭に居る将門公は、どちらかというと和魂に近づいているように思えます(当社比)
幕間における水心子正秀という狭間
賑やかだった祭が終わり、静寂が訪れた後、再び現れた仮面の少女と将門公の狭間に居るのが水心子です。
この時、仮面の少女は中央ステージ、将門公はメインステージに現れ、水心子はその二人の間を何度も行き来します。
対になって踊る二人は荒々しい剣舞と嫋やかな舞の対比。そして、歴史に名を遺した者と遺さなかった者です。
本来ならば交わることのない二つの存在を、狭間を行く水心子が引き合わせるのがこの幕間。
水心子は冒頭でも幕間でも、そして最後でも、彼にしか聞こえない声を聴くように耳元へ手をあてていました。
そんな水心子につられるようにして中央ステージまで走ってきた将門公は楽しそうに笑いながら仮面の少女と水心子と共に舞を披露します。
名を遺した者と名もなき民草を繋ぐのは、その何方とも関わることができる水心子にしかできない役割なのだと思います。
共に踊るということは、共に楽しむということ。
これまでとこれからを繋ぐ役割を担う彼が、彼方側と此方側を繋ぎ、貴方と私を繋いでいるのがわかります。
余談ですが、構造的にセンターステージはメインステージからみて北の方角になります。
共に踊った後、センターステージ(北)の向こうへ歩いて行く仮面の少女と、メインステージ(南)に戻る将門公。
北は仏教における臨終の方角です。また、五行に置き換えると水の方角にもなります。
そう考えるとあの少女が後半に出てこなかったのは、幕間で北(死者の魂が行くべき場所)へ向かったからなのかもしれません。
あと、それにつられそうになった水心子を呼び止めるのは清麿なんですよ……清麿は彼方側に引き寄せられやすい水心子を此方側に繋ぎ止める舫なのかもしれません。
北への案内人
言わずもがな榎本武揚のことです。
2018年の榎本武揚は狭間を彷徨う死者を北へ導いていましたが、今回もまた船を北へ走らせました。
しかも今回、榎本武揚は刀剣男士と初めて会話をしています。
刀剣男士のことを「狭間を彷徨えるもの」と呼んでいましたが、そんな彷徨えるものを北へ導くのが榎本武揚の役割です。
ここで会話する刀剣男士が、最初の乱舞祭で彼岸側としての役目を果たした三条の二振りというのも面白いなと思いました。
小狐丸は伝説を元に顕現した刀であり、表裏一体の意味を知るもの、つまり境界線がないことを知っているもの。
今剣も人々に語られた伝説だけで成り立つ、虚実入り混じった存在。
刀剣男士としては狭間に在りつつも彼岸に近い存在扱いなのかもしれません。
で、榎本武揚の何が気になったかというと、今回誰にも名前を呼ばれていないんですね。
前回(2018年)は土方さんが名前を呼んでいたと思うんですが、今回その名を知るものとは出逢っていないんですよ、榎本武揚。
名前なんか呼ばれなくても榎本武揚だろ?というのは最もなのですが、こう……名を失ってもなお、彼岸で彷徨える魂を北(行くべき場所)へ導く役割を担ったシステムとして存在しているのでは……???という勝手な憶測をしています。
それでも彼が榎本武揚という己を見失わないのは、あの新しいTo The Northの中に届いた審神者たち(榎本武揚を覚えている、知っている人たち)の声のおかげだったりしたらエモいな!!!という個人の意見です。
共に超えていくための祭
今回の祭の大きなテーマとして「共に楽しむ」というものがあると感じています。
これまでは彼岸側と此岸側が繋がっていることを確認してきましたが、今回はその境界線を超えて「共に」歌い、踊り、叫び、祀っていました。
様々な別れを、想いを、辛さを超えて。
祭が終わり、あるべき姿へと戻った将門公は水心子に己の見え方を問いかけました。
それに対して水心子は、怨霊でもあり、神でもあり、人でもあると答えています。
どれか1つではなく、すべてである、と。
これもまた、境界線を超えた表裏一体の答え。勝負がつかないこの本丸の真理です。
あの瞬間、楽しそうに笑った将門公は荒魂から和魂へと変化したように感じました。
心覚で水心子はある世界を垣間見て、大河の流れ着く先を知り、「私が守ろうとしている歴史は…未来は、守るべき価値のあるものなのだろうか?」と審神者に問いかけたことがあります。
その水心子が、今回を祭を経てこう誓います。
「どんな時代であろうと、どんな場所であろうと、どんな歴史であろうと、私は前を向く。これまでと、これからのために」
一度は迷い立ち止まりかけた水心子が、境界線を超えて共に楽しむ祭を経験して、この答えに辿り着くの、ちょっとエモすぎて言葉になりません。
しかもそれに対して清麿が「僕も誓うよ」って言うんですよ。心覚では彷徨う水心子を陰から見守る役目に徹していた清麿が。
「共に、前を向く」
この言葉の重み。
夢うつつを揺蕩っていた水心子は己の役目を再確認して、清麿はそんな水心子を後ろから眺めるのではなく隣に立つことを誓う。
新々刀は孤独ではなく、背中合わせでもなく、向かい合わせでもなく、隣あって共に前を向くのです……。
おわりに
さっとまとめようと思ってまた長々と書いてしまいました。しかも殴り書き。
めちゃくちゃ付け焼き刃でアイキャッチ画像も作っています。愛知公演の帰りに撮った写真です。
歌合からミュにはまった審神者なので初めてのリアルタイム乱舞祭なのですが、毎公演本当に楽しくてどうしようもないです。
今回語った物語も、語らなかったライブパートもぜんぶ楽しい。
ありがとう水心子。笑顔になれることが乱舞祭のおかげてこんなに増えたよ。
毎度思うんですけど、やっぱり最後の問わず語りが反則技すぎるんですよね……毎度泣きながら見てます。
最初に小舟を送るのは心覚で三日月宗近から役目を言い渡された面々+鶴丸という構図がもう良すぎる。
これまでとこれからを繋ぐ新々刀、人と人ならざるものを繋ぐ江、そして仙界と人界を行き来する霊鳥たる鶴……しかもAメロの歌いだしは音曲祭で海にそれぞれの信念を誓った虎徹三兄弟という……。
この問わず語り、歌っている刀剣男士それぞれが思い浮かべている風景や人物がその表情や仕草から読み取れるところが本当に素晴らしいです。
皆なにかをいとおしむように、慈しむように、名残惜しむように見送ってくれる。
次に生まれてくるときは歌合の『あなめでたや』を歌って欲しいのですが、この世を去るときはこの『問わず語り』に見送られたいとしみじみ感じています。
初めから終わりまでずっとサポートしてくれるミュ本丸、福利厚生の塊。
個人的に問わず語り1番のサビ終わりにセンターステージの向こう側を見つめて嬉しそうな顔を浮かべる水心子が好きです。
彷徨える魂が行くべき場所へ辿り着いたことを心から喜ぶようなその笑顔がまぶしい。
あとメインステージの上段で小竜くんが昇ってくるのをちゃんと待ち構えている江水組とか、隣り合って同じ方向を見つめる土方組とか、もう目が足りないんですけど気づくと涙腺が緩むポイントばかりで……。
あと少しでこの祭が終わってしまう寂しさと、こんなに素晴らしい祭を見せてくれるカンパニーへの感謝が入り混じった状態でいまこれを書いています。
無事に最終地東京で逢いましょう。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
いつか巡り逢うためのひとりごと~東京心覚の考察と感想③~
5月23日、東京心覚が大千穐楽を迎え、無事に幕を下ろしました。
いやー…………よかった…………。
色々言いたいことをひっくるめるとこの一言に尽きます。
前回の記事(※)で個人的に色々と掘り下げたので、大千秋楽後は余韻に浸るだけで終わるかと思いきや、そうもいかなかった結果がこの記事です。
※前回の記事
今回は考察をさらっとしつつ、2部にも少し触れていきたいなと思っています。
興味とお時間がもしあればお付き合いください。
余談ですがタイトルを出汁関連にしようとおもったけど「お吸い物」とか「煮物」しか思いつかなかったのでこれになりました。
パワーアップした凱旋公演
前回までの考察はあくまでも初日公演配信をじっくり見て掘り下げたものだったのですが、凱旋公演は当然のごとく初日公演よりも進化していて、感じ取れるもののレベルが更に上がっていました。
地方公演を経て進化しまくっている……と感じたのが、各キャラの表情が(歌声も含め)とても豊かになっていたところです。
初日公演から各刀剣男士達が元々のキャラクター性を大事にしながら舞台に立っていることは物凄く伝わってきていたのですが、凱旋公演になるとそのキャラクター性がより物語と融合していたというか……キャラクターの心から溢れ出す想いが、より自然な目線、表情、歌声となって現れていたというか……。
個人的に五月雨江の表情は印象的でした。
初日公演では極力表情を出さず真顔のシーンが多かった彼が、凱旋公演からは笑顔や驚愕を浮かべるようになっていたのを見て、なんだかじーんときてしまいましたね……。
歌声に関しても感情がより表に出るようになっていて、まさに「雲から溢れ零れ落ちる雨」のような歌い方だなと……。
また、清麿に関しても、水心子を見守るという姿勢は変わらなかったのですが、水心子の様子に合わせて表情や言葉に変化が出ていて、より彼の寄り添い方の深みが出ていた気がしました。
劇中で何度も清麿の口から語られる「水心子はすごいやつなんだよ」という台詞。
これは水心子に対する信頼感を表すものですが、その水心子の揺らぎに合わせて台詞に込められた感情も変化していたように感じます。
最初は対話する相手に言い聞かせるようなニュアンスだったものが、終盤では自分に言い聞かせるようなニュアンスへ。
この変化によって、目の前で水心子が倒れたことに対し、いつも優しく見守り笑顔を浮かべていた清麿が、あの場面では動揺していたのだと気づかされました。
あの優しい笑顔も、見守っている時の慈愛に満ちたものから、水心子が戻ってきたことを喜ぶもの、そして水心子が見つけた答えを聞いて頷く時の安堵と喜びと切なさが混ざった泣きそうなものと、様々な感情を込めたタイプがよりはっきり見えるようになっていてですね……本当に、こんなに優しい笑顔だけでここまでの想いが伝わってくるものなのだと、じんわりとした感動に浸ってしまいます……。
他にも水心子の最後の語り掛けが叫びではなく、とても穏やかな口調になっていたことで、水心子との距離が縮まっている……と感じられたりだとか。
ソハヤがより天海のことをしっかり見ながら文句を言っていたりだとか。
積み重ねた日々から生まれた想いがより細かいところまで詰め込まれていて、ずっと見ていたい温かさがありました。
水心子と清磨
今作の主役である水心子は、とにかくすごいやつでした。
なにがすごいって、演技は勿論のこと、声がすごい。
歌・台詞ともに声へ感情を乗せるのがとてもうまい。
前回の考察で新々刀の歌、『ほころび』について清磨がめちゃくちゃ優しいという話をしたのですが、今回は水心子の話をしたいと思います。
清磨が水心子を見守りながら語り掛けるこの歌で、水心子は己の役目をひとりでも果たそうという決意と誠実さに満ちた真っすぐな歌声を披露します。
やわらかな清麿の歌声の後に、「私の役目」と歌いだした瞬間のあの声音!!!すごくないですか……一瞬でやわらかなものが鋭くなるようなあの歌声……。
あそこで水心子は清磨の方を見ていないのですが、凱旋公演を見てからあれは【見えていない】のではなく【敢えて見ていない】のではないかと思うようになりました。
清磨は水心子の親友で、いつも彼を見守り、信頼し、支えてくれる存在です。
水心子が悩み、立ち止まり、揺らいだ時、望めばいつだって手を差し伸べてくれるでしょう。
だから水心子は敢えて清磨を見ようとはしなかったのではないでしょうか。
いつでも助けてくれることがわかっているからこそ、助けを求めるわけにはいかない。
立っている場所がわからなくなるほどの揺らぎを感じながら、水心子はあそこで清磨を見ないことで線を引いたのです。
自分にしか見えない綻びの意味を知るまでは、ひとりでも役目を果たそうという決意と共に。
水心子の実直さや責任感の表れでもあると同時に、これはある意味「水心子正秀という名の線」を保つ行為にも繋がります。
「誰かが呼んでくれるから存在している」のなら、自分がどこにいるかわからなくなっても、清磨が水心子を見守り、水心子の名を呼んでくれることで水心子は存在を保つことができるのだと思います。
水心子が自己と向き合い、認識が曖昧になり、境界線が不確かな迷子になっても、清磨は「僕が見つけ出すよ」という通り。
水心子の誠実さと責任感の強さを理解し、無理に聞き出そうとはせず、傍で見守る清磨。
清磨が見守ってくれていることを理解し、敢えて助けを求めずに役目を果たそうとする水心子。
互いを支え合う親友という関係性を持つ新々刀だからこそ作れる優しい距離感なんですよねきっと……。
道灌と豊前江・五月雨江
前回の考察で、道灌と豊前江は【確かなもの】と【不確かなもの】の対比であるという話をしました。
凱旋公演では、共に石を運ぶシーンでよりその対比が伝わってきたように思います。
道灌が「この立派な石はこの先ずっとここで歴史を支えてゆく!」と歌った時の豊前江の表情!!
はっとしてから、ものすごく嬉しそうな顔をするんですよ豊前江……。
【曖昧な存在】である豊前江がいま触れている石が、このさきずっと歴史を支えていく【確かなもの】であるということに対する驚きと喜び。
ここで豊前江が偶然にも手伝ったことが後の江戸を支えるひとつの要因となる展開、天才では……。
それに対して豊前江が歌うのが『遺された志』というのがもう……改めて見てもここはせつなさと爽やかさが同居しているたまらないシーンです……。
表情豊かになった五月雨江と道灌のシーンもまた深みが増していましたね。
道灌に「美しいと思った人の心が美しい」ことを教えられ、とても嬉しそうな顔で「わん!」と吠えていたのが最高でした。
あの五月雨江の笑顔が見えたことで、道灌のこの言葉は五月雨江の歌心を肯定する言葉でもあったのだと感じました。
目にした景色の美しさを「心に留めておけぬから」歌うことは、それを歌う者の心が美しいから。
豊前江は道灌のことを「生きるということを知っている」立派な奴だったと評しています。
そんな道灌から「人が関わることで生まれる美しさ」を教えられた五月雨江。
刀剣男士の役目に徹することだけが生きる目的ではなく、溢れてくる想いを歌うこともまた生きることなのだと受け入れるきっかけになったのではないかなと。
だからこそ『問わず語り』で五月雨江は「でも誰かが居なくては歌は生まれない」と歌えたのでしょう。
また、この場面で道灌は水心子からの問いかけに歌を返します。
この歌を返す直前に、道灌は五月雨江の方を見て笑っているんですよね……。*1
水心子には「そのうちわかる時がくる」と語って去っていく道灌ですが、恐らくこの歌の意味を受け取ったのは水心子ではなく五月雨江なのだと思います。
道灌は五月雨江が受け取れると把握したうえで、あの歌を詠んだのです。
「やはり歌詠みは、同じ歌詠みに出逢うと感化されるものですね」
そう最後に語ったのは五月雨江ですが、この時の道灌も同じ気持ちだったのではないでしょうか。
山吹伝説で歌に想いを托した、あの名もなき少女のように。
天海とソハヤ
回を重ねるごとにじわじわと理解を帯びてくるのがここの関係性でした。
天海に「本意ではなかったであろうが、お前のおかげで江戸は守られた。礼を言うぞ」と告げられたソハヤ。
何か言葉を返す前に天海が息を引き取ったことで、ソハヤの想いは行き場を失くします。
劇中で三池は何度も「江戸の守りが破られようとしている」「江戸が終わる」と、自分たちの守ってきたものが崩れていく様を見つめるシーンがあります。
もっと自分たちに霊力があれば続いたのではないか。
もっと守り刀としての役目を果たせたのではないか。
そんなほろ苦い想いを抱えながら、どこか諦観のこもった視線で終わり行く江戸を眺めていました。
そこに向けられた、江戸の設計者たる天海からの「お前のおかげで江戸は守られた」という言葉。
天海はソハヤという存在を認識していたことを暗に明かして息を引き取ります。
この後、江戸は三百年という長い時を経て、その幕を下ろします。
「江戸を守り切れなかった」という後悔を抱えていたソハヤへ、彼を守り刀として確立させたといっても過言ではない天海から「江戸は守られた」という言葉が投げかけられるのは、ある意味「守り切れなかった」という呪縛からの解放でもあったのかなと。
それと同時に、最終的に江戸が終わることは約束されている=正しい歴史であるため、皮肉とも捉えられます。
「持て余した強さが齎した皮肉」
『全うする物語』で大典太が歌うこの歌詞は、ソハヤの霊力の強さを誰よりも信じていた天海から向けられたこの言葉にも通じる気がしました。
それでもソハヤは天海に対して「よくやったんじゃねえか、互いにな」と歌います。
与えられた役目を、どんな形であれ互いに全うした健闘を称えて。
そして、「江戸は守られた」という「期待以上の物語」を全うしてやろうと、ここでやっと前を向いたのです。
江戸は終わったけれど、その後に続く東京を、日本を、歴史を守るための刀で在ろうと。
ここでの水心子の問いかけに天海は答えを示しませんでした。
しかし、答えずともソハヤがその想いを誰よりも感じて、繋いでいくのではないでしょうか。
天海の「期待以上」の活躍をしてやろう、と。そんな前向きな気持ちと共に。
花と因果
刀ミュの中では「花」が重要なアイテムとして語られます。
今回は歴史上の人物ごとにその「花」が違いました。
将門公であれば桔梗。道灌であれば山吹。天海であれば蓮。
これらの花に想いを馳せながら歌うのが『はなのうた』です。
限りある生命を持つ人がいつか散り行く花を歌うのに対し、終わりのない生命を持つ刀剣男士はその花を咲かせる種を歌います。
この花と種の関係性は、仏教でいう【縁起】に繋がっているように思えます。
縁起とは「関係による生起」という意味。物質も精神の作用も、一切のものは因・縁・果の連鎖とする考えかたである。因縁・因果というのも同じ意味。
因───種子があって草が生えるように、それが生じた直後の原因。
縁───いろいろな関係(状況)。水や光などがそろわなければ草が育たないように、すべては縁によって生じる。間接的原因や生起する条件をさす。
果───因と縁によって生じた結果。その結果がまた、因となり縁となっていく。この果を受けることを「報」といい、果報ともいう。
この考え方は、阿津賀志で岩融が口にしていた「此有れば彼有り」……つまり【此縁性】にも繋がっています。*2
『はなのうた』で刀剣男士が歌うパートが特にこの【縁起】をわかりやすく表しているように聞こえました。
「戦場に散る 無数の種
血を浴びて芽吹くは いつの春か いつの時代か
産み落とされた実がまた花を咲かす」
「無数の種」が因ならば、「産み落とされた実」は文字通りの果。
「花」が生命ならば、「種」は死、または輪廻。
これらの「縁」を繋ぐのが刀剣男士という終わりなき生命を持つ存在……と考えた時、ただ単に正しい歴史を守ることではなく、歴史に遺らなかった「想い」も共に「縁」として繋いでいくことが、今回水心子たちが見つけた「すべきこと」の中に含まれているのではないかな……という小難しい話でした。
ミュは仏教思想と相性が良すぎる。
それと、『はなのうた』で人間が戦場で斃れていく様を見下ろしながら、唯一地面に手を置いている男士が居るんですよ……そう、桑名江です。
人は死ねば土になります。それを一番理解しているのは農耕に通ずる桑名江です。
『大地とこんにちは』でも、大地に触れながらこう歌っています。
「こんこんこん
知ってますか
知ってますよね
ここであなたが生きたこと」
「生きたこと」という過去形からしてもう生きていない者への問いかけなんですよねこれ……。
種が芽吹くのは土の中。つまり大地です。大地はずっとそこで人が生きて散る様を見ています。
静かに大地に手を置いて、人の生命の終わりを見下ろす桑名江。
そこに確かに生きた者が居たことを知るために、大地の記憶を聞いているのだろうか……と思った次第です。
4つの蓮華
天海が登場する時にかかるBGMに入ってる謎の呪文の話です。
あれは恐らくお経で、繰り返し唱えられているのは以下の蓮華の名前でした。
これは仏典*3に記されている蓮の種類で、仏教上では分陀利華(白蓮華)と波頭摩華(紅蓮華)が重要視されています。
白蓮華は清浄さの象徴であり、紅蓮華は仏の救済の象徴です。
天海自身は「咲き誇れ 分陀利華」と歌っているのでメインは分陀利華ですが、後ろでも蓮華の名前を唱えているとは思っていませんでした。
三日月絡みもあってか、めちゃめちゃ蓮フィーチャーされてる。
この流れで天海の結界陣みたいなのも解き明かしたいのですが、四神相応とかあの辺を掘り下げていく必要がありそうなので、また機会と時間があれば。
水心子と豊前江~仮面の少女が現れる場所~
大千秋楽をじっくり見てて気になったのがこの二振りについてでした。
今作における水心子と豊前江の共通点は【存在が曖昧】であること。
己の存在が揺らぎ始めた水心子に「存在しているのかしていねえのか、俺だって俺自身がよくわからねえ」と豊前江が語り掛けるシーンでは、彼らと同じく【曖昧】なものたちが同時に存在していました。
何らかの理由で歴史改変を目論む遡行軍。仮面をつけた謎の少女。
彼らは、彼女は、みな「存在しているのかしていないのか」わからない、【曖昧】なものたちです。
遡行軍はともかく、今回のキーパーソンとも呼べる仮面の少女はどうやら水心子にしか見えていませんでした。
劇中でも彼女が舞台上に現れるのは、その姿を認識できる水心子が同時に存在している時がほとんどです。
本来見えないはずの【存在が曖昧】である仮面の少女は、水心子が認識することで形を保っていたのだと思われます。
しかし、唯一水心子が居ない時にも出現する場面があるのです。
遡行軍が阻んだ太田道灌の暗殺を、正しい歴史とするために豊前江が刀を抜き、その生命を奪った、あのシーンです。
こと切れた道灌の傍らにやってきて、静かに山吹の花を供えて去っていく少女。
誰かが認識することで形を保っていられるであろう曖昧な存在が、なぜあそこで唯一認識できる水心子の居ない場面に出てくることができたのか。
おなじ曖昧さをもつ存在として惹かれ合ったからなのでしょうか。そんなスタンド使いみたいなことある…?
豊前江にはあの少女が見えていなくとも、無意識下で存在を認識できていたのでしょうか。
今回、水心子があの少女を認識できたのは、歴史に生まれた綻びに気づいて己の存在が曖昧になったことで、何らかのチューニングが合ってしまった結果*4だと思っているのですが、じゃあ最初から曖昧だった豊前江はどうなのかな……と。
また、水心子と豊前江は将門公の怨霊封印の際にも姿を現していません。
具体的には、1人目の封印には姿を現さず、7人目の封印になってやっと水心子が加わりました。
豊前江はどちらの場面にも姿を現しませんでした。
これもまた【存在が曖昧】であるが故なのかな…と感じています。
1人目の時点で水心子は自分と自分以外の境界線を見つけられず、揺らいでいました。
しかし、7人目では自分のやるべきことを見つけてしっかりと【水心子正秀】として存在していたため、戦いに加わったのです。
民俗学者の小松和彦氏によれば、怨霊や呪いといった【ケガレ】は本来、外側からやってくるものとされています。
外側、つまり「外部」からやってきた邪悪なものが「内部」に侵入することで【ケガレ】の原因を作り出します。
この【ケガレ】を【浄化】することで【ハレ】の状態=清浄さを取り戻せるのです。
「内部」と「外部」があれば、そこには当然、境界が存在する。具体的にいえば、家の入口とか門、峠、川、浜、村はずれ、国境などが境界とみなされることが多い。
「結界」という言葉がある。呪術によって境界つまり「外部」と「内部」を作り、その内部を守ろうとする呪的バリアのことである。注連縄はそうしたもののひとつである。守るためには囲われていなければならない。一ヵ所でも外部への通路があれば結界は成立しない。
つまり、「内部」とは閉じられた領域であり、たとえていえば、紙の上にどんな形であれ線を引いていって、再び始点に戻ったときにできる内側が「内部」、そうでない開かれた領域が「外部」と理解してもらってもいいだろう。
つまり、【ケガレ】を【浄化】できるのは「内部」に居る者だけ。
今作でいえば、天海と封印の場にいた刀剣男士たちとなります。
あの場に居なかった水心子と豊前江は、内側に居ない……「外部」に近しい存在と考えられるのではないでしょうか。
水心子は将門公が呪いという機能に取り込まれるシーンに居合わせていますが、あれもまた「外部」の出来事なのでは……。
今作における「内側」は、正しい歴史の流れ、もしくは存在の確かさに繋がるもの。
そして「外側」は、正しい歴史には残らない綻び、もしくは存在の曖昧さに繋がるもの。
主役であった水心子は最終的に存在の確かさを取り戻していましたが、豊前江はそのままの状態です。
静かの海で会ったとき、この存在の曖昧さについて触れられたら情緒が死んでしまう気がします。
ただ、劇中でこの仮面の少女が現れる場面については太田道灌もある意味重要人物だと考えられます。
『要となる城 気付く歌』の時も、豊前江の手で殺された時も、舞台上では仮面の少女と共に道灌が存在していました。
仮面の少女は「記録にも記憶にも残らなくてもそこに居た」もの。
山吹伝説という名もなき少女*5からの想いを受け止めた道灌と仮面の少女は繋がりがあったとも考えられます。
道灌と共に現れる仮面の少女は必ずその手に山吹の花を持っていたので……。
こう考えると道灌も豊前江も何かしら少女との繋がりを持ちながら、無意識のうちに存在を認識していたのかもしれません。
余談ですが、強大な【ケガレ】を【浄化】する方法として「祀り上げ」というものが存在します。
この「祀り上げ」の最大規模とされているのが、菅原道真で有名な北野天満宮と将門公で有名な神田明神なのだそうです。
心覚の考察で引用している小松和彦氏の本はこういった内容も書かれているので、興味がある方はお手に取ってみてください。
問わず語りから見える風景
もはや名曲と名高い『問わず語り』ですが、凱旋公演は更にパワーアップしていて本当に良かったですね……。
しかも両A面シングル化!!おめでとうございます!!!買います!!!!
初日公演では聞こえなかったサビのファルセットがとても綺麗に聞こえてきたときはその優しい旋律にまた画面が滲んでしまいました。
この『問わず語り』で歌われる風景はおそらく江戸から東京にかけてのもの(泰平の世の風景)で、その中にみほとせとあおさく、あの二大巨編に繋がるものがあるなあと思った話です。
「群青の空 黄金色の波
棚引く水穂
実り 祈り」
ここの「黄金色の波」からの「棚引く水穂」……これ、あおさくで吾平(信康)が語っていた夢が叶った風景なんじゃないかって……。
「戦は腹が減るから起きる」……あおさくで、秀忠に信康は言いました。
そして、「国中の土地という土地を畑や田んぼに変えて、戦などする気も失せるくらい国中の者の腹を膨れさせてやる」ことが夢だと。
この「黄金色の波」は桑名江たちがあの世界に植えた山吹を指しているようにも思えます。
しかし、「棚引く水穂」や「実り」と続くことで、たわわに実った稲穂が揺れる「黄金色の波」という解釈もできます。
水田一面に実った稲穂が一斉に、群青色の空の下で揺れる風景。
それは、人の空腹を癒すもの。家康とは別の道で泰平の世を目指した信康の夢です。
腹を満たせずとも必要である花(山吹)と、腹を満たすことで戦をおさめる稲穂。
どちらも「黄金色の波」を作り出す「実り」であり、信康や道灌、そして「そうだったらいいなあ」と口にした村雲江の「祈り」を背負っているものです。
どちらの意味にせよ美しく、そして優しい歌詞だなと感じます。
また、曲のメロディについては作曲家である和田俊輔さんが自身のVoicyチャンネルで語ってくれていましたが、これがまたいい話だったので、聞き逃している方はぜひ聞いて頂きたいです…。
この優しい歌詞を活かすやわらかなメロディはこうして作られたのか!と感動しながら聞いていました。
ニューシングルについて音楽的な解説をしました😌
— 和田俊輔 Shun Wada (@wadasyun) 2021年5月24日
まさかの30分長編に!!
ごめんなさいー😭!!
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ミュージカル刀剣乱舞『問わず語り』の、作曲目線なひとりごと - 舞台音楽作曲家 和田俊輔https://t.co/gXUkgGGHLd#Voicy
個人的には最後の歌詞のメロディの話がものすごくぐっと来たので、⑤まで聞いて欲しいですね…。
「聞いて欲しかったひとりごと」がどんな「ひとりごと」なのか。歌詞を見て作られたメロディに込められた想いを知ることができます。
もっと『問わず語り』が好きになる、そんな素敵なお話でした。
2部のはなしをしよう
前回、前々回はとにかく1部の考察とか感想で忙しかったのですが、今回ついに2部に触れていきます!!
といっても、2部に関しては考察というより簡単な感想になるのですが。
初見では全員衣装がここまでバラバラになると思わなくて戸惑った記憶があります。
でもよく見てみると、全員衣装のどこかにあおさく組とかつはもの組に使われてるあの和柄の生地が組み込まれているんですね…!!*6ちゃんと共通点あった!!
それぞれの特徴にあわせたテーマで曲が提供されているのも良かったですし、あと8振り同時に歌う曲が多めなのもうれしかったです。
特に『ETERNAL FLAME』がサイコーーーーに好きです。たのしすぎる。
第3形態もすばらしかった。はやくあの衣装で『獣』踊って欲しいですね…!!!!
個人的には大典太と御手杵と兼さんに並んでミュ三大股下男士を結成してほしいです。
江と夢~葵咲本紀を添えて~
2部はそれぞれの特徴にあわせたテーマの曲があった、と先ほどお話したのですが、その中でも特に印象的だったのが江の『I want to be here』です。
メロディのアイドル感もさることながら、この曲のサビがどこまでも江。
「僕らの先は夢 誰も邪魔できない
手にしたその鍵は 重ねた奇跡
扉の先は未来 無限に広がる
Ah みんな一緒なら」
最初聞いたとき、ジャ●ーズ?????となるくらいアイドル感ばりばりのキラキラソングなんですが、ここで「夢」というキーワードが江にあてはめられているのがエモくないですか……???
「夢」は江にとって大事なテーマです。
というのも、江として初登場した篭手切江があおさくで「夢」というキーワードを背負っていたから。
初めて舞台に出る際に歌ったのは『未熟な私は夢を見る』……最初は篭手切江のみのすていじでしたが、音曲祭で豊前江・松井江・桑名江を加えたまさに「夢」の状態で披露されました。
ここで「夢」が叶った!と思いきや、サビが終われば他の江たちは退場し、あれはまだ篭手切江の「夢」であったことがわかります。
また、あおさくの見せ場である稲葉江との対話シーンで歌われたのは『夢語り』です。
ここで篭手切江は怨恨に身をゆだねる稲葉江へこう語り掛けます。
「哭いてもいいです 嘆いても構わない
ただ見失わないで… 共に共に夢を見ましょう」
いつか江が揃って歌って踊ることを「夢」見る篭手切江が、自分の物語や江のことを忘れてしまったかつての仲間へ、「共に夢を見ましょう」と語りかける。
江にとって「夢」は「江であること」と繋がっているのではないかなと。
「夢は見るもの/見るために在る
夢は語るもの/物は何を語る?
夢は共に/影だろうが
目指すもの/在るものは在る」
そう考えると、『夢語り』のこの歌詞はすべての江へ向けられていると考えてもいい気がします。
しかもこの歌詞のパート分け、「夢」の部分がすべて篭手切江なんですよね。
そして必死の語り掛けに呼び戻された稲葉江を闇から解放するのも篭手切江の台詞です。
「また、一緒に夢を見ましょうよ、先輩」
江は【江だと思われる無銘の刀】の集まりです。
それは自分たちが江だという「夢」を見て、「夢」を語り、「夢」を共に目指すから実現しているのかもしれません。
あおさくで稲葉江を呼び戻し、歌合では桑名江・松井江の顕現に深く携わった篭手切江が誰よりも「まぶしいすていじ」を「夢」を見ているから。
こう考えると、今作で江が歌った「夢」というキーワードが大変にエモい。
『未熟な私は夢を見る』の篭手切江は最終的にまだ「夢」を叶えられていません。
でもこの心覚で集まった江は、その「夢」を叶えて、歌として語り、共に目指しています。
「みんな一緒なら」自分たちの先にある「未来」は「無限に広がる」と歌っているんですよ……。
そして曲のタイトルともなっている言葉が『I want to be here』……「ここに居たい」という確固たる意志。
「ここに立ち続けられるのなら すべて越えてやる」
「散り散りの想い集め ひとつになった今を
心に刻んで 目に焼き付けて
ずっと I want to be here」
この辺とかもう歌詞が江そのものじゃないですか……。
キラキラアイドルソングかと思いきやテーマが深い。それが江。
篭手切江……ここに江はいるよ、「夢」を歌い、「夢」を見ながら、ちゃんと存在しているよ……。
江が6振り揃う時を楽しみにしつつ、今後なにが起こるのかをおびえて待ちたいと思います。
清らかな水と見えないもの
今作は1部と2部の最後が繋がっていました。
ここの時間軸については前回考察した通りです。
もっとも分かりやすい演出として、2部の最後に舞台上へ集まった時間遡行軍が明らかに客席側…つまり、現代に居る我々の方を見ている、というものがあります。
1部冒頭では客席に視線を向ける前に結界に阻まれ、1部終盤では中央に降り注ぐ砂の方を向いている遡行軍が、2部の最後では此方側を向くのです。
「正しい歴史」という「大きな川の流れ」の水を濁す存在が、いまこの現代に降り立った。
その瞬間、濁った水を一瞬で清らかなものに変える澄んだ音と共に現れるのが水心子正秀です。
とにかく水心子正秀の刃は研ぎ澄まされています。魚も棲まないほどに。そして、月が宿るほどに。
あそこは何度見てもかっこよすぎて背筋が震えます。
2部で盛り上がった心を一瞬で現実に引き戻して、刀剣男士の役目と強さを見せてくれる。
水心子が口にする「刀剣男士の誇り」とはこういうことを言うのだなと感じる、大好きなシーンのひとつです。
カーテンコールでは各登場人物が姿を現します。
その中には名もなき雑兵と共に、あの仮面の少女も登場します。
しかし、少女はそこにしか現れませんでした。
最後、刀剣男士が『刀剣乱舞』を歌う時も、挨拶をするときも、去っていくときも。
少女は名もなき雑兵と共に現れたのみで、姿を消します。
「見えなくなった」と言った方が適切でしょうか。
刀ミュは挨拶の時も物語としての姿勢を崩さない作品です。
1部の最後で水心子にも認識できなくなった少女は、カーテンコールの一瞬のみ(存在していたかしていないかわからない)名もなき雑兵たちと共に姿を現し、また見えなくなったのではないかなと。
ほんの一瞬だけ、あそこでも道灌と同時に存在してるんですよね、仮面の少女。
それはそれとして、カーテンコールの仮面の少女のキレッキレのダンス、かっこよかったな……。
想像力と東京心覚
改めて見てみると、やっぱり東京心覚は一度見ただけでは捉えきれないものが多く散りばめられていると感じます。
私はこうして独り言を書き散らすことは慣れているのですが、他者へおすすめする巧い言い回しなどは思いつきません。
なんか…すごくいいから見て……という語彙力のかけらもないおすすめ文が出来上がります。
この作品に関して理解を深めるために、様々な物語を読んだり思い出したりしているのですが、一番最初に思いついた物語について少し触れてみたいと思います。
この【明確な答え】が示されない、わっかんねー!と思うと当時に想像力を搔き立てる作品を見た時、脳裏に浮かんだのは「想像力を使いなさいよ」という、とある物語の台詞でした。
これはハイム・ポトクの短編小説である『ゼブラ』に出てくる台詞です。
『ゼブラ』という題名に聞き覚えのある方もいるかもしれません。これは中学の国語の教科書に掲載されていた短編小説です。
『ゼブラ』は事故で挫折した少年(ゼブラ)が、同じ傷を持った美術の先生(ウィルスン)に出逢い、想像力を使いながら互いの傷を乗り越えていく話です。
この美術の先生が絵を描く子供たちへ語り掛ける言葉に、「かこうとするものの輪郭を見るのではなく、その輪郭を包む空間を見ること」というものがあります。
輪郭そのものではなく、それを包む空間を見る。
目に見えるものをそのまま受け止めるのではなく、見えるものを包む空間、つまり「想像力」を駆使して目に見えないものを見る、ということです。
学生の立場から見ると、ここテストに出たら嫌すぎますね……教育用語だと「象徴認識力」と呼ぶようです。*7
『ゼブラ』における「想像力」について研究している論文には、美術の先生の台詞に対しこう記されています。
輪郭とは、ある既存の概念やことばを通して個物を個物としてとらえること、つまりあらかじめ概念的に規定されている目なら目という輪郭、唇なら唇という輪郭で事物をとらえ、理解した結果に過ぎない。事物が輪郭として概念的に現出する以前の、「線」「丸み」「形」へと視点が転換されることで、既存の事物の概念的な理解は揺さぶられ相対化されていく。(中略)
そして、ウィルスンは、輪郭を包む空間を見ろと言っている。これは、既存の概念的な輪郭として個物に捉えられていることから脱却し、輪郭にこだわらず、個物に溺れない全体性への視点を持つことである。
中村哲也.教材「ゼブラ」と思春期の心の成長──共感と回復──.福島大学人間発達文化学類論集.第8号,p21-32,2008(福島大学学術機関リポジトリ)hdl.handle.net/10270/2025 ,(参照 2021-05-29)
私は『ゼブラ』から「想像力」を駆使して、見えているものを包む空間を見ることを学びましたが、この論文を読んでみると「線」や「形」といった輪郭以前のものを見つめることで全体性への視点を持つという点が今作の水心子の行動に繋がっているようにも思えます。
さらにいえば、物語という輪郭ではなく、その中にある刀剣男士や歴史上の人物の想いへ目を向けることで、なんとなく作品に込められたものを感じ取れたような気がしています。気がしているだけですが。
この考察も感想も正解ではありませんし、私個人が感じた『東京心覚』でしかありません。
でもこれが「間違い」なのかと問われると、それもやはり違います。
「みんな、何が【正しい】なんて無いんだ」
この水心子の言葉がすべてです。
最初は何も見えなかったのに、いつのまにか温かくて、ふわふわで、とても優しいものになっていた東京心覚。
こんな時代になってしまっても、こんな時代だからこそ出逢える物語がそこにはありました。
出演者・スタッフをはじめとした関係者はもちろん、観客であった審神者のみんなも頑張ったんだって、最後の最後に刀剣男士から褒めてもらえて、拍手までもらえたから、やっぱりこの歴史は守る価値があるものなんだなと思えました。
この2か月間、ずっと想いを馳せて、心を揺さぶられ続けた物語。
間違いなく、この先の人生をそっと支えてくれる名作に出逢えたと思っています。
この先立ち止まったとしても、心覚のことを思い出せば前を向けるし、笑顔を増やすこともできるはず。
ありがとう、東京心覚。ありがとう、ミュージカル刀剣乱舞。
シングルCD、アルバム、円盤の発売を心待ちにしながら、はからずとも長編となってしまった考察と感想を一旦区切りたいとおもいます。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
また次の考察と感想でお会いできることを願って。
彼らが旅に出る理由~にっかり青江単騎出陣 感想と考察~
勢いだけで筆を執りました。
あの、青江単騎……すごかったですね……っていう話です。
5月15日に配信された全景版・スイッチング版、どちらも衝撃的で震えて泣きました。
まだまだ旅は始まったばかりなのですが、感情が溢れすぎてどうしようもないので、ふせったーに書きなぐっていたことを加筆修正しつつ一旦ここにまとめておきたいと思います。
感想と考察どころか感情しかない。感情の真空パックです。
これから青江単騎みるよ!という人にはあまりおすすめ出来ないネタバレ具合なので、そこのところよろしくお願いします。
あと所々に東京心覚の話も出てくるので、そこもネタバレ勘弁!という場合もご注意ください。
青江という衝撃
最初に青江が単騎出陣すると聞いたときは公演内容の想像がつきませんでした。
歌合で講談はしていましたけど、講談師として全国行脚するわけでもないだろうし……単騎でどんなことを……?
加州清光はソロ曲を持って単騎出陣をライブツアーとして成し遂げていますが、青江には加州くんのようなソロ曲はありません。
じゃあ源氏兄弟の双騎みたいに、自分のルーツを辿る旅を青江がするのだろうか?それはもはやゲームに実装されている修行では?京極家に行くのか?
そんな貧相な想像力をはるかに上回る内容をぶつけてきたのが今回の青江単騎です。
いやすごい。すごいとしか言いようがない。
これを2年かけて全国でやることも、この内容を書ける人がいることも、この脚本を演じきれる役者がいることも、この空間を作り出せる多くの関係者がいることも。
ミュージカル刀剣乱舞の引き出しの多さに戦きました。
この場末のブログの過去記事を見るとわかることではあるのですが、わたしは歌合から刀ミュに足を踏み入れた新参者です。
何もわからない状態で現地参戦をして記憶が混濁するなか、唯一はっきり覚えていたのが青江の講談でした。
真っ暗な真冬の会場を静かに底冷えさせていった異様な空間。
2.5次元舞台というカテゴリーで括るには勿体無いほど確かに怪談を語りきった青江。
初心者にとっては物凄い衝撃的でしたし、いまだにあの風景と空気を忘れることはできません。
その青江が、こんなに鮮やかで美しい、唯一無二の単騎出陣を魅せてくれたことはそれを上回る衝撃といっても過言ではないわけです。
生きててよかったな……としみじみ思いました。
ミュージカル刀剣乱舞は人生に効く。
物語と青江
青江単騎は、なぜ青江が旅に出ようと思ったのか、その理由を語るところから始まります。
根底にあったのは青江も深く関わった三百年の子守唄と、その先を描いた葵咲本紀でした。
鳥居元忠の血天井
訥々と語ることもできるのに、敢えて抑揚をつけた講談スタイルをとりながら、青江は(恐らく蜻蛉切が葵咲本紀の最後にタイトルをつけていた)史実をもとにした記録を語りました。
それは本編では描かれなかった、物吉貞宗の最後の任務。
任務の中で実際あった家康と物吉くんの会話を交えながら、軽快に語られる闘いの記録。
しかし、その裏にあった凄惨な現場を、青江は見ていました。
血塗れで、臣下だった武士たちの屍に囲まれて、笑顔を失った物吉くんの姿を。
この話を聞いたとき、よりにもよって物吉くんになんてことを……と感じながらさめざめ泣いてしまいました。
これは「鳥居元忠の血天井」という歴史的な出来事のひとつです。
伏見城の戦いで最終的に鳥居元忠とその臣下の武士約300名は切腹しています。
その亡骸が回収されるのは関ヶ原が終わった後。そのころには彼らが流した血の跡は伏見城の床板に染みついて、とれなくなっていました。
この血が付いた床板は元忠達が「本物の三河武士」であり「家康のかけがえのない忠臣」であることを称える、歴史的な遺物となっています。
床板なのになぜ天井なのか?
それは家康が彼らの忠義に感動して、床板を供養するため徳川家に関係する寺院へ納めた際に「足で踏まれないように」天井板としたことからきています。
この血天井は京都にある養源院のものが切腹した武士たちの手形や姿を象る血痕が残された一番壮絶なものだそうです。
目の前で臣下だった武士たちが次々と自刃していくのを、床や天井まで飛び散るほどの血を浴びてみていた物吉くんの顔からは笑顔が消えていた、と青江は語っていました。
赦されることならば物吉くんだって彼らを救いたかったでしょう。その死にざまから目を背けたかったでしょう。
だけどこれが歴史。
家康が江戸幕府を築くために必要な歴史を創る物語。
こうなることがわかっていて、それでも物吉くんはみほとせで鳥居元忠としての役目を受け入れたのです。
最後まで家康を支え続けるという覚悟と、どんな時でも笑顔を絶やさなかった物吉くんの在り方の矛盾があまりにもつらい……。
みほとせで「違う結末」を期待していた物吉くんに、青江は言いました。
「手に入れてしまった以上、捨てることはできないから」
「心のこと。あまり無理をすると、壊れてしまうんだって」
青江が語った伏見城の物吉くんはきっと壊れる寸前だったんじゃないかとわたしは思います。
あそこで青江が迎えに行かなければ、完全に壊れてしまっていたのではないかとも。
物吉くんの心が砕けないように駆け付けた青江は、「悲しい役割」を分け合おうとしてくれていたのでしょう。
青江が歌う『かざぐるま』の最中、赤いライトが当たった場所はきっと伏見城の血痕を表現しているんじゃないかなと。
ダイレクトに人間に関わるみほとせと葵咲はしんどさのレベルが極……。
また、あおさく本編で村正が「物吉くんが死にマスよ」と言っていたのは間違いではなかったのだというツイートを何方かがされていて、確かに…!!!!!となりました。
村正が言っていたのは、史実としての鳥居元忠の死だけではなく、物吉くんの心が死んでしまうということだったのかと……。
そうなってくると、信康の件もあわせて村正が怒るのも仕方ないな…という気持ちになる村正推しの審神者です。
かざぐるまと幼子
みほとせで経験した任務を思い返しながら、青江はこう語ります。
「あれはまだ、かざぐるまを回す風の吹く時代だった」
かざぐるま。みほとせのテーマ曲。
青江はみほとせで、幽霊とはいえ幼子を斬ったことへの後ろめたさを、子育てをすることで少しずつ昇華していました。
きっかけとなったのは石切丸の言葉。
「君は、神の子を助けたんだ」
この台詞、本当に天才的ですよね……後悔を語る青江へかける御神刀の言葉として本当に天才……。
幼子とかざぐるまと聞けばもちろん最初に思い出されるのは玩具なのですが、かざぐるまはそれ以外にも水子供養のシンボルとしての面も持っています。
水子は流産や中絶、生後まもなく亡くなった赤子を指しますが、これは近年確立された概念で、それ以前は出生後に亡くなった幼児を指していたとされています。*1
家康の幼少期、つまり竹千代が生きていた戦国時代は戦の影響で命を落とす子供も多く、登場人物のひとりであった吾平は妹を亡くしたことで戦うことを決意していました。
さらにいえば、江戸時代は経済的な理由から生まれた子供を間引きすることが多い時代でした。
日本では、平安時代の『今昔物語集』に既に堕胎に関する記載が見られるが、堕胎と「間引き」即ち「子殺し」が最も盛んだったのは江戸時代である。関東地方と東北地方では農民階級の貧困が原因で「間引き」が特に盛んに行われ、都市では工商階級の風俗退廃による不義密通の横行が主な原因で行われた。また小禄の武士階級でも行われた。
また、あおさくでは結城秀康と永見貞愛が双子だという話をする際、「畜生腹」という単語が出てきます。
畜生腹から生まれた双子は不吉とされ、間引きされるケースもあったそうです。
ちくしょう‐ばら〔チクシヤウ‐〕【畜生腹】
《犬・猫などの動物が、1回に2匹以上の子を産むところから》
1 女性が1回に二人以上の子供を産むことをののしっていった語。
2 双生児や三つ子などをいった語。また、男と女の双生児。前世で心中した者の生まれかわりとして忌み嫌われた。
こう見るとみほとせもあおさくも、子供の死と表裏一体なんですよね。
青江が言う「かざぐるまを回す風」は、お供え物としてのかざぐるまを回すものでもあったのかな…とか考えてしまいました。*2
まあ、水子供養(水子を弔わなければ祟りが起こる)という信仰は戦後に成立したものなのですが……。
幼子が簡単に命を落とす時代に、後に神となる子を救い、育てた。
これだけで、青江の抱える夜は明け方に向かっていたのだと思っていました。
でも実際はそうじゃなくて、青江の中にはまだ後悔が残っていた。
そこと向き合うための単騎出陣だなんて、いったい誰が予想できるんです……?
生きるという苦悩
青江が遡行軍と刃を交えながら叫ぶ「僕がもっと強ければ、彼らは刀のままで居られた」という台詞。
これ、「物のままで居られたら心を得ることもなかったのに」って聞こえるんですよね……それって、歌合の『八つの炎 八つの苦悩』の歌詞にも繋がる言葉だなと…。
「刀のままで居られた」ら、刀剣男士として心を得ることもなく、迷うことも惑うことも弱さを知ることも強さを求めることもなかったわけです。
青江は「自分が強ければ、心を得ることで生まれる苦しみや痛みを得る男士が増えなかったのに」と言っているんですよ…。
歌合で新たな刀が生まれる寸前、刀剣男士になる前の存在が歌った『八つの炎 八つの苦悩』の歌詞はこうなっています。
「我を呼び起こすのは 燃えたぎる八つの炎
我に与えられたのは 肉体と八つの苦悩
五蘊盛苦
身に宿る苦しみ 痛み 悩み
何故我を生み出した」
肉体を得ることと同時に苦悩を得る刀剣男士。
「八つの苦悩」は仏教における「四苦八苦」です。
生まれた事で背負わなければならない苦しみの数々。
「四苦八苦」のうちの「四苦」とは「生苦」「老苦」「病苦」「死苦」を指し、「八苦」は更に「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」を「四苦」に足したものを言います。
「五蘊盛苦」は「肉体を得たことで発生する苦しみ」を意味します。
「四苦八苦」のうち七つの苦しみはすべて生きるための肉体があるからこそなのだ、という苦しみ。
生きることは苦しいことなのに、何故肉体を与えて自分を生み出したのか。何故苦しいのに生きなければならないのか。
人に扱われるだけの刀のままであったなら、疑問を抱かなかったであろうこと。
武器の視点から人の身の不便さ、不条理さを問うているのがこの歌です。
青江はそんな苦しみを得て顕現する仲間が増えるのが「いいこと」ではなく、自分が強くないから=戦力が足りていないから起こることなのだと言うのです。
それはみほとせと葵咲の間で起こった伏見城の戦いで、青江が心の痛みを感じて生まれた想いなのでしょう。
刀のままで居られたら、苦しみを感じることはなかった。
刀のままで居られたら、痛みも感じることはなかった。
刀のままで居られたら、悩むことも立ち止まることも。
「悲しい役割」を背負うこともなかったのに。
青江のなにが優しいって、痛みを感じる原因に他者が関わっているところです。
自分自身の後悔や弱さを直視しながら感じた痛みというよりは、他者の痛みを介して自分の後悔や弱さを思い返したというか。
みほとせで「悲しい役割」を分け合おうとしてくれた青江ならではの痛みだなとおもいました。
しかも求める強さというのが単純な戦闘力ではないという……「敵を倒すだけの強さ」は青江の求めるものではなく、憧れているのは「守るための力」なんですよ……。
こんな想いを抱えながら歌合に参加していたのだと考えると……そりゃ新しい刀剣男士が顕現する時も、顕現した後も張り詰めた空気を纏っているよなあ、と……。
遡行軍と刀剣男士の抱える想い
幽霊との対話シーンで、青江ははっきりと己が抱える後悔を口にしています。
「僕がもっと強ければ、流れずに済んだ血も、失われずに済んだ命もあったはずなんだ」
これに対して、幽霊は「歴史を変えてしまえばいい」とささやきます。
それでは自分たちの敵と同じだと叫ぶ青江へ、幽霊は「彼らとあなたの抱える想いに違いはない」と答えていました。
時間遡行軍も刀剣男士も付喪神であり、それぞれに正義がある。
流したくなかった血、失いたくなかった命、抱える後悔をなくすために歴史を変えたいという願いを持っている。
「そこに違いはない」という真実と向き合った時、どちら側に心が傾くかで初めて違いが生まれるんですね……。
ここ、あおさくにも繋がっている気がします。
篭手切江のやっていることを明石が「気に入らない」と口にするあのシーンに。
でもあそこの明石は向き合うというより、敢えて見ないことを選択するような言い回しをしていたのが引っかかります。*3
ブログ書くたびにあおさくのこのシーンについて言及してる気がするんですけど……それだけ重要度が高いサビということで……。
青江の役割
今作はミュ本丸における青江の特性や役割が深く携わっている物語だなと感じています。
特にこれ!!と思ったものを叫んでいいですか?
彼岸と此岸を繋ぐ役割
今作最大の見せ場である、女の幽霊と青江の同時会話シーン。
まさに「憑依」という言葉が相応しい、鳥肌ものの場面でした。
青江が居る舞台自体が能舞台を表現していると有識者のふせったーで拝見したのですが、じゃあ能における能面の役割はなんなんだろうと調べたら、能面をつける存在は「人ならざる者」を表現しているそうなんですね。
その能面をつけた存在をシテ(主役)と呼ぶんですが、このシテは幽霊や鬼・神様といった異界の存在であることが多いそうなので、今回は女の幽霊に当てはまるなあと。
シテは「あの世」と「この世」を繋ぎ、観客を異界へといざなう存在。
真剣乱舞祭は「彼方側」と「此方側」を繋ぐ祭。
そして2017年に行われた乱舞祭で、百物語、つまり怪談を軸に「彼方側」と「此方側」を繋ぐ役割を担ったのが青江です。*4
乱舞祭は2018年に繋がりが確かなものになり、2019年には此方側へ彼方側のもの=刀剣男士を呼ぶ祭と進化していきます。
2016年が完全に彼方側だったとするなら、青江がいざなった2017年がちょうど中間地点とも呼べるのではないでしょうか。
また、歌合では人魂と幽霊の違いについても語っていた青江が、今回満を持して幽霊と対話するというのも個人的には興奮しました。
あの時、青江はこう語っています。
曰く、人魂は「彷徨い果てて形をなくした思念」ではなく「まだ何物にも染まっていない純粋な思念」である。
曰く、幽霊は「執念深くこの世にしがみついた結果、【こうでありたかった姿】がはっきりしているモノ」である。
歌合では人魂に対し「いい子だ」と言葉をかけていたのに対し、単騎出陣で幽霊に翻弄されながら自分の後悔や弱さと向き合った青江。
あの幽霊は青江とずっと一緒に居たものであり、水面に映る青江の虚像でもある存在なんですよね……。
見えないだけで、見ようとしていないだけで、ずっとそこに居てくれたもの。
「見えていなくても月はそこにあるんだ…まあるいはずなんだ」
これは東京心覚で水心子が歴史がどういったものなのか知ったときの台詞です。
歌合の講談でもそうでしたが、今回青江が幽霊と対話している夜にも月が出ていません。
これもまた、新月の夜に語られる仄暗い話だったんじゃない?!と乱舞祭2017だいすき人間は思うのでした。
本当の願いと脇差の特性
己が抱えていた後悔や弱さと向き合った果てに、青江は本当の願いを口にします。
そこで「誰かを笑顔にしたい、できれば自分も心から笑いたい」と願うのは脇差の特性が現れてるのかなと感じました。
ミュ本丸の脇差、というか脇差という刀の在り方は「手助けをすること」にあるのではないかなと考えています。
脇差というものは二振り目、予備の刀であって、武士階級以外も持つことができた武器です。
名だたる武将や、名もない民草の「いざと言う時」を支えてきた存在。
刀剣男士としても、二刀開眼で打刀を支える特性を持っています。
歌合のオタクなのでまた歌合の話をしますが、歌合では開演前のアナウンスを篭手切江・物吉貞宗・堀川国広が審神者のお手伝いをするために現れました。
冒頭の『奉踊』が始まる際、青江・堀川国広・物吉貞宗・篭手切江の立ち位置が実は一列になっています。これをわたしは勝手に脇差ラインと呼んでいます。
新たな刀の顕現シーンでも、刀剣男士となる寸前の仮面をつけた存在の近くにいたのは篭手切江・物吉貞宗・堀川国広です。 *5
「共に闘うため 使命果たすため」と誰よりも必死に呼びかけていたのは篭手切江。
そして顕現した瞬間、布を取り、新たな刀剣男士の披露を手伝うのは物吉貞宗と堀川国広。
すごいお手伝いしてるんですよ脇差。
この時、青江だけは左端で刀に手をかける姿勢をとっているのですが……その胸の内にあったのが、今回の単騎出陣で語られた葛藤だったのでしょう。
ちなみに、『君待ちの唄』で刀剣男士としての身体を形作る歌詞を歌う際、脇差は「臓器(心臓・眼・手足・口・肺)」のパートすべてに存在しています。
これもまたお手伝いといえばお手伝い(こじつけ)
これまでのミュ本丸の物語のなかでも、脇差は何かを手助けする存在であったと感じられます。
物吉貞宗はみほとせで、徳川家康を育てるための基盤となり、鳥居元忠として後に神となる子を支え続けました。
堀川国広は幕末で蜂須賀と長曽祢の仲を取り持とうとしたり、むすはじで兼さんの憂いを晴らそうと単身で土方歳三のもとへ乗り込んで行ったりと、自分の欲望より他者の幸福を想った行動をとっていたと感じます。
そして篭手切江は、遡行軍となってしまった同胞・稲葉江に「物語を思い出してもらう」ために行動していました。
これらの行動はどれも、誰かの手助けをする、という共通点があるように思えます。
青江はみほとせで石切丸の行動を見守り、そして最後は「一緒に笑ってあげる」ことをしました。
けれどそれは彼の中では本当の手助けではなかったのです。
彼がしたかったのは、心から笑えない自分が一緒に笑ってあげることではなく、「誰かを笑顔にして、出来れば自分も心の底から笑う」こと。
それが本当の願い。彼にとっての手助け。
誰かを支えるということ、誰かを守るということ。
他者の悲しみや痛みから、己の心の痛みを感じて旅に出ることを決めた青江が旅の果てで見つけたのが「誰かを笑顔にしたい」という願いであり、そしてそれを教えてくれたのがこんな時代であることは、東京心覚で水心子正秀が見つけた答えと似ています。
「笑顔になれることを増やせばいい」
この水心子正秀の答えと共に、いま青江から示された
「誰かを笑顔にしたい」
という願いは繋がっているのではないでしょうか。
約束はできないという誠実さ
あと個人的にここが一番サビだな…と思っているポイントをひとつ。
青江が審神者に対して必ず帰ってくることを約束しなかったシーンの話です。
最初、青江が約束を求められて即答しなかったのは、いつものように茶化すためだと思っていました。
でも、青江は真剣に「約束はできないよ」という言葉を返したのです。
あれは自分が約束を交わす感触を知ることはできない存在だと理解していたからだと、歌合を見直していて気づきました。
歌合で青江が語ったのは『菊花の約』です。
その物語は、こんな戒めから始まります。
【交は軽薄の人と結ぶこと勿れ】
軽薄な人との交友は結びやすいが途絶えやすく、価値がないものだと。
それに対し、青江はこう話しています。
「軽薄なものには価値がない、それは同意するけどうらやましくもあるね。
だって僕は君に強く握られたり撫でられたりはしても、結果、斬ることしかできない。
鍔迫りの痛み、押し込む圧、刃毀れさせる興奮はあっても…交わるとはどういう感触なのか、知ることはできないからね」
刀剣男士は人に触れることはできても、交わること、結ぶことの感触を知ることはできない。
最終的には何かを斬ることが目的だから。
修行へ向かう青江へ審神者は「必ず帰ってくると約束してほしい」と言葉を投げかけますが、青江は即答しませんでした。
すこし困ったような、悩むような顔をして、「折れてしまうかもしれないからね。約束はできないよ」と返します。
ここで偽って頷くこともできたのに、青江はそうしなかった。
約束を交わす感触を知らない自分がそこで偽ることは、それこそ軽薄で、結ぶべき交わりではないとわかっていたから。
きっと、あの返答こそが青江の誠意だったんですよね……。
そして、言葉では何とでもいえることも知っていたから、「せめて舞わせてくれないかな」と自ら決意を表現する舞を披露したのだと思います。
あの舞、本当に素晴らしくて見るたびに心が強く揺さぶられました。
ミュ本丸の刀剣男士は本心を歌で語ることが多いのに、青江は敢えてなにも語らず、舞だけで心を伝えてきた。
めちゃくちゃかっこいい……動きのキレ、しなやかさ、表情……どれをとっても頭からつま先までにっかり青江なんだもん……。
誰かの悲しみや喜びを一緒に分かち合おうとしてくれて、でも心の底から笑えない自分の弱さや抱えた後悔を見ないふりしていた青江。
みほとせ本編では石切丸の心を支えていましたが、今回の単騎で他の刀たちのこともしっかり見守り、その本質を見抜いていたことがわかります。
子育てが得意な蜻蛉切。誤解されやすい村正。寡黙に他者を思いやる大俱利伽羅。
たとえあの時本当に笑えていなかったとしても、青江は「楽しかった」と口にしています。
共に歴史を守り、創っていくことが楽しかった。
だからこそ、自分がその中で本当に笑えていないことに何となく気づいていたのだと思います。
そして青江は、自分の本心を語ることが苦手なのだと言っていました。
実際、みほとせ本編で彼が本心を吐露するようなソロ曲を歌うことはありませんでした。*6
そんな彼がひとりで歌い、語り続けるこの単騎出陣こそ本当の青江の声で、それを何年もかけて、やっと我々は見聞きすることができたのではないかなと。
考えれば考えるほど歌合の青江を見る目がまた変わっていくんですよね……なんて奥が深いんだ……。
これは余談なのですが、歌合で青江がメインだった曲といえば『Nameless Fighter』です。
もうこの単騎出陣の内容自体めちゃくちゃNameless Fighterなんですが、歌合の映像みてると、サビ前のパートでめちゃくちゃ大俱利伽羅が青江のことガン見してるシーンがあるんですよね……。
「僕なりのヒーロー
キミだけのヒーロー
隣にいるよ」
この「隣にいるよ」のところで客席へ向かって歌う青江を隣で大俱利伽羅がすごい見ている。しかもなにか想いを抱えている表情で見ている。
青江も周りを見ていたけど、周りもちゃんと青江のこと見てるし、きっと青江が静かに抱えているものも見ていたんじゃないかなと思います。
極の誕生と祝祭
傷ついてもがいて掴み取った本当の願いと、目を背け続けていた後悔や傷を抱えていくと決めた青江が極となって戻ってくるあのシーン、日本史に遺したほうがいいと思いませんか?
修行の手紙朗読も素晴らしいし、青江の道が拓けると同時に月が現れて闇を照らす演出もいい。
極の衣装に着替える映像とBGMの盛り上がり方も大変エモい。
そして青江単騎の『刀剣乱舞』に繋がるのもかっこよすぎる。
『刀剣乱舞』のサビ前で一瞬青江がふっと笑う瞬間があるんですよ……あれがもう…すごい…青江自身の笑い声にも聞こえるけど、共に歩むと決めた幽霊の声にも聞こえます……。
あと、修行から帰還した青江が歌ってくれたのが歌合の最後を彩った『あなめでたや』で嬉しくてボロボロ泣いてしまいました……。
今回の内容を踏まえれば、歌合の時の青江は心の底から笑えてなかったわけですよ……。
新たな刀の顕現は戦力の増強であって「良い事ばかりではない」……「僕がもっと強ければ、彼らは刀のままで居られた」という想いを胸の内に抱えていたので……。
その葛藤や傷を乗り越えて修行から帰還した青江が、此方側に向かって贈ってくれたのが、新たな刀の誕生を寿ぐ『あなめでたや』なのあまりにもエモすぎる……しかもここの青江は歌合のときより本当に笑っている……。
「想いは言葉へ
言葉は歌へ
歌はあなたへ
そして新たに生まれる想い
あなたと歌合」
ほんと…ほんとこの歌を…「あなた」へ、此方側へ贈ってくれる青江の歌声が優しくて……。
歌合では「想ひ(火)」に焼かれる歌を詠んだ青江が、己の内に生まれた後悔や苦悩という火に焼かれながら、それを受け入れて前に進んだ先で、この祝祭のうたを高らかに歌い上げる。
これもまた、にっかり青江極という新たな刀剣男士の誕生の瞬間なんですね……。
また、幽霊と対話するシーンで辛さを指摘されて錯乱し自刃をしようとした青江が、
「知っているよ、ここで折れてしまえば楽になれることぐらい。でも、楽になりたいわけじゃない」
と言ったのもここに繋がる気がしています。
折れて、刀剣男士として得た心をなくし、物として扱われる状態へ戻れたら、それまで抱えていた苦悩も忘れて楽になれることを知っている。
それでも、「楽になりたいわけじゃない」と青江は言ったんです。
刀剣男士として生まれ、心を得たことで必ず宿る苦悩や痛みも受け入れて、泥臭く「生きる」という行為そのものをを肯定してくれてるじゃないですか……。
こんなの泣いてしまうでしょ……だってそれは、歌合で生まれてきた刀剣男士たちと同じ答えでもあるんだから……。
歌合の青江は誰よりも新たな刀の顕現シーンで身構えていて、笑顔を見せなくて、最後の挨拶でも「無事に新たな刀が顕現したこと、きみは喜んでくれるかな」と無機質に問いかけただけでした。
それはこの葛藤を抱えていたからなのだと1年半ごしに答えを突きつけられて歌合からの審神者、無事に入滅。
序盤の講談も泣いたけど最後の最後で背中から綺麗に刺された……。
刀ミュという名の文化
思うがままに色々書き殴ってきましたが、結論としては青江単騎すげえ……という話でした。
刀ミュの可能性というか、引き出しの多彩さを見せつけられたことでウワーーーー!!!!!となったオタクの叫び声です。
これまで修行に出る男士は居ても、帰還してその姿を披露した男士はいなかったわけですよ。
この先にもまだまだ沢山の可能性があって、道が広がっている。そんな風に思える光を見ました。
もはやこれは刀ミュという名の文化です……2.5次元という枠を飛び越えてどんどん進化を続けている文化。
もちろん推しにもこんなすごい公演をしてほしいけど、みんながみんな同じ内容の出陣を出来るかと問われるとそういうわけではないのもわかっています。
それぞれがその時に出せる最高の力で、新しい衝撃と感動を与えてくれたら、それが最高に幸せなんじゃないかなあと。
全員単騎という夢も見つつ、個人的には村正派双騎とか江単独出陣とかそういうのも夢みつつ、いまは青江単騎という素晴らしい作品に出逢えたことの幸福に浸りたいと思います。
青江の旅はこの先も続きます。
まだまだ困難な時代は続きそうですが、その中でも夜闇に浮かぶ灯篭のように、やさしい光となって全国を駆け巡って欲しいと片隅からおもっています。
ありがとう、そして行ってらっしゃい青江。
また青江の旅の話を聴く時を楽しみにしています。
どうかその旅路に素晴らしい出逢いと幸福が多からんことを。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!
*2:恐山にある水子地蔵とか、水子供養を謳うお寺とか、あの辺にはかざぐるまがたくさん置いてあるので……。
*3:歌合の考察で青江と明石が対比されているのでは?という話をしたとのですが、個人的にはこういうところも対比としてカウントしておきたいです。
*4:歴代乱舞祭から見ると2017年はまだ彼方側寄りなのかなーとは思うんですが…会場にいる観客に対して聞かせている時点で「此方側」との繋がりを保っているとも感じられます。
*5:ここに石切丸も加わっています
*6:本来なら青江の歌があったけど削られたという話を初演円盤の対談でされていたので、乱舞祭で歌われた『手のひら』がてっきりその曲だと思い込んでいたのですが、ファンサイトのキャストブログに「乱舞祭のために作られた新曲」であることを荒木さんが書かれている、という情報を先輩方から頂いて勘違いを正すことができました…知識がアップデートされた!
心に留めておけぬ二番だし~東京心覚の考察と感想②~
来た!見た!書いた!
東京心覚、アーカイブ配信摂取後の二番だしです。
二番だしにしては味が濃いです。特濃です。
いつもながら自分なりに色々と作り上げているので、これが正解というわけではありません。
へ~こんな見方もあるんだな~、という感じで楽しんでいただければ幸いです。
今回記事に記載してる心覚の歌詞は聞いたものをそのまま文字起こししてるだけなので、あくまでも参考程度にご覧ください。
※前回の記事(初日だけ見た考察と感想)はこちら
はじめに~心に刻むということ~
アーカイブ配信のいいところは好きなところで一時停止して調べたりメモしたりできるところです。
おかげさまでアーカイブ配信1週目は一時停止しすぎて1部見るのに1週間くらいかかりました。
同じ作品のアーカイブ配信2回買ったの初めてです。配信期間長くしてくれてありがとうDMM…ありがとうミュージカル刀剣乱舞…。
前回の考察と感想は一瞬のうちに駆け抜けていった感情たちをかき集めて形にしたものでした。
対する今回はじっくり見ながらひとつひとつ確かめていったものの集まりなので、たぶん味が濃いです。
どうまとめようか迷ったのですが、とりあえず作中の時系列に沿って話を進めていきたいと思います。
東京心覚は見れば見るほど新しい発見があって、それを調べて知れば知るほどいろんな繋がりが見えたりして、とても見応え・考え応えのある作品だと改めて感じました。
言葉で語られない部分が多い作品ほど、見る側は様々な憶測を巡らせることができます。
そしてその憶測を言葉にしてみると、謎を暴く快感と謎が消えていく寂寞に包まれます。
今回もどこまで語るべきか、すべてを言葉にしてしまっていいものかと少し悩みました。
心にガツンときた気づきや感動というのは、事細かに言葉にすると安っぽくなってしまうから。
物事の感じ方は人それぞれで、見えた景色や感じた色もきっと見た人によって違います。
この作品が私の心に遺した感覚も、完全に共有することは難しいし、そもそも共有するようなものではありません。
だからこの感動は、本当は語らずに心に秘めておくことで美しさを保てるのかもしれません。
でも、心で感じたことはどんどん上書きされていって、いつか細かなことを忘れてしまうものです。
これは私の心覚です。
いつか忘れてしまう前に、覚えておきたい美しさを独り言のように書き綴ります。
少々長くなりますが、もしお時間と興味があればお付き合いください。
プロローグ
会場BGMから流れるように開幕するあの演出ヒュッッ…ってなりました。
まずはプロローグで聞こえてくる音と、そこに現れるものに着目していきます。
通りゃんせと双騎の繋がり
優雅なクラシックからいきなりノイズが入って「かつて江戸だった場所」…つまり東京に移動するわけですが、ここで喧騒と共に聞こえてくるのが横断歩道の信号機から流れる『通りゃんせ』です。
通りゃんせは江戸時代に生まれた童歌で、発祥の地が3つほどあります。諸説あるがの!状態です。
そして、発祥の地の1つに、小田原市国府津の菅原神社があります。
この菅原神社には「曽我の隠れ石」というものが存在します。
この曽我の隠れ石、なんと曾我兄弟が父の仇である工藤祐経を討つために隠れた石と言い伝えられているのです。
結局その時は工藤祐経の警護が固くて、曽我兄弟は涙を呑んで見逃したそうなのですが…まさかここで双騎に繋がるとは思わなくて驚きました。
そもそも心覚はクラシック音楽の使い方や将門公の機能としての演出が双騎と繋がっている感じがあったのですが、まさかこんなところでも???
偶然なのか意図的なのかわかりませんが、何となく調べて椅子からひっくり返りそうになりました。
そして、横断歩道の信号機から流れる通りゃんせのメロディは減少傾向にあります。
信号機から流れる通りゃんせは1975年以降に『故郷の空』と共にメロディ式使われ始め、それと同時に鳥の声を使った擬音式も使われるようになりました。
しかし、2003年からは擬音式のみが使われるようになり、メロディ式も擬音式に置き換えられつつあるのです。*1
10年後、20年後には全て擬音式になっているかもしれません。
そう考えると、通りゃんせの音が鳴る信号機は廃れていく最中にあるものといえます。
廃れていく=忘れ去られていくもの…でも誰かに覚えて貰っているうちはこれもまた存在していることになるのでは?という力技解釈をしています。
ピアノソナタと水面の月
オープニングで現代の東京になる瞬間、会場内に流れている曲と、仮面の少女が初めて出てくる場面でかかる曲はどちらもベートーヴェンのピアノソナタです。
1つ目はピアノソナタ8番『悲愴』第二楽章。
もう1つはピアノソナタ第14番嬰ハ短調 作品27-2 『幻想曲風ソナタ』…通称『月光ソナタ』。
調べてみるとベートーヴェンの3大ピアノソナタのうち2曲が使われているんです。
そして『月光ソナタ』については以下のような情報があります。
『月光ソナタ』という愛称はドイツの音楽評論家、詩人であるルートヴィヒ・レルシュタープのコメントに由来する。ベートーヴェンの死後5年が経過した1832年、レルシュタープはこの曲の第1楽章がもたらす効果を指して「スイスのルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と表現した。以後10年経たぬうちに『月光ソナタ』という名称がドイツ語や英語による出版物において使用されるようになり、19世紀終盤に至るとこの名称が世界的に知られるようになる。一方、作曲者の弟子であったカール・ツェルニーもレルシュタープの言及に先駆けて「夜景、遥か彼方から魂の悲しげな声が聞こえる」と述べている。
つまり『月光ソナタ』は水面に映る月に関係がある曲ということです。
そして劇中で『月光ソナタ』がかかるのは水心子正秀が独白している場面であることが多いのです。
『悲愴』は『月光ソナタ』に比べるとかかる回数は少ないのですが、一応繰り返しかかる曲としてメインテーマの一部にしていいと思っています。
『月光ソナタ』は名の由来にあわせて三日月をイメージさせるのですが、同じ月光でもドビュッシーの方は使われていないので、水面がキーワードなのかな?と。
3大ピアノソナタの『熱情』だけが使われていないのも気になるポイントです。いつの日か使われるときが来るのでしょうか。
また、この曲がかかる時は高確率で大きな月が背景に浮かび上がります。
ここで映っている月は珍しく三日月ではないんですが、これ、もしかして「三日月の見えない部分」なのでは?
つはもので髭切が「見えない部分も月だったよ」と言っていましたが、その「見えなくても月である部分」の象徴があの月だったのかもしれません。
空に浮かぶ月と水面に映る月が「表と裏」だというのは歌合で小狐丸が教えてくれたことですが、実際今作で大きく映る半分の月が実際の月の裏側なのかというとそういうわけでもなく、月面地図と重ね合わせてみると表側なんですよ。
物理的な表裏ではなく、虚像と実像による表裏というのが面白いところです。
舞台上から見える月面には「晴れの海」と「雨の海」が映っていました。
晴れと雨、これもまた表裏一体というか、循環しているというか。
一応「氷の海」も映っているのですが、氷もまたその循環に組み込まれる要素と捉えることもできます。
実は今回浮かび上がる月には「静かの海」が映っていません。
しかし、「晴れの海」は下の方で「静かの海」と繋がっているので、見えないところでも繋がりがあるのは確かです。
だから何だよという話なんですが…「見えないところでも繋がりがある」というのは個人的なエモポイントです。
盗まれた時間は誰のもの?
オープニングで時間遡行軍が現れた際、水心子はこう言っています。
「盗まれた、時間……いや、意識か…!」
この「盗まれた」というのが何を指しているのか、何回見ても???という感じだったのですが、こう…ふわっと理解できたような気分になっているので、そのふわふわスフレパンケーキ状態解釈をまず綴りたいと思います。
「盗まれた」というのは最初「時間遡行軍に盗まれた」の意味かと思っていました。
でもどうやらそういうことではなく、むしろ時間遡行軍は「盗まれた時間・意識」側のものである可能性が高いというのが私の解釈です。
彼らが現れたのは現代の東京、つまりいま我々が生きているこの不安定な世の中です。
この現代は去年あたりから感染症によって色々な「当たり前」が崩れました。
この崩れた「当たり前」の中には、その時生まれる筈だった想いや時間がありました。
わかりやすく刀ミュ関連でいうと、パライソ・大演練の中止。そして双騎・幕末の一部公演の中止。
これらはそこで生まれるはずだった感動や、それを生み出す時間を奪い去ってしまいました。
もちろん中止はその時に必要な措置で、感染症対策としては正しい方法だったのですが、本来生まれる予定だったものが行き場をなくしたのは事実です。
また、公演が決行されても情勢絡みで見に行くことを諦めなければならなかった人の時間や想いもまたこの不安定さに奪われたもののひとつといえます。
あの時間遡行軍は、そんな「奪われたもの=あの時代に本来生まれる予定だった時間・意識」を、奪われないものとして確立させるために現れたのでは…?
「盗まれた時間・意識」というのは生まれていれば人々の記憶や記録に残るものでしたが、不安定な情勢によって生まれることができなかったために誰の記憶にも残らない…つまり、存在を忘れ去られてしまいます。
歴史に名を遺すこともできず、価値のないものとして忘れ去られていくだけの時間や意識。
それらの歴史を改変するために送り込まれたのが、あの時間遡行軍だったとしたら。
本当は見たかったもの、本当は行きたかった場所。去年から今年にかけてそんなものや場所が沢山増えました。
それを叶えるために現れたのが時間遡行軍なら、悪だと断定はできません。
今でもまだ情勢は不安定で、いつ何が中止になるかわからない恐怖は消えないわけですから。
善と悪は簡単に分かつことができない。もしこのふわふわ解釈が少しでもかすっていたら、なんだかこう…勝敗がつかない刀ミュらしいなあと思います。
でもこの時間遡行軍は東京に張り巡らされた結界によって阻まれています。
この結界が現れたあとに、水心子は「どこで間違えたのか…」と意味深な台詞を紡ぎます。
なにが間違いだったのか?
恐らく、結界が時間遡行軍を阻んだことを指しているのでしょう。
結界があることで危機が免れたのは事実です。
しかし、結界が阻むことで刀剣男士の出番はなくなります。
つまり、時間遡行軍が結界に阻まれる世界では、刀剣男士は必要とされない…もしくは存在していない。
本丸に続く未来が消えた、放棄された世界のひとつとなってしまう。
そしてあの時点では、その放棄された世界の未来しか水心子には見えなかったのではないでしょうか。
水心子が間違いに気づいたと同時に、舞台上には降り積もる砂が現れます。
そしてその周りを仮面の少女が踊る場面。ここで流れるのが『月光ソナタ』です。
少女は最初、水心子に気づいていません。水心子は最初から見えているようで、戸惑ったように「君は…」と口にしていました。
ここで初めて少女が水心子に気づいて、慌てて逃げていきます。
本来であれば誰にも認識されないものだったからでしょう。
実際、歴史上の人物はもちろん、他の刀剣男士にすら彼女は見えていません。
彼女に問いかけ、語り掛けたのは水心子だけでした。
あの零れ落ちる砂は前回の記事で「受け止めて貰えなかった独り言」だろうと推測していたのですが、時間遡行軍のことを考えると「生まれることができなかった想い」でもあるのかなと考えています。
生まれることができず、誰にも受け止めて貰えなかった想いと、本来見えないはずの少女。
これらを水心子だけが感じ取ることができたのは、放棄された世界に長く居た経験があり、刀剣を復古させるために尽力した刀工の想いを強く受け継いでいるからなのだろうか…と考えています。
序盤~刀達の関係性~
ここでは序盤で気になったところと各刀派の顕現シーンにまつわるあれこれをお話していきます。
新々刀と平将門
オープニング後にまず出てくるのが平将門です。
此処は仮面の少女を追いかけようとした水心子を「水心子、戦だよ!」って清磨が呼びに来た後なので、新々刀が居るのは何ら不思議ではないのですが、新々刀は将門公を認識していませんでした。
出陣先に関する情報、特に警護対象とか処理対象になる歴史上の人物の情報は出陣前に知らされるはずです。今までのように。
なのに新々刀は「あれは一体誰なんだ」的な反応だったので、あの出陣先ではそもそも将門公を守ったり殺したりする任務を請け負っていなかったと考えられます。
目的は他にあって、その途中で戦が起きて、時間遡行軍が現れた。
だから将門公のことを認識していなかったのではないでしょうか。
そこで天の声といわんばかりに「平将門」という名を告げるのは三日月宗近。
あそこで姿は見えませんでしたが、恐らく新々刀と三日月宗近は一緒に出陣していたのだと思います。
そして三日月はあの時代で一振りだけ将門公に接触していた。
将門公は既に三日月宗近という刀剣男士の存在を知り、彼から色々と語り聞かされていたために去り際に新々刀のことを見つめていたのでは…。
余談ですが三日月から「平将門」というキーワードを聞かされた水心子が見るフィルム映像の中に、一瞬だけ十二単をまとった女性が映るんです。
あのアカシックレコード的なフィルム映像、コマ送り(一時停止)しながら見てると次にメインとなる人物が大きく映し出される傾向があったのですが、十二単の女性だけはこの最初の場面にしか出てきていないように見えました。
あれ、多分桔梗の前なんだろうなあ…と。
ある意味、最初の時点で「惚れた女のため」という将門公の答えは見えていたのです。
新々刀の歌~水清ければ~
この新々刀の歌好きすぎて何回も見返してたんですが早く曲名を教えてください。好きです。
最初の感想ではふわっとしたことしか語れなかったのですが、アーカイブ配信を摂取した後ならもう少し言語化できる筈なので語らせてください。
まずこの曲を歌う源清麿があまりにも…あまりにも優しい…本当に…。
曲に入る前に水心子の状態について豊前江と桑名江に説明しているシーンがあるのですが、そこですでに優しいんですよ清磨は…。
水心子は多くを語りません。それ故に誤解を生みやすい性格ともいえます。
そんな水心子のフォローアップに親友の清磨が出てくる、この関係性があまりにも優しい。
今までなら誤解された部分はそのままだったり、それが原因でぶつかり合ったりしていましたが、今回はトラブルが起きる前に清磨がサポートしているのです。
そこからあの歌に入るの優しさの塊じゃないですか???
歌詞の中でも清磨は水心子に対してずっと語り掛けています。
「いくら迷子になろうと僕が探し出すよ
大丈夫だよ、落ち着いて ほら、深呼吸」
後半はゲームの台詞ですけど、前半の歌詞と合体すると優しさレベルがめちゃくちゃ上がります…。
しかも「大丈夫だよ」のところで何かを抱きしめる振り付けがあって、そこがまた優しい…不安や迷いを包み込むような歌声と仕草…。
ここ、好きすぎて何度も見返したし、好き…って思った次の日には清磨のメモスタンド買ってました*2…つまり沼です。
「水清ければ月宿る そうだろう?」
前回の記事で言及したように、月というキーワードを使っているのは三日月への繋がりを示す意味もありますが、よく聞くと「心に穢れがなければ神仏の恵みがある、そうだろう?」と清磨は水心子に語り掛けてるんですよね…!
心に穢れがないというのは恐らく水心子の純粋さ、真摯さを指しているのだと思います。
この清磨の語り掛けに対して、後から出てきた水心子はその心意気通りの真っ直ぐな歌声で自らの役目…存在意義を高らかに奏でます。
「刀の誇り その意味追い続け たとえひとりでも行くだけ」
「忘れてはならぬ
狎れてはならぬ
廃れてはならぬ
諦めてはならぬ」
水心子正秀は古刀復古を唱えた刀工の想いを宿し、太平の世に慣らされきった刀剣を本来あるべき姿に戻すべく生み出された刀です。
自らの役目を自覚し、それを全うしようとしている姿は真摯で穢れがない。だから清磨は彼に「水清ければ月宿る」と語り掛けています。
でも水心子が歌うのは、
「水清ければ魚棲まず それでいい」
という言葉。
清廉すぎて人に親しまれず孤立してしまうことを、「それでいい」と言うんですよ水心子は。
張り詰めた弓のような緊張感と使命感…水心子ー!!こっちを見てくれ水心子ー!!
そしてここから二振りの掛け合いパートが始まります。
清磨「何を見つけたのかな 綻び?」
水心子「いつ生まれたかもわからぬ 綻び」
ここ、最初会話しているように聞こえるんですけどそうじゃないんだぜ!というのが唐突に突き付けられるので審神者は倒れます。
清磨「きみはそこにいる」
水心子「今こそ真価 問われる時」
清磨「隣でいつも見てるよ」
水心子「今こそ意味を問う時」
すれ違ってる!!すれ違ってるよ水心子!!
水心子に語り掛けている清磨に対して、自分に言い聞かせている水心子という構図。
舞台上でも清磨は言葉通りずっと水心子の方を見ていますが、水心子が清磨を振り返ることはありません。
ラストのサビでも、水清ければ…に対する互いの考えを歌っていますが、水心子の考えに対して清磨が「心もあれば魚も棲むかもしれないよ」って歌うのがもう…「水心子の穢れのない心があれば魚も棲むかもしれないよ」って…優しさ…優しさの塊…。
優しさにも様々な種類があるというのはつはものの三日月の言葉ですが、これは親友としての優しさなんだろうな…としみじみ感じながら見ていました。好きすぎる。
本当にこう…水心子の張り詰めた感じと、見守る清磨の優しい表情…最高です…。
この曲の歌詞のもう一つのキーワードとして「綻び」があります。
きつく結んだものはいつか解けて、綻びとなる。これは劇中に出てくる結界や境界線に関わるキーワードです。
ここでいう綻びは欠陥といった意味で、長く続く歴史の中で生まれた歪みや放棄された世界などを指しているのでしょう。
本来そういった綻びを感知した審神者が刀剣男士に出陣を命じます。
しかし今回はその綻びが水心子にしか感知できていないのです。
だから水心子は戸惑い、彷徨い、悩み続けた。自分の守ろうとしている未来には綻びがあるのに、守るべき価値があるのだろうか?と。
自分の使命を誰よりも理解しながら、この疑問を抱くことは水心子にとってかなりの脅威だったのではないでしょうか。
ここで「そうです」と言い切らないミュ審神者もまた優しい。
答えは与えるものではなく、自分で見つけるものだという教育方針、素晴らしいです。
大典太は何処から出てきたのか?
初見ではよくわからなかった、大典太は一体どこから現れたのか?という疑問点に対する個人的解釈です。
ここ、最初は三池が一緒に出てきたように見えていました。なぜなら初っ端から完成度の高い兄弟デュエットをぶちかましてくれたので…。
でもよく見てみると、大典太が出てくる前、審神者と水心子が会話しているシーンでソハヤが水心子を呼びに来ていました。
つまりソハヤはあの時点で既にミュ本丸に顕現していたということです。
そしてソハヤが水心子を呼んだ後に場面転換して出てくるのが大典太。
大典太が出てくる前には鳥が飛び去る音と蔵の扉が開くような効果音が流れます。
大典太は長らく前田家の宝刀として蔵に仕舞われていたのは周知の事実ですが、ここで大典太が出てきた蔵ってもしかして…ゲーム本編に出てくる江戸城の宝物庫なのでは…???
そしてソハヤと水心子は江戸城周回して集めた鍵で宝物庫を開けていたのでは…???
ソハヤは大典太が出てきてから「待たせたな、兄弟!」って飛び込んできます。ここの「待たせたな」はつまり宝物庫を開けて探してたということでは??
一緒に出陣したはずの水心子があの場に居ないのも、別の宝物庫を探していたからじゃないかなと思っています。
3月はちょうど江戸城イベントがあったし、しかも今回は三池がどちらも仕舞われていたので、タイミング的にこの解釈が合いそうだなと。
しかし顔を合わせてすぐにあの完成度のデュエットをぶちかませる三池すごい…最後の納刀が同時なのもかっこいい…源氏兄弟もそうですが、霊力の高さがなせる技なんでしょうか…。
余談ですが個人的に2部の三池曲は仮面ライダーのOPぽいなと思って見ていました。ニチアサが似合う。
あめさん⇔くもさん
なんとなく平仮名で書きたくなるあめさんとくもさん。
江は今のところ豊前江以外、顕現(もしくは登場)シーンで歌いますが、産声みたいなものなんでしょうか。
この二振りは綱吉の時代に将軍家にあったという共通点を持ち、二振りとも犬をイメージした姿になってます。生類憐みの令です。
かつての主が愛したものの姿をしている刀剣男士は、それだけ人の想いが宿っている感じがあります。
五月雨江は、その名を多く詠んでくれた松尾芭蕉への想いが強いと顕現時に口にしてますし、ゲーム上でも松尾芭蕉が忍者だった説から忍というキャラクター性を得ています。
村雲江はかつての主が悪者扱いされる歴史から、正義と悪を分けることに対して疑念と嫌悪感を抱いているのが特徴的です。
今作でも線を引くことを嫌がったり、結界を作ることを嫌がったりと、そういった考え方に焦点が当てられるシーンが多いです。
このあめさんとくもさん、ゲーム上でも仲良しなんですが今作においては「線」をキーワードに対比されているように見えました。
線を引き、何かが分断されることを嫌う村雲江に対して、五月雨江は忍という役割を果たそうとしています。
役割はひとつの線。つまり五月雨江は自ら線を引いているのです。
歌は想いが溢れだしたものですが、忍んで闇討ちをするときはその歌心を秘める必要があります。
名を詠んでくれた人への想いの大きさを抱えながら自然と溢れ出る歌心を押し込み、役割という線を引く五月雨江。
その経歴から線を引くことで善悪が分かれるのを厭う村雲江。
自ら線を引こうとする五月雨江と、線を引くことに必要性を感じていない村雲江は、繋がりを持ちながらも互いにできないことができる存在なのかなあと感じます。
あと二振りが顕現した後、五月雨江が豊前江に「全員そろっているのですか?」と尋ねていますが、豊前江はそれに対して「いや、(全員そろうには)もう少しかかりそうだ」と答えています。
全員って一体どこまでの江なんでしょう…?稲葉江の名前は出てましたけど…。
豊前江⇔桑名江
五月雨江と村雲江が対比されているように、豊前江と桑名江もまた対比されていました。私の主観ですが。
此処より少し前、清磨が水心子の状況を説明する場面で、桑名江がこんな台詞を言っています。
「わかるわけないよ。地に足つけてなんぼの桑名江だよ」
これは水心子が「いま立っている場所がわからなくなる」現象に見舞われていることに対しての台詞なんですが、豊前江との対比でもあるんじゃないかなと。
豊前江は現在実装されている江のなかで唯一実在するかわからない刀です。
本人も「居場所がわからねえのは俺も似たようなもんだよな!」と口にしています。
存在しているのかしていないのかわからない豊前江に対し、桑名江は本多家に大切に保管され、我々が生きるこの現代でも美術館に会いに行ける刀です。
地に足をつけている=存在がはっきりとしている桑名江と、居場所がわからない豊前江。
この対比も面白いのですが、もっと面白いのが彼らと五月雨江・村雲江の関係性です。
線を引くことを厭う村雲江の視野を広げるのは、全てが循環のなかにあることを理解して地に足をつけている桑名江で。
歌心を秘めて役割という線を引こうとする五月雨江を止めるのは、存在があやふやだからこそ自らの意思で動いて役割を果たす豊前江なのです。
ここにもまた循環する関係性が生まれてるというこのエモさ。みんなぐるぐるのなかに居るんだなあ…。
江戸にまつわるエトセトラ
ここからは江戸周辺のあれやこれやと歴史上の人物についての話をしていきます。
名もなき草と砂礫に覆われる世界
明らかに硬いものを耕している桑名江のシーンに出てくる名もなき草。
これが歴史に名を遺さなかった民草の比喩なのでは?というのは前回お話した通りです。
調べてみると児童文学作家の小川未明の著書にも同じ名前の作品がありました。
これは児童文学というより評論に近い文章なのですが、その中でも今作に繋がりそうな部分を引用してご紹介します。
名も知らない草に咲く、一茎の花は、無条件に美しいものである。日の光りに照らされて、鮮紅に、心臓のごとく戦くのを見ても、また微風に吹かれて、羞らうごとく揺らぐのを見ても、かぎりない、美しさがその中に見出されるであろう。(中略)
どんなに、小さくとも、また、名がなくとも、純粋で、美しかったら、正しかったら、天地の間に、何ものかの力を賦与している。また、何ものの力をもってしても、何どうすることもできない。それは、確乎たる存在である。(中略)
秋霜にひしがれ枯れた、名もない草は、早くも、来年の夏を希望する。そして、その刹那から人知れず孜々として、更生の準備にとりかゝりつゝあるのを見よ。
人生は、また希望である。
小川未明 名もなき草
たとえ名前がなくても、小さくても、そこにあるだけで美しい名もなき草は、秋に枯れても人知れずまた次に咲くために準備をしている。
これもまた循環のひとつです。そして小川未明はその様を人生に喩え、そこに希望があると書いています。
刀ミュって根本にあるのが人間賛歌というか、生命の肯定だと思っているので、この一文は個人的に刺さりました…。
あと桑名江の歌、最初は「誰かいますか 誰も居ませんか」って大地に呼びかけているのに最後は「知ってますか 知ってますよね」ってこっちに呼びかけてくるところが好きです。ちょっとぞわっとくる感じが。
桑名江がノックしてる大地には人も埋まってるかもしれませんし…「死ねば土」だし…あれ…怖い話になってきたぞ…?
誰も帰ってこないと植物に覆われてしまうという桑名江の台詞に対して、水心子は「そしていつかはそれすらも枯れ果て、世界は砂礫に覆われる…」と呟き時代を移動します。
そこに出てくるのが勝海舟です。ここでのキーワードは【放棄】…江戸を放棄する勝海舟と放棄された江戸に居た水心子が存在する空間です。
勝海舟が江戸を放棄したことで江戸時代は終わりを告げ、明治時代が始まります。
世界が砂礫に覆われる様を見た水心子がこの無血開城シーンに飛んだということは、その後の東京が砂礫に覆われる様を見た可能性もあるのかな?と考えています。
東京が最初に砂礫に覆われる、つまり壊滅するのは関東大震災です。ここで明治の街は殆ど崩れ去り、驚異的な復興を果たした東京には新たな街並みが生まれました。
その後、第二次世界大戦の東京大空襲でその街も焼け野原となるので、また砂礫に覆われます。
桑名江が居た世界は台詞から推測するに誰も戻ってこない可能性が高いようなので、ある意味放棄された世界といえます。
砂礫に覆われた後、復興が進まずに住む人が居なくなった世界。
桑名江が居る世界は、人が集って江戸城を築く豊前江の居る世界(時代)と対照的です。
分陀利華(プンダリーカ)と結界
天海が将門公の怨霊を封印するために登場する際の歌にこんな歌詞があります。
「咲き誇れ 分陀利華 緩むことなき守護神よ
清らかな花を 美しき花を
咲き誇れ 分陀利華 広く永くここに」
分陀利華は仏教用語で白蓮花を指します。
天海は天台宗の僧侶で、密教を主軸に学んでいます。天台宗にとっての至上の教え、経典は法華経なのです。
仏教では泥の中から美しい花を咲かせる蓮華が大切にされていますが、白蓮華はその中でも特別な存在とされています。
汚泥の中で咲く白い花は清浄さの象徴。法華経はその白蓮華の名を冠した経典です。
法華経は梵語で【Saddharma Puṇḍarīka Sūtra(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)】…意味は【正しい教えを記した白蓮華の経典】。
これは千子村正の会心の一撃の台詞。千子村正もまた仏教に関係する刀なのです。
刀剣乱舞における千子村正は千子村正という刀ではなく、千子村正(刀工)から始まる村正の系譜の刀の集合体です。在り方としては新々刀と共通しています。
刀工だった初代の千子村正はこんな一説も持ち合わせています。
桑名の郷土史では、千子は初代村正の母が「千」手観音に祈って授かった「子」であるからとされ、その千手観音像は一説に現在の桑名市勧学寺にあるものであるという。
そしてこの千手観音というのが、密教における三形では【満開の蓮の花(開蓮華)】とされているのです。
さらに千子村正の元になった刀である妙法村正にも【妙法蓮華経】という文字が刻まれています。
妙法村正は初代千子村正作とされており、その千子村正は日蓮宗に帰依していたそうなので、法華経と深く関係があるといえます。
千子村正が帰依していたのは日蓮法華宗で、今回出てくる天海は天台法華宗の僧侶なので全く同じ宗派というわけではありませんが、経典は一応共通しています。*3
ちなみに千子村正は極になると会心の一撃台詞が変わって千手観音の真言になります。ミュでもいつか聞けたらいいなあ。
そして結界です。
結界を張る天海を見て村雲江は「好きじゃない」と言いますが、誰よりも天海を苦手としているソハヤがすかさず「庇うわけじゃないけどな、そういうのが必要な時もあるんだと思うぜ。守るためには」と返すのがこう……誰よりも天海のしていることの意味を知っているソハヤ…。
天海の結界は天台密教の結界です。密教における結界は魔障を祓うための区域制限。そして天海はその基盤として将門公の怨霊を封印しました。
また、密教では、修行する場所や道場に魔の障碍が入らないようにするため、結界が行われる。これには以下の3種類がある。
国土結界
道場結界
壇上結界
天海が初代住職だった寛永寺には「東叡山」(東の比叡山)という寺号がついていますし、鬼門封じのやり方も延暦寺に倣っているため、今回天海が張った結界も国土結界だったと考えられます。
国土=広域を魔障から守るために山などを浄化して区域を制限するのが国土結界です。
この国土結界は浄刹結界・大結界とも呼ばれるようで、コトバンクでは以下のような記述があります。
大結界は国土を限定するもので、空海が高野山建立の際に七里四方を結界し、悪鬼等を退散させようとしたのはこれにあたる。中結界は修法の道場を結界し、小結界は修法壇の周囲を結界するもの。これらの結界は白二羯魔(びゃくにこんま)の法によって行なわれるが、密教では印明を用いる。
真言宗の開祖である空海が高野山に国土結界を張った後、天台宗の開祖である最澄が比叡山に国土結界を張っています。
比叡山にどのような浄刹結界が張られたのかまでは此処では言及しませんが、そこらへんの詳しい内容や地理を自然保護の観点から研究した論文が面白かったです。
実際に京都の雲母坂のあたりには結界石が建っているそうです。
そういうものが残っているということは、結界を張った人の想いもまた残っているということだと感じます。
確かなものと不確かなもの~道灌と豊前江~
道灌が江戸城を築く際の歌には言葉遊びが沢山詰まっていて面白かったです。
「要となる城」を中心に、
- 「道が引かれ」→「導かれる」
- 「そして気づく(築く)」→「いつか築く(気づく)のだろう」※ここは何方ともとれます
- 「そこは街に」→「ずっと待ちわびていた」
といった風に同音異義語を散りばめています。
和歌の修辞法に同音異義語を使って1つの単語にに2つ以上の意味を持たせる掛詞というものがあるのですが、それをイメージした歌詞にみえます。
道灌の山吹伝説に出てくる和歌「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞかなしき」も「実の一つだに」が「蓑一つだに」の掛詞になっているので…。
道灌は何もない場所に道を引き、要所となる江戸城を築きましたが、偉業はそれだけではありません。
彼は江戸城の周りに日枝神社や築土神社、平河天満宮などの神社を持ってきて、人が集う場所を作り上げました。
日枝神社は川越にあった日枝神社を道灌が勧請したのが始まりといわれていて、江戸三大祭りのひとつである山王祭が開催されることでも有名です。*4
築土神社は将門公の首を安置していた神社で、元々津久戸村(現在の大手町)にありましたが、道灌が田安郷(現在の九段坂上)へ移転させました。
なお、築土神社は主祭神が天津彦火邇々杵尊で、相殿*5が菅原道真と平将門となっています。
道真が没した年に将門公が生まれていたことから、将門公は道真の生まれ変わりと伝えられていたり、将門公に新皇に即位したのは道真の霊験によるものともいわれているので、結構繋がりがあることがわかります。
平河天満宮は道灌が菅原道真の夢を見て建立した神社です。ここでも道真が出てきます。
道真は詩文に優れ、百人一首にも選ばれています。
和歌の神ともされていますし、思いついたことを周りの物に書き付けるレベルで根っからの詩人だったそうなので、そういった面で道灌の憧れでもあったのかもしれません。
道真が左遷された先の大宰府で詠んだ歌に、
海ならず 湛える水の底までに 清き心は月ぞ照らさん
というものがあります。
「海よりもさらに深い水をたたえる水底も清ければ月が照らし出すように、私の清い心もまた月が照らし出し無実の罪が晴れていくだろう」といった意訳になりますが、これは新々刀の「水清ければ月宿る」に繋がってる感じがします。
それと、平河天満宮は地域住民の信仰度が高い神社で、調べてみると様々なものが奉納されています。
また、力石や百度石、石牛といった神聖な石が多く存在しているのも特徴的です。
今作、道灌の築城シーンで大きな石を運ぶ演出が多かったのはここにも関係しているのかもしれません。
石を運ぶ時に道灌が歌う曲、歴史上の人物の歌の中で一番好きです。
「この石はどこで生まれた?」と問いかけながら、その出自に関係なく「この立派な石はこの先ここで歴史を支えてゆく!」と高らかに歌い上げてくれるところ。
生まれや育ちに囚われず、歴史を支えていくものは立派なのだと肯定してくれているところ。
このあたりに道灌の人柄が出ていると感じます。
城の石垣という後世に残る確かなものと、皇居の元となった江戸城を作った道灌。
それらを存在があやふやである豊前江が見ているというこの構図。
豊前江は道灌を「立派な奴だった」と評しています。
「生きる」という「当たり前のことを知っている」道灌は「立派な奴」だと。
ここの豊前江の歌もめちゃくちゃ好きなんですよ…メロディーといい歌詞といい…。
「あのでかい石はずっとずっとここで歴史を支えていく
あんたの遺志(意思)受け継いで 立派に役目果たすぜ」
この時点で豊前江は道灌の最期を知っています。恐らく彼の役目は道灌を正しく死なせることだったのでしょう。
その上で、豊前江は道灌がどんな人間なのかを知ろうと自らの意思で江戸城の築城作業を手伝っていました。
道灌は暗殺されてしまいますが、道灌が作り上げたものは時を越えて確かなものとして歴史を支えていく。道灌の想いは受け継がれていく。
豊前江はきっとそれを理解して、また「風のその先へ」走ると決めたのだと思います。
ここでいう風は音曲祭でパライソの面々が歌っていた「無常の風」…つまり人の死も意味していると考えられます。
歴史に記された確かな最期。変えることのできない結末。それらを越えて走るのが自分の役目なのだと、豊前江は歌っています。
この辺は後でまた書きますが、道灌の暗殺シーンにも繋がってくる演出なのがヴッッってなります…。
歴史と機能
今気づいたんですけどこの考察と感想長いですね…。
ここからは中盤の最後の方で気になったポイントを紹介していきます。
7人の将門公と双騎のシステム
清磨が大典太に三日月宗近のことを尋ねるシーンで、大典太は三日月宗近というものが「機能という名の呪い」であると答えます。
また、同時に問答を繰り返す水心子は、文字や名前が線=境界であることと、その線は誰かが呼んでくれるから存在しているものだという考えに至ります。
機能=呪いもまた線=境界のひとつなのでしょう。一人では呪いは成立しません。誰かがそれを呪いと認識することで呪いが生まれるのです。
今回の演出では将門公もまた呪いという機能の一部になっていました。
討ち取られた後、【7人目】となるべく他の将門公に回収され、同じモノとなる様は何処か双騎のオープニングとエンディングを思わせます。
「彼らの悲哀を、情念を、生き様を、
後の世の、また後の世まで、彼らと共に語り継ぐ……
それが、私の役割でございます」
双騎のオープニングではこの瞽女の語りと共に曽我兄弟の形をしたモノに魂が宿り、物語を繰り返し、語り継ぎます。
物が語る故、物語。
仇討ちを果たした兄弟の亡骸は再びモノに戻り、また語られる時を待つのです。何年も、何百年も、その物語を忘れぬ人が居る限り。*6
曽我物語はひとりの女性、十郎の恋人であった虎御前が語り始めたものといわれています。
そしてそれを口頭で語り継いでいったのは、冥界に近しい巫女や比丘尼であったとも。
何故彼女たちが語り継いでいったのか。それは苦難に満ちた生涯を送った曽我兄弟の御霊を鎮魂するためだったそうです。
双騎で語り継いでいるのは瞽女ですが、この瞽女は盲目の女性です。
盲目の女性で思いつくのはやはりイタコではないでしょうか。イタコは死者の魂を自らの体に憑依させることが出来ます。
五感の一部を機能させない状態は神や霊といった人ならざるモノへ近づく条件でもあるのです。
また、瞽女に関しては「七十一番職人歌合」において琵琶法師(男性)が右に、瞽女が女盲として左に配置されています。
そこに描かれている琵琶法師の発言は「あまのたくもの夕煙、おのへの鹿の暁のこゑ」…平家物語の「福原落」の一節です。
対する瞽女(女盲)の発言は「宇多天皇に十一代の後胤、伊東が嫡子に河津の三郎とて」…これは双騎でも歌われていましたが、曽我物語の一節です。
琵琶法師とは盲目の僧を指します。そして琵琶法師といえば平家物語を語る、というのが歌合当時の常識でした。
その対として瞽女が描かれ、曽我物語の一節が添えられたということは、瞽女が曽我物語を語るのはその時代の常識だったということになります。
めちゃくちゃ話が逸れました。
つまり、語り継ぐことは鎮魂の意味を持ち合わせています。そして語り継がれる限り、物語は繰り返しその歴史を再現します。
そして7人の将門公もまた同じように、その物語を忘れぬ人が居る限り繰り返される呪いという名のシステムなのでは…?
天海があのように将門公を封印し江戸の守護結界の基盤としたことで、更に知名度は上がったはずです。実際、現代に至っても将門公については伝説や噂話が尽きません。
そもそも、なぜ将門公が7人居るのでしょうか。
これは歴史を繰り返した結果現れた怨霊とかではなく、室町時代に出版された『俵藤太物語』で「将門と同じ姿の者(影武者)が6人居た」と書かれているためだと考えられます。ここに将門公本人を含めて7人となります。
この7という数字は当時将門公が信仰していた妙見信仰が元になっているようです。
妙見とは真理や善悪を見通す優れた視力を持つ者を指します。
妙見信仰は北斗七星や北極星を神聖なものとし、それを神格化した妙見菩薩を信仰するものです。
中世の武士には軍神として祀られることが多く、将門もまた妙見菩薩に関わりのある武士でした。
遅くとも建武4年(1337年)には成立したと見られている軍記物語『源平闘諍録』以降、将門は日本将軍(ひのもとしょうぐん)平親王と称したという伝説が成立している。この伝説によると将門は、妙見菩薩の御利生で八カ国を打ち随えたが、凶悪の心をかまえ神慮にはばからず帝威にも恐れなかったため、妙見菩薩は将門の伯父にして養子(実際には叔父)の平良文の元に渡ったとされる。この伝説は、良文の子孫を称する千葉一族、特に伝説上将門の本拠地とされた相馬御厨を領した相馬氏に伝えられた。
天海が将門公の怨霊を封印して張った結界もまた北斗七星を象っていましたが、これはその妙見信仰に通じるものと考えられます。
将門公の影武者は見分けることが難しかったのですが、こめかみが弱点であることや、太陽光を浴びても影が出来ないという特徴を持っていました。
この弱点や特徴を、後に将門公を討ち取る俵藤太に密告したのが桔梗の前と伝えられています。
裏切られたことを知った将門公が死の間際に「桔梗咲くな」と呪いの言葉を吐いたとも。
ただし、これはあくまでも伝承で、裏切った女性が桔梗の前ではなかったという説も存在します。『将門記』では桔梗の前の名すら出てきません。
なぜ桔梗の前がこうして伝えられているのか、その一説に桔梗の花と山伏(カッカッカの方ではない)の関係性を取り上げたものがありました。
山伏が医薬品として重宝していた桔梗の根は花が咲く前に摘む必要があったため「桔梗咲くな」という創作部分が付け加えられたというものです。
もしこれが本当なら、咲く前に摘まれてしまう桔梗と、実をつけない山吹の花は対比されているように思えます。
歴史を知るということ~零れ落ちる歌心~
道灌の暗殺シーン。一度は助かった道灌を、後から駆けつけてきた豊前江が爽やかに挨拶を交わしながら正面切って殺害する衝撃的な展開でした。
これは前回もお話しましたが、こうやって歴史上の人物と顔を合わせた状態で実際に刀を振り下ろしたのは豊前江が初めてです。
しかもよく見ると心臓を一突きで殺してませんか…。
剣技としての「突き」は致命傷を確実に与えるためのものです。
今回、豊前江は道灌の胸を突いていました。この胸部に対する突技を生理解剖学的に研究した論文を拝見したのですが、その威力についてはこう書かれています。
剣先が深く入って胸腔内に存在する肺、心臓を損傷すれば致命的なものとなりうる。(中略)胸骨の両側に存在している肋軟骨は軟骨であり、容易に切ることが可能である。しかも左側の肋軟骨の奥には心臓が存在しており、この部位は特に胸突きのうちでも重要視されなければならないと考えられる。肋骨と肋骨のすきま、即ち肋間には肋間筋が存在し、肋骨を上げ下げして呼吸動作を行う役目をになっている。ここを刃がたてではなく、横に近い向きで突出せば、楽に胸腔内に剣先が侵入することが可能となる。
柳本昭人.剣道の突部における生理解剖学的研究.東京学芸大学紀要.第5部門,芸術・体育,1988,Vol.40,p.263 -269(東京学芸大学リポジトリ)http://hdl.handle.net/2309/12149 ,(参照 2021-04-16)
画面で見た限り、豊前江は刃を横向きにして道灌の胸を貫いていたので、やはり心臓を狙って突いたのだろうなと…。
そして声もなくこと切れた道灌を見て「これが歴史だからな。知りもしねえで殺したくはねえんだ」と口にする豊前江。
豊前江は江戸城の築城作業を手伝う中で、道灌の人柄を間近で感じ、その立派さを確認していました。
「歴史だから」という理由だけで相手のことを知らずに殺すのではなく、相手がどんな生き方をしていたのかを知ったうえで「歴史通りに」殺した豊前江。
歴史を守ることが刀剣男士の使命だから、分岐点さえ間違えなければ知らなくても殺せるはずです。
しかし豊前江は相手と話して、相手を取り巻く人の顔を見て、その生き様をしっかりと感じて、そのうえで使命を果たしました。
「風は止まらねえ 川の流れも
それは変わらねえ
だから俺は走ると決めた
風のその先へ…」
石を運ぶ場面で道灌の立派さを歌った豊前江は、最後にこんな歌詞を口ずさんでいます。
この風が無常の風であることに加え、川の流れは歴史そのものを指していると考えられます。
変えられない結末と歴史の流れを越えて走ると決めた豊前江は、もう迷わないのでしょう。
それでも切なそうな表情はしていましたし。道灌のことを「静かの海」へ連れていってあげられたら、と呟いてもいました。
それを見た五月雨江が「汚れ仕事は私の役割です。これからは、私があなたに代わって…」と言いかけますが、豊前江はそれを断ります。
「俺は、出来ればお前には歌だけ詠っていて欲しいよ」と。
五月雨江が「汚れ仕事は私の役割」だというのは、顕現した姿やその性格が松尾芭蕉に関連する「忍」をイメージしたものだからでしょう。
これはある意味、自分の存在に関連する物語に囚われた考え方です。
豊前江はその考え方に囚われず、溢れ出る想いを押し殺さずありのままで居て欲しいと言っているのです。
物語に囚われた生き方ではなく、自分の意思でやりたいことをして欲しいと。
これは来歴や行方があやふやで物語に囚われない豊前江だからこそ出来る考え方だと感じます。
豊前江が江のリーダーなのは、こういう考え方ができるからなのかもしれません。
ここで豊前江に頼まれて五月雨江が詠んだのは、松尾芭蕉が吉野川の上流で詠んだ山吹の一句。
「ほろほろと 山吹散るか 滝の音」
吉野といえば桜の名所ですが、実は山吹でも有名です。この歌を詠んだ芭蕉は、このように添え書きしています。
「きしの山吹とよみけむ、よしのゝ川上こそみなやまぶきなれ。しかも一重に咲こぼれて、あはれにみえ侍るぞ。櫻にもおさおさをとるまじきや」
この添え書きから山吹の花は「ほろほろと」散るというより、零れ落ちるようなイメージで詠まれていることがわかります。
「零れ落ちる」というのは道灌と五月雨江にとってひとつのキーワードです。
道灌と五月雨江のデュエット曲にはこんな歌詞がありました。
「人はなにゆえ詠うのだろう
心に留めておけぬから
雲から溢れ零れ落ちる雨のごとく」
心に留めておけない想いが零れ落ちて歌が生まれる。ほろほろと、それこそ吉野川に散る山吹の花のように。
また、この歌は芭蕉が一重咲きの山吹を詠んだものです。
道灌の山吹伝説に出てくる和歌は八重咲きの山吹を詠んだもので、実がならないことを蓑がないことの掛詞にしていますが、実は一重咲きの山吹の方は実がつくのです。
つまり五月雨江が詠んだ歌は、道灌の行ったことやその生き様は花(生命)が散っても決して実のないものではなかった、という意味にも取れるのでは…?
豊前江が役割や物語に囚われないで欲しいと告げてから詠んだというのがまた…五月雨江…理解している…。*7
ゆっくりじっくり繋がるということ
桑名江と村雲江が畑を耕すシーンでは、桑名江の考えに触れた村雲江の視野が広がりました。
すべてが循環のなかにあると知ることで、村雲江にとっての線は分かつものではなく、繋がるものへと変化します。
善悪が分かれることへの嫌悪感ばかりに囚われていた村雲江が、まだ見ぬものへ想いを馳せることができるようになるのです。
これもまた一種の物語という呪縛からの解放といえるでしょう。
桑名江と村雲江の歌もまた優しさに溢れていて好きです。焦る必要はない、ゆっくりでいいという優しさ。
「次に降る雨はその昔 焼き入れのとき触れた水かもしれない」
っていうこの歌詞が天才………自分の誕生に携わったものもまた循環しているというこの…この……(語彙力喪失事件)
畑に何を植えようか考える桑名江に、村雲江は山吹を植えることを提案しかけて止めます。
雨さんが、と口にしているので、道灌と豊前江の話を聞いていたのかもしれません。
「花なんか飢えたところでお腹は膨れないし、何の役にも立たないよね」という台詞は、道灌の山吹伝説に出てくる「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」に繋がる部分があります。
でも桑名江は「いいね、山吹!ここは一面の山吹畑にしよう!」とその提案を受け入れました。
「確かに花は食べられないけど、必要だと思う」という台詞、これって物凄い肯定だと感じます。
実をつけるものばかりを選ぶのではなく、実のない花も存在していいと言う桑名江。
誰も戻ってこない放棄された世界でも、それは必要だと言い切ります。
この時植えられた山吹が一重なのか八重なのか、それは今の時点ではわかりません。けれどどんな花であっても必要なのです。
名もなき草があるように、ただ咲き誇る花も存在する意味があるという肯定。
実をつけない花や名もなき草というのは、歴史に名を遺さない人々の象徴です。
たとえ名を遺さずとも、その人々が歴史上で不要になるわけでも、存在しなくなるわけでもありません。
ここにもまた刀ミュの人間賛歌がある…と感じてちょっと泣きそうになりました。
桑名江のどっしりとしたあの雰囲気がまた良い。ゆっくり、はっきり、うん!って言ってくれるあの安心感。すきです。
将門公と繋ぎ馬
江戸を跋扈する怨霊となった将門公の歌の中に「儂しか乗れぬ繋ぎ馬」という部分があって、気になって調べてみた話です。
繋ぎ馬とは文字通り綱で杭に繋がれている馬で、家紋に使われる紋様でもあります。
将門公は戦の際の陣幕に繋ぎ馬を使用していたそうです。また、拠点として活動していた下総・常総のあたりは馬の名産地だったため、彼と馬に関する逸話も多いのだとか。
当時将門公はその騎馬技術の高さを活かした機動的な戦を好んだといわれています。
将門公は戦に使う馬と神社などに訪問・奉納する馬を分けて飼っていたようで、この戦馬が繋ぎ馬の原型とされています。
『将門記』では、乗馬した将門公が戦場を駆け回る様を「竜の如き馬に乗っている」と表現していますが、この竜というのは八尺(2.4m)以上の巨大な馬を指すのだそうです。
今作の冒頭で将門公が鉄製の馬に乗って現れたのは、巨大で強そうな馬を駆る姿をイメージしてのことだったのかもしれません。
普通の人間では御しきれない荒々しい馬、つまり繋ぎ馬を巧みに駆ることが出来た将門公は戦上手=勝ちに繋がる神性を得たといえます。
実際、将門公を祀る神社では必勝のご利益のあるお守りが販売されています。
今回将門公と馬について調べるにあたって一番参考になったのが、将門公を祀る築土神社の解説です。
神社にしかない資料を交えた細かい解説が物凄くわかりやすかったです。
他の将門伝説についても記載されていて、理解を深めるためにとてもありがたい資料でした…!
水面の月に映る歴史
水面に映った三日月宗近と水心子が対話するシーンは、水心子が自分と向き合っているシーンでもあります。
ここの台詞は含みが多すぎて何処を突いても闇が広がってる感じなのですが…「あなたが守った歴史は、大河の流れつく先は…!」と水心子が悲しそうに叫ぶのは、その先に待っているものが三日月にとって良くないものだったからなのでしょうか。
水面の三日月が刀を振り下ろしたと同時に流れ込む記憶の映像は、今までミュ本丸が関わってきた歴史に存在していた主要な人々の顔でした。
あと1人見覚えのない人の顔があったのですが、何か縄で縛られていたのでおそらくパライソの誰かなんだろうな…と推察しています。
これらの記憶と共に降り注ぐのは数多の花びら。そしてその中で仮面の少女はくるくると回っていました。
これまでの歴史において重要視されていた花の名を零し、水心子は何かに気づいて倒れてしまいます。
ここはまだまだ謎が残るシーンなのですが、最後にノイズのようなものが走って真っ暗になる演出があったので、個人的には「何度も歴史を繰り返し、悲しい役割を背負う人々に手を差し伸べていた三日月宗近がいつかフィルムが擦り切れるように消えてしまう未来」が何処かに存在しているのでは…?と思っています。
完全に予想でしかないし、何の根拠もないので聞き流してもらって大丈夫です。
でも、機能という呪いから脱却するためには一度その機能自体が停止するか、消えるかしないと無理だよなあ…とか思ってしまうんですが…真相は闇の中です。
川のせせらぎを守るために
ついに終盤に辿り着きました。
水心子たちがこれまで触れてきた歴史を巡る旅について思ったこと、気づいたことをつらつら書き綴っていきたいと思います。
友と祈り
物語は水心子が審神者に「私の思うようにやらせてもらえないだろうか」と告げるところから一気に動き始めます。
三日月宗近を救うことはできないが、背負っているものを軽くすることなら出来るかもしれないのだと。
大河の流れだけではなく、小さな川のせせらぎもまた歴史のひとつ。水心子はそれを守りたいと自ら行動を開始しました。
そしてここでやっと清磨を見るのです!
それまで清磨はずっと水心子を見ていたけれど、水心子は清磨ではなく自分を見つめることで精一杯でした。
しかし、自分のやるべきことを見つけた水心子は迷わず清磨に「ついてきてくれないか?」と呼びかけます。
その時の清磨の嬉しそうな表情といったら……親友同士の信頼感がすごい……。
まず水心子が向かったのは幕末です。上野戦争で寛永寺が焼け落ち彰義隊が壊滅するシーンが描かれていたため、慶応4年(1868年)ということがわかります。
上野戦争で壊滅した彰義隊の残党はその後、榎本武揚の船に乗って戊辰戦争へ参加したようです。
なぜ幕末へ向かったのかという清磨の問いに対し、水心子は「失われたものと、友のために!この時代から問い直す必要がある」と答えています。
友。三日月宗近と水心子を繋ぐキーワードのひとつです。
ここでいう友は三日月宗近が友と呼んだ人々のことなのでしょうか。
水心子が三日月を友と呼んでいる可能性も…ないとは言い切れないんですが…でも水心子には清磨が居るので、やはり三日月が友と呼んだ人々、つまり【悲しい役割を背負わされた人】たちのことだと考えます。
清磨も、水心子の答えに対して「わかった。水心子がそう言うのなら、僕は信じるよ」というこの…肯定と信頼感を前面に押し出した言葉を返すのが…新々刀の圧倒的親友感…ッッ!!
水心子がどんなに迷っても、惑っても、探し出して見守る存在が清磨なんです……仲間や審神者に対してのフォローも忘れない……。
幕末へ向かった新々刀は三池の刀と共に天海の張った結界を地図に書き足しながらその意味を考えます。
結局そこで明確な答えを得ることはできませんが、水心子は答えが重要なわけではなく、【想い】の方が重要だと口にしていました。
「理屈をつけようと思えばいろんな説が並べられるが…重要なのは【想い】の方だと思ったんだ。ここまで大掛かりな結界を張ろうとした、天海僧正の【想い】…【願い】…【祈り】か」
【想い】は【願い】であり【祈り】である、という水心子のこの言葉、真剣乱舞祭2018の巴形薙刀の言葉と通ずるものがあると感じます。
あの祭に現れた歴史上の人物もまた、三日月が友と呼んだ、もしくは呼ぶべき人々だったので…。
乱舞祭2018は彼岸と此岸を繋ぐもので、繋ぐために必要だったのが互いの【祈り】でした。
あの時の巴形薙刀のように彼方側の【祈り】の重要さに気づいた水心子は、【祈り】に込められた意味や理由を知ろうとここから奔走していきます。
幕末では勝海舟の【想い】の真相を知るために。
その答えは「国そのものを守るため」…水心子は「やはりあなたは結界を広げようとしていたのか」と納得した様子でした。
ここ、最初に行くのが幕末なのでわかりにくいんですが、将門公の時から追っていくと結界は坂東(東国政権)→江戸→日本とどんどん大きくなっています。
一部の地域を守る結界を日本という国全体に広げていく、つまり守るべきものが大きくなったきっかけを作ったのが勝海舟で、彼の持ち刀でもあった水心子はそれにいち早く気づいていたのかな?と考えています。
三池が背負う物語
今回最も霊力が高い三池の二振り。特にソハヤはその霊力の高さゆえ、西国への牽制の意味も込めて久能山東照宮に仕舞いこまれていました。
彼の霊力の高さは家康からも、天海からもお墨付きだったということになります。
作中でも皆が7人目の将門公に苦戦している際、ソハヤが天海から受け取った数珠に霊力を込めただけで強力な力を持つ怨霊の動きが止まりました。
大典太も病を斬り伏せるという伝説を持つ霊力の高い刀ゆえ、前田家の蔵に大事に仕舞いこまれていたので、強すぎる霊力=使われずに封印という皮肉な扱いを受けています。
そしてソハヤと大典太は、天海が7人目の将門公を封印する際に扉の両端に跪いて刀を立てているんですよね……ちょっとこのポーズなんて呼ぶか色々と調べてみたんですが相応しい言葉が見つかりませんでした……。
封印される瞬間、強制されるわけでもなく能動的にそのポーズを取って「よし、役目を果たしたぞ」みたいに目を合わせて頷き合っていた三池。霊刀としての役割がなせる技なんでしょうか。
おそらく三池は三条に並ぶ霊力を持っているのだと思います。三条は歌合で神おろしをしていましたが、三池は今作で封印に携わっていたので…。
「子守唄の絶えない泰平の世」という家康の夢を叶えるべく尽力した天海。
水心子は天海へ、江戸に結界を張った理由を問いかけますが、天海は答えることなく入寂してしまいます。
そもそもミュ本丸が関わった歴史、つまり三百年の子守唄で家康が泰平の世を望んだのは、「親の腕に抱かれ子守唄を聴いて安らかに眠るという当たり前のことすら出来ない戦国の世を呪い、この世から戦をなくしてやりたい」と思ったからです。
江戸を子守唄の絶えない安寧の地とすることは、ある意味家康の呪いから生まれた願いなのです。
家康は三百年の子守唄で描かれた今わの際で「儂はな…戦が大嫌いじゃった。どうしたら戦から逃れられるのかをいつも考えていた」とはっきり口にしています。
そんな家康が夢を叶えるためには戦をして生き延び、戦の種になりそうなことを徹底的に排除し続けるしかありませんでした。
戦を終わらせるために戦をし続けること。この皮肉な矛盾に耐え続けた家康はついに泰平の世を手に入れます。
しかし、自分の死後もその泰平の世が続くためには江戸を守るものが必要でした。それが天海の結界だったのでしょう。
家康の呪いから始まった願いを叶えた天海は、将門公の怨霊を封印する際に密教の調伏法を使っていたのではないかと推測しています。
調伏法は密教の呪術の一種です。
天海は天台密教の僧です。時を同じくして成立した真言宗と合わせて、天台宗は僧侶が修行で呪力を会得し、様々なことを成し遂げることができるのだと最澄と空海が証明した結果、国に受け入れられました。
民俗学者の小松和彦氏は著書『呪いと日本人』において、以下のように記述しています。
ここで私たちが注目したいのは、このように急速に勢力を伸ばしていった密教の中核に、呪い信仰が含まれていたということである。密教用語で「調伏法」「降伏法」などと呼ばれるものがそれである。簡単にいえば、呪術によって敵や悪霊の類いを追放したり、殺したりする法術のことである。
さきほどみた陰陽師の呪いが、天皇や貴族の私的領域に関与する形で勢力を伸ばしたのに対し、密教の呪いはどちらかというと国家の守護、つまり護国の修法としての性格を強調した。
つまり天海は江戸幕府という当時の国家を守護するために調伏法を駆使したのだと考えられます。
また、調伏法は術者が身を傷つけ犠牲にすることで更なる力を得ることが出来るようです。
家康の呪いを成就させるために、自らの命を賭して7人の将門公を封印した天海の調伏法はかなり強大な力を帯びていたのだと思います。
こう考えると家康もまた、江戸幕府を成立させるために必要な機能…つまり呪いを帯びて居たといえます。
天海は入寂する直前にソハヤへこう語り掛けます。
「本意ではなかったであろうが、お前のおかげで江戸は守られた。礼を言うぞ」
ここで言う本意は、恐らく霊力の高さゆえに久能山に仕舞いこまれたことを指すのでしょう。
更に言えば、将門公を封印する際にソハヤが嫌っていた天海から数珠を預かってその手伝いをしてしまったことも含んでいる気がします。
ソハヤはその言葉を聞いて「アンタ、まさか…!」と言いかけますが、天海は既に息を引き取っていました。
決して答えを与えないその姿を見て、ソハヤはやはり天海が嫌いだと言い捨てます。
なにが「まさか…!」なのか。もしかして、天海がソハヤをソハヤとして認識していたことなのでは…?
作中でソハヤは天海に直接名乗りを上げていません。一応「アンタに仕舞われたものだよ!」と皮肉は言っていますが、それだけで名が判明する可能性は低い気がします。
天海は刀剣男士に対してそこまで戸惑いを見せずに、むしろ引き連れて将門公を封印しに行っていました。
天海ほどの霊力を持っていれば審神者とまではいかずとも、刀剣男士がどういう存在なのかわかるのでしょう。
刀に宿る想いが具現化した刀剣男士。
ソハヤはその霊力の高さから、久能山に仕舞われる前から込められた想いが形をとなり宿っていて、天海には当時からその姿が見えていたのではないでしょうか。
ソハヤとしては見えているはずがないと考えていたのに、最後の最後に実はずっと前から天海が自分を知っていたとなれば…。
嫌いだ、苦手だ、と言いながら、最後は天海へ向けて「よくやったんじゃねえか」と賞賛の歌を贈っています。
家康の夢を叶えた天海と、江戸を見守り続けたソハヤ。互いに与えられた役を全うした同士です。
天海の生き様を見届けたソハヤは大典太と共にこう歌います。
「全うしてやろうぜ
どうせなら 期待以上の物語を」
彼らに与えられた「江戸(国の中心地)を守る」という役割と物語はその霊力を裏付ける確固たるものです。逃れることはできません。
そして江戸が東京になった今も、その役割は変わりません。この先も三池の二振りには物語が積み重なっていきます。
己の存在に深く関わる物語は刀剣男士を形作る血肉です。逃れることのできない呪いともいえます。
しかしそれを悲観的に捉えず、焦らずに全うしてやろうというのがソハヤと大典太なのではないでしょうか。
使われずに仕舞いこまれた刀という皮肉を背負いながら、仕舞いこまれた理由を受け入れて役目を果たす。
そこには、泰平の世を願った家康とそれを叶えた天海の想いが受け継がれています。三池の二振りはこの想いを繋ぐために今作で出陣したのかもしれません。
前回の記事でソハヤが天海に突っかかる理由を考察していたのですが、こうして考察しなおしてみると、家康と引き離されたことよりも久能山にしまい込まれたことに対して突っかかっていたのに気づきました。
勢いだけで書いていた…解像度が低くて申し訳ないです。
ところで、「物語」とは実際にどのようなことを指すのでしょうか。
これについて調べていた際に國學院大學の副学長である石川則夫氏が「物語」について解説している記事に辿り着きました。
そこで特に印象的だったのが、「物語」の定義と物語を読むメリットについての発言です。
例えば赤ちゃんが「オギャア」と生まれてから老人になるまでなど、一定の期間に人間が経験する出来事を時系列に整えて語っていくことが「物語(narrative)」なのです。(中略)
最近の人間評価の指標は単純化してしまい、「勝ち組」「負け組」という二項対立で評価を決めてしまうことが随分とありますが、「そうじゃない」物語があっていいと思います。そういったものが昔から物語として作られ、読まれ、享受され、さまざまな形に派生することを繰り返してきました。
石川則夫.「物語」こそ人生の指針.2019(國學院大學メディア)https://www.kokugakuin.ac.jp/article/136948,(参照 2021-04-17)
これに沿って考えると、刀剣男士が背負っている「物語」はそれまで関わってきた人々の生き様や死に様そのものということがわかります。
刀ミュにおいて、それは【想い】…もしくは【願い】【祈り】と等しいのだと感じます。
そしてその「物語」は勝ち負けにこだわらない、「そうじゃない」物語なのです。
刀ミュ本丸では勝負事の決着が悉くつきません。きっとそれは「そうじゃない」物語を肯定するひとつの要素なのだと思います。
言わぬが花の吉野山
水心子が幕末を経て向かうのは室町時代です。そこでは太田道灌が江戸城を築城し、豊前江と五月雨江とその美しさを眺めています。
なぜ江戸城が美しいかという道灌の問いかけに五月雨江は答えることができませんが、豊前江はそこに集う人が居るからこそ美しいことを知っています。
美しいものは、人が作り、人が住み、人が関わるから美しい。
道灌は相手勢力を抑え込むためだけに江戸城を作ったのではありません。荒れた地を整え、道を引き、人が寄せるように設計しました。
人が寄り添い、街を作り出す。それを守る要となるのが江戸城なのです。
面白いのは「荒れ地を耕し道を作る」という構図が、放棄された世界で土を耕す桑名江と似ていることです。
桑名江の世界にはもう誰も帰ってこないかもしれないので、あの時点で人が集うことはありません。
しかし、そこに集った人々が居たのは確かで、桑名江はそれを確かめるように大地に色々と尋ねていました。
何もない場所でも、そこに人が集えば想いが生まれます。その想いはたとえ人が消えても、場所が、大地が覚えているのです。
道灌が作った江戸城にも、多くの想いが宿りました。そしてそこに集う人々が居るからこそ城が美しくなるということは、想いを宿すことで美しくなることと同義だと感じます。
人が関わらずとも自然は美しいと言う五月雨江に対し、道灌は「それを見て【美しい】と想った者の心が美しいのじゃ」と返しました。
この考え方なのですが、先ほどご紹介した小川未明の『名もなき草』に通じる部分がありました。
美しいものや、正しいものは、常に、この地上の到るところに存在するであろう。しかし、これを感ずる人は、常に、どこにでもあるとはいわれない。なぜなら、その人はまた、謙虚にして、誠実であり、美や、正義に対して、正直に、それを受けいれることのできる人でなければならぬからだ。
『名もなき草』で通じる部分があるのも道灌と桑名江の個人的な共通点だなと思います。
桑名江は、あの地に群生していた名もなき草を刈り取ることはしませんでした。そしてその草に名前があることも知っていました。
道灌は、江戸城を共に築城した者たちと日々顔を合わせて労っていました。歴史には名を遺さない人々と関わり、励まし合い、共に汗を流しました。
勝者だとか敗者だとか、そういう境界線を持たずに、名もなき民草に目を向けた。桑名江と道灌の視点は似ているのかもしれません。
水心子がなぜ江戸城を此処に築いたのかと問いかけた時、道灌は明確な答えを返しません。
七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき
この歌と共に「そのうち分かる時が来る。己の愚かさとも向き合うことになるがの」と告げて去っていく道灌。
道灌が詠んだのは山吹伝説で道灌が歌心に気づくきっかけとなった兼明親王の歌*8です。
ここで言う「己の愚かさ」とは何を指しているのでしょうか。山吹伝説に沿って考えると「相手の想いを汲み取れずに怒って(怪訝に思って)しまった己の知識不足」となりますが…失敗は成功の基とかいうそういう…?
つはもので三日月が岩融にリアル勧進帳シーンを見せた後に言っていた、
「なに、皆一緒だ。間違えたり、寄り道したりを繰り返して成長するものさ」
という台詞がありますが、これは道灌が江戸城を築城した理由にも繋がってくる……?
結構色々考えてはみたんですが、これだ、という答えは見つかりませんでした。まだまだ考察の余地ありです。
豊前江にこの歌の意味を問われた五月雨江は、何かを感じ取っているものの「言わぬが花の吉野山、です」と答えを口にせず去っていきます。
この「言わぬが花の吉野山」というのは所謂「地口(洒落)」のひとつです。
本来の意味は「言わぬが花」だけに込められているのですが、ここで五月雨江が敢えて「吉野山」をつけたのは、吉野山が山吹の名所であることにちなんでいる気がします。
そして五月雨江が「言わぬが花」という慣用句を選んだのも、道灌の山吹伝説について詠んだ漢詩に関係しているのでは…?
孤鞍雨を衝いて 茅茨を叩く
少女為に遣る 花一枝
少女は言はず 花語らず
英雄の心緒乱れて 糸の如し
ここの「少女は言はず花語らず」に絡めたうえでの「言わぬが花の吉野山」だったのかなあと…。
また、「言わぬが花」は世阿弥の「秘すれば花」から生まれた慣用句という説があります。
この「秘すれば花」は世阿弥が能の理論を記した『風姿花伝』に書かれた「秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず」という一節からきています。
直訳すると「秘密にするからこそ美しい花が咲き、秘密にしないのであれば美しい花は咲かない」になるのですが、要は「芸の中で全てを詳らかにしないからこそ観客が惹きつけられる(想像力を搔き立てられる)作品になる」という意味です。
世阿弥は「この分け目を知ること、肝要の花なり(秘密にするかしないかで美しい花が咲くか咲かないかを知ることが、花について考える上で重要だ)」と述べています。
この「花」とは植物の花そのものではなく、演者が観客に与える「感動」のことを指しています。
何処にでもあるありきたりな感動ではなく、思いがけない感動を与えることを「花」としているのです。
この理論、今作にも繋がる点があると感じます。舞台上で語られないことが多ければ多いほど考察も捗るというか。今がまさにそうなんですが。
「秘すれば花」の東京心覚で唯一登場人物が全員歌うのは『終わりなき花の歌』なんだよなあ…!!
勝った者の歴史と語られぬ者の存在
勝海舟・天海・太田道灌を巡り、新々刀が最後にたどり着いたのは平将門の乱真っ只中の平安時代中期です。
ここでは将門公が時間遡行軍と戦っています。そこへ加勢した新々刀へ疑問も抱かず「助太刀ご苦労!」と言い放つ将門公は既に三日月と接触済みでした。*9
彼がなぜ「新皇」を名乗ったのか、その理由を尋ねた水心子に対し、将門公は「(その真意を水心子が)知ったところで歴史は変わるまい」と言い放ちます。
三日月宗近に同じことを尋ねられていた将門公は、歴史の定義を水心子達へ教えるのです。
「歴史は【勝った者が語るもの】…当たり前のことだ」
歴史の中で悲しい役割を背負わされた人々は、当然【勝った者】ではありません。そして歴史の中で【勝った者】は【正義】に分類され、語り継がれていきます。
この【勝った者が語るもの】という考え方は、葵咲本紀の明石国行の言葉にも繋がっているように思えます。
時間遡行軍となって結城秀康を唆す怨念と化した稲葉江を救おうとする篭手切江に対し、「やっていることが気にくわない」と告げた際の言葉です。
「戦争ってそういうことやん。互いの正義のぶつかり合いや。ほいでもって勝った方が正義の中の正義。負けた方はいつだって悪者や」
そして明石はこの単純な構図について、心が壊れないようにするために必要なものだと言い、篭手切江がやろうとしていることを偽善だと切り捨てました。
稲葉江は歴史に名を遺した特別なものだから助けたい。なのに、自分たちとそう違いのない時間遡行軍のことは助けないのは「歴史に名を遺さなかった価値のないもの」だから。
この矛盾した行動に対して、明石が唯一本心を露にした台詞が、
「全てを救えないなら、誰も救えてないのと同じだ」
という一言。
でも明石は歴史に名を遺さないものを壊してもいいという考え方が赦せないのに、歴史に名を遺さない悲しい役割を背負わされた者たちの味方をする三日月を目の敵にしてるという…なんなんだ明石…おまえは何者なんだ本当に…。
話を戻します。
将門公は歴史が【勝った者が語るもの】と割り切りながら、歴史に残らなかったものが【無かったもの】とはならないことを新々刀へ語ります。
たとえこの戦に敗北しようとも、歴史を語るものにはなれずとも、己の存在そのものが消えるわけではなく、この世で生きたことは確かなのだと。
この結論を聞いたとき、「形あるものがこの世のすべてではない」と言われたような気がして…その時の将門公の表情も相まって、物凄く腑に落ちた爽やかな気分になりました。
勝ち負けに関係なく、歴史に遺ろうが遺らまいが関係なく、いま生きていること・かつて生きていたことは確かなのです。
つはものでも己が存在しているのかしていないのか不安がっていた膝丸に対し、髭切はこんな言葉を向けています。
「歴史上に存在していようとしていまいと、今ここに存在しているのは事実だろう?それでいいんじゃないかなあ」
そんな気持ちのいい結論を出した将門公が【新皇】を名乗ったのは、他でもない「惚れた女のため」。
いつも傍で咲いていた、美しい花を守るために彼は立ち上がったのです。
終わりなき花の歌
今作で唯一登場人物全員が歌唱しているのがこの歌。
歴史上の人物と刀剣男士が共に本編で歌うのって初めてなのでは?
これは刀ミュにおける歴史の流れの中に居る人々と、それを見つめる刀剣男士が歌う花の歌です。
将門公は己の心を捉えて離さない一輪の花(桔梗)を歌い、
道灌は留めておけず零れ落ちた想いを受け止める黄金色の花(山吹)を歌い、
天海は三百年の子守唄を支えた汚泥に染まらぬ穢れなき花(白蓮華)を歌いました。
そして刀剣男士が歌うのは、花を咲かせる「種」について。
「戦場に散る 無数の種
血を浴びて芽吹くは いつの春か いつの時代か
産み落とされた実がまた花を咲かす」
この歌の中の「種」は終わりゆく生命を指すのでしょう。
刀は肉と骨を断ち生命を奪うことができる、人の死に近い道具です。
戦場で種を散らし、花が芽吹くための血を浴びせることができる存在ともいえます。
花が生命なら、種はそれが尽きる瞬間。
いつか終わりがくる生命を持つ人間が花を歌い、終わりのない生命を持つ刀剣男士が種を歌う構図は対比されています。
大サビの歌い分けもそれぞれの存在に沿っているように見えました。特に印象に残ったのが、以下の歌詞の振り分けです。
- 刀 → 終わりなき・永久に続く
- 人 → 花の歌
刀剣男士は「この生命 終わりはない」と歌っている通り、人のように儚く散ることがないのでそれを表現した歌詞を振り分けられています。
対する人間は「この生命 終わりは来る 必ず来る」と歌い、咲いて散る花にその特性を重ねた歌詞を振り分けられているので天才の所業です。
斃れる人々とそれを見つめて共に歌う刀剣男士の図、あまりにも壮大すぎて大河ドラマのようでした。刀ミュでは歴史=大河の流れなので余計に。
綻びと開花
今作のメインである水心子だけは終わりなき花の歌のラスサビ前に離脱しています。
斃れても歌い続ける人々を見て戸惑ったような表情をしながら、段々と舞台上から姿を消し、歌が終わってから赤と白の花びらを手に現れました。
ここで水心子が最初に歌う曲には『月光ソナタ』のメロディーが組み込まれています。
生きる為に美しい花は生きる為に朽ち果てる。いつか生命の終わりが来ることを知りながら生きる人間という美しい花の宿命を、水心子は切なそうに歌います。
この時点で背景に映る月はこれまでのものとは違い、見えない部分が増えて三日月の形になっています。
それを見上げながら、水心子はこう呟きます。
「ずっと不思議だったんだ。僕には世界がいびつに見えてた。見上げる月はいつも三日月だった。でもそんな筈がないんだ。見えていなくても月はそこにあるんだ。まあるいはずなんだ」
水心子が見ていたいびつな世界は放棄された世界のことなのか、それとも、偏った視点でしか世界が見えていなかったということなのか。ここはまだ読み解けていません。
そしてこの台詞はつはものの髭切と繋がる言葉です。
「見えない部分も月だったよ。しっかりと光を放ってる。その光はやっぱり見えないけど…」
この「見えない部分が放つ光」は「歴史の中で光のあたらないものへ注ぐ小さな光」です。
見えている部分と見えない部分は本来ひとつのもの。浮かぶ月はまさに「歴史」を体現しているといえます。
三日月自身はその光のことを「たかが三日月、されど三日月の放つ小さな光でも無いよりはましだとは思わないか?」と語っています。
歴史を駆け抜け、失われたものと友のために【想い】【願い】【祈り】を問い直してきた水心子は、歴史のなんたるかを知りました。
人々が「歴史」と認識しているのは「勝った者が語るもの」でしかなかったこと。
本当にあったことは誰も覚えていないこと。
そして、限りある生命が次に託した【願い】はこの先も残っていくこと。
この悲しくも美しい繰り返しを、水心子は否定せずに「それでいい」と受け入れました。
その背後では、咲き乱れる山吹の花に囲まれて、仮面の少女がゆっくりと舞っています。
それまで小袖を纏っていたように見えた少女が、この時だけは千早*10を纏っていました。
最初は庶民と同じ格好をしていた彼女は、鮮やかな黄金色のなかで神事に使われる小忌衣を纏っているのです。これは水心子が歴史を理解したことで、少女の霊格が上がった意味もあるのではないかと感じます。
水心子は序盤で「いつ生まれたかもわからぬ綻び」を見つけたと歌っていました。
その「綻び」を修正するのが今回の任務と思いきや、蓋を開けてみると「綻び」から生まれるものを知る旅だった、というのが私の感想です。
「固く閉ざされた 蕾が綻び
戦い疲れた あなたは綻び
想いが生まれた」
蕾が綻べば花が咲くように、閉ざされた心が綻ぶことで想いが生まれる。水心子が歌った「あなた」は三日月のこととも取れますし、歴史の中で生きた人々と考えることもできます。
「記録にも記憶にも残らなくても、そこに居たんだ。漸くわかったよ。愛しい、と想う心も、歴史を繋いでいるんだ」
もう、水心子のこの言葉が今作の全てです。完全勝利S。
歴史に遺らないからといって、無かったことにはならない。そこに生きた人は確かに存在した。そしてその人たちが居なければ、歴史がここまで繋がることはなかったのです。
作中で将門公が呪いに取り込まれていく際、水心子は三日月がなぜ悲しい役割を背負わされた将門公を救わないのかと疑問を口にしていました。
悲しい役割を背負わされた人の味方ならば、生かすことが救いではないのかと。
しかし、三日月が守ろうとしているのは悲しい役割を背負わされた人の生命そのものではないことに水心子はここで漸く気づきます。
彼が守ろうとしているのは、歴史の中で光の当たらない人の心に生まれた【想い】。
大河の流れを変えようとしているわけではなく、そこに飲み込まれる小さな川のせせらぎの美しさを守ろうとしていたのです。
「愛しい」という言葉は「悲しい」とも書き換えられます。「悲しい役割」に対する三日月宗近の「愛しい」と想う心もまた、歴史を繋ぐひとつの要素なのだと思います。
また、【想い】は【願い】であり【祈り】でもあります。
此方側が死者を弔い、その冥福を祈るように、彼方側もまた此方側のために祈っていることを教えてくれたのが真剣乱舞祭2018でした。
彼方側は此方側…つまり「生きとし生けるもののために」祈っています。
「あめつちはじめて出逢いし時 彼方と此方が祈り合う
魂振り袖振り いついつまでも 此処から生まれて いついつまでも」
彼方側と此方側の祈りは、鎮魂と惜別の中で生まれ、いつまでも続いていく。その先に残った【想い】が歴史を繋いでいくのです。
個人的にはこのシーンで、たどり着いた結論を語る水心子の言葉を「うん、うん…!」と頷きながら否定することなく聞き届ける清磨の存在も大きいと考えています。
誰も居なければただの独白になってしまうところを、親友である清磨が聞き届けることでまた世界が広がっていくというか…新々刀だからこそ辿り着けた場面なのかもしれません。
本当にこう…水心子も清磨も、互いに向ける言葉や視線が優しさに満ちていて素晴らしいですね…。
エピローグ
三日月から托されたものと、ラストシーンのあれこれについて。
あともう少しだけお付き合いください。
役割と物語~三日月から托されたもの~
今作が次に繋がっていく要素をはっきり出してくるのが、三日月宗近と出陣した刀たちの対話シーンです。
三日月は新々刀へ「これまでとこれからを繋ぐ架け橋」となり、江の面々へ「人と人ならざるものの架け橋」となって欲しいと想いを托しました。
気になるのはここに三池の二振りだけが居ないこと。
新々刀と江は「三日月宗近にも出来ないこと」を托される存在でした。
三日月宗近は己の存在を問うことがテーマのつはもので「後の世に形の残った確かな存在」という表現をされています。
それに対し、今回三日月からできないことを託された面々は「確かな物語や歴史」の要素が薄いのです。
新々刀は刀工の名を持つ集合体なので決まった物語がないうえに、霊的要素も少ない存在。
江はそもそも江である確証がなく、江だろうというものたちの集まりですし、リーダーである豊前江に至っては来歴や行方が不明瞭です。
しかし、三池の二振りはそうではありません。彼らは確かな物語と歴史を持っていて、その物語を全うしてやろうと高らかに歌っています。
三日月と同じように自由には動けない存在であるため、三池はここに呼ばれていないのでしょう。
考えてみると、真剣乱舞祭2018で三日月に導かれた巴形薙刀も「逸話なき薙刀」でした。
そして巴形薙刀は決着をつけないという決断を知ります。これは歴史を決めつけず、諸説に逃がす方法をとった三日月だからこそ教えられたことなのだと思います。
また、三日月から想いを托されるこの構図は、『この花のように』を連想させるなあと。
一度巡れば
蓮に心寄せ
托されるは
生涯の約束
矛盾や悲しみという汚泥の中でもがいた先で、刀剣男士もまた心という花を咲かせるんですよね…。
仮面の少女は何者だったのか?
物語のラストは水心子が現代の東京に降り立つという、冒頭と繋がるシーンから始まります。
「君が誰なのかようやくわかった」と呼びかける水心子。しかし、そこにはもう仮面の少女の姿はなく、ただ降り注ぐ砂だけが言葉を聞いています。
このシーンで訥々と語り掛けられる水心子の台詞について、私が口をはさむ部分はありません。
ここはたぶん、この言葉を受け取った人が答えを考えるべき場面だからです。
秘すれば花とは正にこのこと。
そして各々が考えた先には、
「みんな、何が【正しい】なんて無いんだ。想いは…きみの想いは、届いてるからさ!ありがとう!」
という水心子の言葉があるのです。
これはひとつの救済であり、優しさであり、肯定です。
何度も何度も台詞を噛みしめて、その度に溢れ出す水心子からの優しさは、見たものの心の中にまたひとつ種を植えるのでしょう。
ただ、仮面の少女が出てこないことについては少し考えたことがあるので綴ろうと思います。
仮面の少女は水心子の呼びかけには答えず、最後までその姿を見せることはありませんでした。
そもそも彼女は本来見えないものだった、というのが序盤でも述べた私の考えです。
少女が見えていた時点で歴史は分岐し、あの東京は放棄された世界に繋がっていたのだと思います。
では、あの少女は何者だったのか。
本来見えない存在でありながら、歴史の分岐点に度々現れていた少女に繋がりそうな文章を見つけたので記載します。
われわれはじぶんたちの生きている現在と決して完全に同時代にいることはない。歴史は仮面をつけて進行する。歴史は前の場面の仮面をつけたまま次の場に登場するのだが、そうなるとわれわれはもうその芝居がさっぱりわからなくなる。幕が上がるたびに、話の糸口をたどりなおさなければならないのだ。(レジス・ドブレ『革命の中の革命』)
寺山修司『ポケットに名言を』(角川文庫、2014、P40)
この「歴史は仮面をつけて進行する」のくだりがあの少女と繋がるな…と思いました。仮面をつけたまま次の場に登場するのも、幕が上がるたびに話の糸口をたどりなおす必要があるのも。
あの少女は「名を遺さないものの歴史」という仮面をつけた「我々が生きている現在」であり、同時代を生きる我々の目にも本来であれば映らないはずの存在だったのではないでしょうか。
そうなると、最後の水心子の呼びかけの際、仮面の少女が見えないのは分岐したはずの「現在」がいま此処にいる我々の「現在」と繋がったからだと考えられます。
あの水心子の言葉は仮面の少女と繋がっている我々へ向けられたものでもあったのだと、改めて実感することができました。
境界線~1部と2部ラストシーンの繋がり~
本編ラストシーンで時間遡行軍が現れ、再び結界が張られていくなかで水心子はこう叫びました。
「結界は人の心の中にしか存在しない!
必ずまた巡り会えるから、閉ざさないで欲しい!傷つかないで欲しい!
そのために私たちは───」
この言葉に導かれるように他の刀剣男士も現れ、時間遡行軍を倒そうと刀を抜いて、
「すべきことをする!」
と全員が叫び、舞台が暗転します。
この結界と時間遡行軍という組み合わせは、冒頭の場面とほとんど同じです。
違うのは、そこに現れた刀剣男士が水心子以外にも居たということ。
そして彼らは、時間遡行軍と共に結界も断ち切っているように見えました。
暗転する中で流れた音楽は、オープニングの『刀剣乱舞~東京心覚~』のイントロと一緒です。
状況としては1部冒頭と同じでしたが、結界ではなく刀剣男士が時間遡行軍を阻んだことで、歴史は分岐せずに元へ戻ったのかもしれません。
彼らの言う「すべきこと」は「歴史の流れを守ること」…我々の住む現代を、放棄された世界にしないことも含まれるのだと思います。
結界は線、つまりは境界線です。水心子は結界は人の心の中にしか存在しないものだと叫んでいました。
結界は、境界線は、人が何かを分けようとするからできるもの。
コロナという人の繋がりを分かつものが蔓延する現代は、ある意味境界線だらけといえます。
ソーシャルディスタンス。リモートワークにリモート授業。イベントの規模縮小・中止。
それまで当たり前だったものが当たり前じゃなくなった世界。人との距離が開き続ける時代。
そんな世界に生きる我々へ向けて、水心子は「また巡り会えるから、閉ざさないで欲しい」と呼びかけていたのです。
存在しない境界線に囚われて心を閉ざしてしまえば、なにも繋がらなくなってしまうから。
1部のラストシーンで「すべきこと」をした刀剣男士達は、2部のラストシーンで「現代の東京」へ現れます。
そこには時間遡行軍が出現し、この現代の歴史を変えようとしていました。
時間遡行軍は時計が巻き戻る音をBGMに現れます。その背景には濁った水の流れと波紋が刻まれていました。
彼らは大河の流れに波紋を生み出し、水を濁らせる存在。
対する刀剣男士は大河の流れを守り、水の清らかさを保つ存在。
1部の冒頭とラストシーン、そして2部のラストシーンは全て「東京」へ降り立っていますが、すべて状況が違います。
1部の冒頭は、人の心の中にしか存在しない結界が作動し、時間遡行軍を弾いたパターン。ここでは刀剣男士の出番もありません。
1部のラストシーンは、張り巡らされた結界と時間遡行軍を刀剣男士が共に断ち切るパターン。ここで漸く分岐していた時代が元に戻り、我々の住む現代と歴史の流れが繋がります。
そして2部のラストシーンは、結界は存在せず刀剣男士だけが現れるパターン。阻む結界がない現代を蹂躙しようとする時間遡行軍を、今回出陣した刀剣男士達が斬り伏せました。
3度「東京」へ降り立った刀剣男士達は、3度目でやっと我々が生きる現代に辿り着き、あるがままの歴史を守ったのです。
日常シーンでの会話
今作においては五月雨江と村雲江も境界線を自ら作ることで対比されていました。
しかし、五月雨江は豊前江に導かれ、自ら線を引いて歌心を押し殺すことをやめました。
その結果、エピローグで描かれた日常シーンでは道灌に感化された歌心を押し殺すことなく、素直に歌を詠んでいます。
村雲江は桑名江に導かれ、過去の経験から生まれた線を引くことへの嫌悪感から抜け出し、視野を広げることができました。
五月雨江と語らう日常シーンでは、苦い経験だけに固執せず、まだ見ぬものへ目を向けられるようになっています。
彼らの成長は次の任務にも繋がって、歴史を守る力となるのでしょう。
三池の会話では、江戸幕府が三百年以上続いていたらどうなっていたか、というソハヤの質問に対し、大典太はどこかで綻びが出ていただろうと返します。
霊力には限りがある。だから永久に守り続けることはできないのだと。
しかし、「人の想いに限りはない」と大典太は言うのです。
綻びから生まれた人の想いは限りなく続いて、歴史の流れを繋いでいく。
江戸は終わってしまったけれど、江戸を守ろうとした天海の想いは消えずに残っているように。
そして新々刀の会話です。
ここで、あの仮面の少女の話題が出ます。
清磨に少女の名を問われた水心子は「知らない。まだ出逢っていないのだから」と答えていました。
この時点で彼らはまだ我々の生きる現代(2部のラストシーン)へ出陣していない状態です。
そして零れ落ちる砂を背に語り掛けていた時点では、まだあの東京の結界は断ち切られておらず、現在と繋がった我々とも出逢っていないことになっているのだと思います。
「現代の東京」と水心子が本当に出会うのは、2部のラストシーン後。
それでも水心子は、名も知らぬ少女のことをこう評するのです。
「きっと、そこで頑張っている子だと思う!」
あの少女は我々が生きる歴史であり、現在であり、我々自身。
水心子は名も知らぬ我々の想いを、頑張りを、知っていてくれるのです。
この台詞は音曲祭で初期刀が2部のMCで客席へ向けてくれた言葉と繋がっているように思えます。
主が頑張っているところをずっと見ていた、とこの先に明るい未来が待っていることを知っている刀剣男士が言ってくれる優しい空間。
音曲祭と違うのは、はっきり言葉にされる瞬間が少ないことくらいで、同じくらい優しさが詰まった作品がこの東京心覚なのです。
誰かが居ることの意味
今作の考察をしていて感じたのは「繋がり」をすごく意識している、ということです。
ラストの曲の歌詞はその傾向が顕著でした。
「誰も居なくても 大地はそこにある
誰も居なくても 空はそこにある
誰も居なくても 風は吹き荒れる
でも誰かが居なくては 歌は生まれない
誰も居なくても 陽は昇り沈む
誰も居なくても 時は止まらねえ
誰も居ないなら 探しに行こう
誰かが居る風景 誰かと居る景色」
刀ミュの歌詞はどれも天才なのですが今作のラスト曲は特に天才すぎて、『かざぐるま』と同じくらい好きです。
特にここは「誰も居なくても」当たり前に起こる出来事を歌ったあとに、「でも誰かが居なくては歌が生まれない」と人の必要性を歌うところ。そしてそのパートを他でもない五月雨江が歌っているところが天才です。
さらに「誰も居ないなら探しに行こう」と、刀剣男士たちが繋がりを求めて歩み寄ってくれるこの歌詞があまりにも優しくて…すきです…じわじわと染み渡るやさしさ…。
誰も居なくても時は平等に過ぎ去りますが、「誰か」が居なければ成立しないのが人の歴史なのです。
歴史に名を遺した人が居て、名を遺さなかった人も居て、名も知らぬ「誰か」が「誰か」と共に在る景色が続いて現在がある。誰もがひとりぼっちでは何も生まれなかったでしょう。
そして歴史のなかで生まれた【想い】や【願い】…【祈り】は、すべてがすべて正しく伝わるわけではありません。
覚えておいて欲しいこと。忘れて欲しいこと。見つけて欲しいもの。隠して欲しいもの。
水心子の問いかけに答える者と答えなかった者が居るように、【想い】【願い】【祈り】にも様々な種類があります。歴史に記されることだけが正義ではないのです。
歌に込めた想い。心に秘めた祈り。誰にも理解されない願い。誰にも受け止められずに零れ落ちる砂粒だとしても、それは確かに存在したものでした。
これは問わず語り。
誰の耳にも届かず消えていくだけのひとりごとを、最後に新々刀は「聞いて欲しかった」と歌いました。
このひとりごとは「誰か」の心に「想い」という種を宿します。
確かに存在したことを「誰か」ひとりでもどこかで知っていてくれるのなら、たとえいつか忘れてしまっても、歴史はまた繋がっていくのです。
おわりに~学びの場としての刀ミュ~
思ったこと、考えたことを一気に書き綴ってみたらびっくりするほど長くなってしまいました。
こんなに考えたの久しぶりかもしれない…すごい作品にまた出逢ってしまったなあ…。
ノリでアイキャッチ画像とかも作ってしまいました。最近のブログ進化してる。
今回も考察を書くにあたって色々と調べるうちに、これまでの人生で深く触れてこなかった知識を吸収することができました。
調べても調べても終わらないので時間はかかりましたが*11、とても楽しかったです。
刀ミュは趣味というより学びの場としての役割が大きいといつも感じます。
自分の世界や境界線の外側を教えてくれるもの。そして外側と内側に繋がりがあることを知るきっかけになるもの。
この「学び」について興味深い記事が新聞に掲載されていました。
人は自分の中で“これは意味がある””これは意味がない”と物事を位置づけ、大方意味のある方(=役に立つ方)を選んでいます。でもそれではますます自分の世界に固執してしまいます。自分が持っている世界の外側にアクセスできるのが、実は”意味がない”と思っていた一見役に立たないような学びだったりするのです。
例えば、古代文化や宇宙、哲学など、全く日常生活と関係のないもので構いません。必要を離れて、興味を持ったことに一歩踏み出してみる。すると何だか得も言われぬ解放感が味わえることがあるはずです。(中略)趣味も同様に心が軽くなったりしますが大抵の場合一過性です。学びはもっと持続的なもの。物の見方や人生の捉え方まで変化させる可能性があります。
田口茂「アップデートを続けよう:学び」『北海道新聞』 2021年3月25日/朝刊(オントナ)/p3
この記事を読んだとき「私にとっての刀ミュは学びの場でもあったんだ…!!!」と感動したのを覚えています。
学び、知ることは自分の境界線を超える方法です。今作に沿って考えると、歴史を繋ぐひとつの手段であるともいえます。
歴史に遺らなくても、そこで頑張って生きている名もなき人の想いを知った水心子は、我々の生きる現代を「放棄された世界」にしないために「すべきこと」をしにきてくれました。
名前がない、というのは比喩です。本当に名前がないわけではなく、「名前を知らない」ということ。本来そなわっていても知らなければ「ない」と認識されるもの。
けれど、知らなくても存在までは「ない」ことにはなりません。
名を知らずとも草木は伸び、花は咲く。人も花もそれは同じこと。そこには確かに生命が宿り、存在しているのです。
水心子はもうそのことを知っています。
その優しさだけで、『名もなき草』の「人生は、また希望である。」という一説がより染み渡ってくるような気がします。
ちなみに、これを書いている私の頭の中ではずっとこの曲が流れています。
意外と良い歌詞だし、今の話とも割と繋がってるのがポイント。
また長くなってきたのでそろそろ締めたいと思います。
色々なことがありますが、また5月に進化した心覚が見られるように願っています。もう「奪われた時間」が増えませんように。
また次の考察と感想でお逢いできればうれしいです。
ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました!
【5/24 追記①】
心覚大千穐楽おめでとうございます、お疲れ様でした。
多くの方がこの考察に目を通してくださっていることをアクセス数で知りました……ありがとうございます。
冒頭で話している通り、この考察が正解というわけではありません。
心覚は「正解なんてない」……受け取る人のぶんだけ想いが生まれて彼らに届く物語です。
こちらは初日のみを掘り下げているため、凱旋公演の内容とは少しズレがあるかもしれませんが……本編で分からなかった・受け取れなかった点の解像度が少しでも上がるお手伝いが出来たのなら幸いです。
【5/29 追記②】
大千穐楽(凱旋公演)を見て改めて感じたことなどをさらっとまとめた記事ができました。
ここまで大長編を読んでくださって本当にありがとうございます。
もしまだ興味やお時間があればお付き合い頂ければとおもいます。
*1:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E3%82%8A%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%9B
*3:天台宗の経典は他にもありますし、日蓮は天台法華宗に衆生を救う力がないと言い切っていますので、仲良しというわけでもないです。詳しくはwebで!
*4:山王祭自体が広く知られるようになるのは家康が江戸に来てからです。
*6:「そこに居られたのですね 何年も 何百年も。ええ、忘れてはおりませぬ 忘れてはおりませぬよ。語りましょう 歌いましょう 其方達の物語を」
*7:※実は古今和歌集にも紀貫之が詠んだ山吹の歌があります。「吉野川 岸の山吹吹く風に 底の影さへうつろひにけり」…山吹を詠んだ歌は万葉集にも掲載されていましたが、この歌が詠まれてから、吉野川と山吹の組み合わせは常識となったそうです。
*8:本歌は最後が「かなしき」ではなく「あやしき」
*9:疑問なのはなぜ将門公が時間遡行軍に狙われているのかなんですが…将門公を早い時点で葬ることで武士政権を少しでも長くしようとしたとか、そういう話…?
*10:おそらく千早だと思うのですが違ったら申し訳ないです。
*11:犠牲になったもの:戦力拡充計画レベリング
問わず語りという名の合わせ出汁~東京心覚の考察と感想~
お久しぶりの方も初めましての方もこんにちは。
前回の歌合の考察からはや1年、更新滞りまくりでしたがしっかり楽しんでおりました。
本当はステの感想とか歌合の再考察とか、なんなら音曲祭の考察とかを先に書くべきなのかもしれませんが、今回はどうしても東京心覚の感想が書きたくて筆を執りました。
なお、この考察は文字通りの問わず語りであり、初日公演の配信しか見ていない状態で書いたものになります。
アーカイブ配信後にもっと解像度を高めてアップしようか迷ったのですが、そうなるといつ書き終わるかわからないので、この時点での捉え方を記そうと思った次第です。
当然ながらネタバレしまくりなので、ネタバレ拒否の場合はそっとタブを閉じていただければ幸いです。
一部ふせったーに投稿した内容も加筆修正して入れています。
はじめに
今回の新作『東京心覚』を見て感じたのは、敢えて明確な答えを避けている、ということです。
物語の中でわかりやすく答えを描くことは可能ですし、それを起承転結に組み込むことでもちろん盛り上がりが生まれます。
だけど、今回彼らはそうしませんでした。
それどころか、時間軸が入り組んでいたり、抽象的な表現が多かったりと混乱するポイントが多く盛り込まれました。
それはなぜか?自分なりに考えました。
受け取り手、つまりは観客である我々に想像力を働かせ、各々の中に納得できる答えを探してほしいと思ったのではないでしょうか。
近年はインターネット文化が発達していて、疑問が生まれても検索すればたいていの答えを得ることができます。
SNSは集合知の面もあり、自分が知らなかったことを知っている人が大勢います。
自分が知らなくても誰かが答えを教えてくれる状況が当たり前になっているのです。
それは一種の思考停止にも近いのですが、当たり前になってしまうと危機感すら生まれません。
最近流行の曲はイントロがないという話をよく耳にします。
ストリーミング配信が主流となったことでイントロが長いと聞かない人が多くなったため、サビや歌入りを手前に持ってくることでヒットを狙う手法だそうです。
サビや印象的な歌詞という答えがすぐ用意されていないと、聞くことに飽きてしまう・疲れてしまう人が増えたという意味にもとれます。
これは近年の芸術作品に共通したもので、疑問を残す物語よりも答えが示される物語の方が好まれる傾向があると私は感じています。
答えがある物語は見ていて気持ちがいいし、なにより頭を働かせる必要がないので疲れません。
話が変わりますが、刀ミュの物語は秘伝の継ぎ足しダレみたいだなという話を歌合の感想のときにしました。
継ぎ足しダレは美味しいです。
「美味しいものに美味しい要素を入れると更に味が深まって美味しくなる」という素晴らしいサイクルを持っています。
今までの刀ミュはそういう物語が繋がって、どんどんタレの味を濃くしていた印象があります。
でも、今回は違いました。
タレの味は時々するのですが、どうも口にしてみると味が薄いのです。
この味の薄さに「あれ?」と思う審神者の方も多かったのではないでしょうか。
しかもつい最近まで音曲祭という特濃の継ぎ足しダレを味わっていたので尚更そう感じたと思います。
私も最初はそう感じていました。今回はずいぶん味が薄いなあ、と。
でもこれは別に味が薄かったわけではなくて、味が染み出している最中だったんですね。
具体的にいうと、今回のメインは継ぎ足しダレではなく、新しい出汁だったんです。
しかも鰹と昆布の合わせ出汁。
さらにいえば、物語の終幕時点でまだ削り節が濾されてないやつ。
何言ってんだこいつ…ってなったら合わせ出汁の取り方をご覧ください。
おわかりいただけただでしょうか。
出汁はすぐ味が出ないんですよ。昆布1時間つけてから弱火で沸騰させるんです。
火を止めた後に削り節を入れて待たなきゃいけないし、なんなら最後はサラシとかで濾す必要があるんです。
何が言いたいかというと、今回出された物語はこの合わせ出汁を取っている最中であって、濾すのは観客の役割だということ。
今回の物語が「わからない」のは当たり前です。
でも「わからないから面白くない」と思考停止しないで、考えて欲しい。想像力を働かせて欲しい。
それはひどく疲れることかもしれません。
でも、あなたが口にしたその合わせ出汁の削り節を濾せるのは、あなたしか居ません。
そんなメッセージを受け取ったがゆえにこの感想を書いています。
例え方がひどくて申し訳ありません。
自分で削り節を濾すためにいろんなことをしていたら、美味しい出汁が出てきたのでここに置いておきます。
これは正解ではなく、私が濾した東京心覚という名の合わせ出汁です。
お口に合う方・合わない方、それぞれ居らっしゃると思いますが、もし興味があればお付き合いください。
なぜ今回の出陣は彼らだったのか?
刀ミュで出陣する刀剣男士たちは、一見ばらばらに見えてどこか繋がっていることがあります。
今回出陣した彼らの共通点や、なぜ彼らが選ばれたのかを考えてみました。
各刀剣男士の簡単な来歴
豊前江
かつて伝来した豊前国小倉藩の小笠原家初代当主:小笠原忠真の正室(円照院)が徳川家康の養女であり、本多忠政の次女。
本多忠勝は祖父にあたる。なお、円照院の母(熊姫)は松平信康の次女だった。
現在は行方不明。実存しているかわからない・存在があやふやな刀。
桑名江
かつての主が本多忠政。蜻蛉切と同じく本多家に伝来。
元々は農家の神棚に飾られていた刀。朝5時に畑に集合する。
村雲江
豊臣秀吉から前田家→徳川将軍家(綱吉)に伝来。綱吉の代では五月雨江と過ごしている。
いっとき二束三文で売りに出されていたことや、柳沢吉保が後世では悪者として描かれていることが性格に色濃く出ている。
五月雨江
黒田長政から徳川将軍家(秀忠)→前田家→徳川将軍家(綱吉)と伝来。綱吉の代で村雲江と過ごす。
その後、尾張や将軍家の間を行き来した。
刀剣乱舞では名を詠んでくれた松尾芭蕉へのリスペクトがすごい。忍者。
「ここで一句」が自然にできる歌心を持つ。兼さんと岩融と俳句バトルしよう。
足利将軍家から豊臣秀吉→前田家へ形見分けされた天下五剣の一振り。
形見分けの際は二代目将軍秀忠を介したという説もある。
いずれにせよ病の治癒祈願をもとに前田家へ渡った刀。富田江、北野江とも関わりがある。
保管されていた蔵の上に烏すら留まらない・とまった烏が死んでいたという伝承がある。
この烏止まらずの蔵は前田家江戸藩邸にあったともいわれている。
注連縄をかけて保管されていたから足が紐で繋がっているのに何故か殺陣ができる謎スペック。
天下五剣たるもの蔵から出たらボイパもできる。
ソハヤノツルキ
源頼朝?→御宿家?→徳川家康と伝来し、家康の遺刀となった(家康以前は明確ではない)
無銘の刀ではあるものの「妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ」の切付銘があり、三池大典太作とされている。大典太光世とは兄弟。
家康の「不穏な動きをする西国へ切っ先を向けて久能山へ納めるように」という遺言に従って久能山東照宮へ納められた。
此御刀は御在世最御鐘愛品にて数度の御陣中はさらなり
常に御身を離し給はず夜は御枕刀となし給ひ終に今はの御際遺命ありて永世の鎮護と久能山に納め給ふ
今作では陽キャに見えるが大典太光世のボケを受け止め切る常識刀。
江戸三作の刀工のひとり、源清麿が打ったとされる刀の集合体。
特命調査では放棄された天保江戸の修正任務にあたっていた。
源清麿は別名四谷正宗とも呼ばれており、特命調査では彼が戻って来られるように水心子が懸命に正しい江戸の歴史を守ろうとしていた。
水心子とは親友。関東大震災後は源清麿の墓の隣に水心子正秀の墓が越してきた。
源清麿の打った刀は新々刀の中でもかなり人気があったとされる。
水心子正秀
江戸三作の刀工のひとり、水心子正秀が打ったとされる刀の集合体。
水心子正秀は新々刀の祖と呼ばれ、古刀復古を唱えていた刀工。
江戸末期に失われかけていた鍛刀技術を収集し、多くの弟子に伝授した。
「太平の世に慣らされきった刀剣を、本来あるべき姿に戻すべく生み出された刀」という台詞はこういった背景からきていると思われる。
清麿と同じく特命調査では天保江戸の修正任務を担当。清麿とは親友。
こうしてみると、徳川家繋がり+刀の時代(江戸)が終わるころに出来た新しい刀たちという繋がりがあります。
江戸の初期から徳川に関わり、様々な場所で人を見守っていた刀たち。
江戸の末期にかつての刀剣を想って作られた刀たち。
彼らなりに、いまの東京を形作った江戸を見ていたから選ばれたのかもしれません。
水心子正秀が主役だった理由
今回はいつもより2振り多い8振りでの出陣。その中でも水心子正秀の活躍はめざましいものがありました。
しかし何故この8振りの中で水心子正秀がメインだったのでしょうか。
今回がいつもの出陣と違うのは、各団体(うまい言い方が思いつかない)の繋がりが濃いという面にもあると思います。
具体的にいうと、
こんな感じ。
ここまで多くの団体が編成されるのも珍しい気がします。
これまでは、大勢の団体に一振りとか、兄弟刀が1~2組とかそういう感じでした。
同派といえば三条がぱっと思い浮かびます。
兄弟、つまりは家族。これは虎徹三兄弟や、村正派もそうですね。
兼さんと堀川くんみたいな相棒という関係性もありました。沖田組はのら猫2匹。
でも、親友という関係性は初出のような気がしないでしょうか。
同派でも兄弟でも相棒でもなく、親友。唯一無二の友。
友という言葉を口にする刀は居ます。
三日月宗近です。
彼は歴史の中で悲しい役割を背負った人間を、友と呼びました。
そしてその友の一部は「物部」となり、彼が携わった歴史をひそかに支えています。
でも三日月宗近は同派の刀を友とは呼びません。
今のところ、彼の「友」という言葉は人間に向けられています。*2
今作では初めて互いを「友」と認める新たな刀が登場しました。
それが新々刀。
そして水心子正秀はそんな新々刀の祖であり、「太平の世に慣らされきった刀剣を、本来あるべき姿に戻すべく生み出された刀」。
彼は刀剣男士であることに誇りを持ち、自分たちが刀剣である意味を理解しています。*3
そしてなによりも、人と刀剣男士の違いについて明言*4している刀でもあるのです。
「悲しみに寄り添いすぎると引きずられる」というのは今作の平将門公の台詞です。
【悲しみ】は【愛しみ】とも書くことができます。
【悲しい役割を背負った人間】への【愛】を持ちすぎたことで【悲しみ】が生まれ、寄り添おうとする。
悲しみに寄り添いすぎることで、人と刀剣男士との境界線が曖昧となり、【機能】という名の【呪い】と化してしまったのが三日月宗近だとしたら?
人と刀剣男士の境界線を見極め、刀剣男士の誇りと己の責務を全うしようとする水心子正秀。
三日月宗近が一振りで「友」を救おうと暗躍した歴史に生まれた歪みを、彼は「友」と共に解決しようと奔走した。
うまく言えないのですが、三日月宗近の呪いを軽減させた存在が「唯一無二の友」を持つ刀だったことに意味があるのかなと感じています。
さらにいえば、水心子正秀と源清麿は刀工にまつわる逸話に霊的要素が調べる限り一切ないんですよね。
三条宗近は小鍛冶にある通り、稲荷明神の力を借りて小狐丸を打ったりしていますし、三条の刀たちも霊的な役割や力を持っています。
それに対して新々刀は、失われかけていた刀剣の技術を復古させるため、人の力で作り出された存在。
こういうところも三日月宗近と対比されているのかなと感じています。
他の刀の関係性もちゃんと意味がある
親友という関係性の他に、同派や兄弟といった「互いを頼り、助け合う存在」を持つ刀たちが今作の任務にあたったことも意味があると思っています。
大典太光世は蔵に仕舞われていたということをコンプレックスに感じていますが、ソハヤノツルキはそれを気にする様子がありません。
時々発する大典太光世なりのボケもしっかり拾って時には諌めていましたし、ソハヤノツルキ自身も大典太光世と行動することで冷静さを保っていられる場面がありました。
江の面々は特に村雲江と五月雨江の関係性がそうですよね。
「あめさん」「くもさん」と呼び合う彼ら。村雲江は五月雨江と居るときに安心感を得ています。
豊前江は五月雨江の代わりに汚れ仕事を請け負い、桑名江は村雲江も必要な存在だと語り掛けた。
江は「郷義弘作と思われる刀」の集まりで、他の同派とはまた違った特徴を持っています。
それでも互いの存在があるから前を向ける、強く在れるという姿勢は変わりません。
一振りではできないことも、だれかと共にならやり遂げることができる。
一振りで暗躍する三日月宗近が彼らに言葉を向けたのは、自分にはできないことが出来ると判断したからかもしれません。
これまでの物語と今作の繋がり
今回は異色の作品ではありますが、これまでの刀ミュ本丸が携わってきた歴史との繋がりがないわけではありません。
これまでの物語が今作とどう繋がっているのかを考察しました。
今作の立ち位置
まず、これまでの物語が刀剣にとってどういうものだったのかを整理します。
- 阿津賀志山・つはもの → 鎌倉時代=武士政権の誕生
- みほとせ・葵咲 → 戦国時代から江戸時代=武士の世から泰平の世へ
- 天狼傳・むすはじ → 江戸時代末期から明治時代=刀の時代の終焉
このように、刀が重宝され始めた時代から、銃や大砲の登場で刀が使われなくなる時代までを描いてきました。
今作、『東京心覚』でメインになったのは新々刀の祖である水心子正秀。
彼は江戸時代末期に失われかけていた「戦うための刀を作る技術」を復古するために心血を注いだ刀工によって作られた刀です。
刀の役目が終わりゆく時代に生み出され、「銃ではなく刀剣であることに意味がある」ことを理解し、「太平の世に慣らされた刀剣をあるべき姿に戻す」ための存在。
この「太平の世」は普通に考えれば江戸時代を指していることにはなるのですが、大きな戦争がおこらない現代も含んでいるとすれば、彼は刀の時代の終焉の先を担うべく生み出された存在ともいえます。
つまり、今作はこれまでの物語の先を描いている、刀ミュ本丸の新たな一歩と呼べるのではないでしょうか。
パライソがどんな感じなのかまだわからないので断言はできませんが……。
ただ、三日月宗近が新々刀へ「これまでとこれからを繋ぐ刀となれ」と告げたのは、きっとこういうことなんだろうなと解釈しています。
歴史上の人物とこれまでの物語
今作に出てくる歴史上の人物が江戸の設計に関わっているのは調べればわかるのですが、これまでの歴史とも関わっているのでは?!と思って調べました。
ざっと調べた結果はこのような感じです。
- 平将門 → 源氏が名を挙げるきっかけとなった(平将門の乱)=阿津賀志山・つはもの
- 天海 → 長年徳川幕府を支え江戸の街の設計に宗教的な面で携わった=みほとせ・葵咲
- 勝海舟 → 戊辰戦争の際、江戸城無血開城を成し遂げ江戸の街を守った=天狼傳・むすはじ
- 太田道灌 → 歌人としても優れ、死ぬ間際にも歌を詠んだことで有名=歌合
つまりどういうことなのか、詳細は以下に。
平将門
平将門の乱が起こったことによって
が出来ました。
つまり阿津賀志山とつはものに深く関わる人物を産むきっかけを作ったといえます。
武家政権、つまり武士が時代を動かすきっかけも同時に作っています。
将門公がいなければ源氏は歴史上で名を挙げることはなく、鎌倉幕府が生まれることもなかったのでは?
そう考えるとかなり重要な役割を担っています。
でもこれは敗北が決まった役割。つまりは「悲しい役割」です。
刀剣が重宝されるために必要な歴史ではありつつも、三日月宗近は怨霊と呼ばれるほど強い想いを抱いて散った将門公を見過ごせなかったのではないかなと。
彼と三日月宗近の関わりについては今後描かれることを期待します。
なお、彼が朝敵となったのは横暴な政治を行っていた国司や朝廷に対する東国の民の悲鳴を聞き届けたためといわれています。
つまり、将門公は名もなき民草たちの声を聞いて立ち上がった存在でもあります。
彼はは既に三日月宗近と接触しており、水心子正秀が来ることも知っていました。
水心子正秀の問いかけに対しての答えは「惚れた女のため」
将門公の正室や側室については諸説ありますが、今作では桔梗の花について触れられたため、この「惚れた女」とは桔梗の前だと思われます。
寵姫のなかでも取り分け気に入られていたましたが、俵藤太秀郷と内通し将門公の秘密を伝えたため将門公討ち取られ、自身も悲惨な最期を遂げるという「悲しい役割」を背負った女性です。
桔梗の前に関する伝説も諸説あるため、「あったかもしれない」という幾重にも分かれたルートを辿ることが出来る歴史のひとつ。刀ミュ本丸と相性が良さそうです。
天海
とにかく長生き。なんと享年108歳。
人間百年生きれば付喪神って言われてたけど、この人はほんとにそうかもしれないレベルです。
そんな天海ですが、今作で「三百年の子守唄」という台詞を口にしています。
これは今作の中でも珍しくわかりやすい繋がりを示すポイントなのですが、その台詞をなぜ天海が紡ぐのでしょうか。
個人的には、
- 家康は自らの葬儀や神号について天海に託していた
- 家康の死後、「東照大権現」という神号は天海のアドバイスによって決定した
- 家康が始めて3代目将軍家光まで続いた江戸の街の設計を最初から最後までサポートした
という点がおそらく繋がってくるのかなと思いました。
天海は江戸という都市が、太平の世が、三百年にわたって繁栄するようにと願った一人だったのです。
みほとせで「徳川家康。彼は、神になるんだ」と石切丸が言ってましたけど、神としての名をつけたのは実質この天海といえるのではないでしょうか。
そして、天海が江戸の街を設計する際、徹底した鬼門封じをしていることは劇中でも指摘されていました。
鬼門は北東、裏鬼門はその正反対に位置する南西。
江戸は富士山を北としているので、そこから見た北東と南西に鬼門封じの神社や寺を置いています。
〇北東
〇南西
多分劇中でもこれらの名前が出てたはずです(うろ覚え)
この鬼門封じの寺と神社を結ぶと、その真ん中に江戸城の本丸が現れるという徹底ぶり。
しかも将門公の体を封じた神社は、江戸に続く7つの街道と江戸城下の門の交差点に作られています。
交差点には魔が宿りやすいと昔から言われていますし、さらに江戸以外の場所に続く道に神社を置くことで外敵を防ぐ目的もあったと考えられています。
天海が江戸の街に施した宗教的な仕掛けについては、以下の記事がとても面白く、参考になりました。
天海が施した様々な仕掛け(結界)の結果、いまも旧江戸、つまり東京は栄えている。
江戸時代は終わってしまったけど、街と人は続いている。
天海は家康が望んだ世界を守るために奔走した人物といえます。
勝海舟
劇中でも描かれていた勝海舟と西郷隆盛の会談で決定した江戸城無血開城は、戊辰戦争で計画されていた江戸総攻撃を未然に防ぐことが出来た偉業です。
もし江戸への総攻撃が開始されていたら、いまの東京の姿はなかったかもしれません。
しかしその結果、新政府軍と戦っていた旧幕府軍は負け、土方歳三は戦死。
新選組の刀たちが語る「刀の時代の終焉」が訪れました。
勝海舟はひとつの時代を終わらせ、新しい時代が始まるきっかけを作った人物なのです。
つまり、「これまで」と「これから」を繋いだ存在。
「江戸の街を守った」と語り継がれる勝海舟ですが、水心子正秀の問いかけには「俺が守ろうとしたのはそんな小せえもんじゃねえ」と答えました。
海外進出を狙う勝海舟の言葉を聞いて「やはりあなたは結界を国全体に広げようとしていたのだな!」と水心子正秀は言います。
結界は「境界線」であり「何かを守るもの」。
勝海舟は江戸の街という小さな括りではなく、日本という国全体を考えて行動したのだと水心子正秀は納得した様子でした。
ここでなぜ「やはり」なのか。
勝海舟は元々剣豪としても有名な人物です。
彼が所持していた刀は、水心子正秀と海舟虎徹。
その中でも水心子正秀を愛刀としていました。
しかし勝海舟は水心子正秀を抜いて人を斬ったことはありません。
それがあの時間遡行軍に対する唾攻撃に繋がるのです。
水心子正秀が刀剣の「これまで」と「これから」を繋ぐ存在であるのに対し、主の一人であった勝海舟もまた同じ立ち位置だったといえます。
太田道灌
今回かなり重要なポジションだったのが太田道灌です。
刀ミュにおいて花は大きな役割を持っています。
そして今作を彩っていた山吹の花は太田道灌と深い繋がりがあります。
江戸城を建てた太田道灌は歌人としても名をはせましたが、歌心を得るきっかけとなったのが有名な山吹伝説です。
鷹狩りに出かけ、雨に当たった道灌が民家に蓑を貸してもらえないか尋ねた際、対応した少女が何も言わずに山吹の枝を差し出したことに道灌は激怒します。
しかし、後から少女が山吹の枝を差し出したのは「七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだになきぞかなしき」という歌になぞらえ「(貧しいため)蓑がない」という申し訳ない気持ちを伝えていたためだとわかり、自分の無知を恥じ歌を学び始めたという伝説です。
道灌はのちに築いた江戸城で「武州江戸二十四番歌合」を開催しています。
この歌合で詠まれた道灌の歌は、
うなばらや水巻く竜の雲の浪はやくもかへす夕立の雨
お題は「海上夕立」。大海原に起きた竜巻が雲を産み、激しい夕立を降らせる様を詠んだ歌です。
雨は雲がなければ振りません。その様を描いた歌は、どこか「雨が降るためには雲も必要だよ」という桑名江の台詞に通ずるものがあります。
また、太田道灌が暗殺されるというのは劇中でも描かれていましたが、死の間際も動じずに歌を詠んだという話もあります。
刺客が「かかるときさこそ命の惜しからめ(死ぬときはどんな武勇を持っている人でも命が惜しいはずだ)」と詠んだのに対し、道灌は「かねてなき身と思い知らずば(いつも死ぬことを考えていないのならそうやって命を惜しむのだろう)」と答えたそうです。
歌にまつわる逸話や、詠んだ歌が今作のなかの関係性を示している感じ、なんだか歌合に通ずるものがあるな……と歌合のオタクは思うのでした。
各刀剣男士の行動についての考察
とは言いつつ、どうまとめていいか自分でもわからない考察の群れ。
色々と入り混じっています。
新々刀の最初の曲
「水清ければ魚棲まず」(水心子正秀パート)
あまりに清廉すぎるものはかえって人に親しまれず孤立してしまうことのたとえ
→つまり一振りで暗躍している三日月宗近のこと?
「水清ければ月宿る」(源清麿パート)
水が澄んでいれば月がきれいに映る。心に穢れがなければ神仏の恵みがあるというたとえ
→これも三日月宗近のことを表してはいるが、水面に映る月は虚像です。
水面に月が映るためには空にも月が浮かんでいる必要があります。
水面と夜空、ふたつの月=表と裏(歌合の小狐幻影抄)
美しすぎるがゆえに孤高であるもの。美しいから穢れのないもの。これもまた表裏一体。
水→水心子 清→清麿 に合わせて歌詞を当てはめているのでは?
水心子正秀が見ていたもの
フィルム状になっていることから、刀ミュ本丸におけるアカシックレコード(アカシャ)の可能性があると考えました。
アカシックレコード(アカシャ)とは「地球で起きうる出来事を過去から未来にかけて記録している第五元素(エーテル)もしくはアストラル光」
そこで三日月が暗躍して「悲しい役割を背負った人たちに手を差し伸べた歴史」から続くものを見てしまったのでは?
その続いた先が現在のコロナ禍の東京だった可能性は大きいと思います。
もしくは、「今の東京に至るまでの歴史」……戦争で壊れた街や、景気悪化する都市、そして感染症。
それらに対して「守る価値があるのか」と問いかけたのかもしれません。
「歴史を守るのが刀剣男士の使命」だとわかっていながら「守る価値があるのか」と問いかけを投げるのって、ものすごく矛盾していますよね……。
このアカシックレコードが水心子正秀の心に矛盾が生まれるきっかけになったとも考えられます。
人間である刀ミュ本丸の審神者にはその判断は下せません。どんな過程があろうと、結果として歴史を守らなければいけないからです。
たとえ彼らの元主を再び殺すことになっても。
この根本的な、命題とも呼べる問いかけを主に対して直接投げかけたのも、静かな水面に石を投げ入れて波紋を産むような演出だな……と感じました。
桑名江が耕していた場所
畑かと思いきや硬いものを砕く音+ツルハシ装備から始まり、二回目は鍬になっていた桑名江の耕作。
硬いもの=瓦礫と考えると、現代に続くまでで東京が瓦礫に塗れたのは関東大震災か第二次世界大戦中の東京大空襲だと考えられます。
これら二つが発生した時期を考えると、
となります。
東京大空襲は実際何度も起こっていますが、一番被害が大きかったのが3月なのです。
東京都は、1944年(昭和19年)11月24日以降、106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。
その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲(下町空襲・作戦名:Operation MEETINGHOUSE)を指す。この3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超えた。
(引用:東京大空襲 - Wikipedia)
3月10日は『東京心覚』公演日。
これまでの刀ミュは
など、公演内容に関わる歴史的事件が起こった日に開催されていると諸先輩方から伺っているので、そう考えると東京大空襲説が濃厚なのかなと。
東京大空襲で焼けた刀剣ってご存知でしょうか?そう、御手杵です。
実際御手杵が焼けたのは5月の空襲なのですが……すべてを合わせての「東京大空襲」。
だから水心子正秀は「存在があやふやだ」というくだりで、葵咲の御手杵の言葉*5を口にしていたのでは……?
同じ理屈でいくと、序盤で勝海舟が西郷隆盛と行った江戸城無血開城も3月13~14日にかけて行われています。3月15日には江戸城総攻撃が予定されていました。
ここまではふせったーに載せたのと同じ話なんですが、だんだん関東大震災説も無きにしも非ずなのかと感じています。
なぜなら、水心子正秀の墓が源清麿の墓の隣に越してきたきっかけが関東大震災だからです。
新々刀の親友という稀有な関係性に繋がることでもあるので、もしかしたら?という気持ちもあります。
いわゆる諸説あるがの!!です。
豊前江とパライソ
正直にいうと、音曲祭の演出をみてからずっと、今回のメインは豊前江だと思っていたんですよね。
いざ蓋を開けてみたら新々刀という新たな風が大きな物語をさらに前へ進めてくれていたので、豊前江は江をまとめる役割として呼ばれたのだろうかと序盤は考えていました。
でも、太田道灌の暗殺が失敗した後、にこやかに挨拶を交わした直後に太田道灌を殺した豊前江を見て、「こいつは既に何かを乗り越えてきていやがる……」という気持ちに変わりました……。
劇中で主要な歴史上の人物を刀剣男士が正面切って殺したのは初めてです。
「正しい歴史」のために殺そうとした刀剣男士は居ました。
でも、みほとせの石切丸は信康を殺せなかったし、むすはじの兼さんも出来なかった。代わりに陸奥守吉行が引き金を弾きました。*6
天狼傳の長曾祢虎徹も近藤勇の首を落とそうとしましたが、自分の気持ちを殺してまでやろうとする姿を赦せなかった蜂須賀虎徹がそれを止めて代わりに手を下しました。
心を持ったが故の葛藤。人に対する、元主に対する愛情がそれを阻んだ。それがこれまでの刀ミュの物語。
けれど、豊前江は迷わなかった。
何気なく挨拶をして、そのまま刀を振り下ろした。
これは結構衝撃的でした。
「正しい歴史を守るのが刀剣男士の役割」だと豊前江は言います。言いますけど、それは今までも散々みんなが口にしてきた台詞じゃないですか。
そう考えて迷いなく行動できるのは、絶対的にここまでの道のりで何かあったからじゃ……。
からの「あんたも静かの海に連れていってやれりゃあよかったんだけど」ってあの……本当にパライソで何があったんですか……?????怖すぎる。
パライソまじで不穏な気配しかないんですよ。音曲祭の刀剣乱舞の歌詞もめちゃくちゃ怖かった。
「無常の風吹くワダツミの静寂」
無常の風は「人の生命を消滅させる無常の理法を、花を散らし灯火を消す風にたとえていう語」。
花という生命を散らす風が吹く海神の静寂って、人が死んで静まり返った海ってことでは……ないですかね……。
それと江戸城を作るための石が意思を継いでいくという豊前江の見解、これはむすはじの『いびつないし』に繋がる言葉です。
石は意思であり、遺志であり、「一つとておなじかたちなし 一つとておなじおもいなし 一つとておなじおわりなし」。
豊前江は果たして最初からこの視点を持っていたのでしょうか。
それともパライソを経てこの視点を得たのでしょうか。
わっかんねーけど、秋のパライソに乞うご期待!
ソハヤノツルキが天海を嫌がっていた理由
徳川家康の遺言に従い、ソハヤノツルキはその遺体と共に【久能山東照宮】に入ったという話を序盤でしたのですが。
天海はこの後、改葬として家康の御霊を【日光東照宮】に移しています。
この時、遺体も同時に移されたと考えられているのですが、ソハヤノツルキは現在も久能山に納められています。
今作でソハヤノツルキは結構天海のことを嫌がっている感じがありました。
これは家康の遺体と一緒に日光へ移されなかったからなのでは?
ソハヤノツルキは家康の最後の愛刀でした。家康が永い眠りについた後も、傍で彼の望んだ世界を守ろうとした存在といえます。
それなのに天海が遺体を日光へ移したせいで、家康と離れてしまった。だから嫌がっているのではないでしょうか。
ただ、久能山では遺体は移されず、御霊を分霊化をしたのではないかという見解を持っています。
「あればあるなければなしと駿河なる くのなき神の宮うつしかな」という天海が詠んだ歌になぞらえ、「くのなき」を「躯(遺体)のない神の宮遷し」と解釈しているそうです。*7
なお、久能山も日光も遺体の発掘が行われていないため真偽は不明とのこと。
つまり、「かもしれない」歴史なのでどちらとも捉えられますよね。
ここに関しては、つはものの膝丸と通ずるところがあると感じます。
つはものでは、箱根神社に本体を見に行くか髭切に問われた時、膝丸は見に行こうとしませんでした。
膝丸は物語によって記述が違いますし、大覚寺にある膝丸、箱根神社にある膝丸、個人蔵の膝丸とで作りも刀工も変わります。
曖昧な存在とも呼べる本体を見に行かず、確定させないことで自身の存在の揺らぎに足を踏み入れなかった。
でもここは双騎で補完されていましたね。
刀ミュ本丸の膝丸は曾我兄弟の仇討ちに使われた箱根神社の膝丸だという歴史を、人間側をなぞることで確定させていました。
もしかしたらソハヤノツルキもいつか自分が持つ曖昧さと対峙する時が来るのかもしれません。*8
今作における花の役割
刀ミュでは花が重要な役割を果たすのは御存じの通りです。
今作では山吹がメインでしたが、様々な花の名も紡がれていました。
名もなき草
一度目の開拓時、路傍に生えていた草の名前を村雲江に訊かれ、桑名江は「名前はあるけど名もなき草と呼ばれている」と答えました。
名前があるはずなのに名もなき草。つまり、歴史には残らなかった民草を指すのでは?
歴史という川の流れは一人では作り出せないもの。その時代に居た人々が支えることで出来ています。
人間ひとりでは歴史とはならず、歴史となるべき人間をそうたらしめる存在=周囲の人間が必要だというのはみほとせで石切丸が言っていました。
その周囲の人間というのは歴史に名を残すものばかりではありません。
吾平のような、知っているものしか知らないものの存在があります。
けれど、「正しい歴史」としてその名を残されるのは、その流れの中で勝ったものだけ。
今回の作品における「名もなき草」は現代に生きる我々でもあり、これまでの時代で名を残さなかった人々でもあるのでしょう。
桑名江は後半で植物の循環を語っていましたが、それは森羅万象すべてに繋がることです。
農業は森羅万象すべてと繋がる学問。
桑名江、実は誰よりも人の生命が花のように循環することを理解しているのかもしれません。
山吹の花
今回メインだった山吹の花は太田道灌の伝説繋がりです。
山吹は「実をつけない花」=「歴史には残らないもの」という意味にも取れます。
強く咲き誇る山吹の花のなかで踊る仮面の少女は、「名もなき民草」の象徴であると捉える事もできます。
また、劇中で仮面の少女は太田道灌へ山吹の枝を差し出していました。
これもまた山吹伝説に出てくる少女=「名もなき民草」を具現化したものと考えられます。
さらに、山吹伝説は太田道灌の歌心を生んだ出来事。
「人の心を縁とし生まれ出るは歌も我らも同じこと」
これは歌合の判者であった鶴丸国永の言葉です。
これもひとつの人の心(気遣い)を縁として生まれたものといえるでしょう。
豊前江が太田道灌を斬った後に五月雨江が詠んだ句にも山吹が出てきます。
「ほろほろと山吹散るか滝の音」
松尾芭蕉が吉野川に散る山吹を見て人生の儚さを詠んでいる歌です。
儚い命ながら咲き誇る実のない花。歴史には名を残さないもの。そこには確かに人の心が宿っていた。
桑名江が耕した大地に植えられた山吹の花が咲き誇り、少女が踊るあのシーンが忘れられません。
劇中で語られた花の名前+α
「終わりなき花の歌」という歌詞にも繋がる花の名。
意味があるかはわかりませんが、花言葉も添えてみました。
蓮の華
つはもの、つまりは三日月宗近という機能が明らかになったきっかけの華。
泥水を吸い上げ美しい花を咲かせる様は仏教において理想の姿とされる
花言葉は「清らかな心」「救ってください」
竜胆
双騎で膝丸(筥王)が持っていた花。源氏の紋に描かれている。
花言葉は「悲しんでいるあなたを愛する」
葵
葵咲本紀のテーマ。徳川家の家紋は三つ葉葵。
家康は威厳を知らしめるために一部の家臣以外が葵紋を使うことを禁じた。
本多葵は桑名江の刃紋にも描かれている。
都忘れ
みほとせで大俱利伽羅が吾平の墓に備えようとしていた花。
花言葉は「しばしの別れ」
トリカブト
みほとせと葵咲の千子村正が持っている毒のある花。
花言葉は「人間嫌い」「復讐」「騎士道」
山吹
太田道灌の山吹伝説から。実を結ばない花。つまり本作のテーマ。
花言葉は「気品」「待ちわびる」
桔梗
将門公の寵姫であった桔梗の前に関わる花。
これまで桔梗が出てきた物語は描かれていないため、もしかすると今後に繋がるかもしれない。
花言葉は「永遠の愛」
スミレ
水心子正秀のペンライト色。
花言葉は「誠実」「小さな幸せ」
「山路きて何やらゆかし菫草」
アヤメ
源清麿のペンライト色。
花言葉は「希望」「友情」
「あやめ草足に結ばん草鞋の緒」
ざっとこんな感じです。
ちなみに、
みたいな繋がりもあります。
あと新々刀のペンラ色も花の名前なんですよね。
今まで花の名前のペンラ色があてがわれた男士はいなかったので、ここにも何か意味があるのかもしれないと思った次第です。
どちらも五月雨江にゆかりのある松尾芭蕉が詠んだ俳句があったので入れてみました。
花を美しいと感じる心
江戸城が美しいのは人がいるから、というのは「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という武田信玄の言葉に通じます。
「では花などの自然はどうでしょうか?人がいなくても美しい」
「それは美しいと思った心が美しいんだ」
人が居なくても美しいものがある、と語る五月雨江に、人の心があるから美しさが生まれると語った太田道灌。
花にまつわる人の心から歌心を得た太田道灌が、人に作られた刀から励起された刀剣男士にこの台詞を言うのがものすごくエモいな……と思いました(語彙力の消失)
誰も居なくても時は進むけど、人がいないと作られなかった刀たちが歴史に関わってきた人の心を守るのが刀剣乱舞なんですよね……。
意味、そして役割
終盤の展開から感じたことをつらつらと。台詞の記憶が曖昧で申し訳ないです。
こぼれ落ちていく砂
砂から連想するのは、手から滑り落ちるもの。砂上の楼閣。砂時計。
今作においてこの砂は、受け止められなかった声・流れる歴史には残らなかった名もなき民草のひとりごとだと私は捉えました。
本来ならば誰にも気づかれず零れ落ちていくもの。
でも水心子正秀だけは、それが見えて、聞こえていたんです。
最初はそれが何なのか、誰のものなのか、彼はわかっていませんでした。
今回の任務で歴史と呼ばれるものには勝者の声しか残っていないことに気づいて、やっとその意味を知りました。
この名もなき声は、ひとりごとは、おそらく見ている我々の声でもあったのでしょう。
彼は最後に語り掛けてきました。
「どうか傷つかないでほしい」と。
様々な立場で、様々な想いを抱えている名もなき声が築き上げた歴史はここにある。
どんな世界になろうと、この歴史は間違いではない、守るべき歴史であると。
後から考えるとこれ、物凄い肯定の言葉だな……。
この辺の台詞、直感的にとらえていて具体的なところはうろ覚えなんですが、本当に真摯な言葉を向けられていたことだけは覚えています。
そのあと、源清麿が「好きな時に好きな人と好きな場所に行けないことも?」といった台詞を言うところがあるんですが、見ていた当初はここでやっと「現代に向けた話」だったんだなと思いました。
問わず語りと心覚
最後の曲がもうめちゃくちゃに好きだったんですが、その中の歌詞に「これは問わず語り」という部分がありましたよね。
問わず語り。人がたずねないのに自分から語りだすこと、ひとりごと。
つまりこれは水心子正秀たちの問わず語りで、尋ねていないけど語り聞かされた我々は、答えを自分の中に見つけるしかないんだなと。
ここもうろ覚えですが、「誰かが言った 覚えていてほしいと 誰かが言った 忘れてほしいと」的な歌詞もありました。
様々な想いや立場は真逆の言葉を紡ぐこともあります。ある意味、表裏一体です。
また、「見えない部分も歴史であり、月の光がない場所もまた月だった」といったニュアンスの台詞も最後に水心子正秀が言っていました。
これはつはものの髭切に繋がる言葉です。
髭切は本能的に三日月宗近を理解している感じでしたが、水心子正秀は「なぜ三日月宗近はそうするのか」を突き詰めていきました。
その途中で、水面に映った虚像の三日月宗近との対話シーンがありました。
あれは水心子正秀の誠実さが作り出した虚像。ある意味彼自身の問わず語りだったのかもしれません。
タイトルの「心覚」は心に覚えていること、忘れないために印などをつけること、その印を意味します。
これは水心子正秀の「(歴史には残らないものを)ずっと覚えている、忘れない」という風な台詞(あったと記憶している)に繋がってきます。
歴史に名を遺すことのない民草を、我々のことを、彼は覚えていてくれる。
この物語は「日本の中心である東京(江戸)という街を作り、守ってきた人々の心を忘れないためのしるし」なのかもしれません。
江の役割
「江の者たちよ。お前たちは人ならざる者と人とを繋ぐ存在であれ」みたいなことを三日月宗近は言っていました。
「郷とお化けは見たことがない」という言葉から「人ならざる者との繋がり」を指しているのかな?と思っていたのですが、江の由来を考えるとそれだけではなさそう。
あのとき、江の面々に聞こえてきた声は恐らく【名もなき刀の戦いの記憶】
豊前江の「俺たち江はたぶん───」の続きは遮られてしまいましたが。
江は、郷義弘という刀工が打ったと思われる無銘の刀たちの集まりで、「刀の特徴から見て郷義弘作だと思われる」という理由で後から銘を入れられている存在です。
無銘の刀ということは時間遡行軍という「人ならざる者」の中にも無銘の江がいるかもしれないんですよね。
葵咲では稲葉郷がまさにそうでした。
だから歌合の時は顕現儀式前に時間遡行軍があそこまで迫ってきていたのでは?
それを阻んだのが結界。境界線。そして刀剣男士たちの歌だった。
そう考えると、江の面々が歌って踊るのはある意味厄払いの面があるのかもしれません。
余談
ここからは完全に余談なのですが、今作を見ていて繋がりを感じた作品がありました。
どこが繋がってるのか、何の作品なのか気になる方だけどうぞ。
『モモ』(著:ミヒャエル・エンデ)
刀ミュにおいて花は生命の象徴です。
咲いて散りまた蕾をつける仏教的思考に基づいていると考えられます。
今作ではその花々を大々的に取り上げていましたし、「終わりなき花の歌」という歌詞が出てきました。
個人的に、花を人の生きる時間と重ねる手法は『モモ』に出てくる「時間の花」と似ていると感じています。
「時間の花」は人間の心の中にある花で、人間が持っている残り時間(生命)に呼応して咲きます。
人間が時間を使い切った時にその花は散り、別の蕾が色づくというシステムは「終わりなき花の歌」に通ずるものがあるな……と。
また、作者であるエンデは『モモ』が【とある人物から聞いた話】を元にしているとあとがきで語っています。
その【とある人物】は『モモ』の元となる話を語ったあと、
「わたしはいまの話を、過去に起こったことのように話しましたね。
でもそれを将来起こることとしてお話してもよかったんですよ。
わたしにとっては、どちらでもそうちがいはありません。」
と言ったそうです。
この感じ、なんだか今回の過去と未来、そして現在が入り混じる演出に似ている気がしないでもない(こじつけ)
語り部である水心子正秀自体が過去や未来を行き来しているので、この【とある人物】と重なる部分はあるんですよね。
『モモ』は主人公のモモが時間どろぼうが人間から奪った時間の花を取り戻す話です。
様々な視点の話が入り組んでいて色々想像しないと受け止められない、ちょっと複雑な構造の物語でもあります。
モモは寂れた古代の円形劇場(アンフィシアター)を根城にしている小さな女の子で、その劇場を中心に様々な物語が起こっていきます。
この本の訳者(大島かおり氏)は、
劇場というのは、人間の生の根源的なすがたを芝居という形で観客に見せてくれるところです。
そして観客は、芝居という架空のできごとをたのしみながら、そこに示された人間のもうひとつの現実をともに生き、ともに感じ、ともに考えるのです。
おそらく作者は、この芝居と観客との関係を、この本の物語と読者のあいだに期待しているのではないでしょうか。
と記しています。(ここでいう作者はエンデのこと)
芝居と観客の関係は、示された答えを受け止めるのではなく、見せられた世界に対する答えを自分なりに感じて考えるもの。
今回の『東京心覚』はそんな関係性を改めて求める作品だった気がしています。
あとは将門公の封印のくだりで『帝都物語』も思い浮かびました。
オカルト要素が多い話ですが、刀剣乱舞との相性は良さそうだと感じます。
残った疑問点
初見で読み解けた部分もありましたが、読み解けない部分もあったので今後落としどころを見つけていきたいです。
- 三池の刀はいつどこで蔵から出て天海と出逢ったのか?
- 水心子正秀はどの出陣であのアカシックレコードを見るようになってしまったのか?
- 今回の面子に語り掛ける三日月宗近はどこにいたのか?
- 時間遡行軍と戦える天海も三日月宗近と接触していたのか?
あと青江が「いいことばかりが続くと悪いことが起きる」みたいなことを言ってたから単騎出陣をすることも言ってましたよね。
青江単騎も本編とがっつり関わってくるフラグなんでしょうか。きになる。
おわりに
これまでの刀ミュの人間賛歌は『かざぐるま』のような、大きな生命の流れに向けられていましたが、今回は現代に生きる我々をピンポイントで肯定する内容だったなと感じています。
また、物語に大きく関わっている三日月宗近の役割を「呪い」とし、それを救えないと言い切りながら負担を減らそうとしてくれた刀剣男士が実装されたことが何だかうれしかったです。
親友という新たな関係性を引っ提げてきた新々刀。
個人的には源清麿の存在が大きいです。
彼はいち早く水心子正秀の異変に気づいて、「どうか見守ってほしい」と主に声をかけていました。
もうめちゃくちゃ優しい……優しさにはいろんな形があるって三日月宗近も言ってたけど、源清麿の優しさが私は物凄く心に沁みました……。
ゲーム内の台詞にもありますが、源清麿は水心子正秀のすごさを認めて信頼しています。
そして水心子正秀もまた、源清麿のすばらしさを知っている。
だから解決に動き出したとき、一振りではなく二振りで行動を開始したのだと思います。
今作はとにかく分かりにくい物語です。
でも答えが明確に示されないぶん、それぞれの中に答えが生まれる物語でもあります。
こんな挑戦的な演出や物語をこうして最高のクオリティで見せてくれるミュージカル刀剣乱舞を好きになれて良かった。
まだ一度しか見ていないのですが、そこで受け取ったものをまずここに記し、私の一度目の問わず語りとします。
アーカイブ配信を見た後にまた色々と考えると思うので、二度目の問わず語りでもお逢いできれば幸いです。
長々しい文章……合わせ出汁??にお付き合いいただきありがとうございました!
※2021/04/20追記
アーカイブ配信みてから色々こねくりまわした考察と感想ができました。
今回の記事の倍量の長さなので(たぶん歌合の感想レベルで長い)お時間のある時にどうぞ。
*1:厳密には違うかもしれませんが今回はこう呼称させていただきます。
*2:もしかすると今後鶴丸をそう呼ぶ機会があるかもしれませんが…(壽歌の「友よ 友よ ともに」のところ見てて思った)
*3:近侍台詞の「刀剣男士の誇りはここに」「銃ではなく、我らは刀剣である事に意味があるのだ」から
*4:「我が主よ。私は刀、あなたは人。違う存在なのだ」
*5:「すべての人に忘れられても存在していると言えるのか」
*6:土方歳三が銃弾で撃たれて死ぬことは正しい歴史なので、兼さんが土方歳三を殺さなかったのはある意味正解でもあります。